第十四回 「現代的」な躓きを振りきって爽快に走りぬける宇宙の潜水艦
『スター・トレック イントゥ・ダークネス』
『スター・トレック イントゥ・ダークネス』
Star Trek Into Darkness
全国ロードショー中
監督:J・J・エイブラムス
2013 / 132分 配給:パラマウント
© 2013 Paramount Pictures. All Rights Reserved.
優に100年を超える歴史を抱えこんでしまった現代の映画が、「古典的」と呼ばれもしよう均整美ばかり今さら追い求めているわけにもいかないことは理解できる。あらゆる細部が鮮やかに照応しあうことで閉ざされる「古典的」な円環構造に満足するのではなく、そのことの不可能において――すなわち、かつてであれば当然のように維持された作り手のコントロールが綻び、ついには決壊してどうにも飼い馴らすことのできない何ものかが溢れ出してくる瞬間において、真に「現代的」と呼びうる映画の数々はかくも見る者を揺り動かしてきたのだから、そのことじたいに異論のあろうはずはない。しかしながら、映画を撮ることから内在的に引き出されたわけでもない「大問題」がこれ見よがしに振りかざされ、解決どころかろくに展開もされないまま、まるでそれが「現代的」である証だとでもいうかのように無責任に放置される一部の「現代映画」の自己目的化した躓き方には、いい加減、辟易させられているのも事実である。それが映画と何の関係があるのかといいたくなるが、困ったことに世間には映画よりも「大問題」に関心のある人々のほうが圧倒的多数を占めているので、本当にそんなことを口にしようものなら、これだからシネフィルはと鼻で笑われることになる。だが、問題はシネフィルと非シネフィルとの対立などではなく、予定調和で躓いてみせる自称「現代映画」の、映画と「大問題」の両方に対する不誠実さにあるのだ。
そうした誠実さを装った不誠実さが少なからぬ「現代映画」に見受けられるなか、J・J・エイブラムスの新作『スター・トレック イントゥ・ダークネス』は、頭から尻尾までただただおもしろい。おもしろさでいえばシリーズ前作の『スター・トレック』(2009)だって相当なものだったし、エイブラムスの初監督作『M:i:III』(2006)からして、スピルバーグの『マイノリティ・リポート』(2002)と『宇宙戦争』(2005)以降、トム・クルーズをもっとも「正しく」、つまりは魅力的に撮った映画だったといえる(あの全力疾走!)。しかし、まさにそのスピルバーグがプロデュースした直前の監督作『SUPER 8 スーパーエイト』(2011)が、いろいろ詰めこみすぎて、「現代的」と安易に呼ばれかねない無責任な混迷を見せていただけに(その混迷の最大の原因は、〈みんなでつくる〉――8ミリ映画――という主題が、いつの間にか〈独りでつくる〉――模型――という主題に取って代わられ、両者の分裂を結局、映画の内部で処理しきれなかったことにあると思われる)、今回の息もつかせぬ一直線の疾走ぶりには、おかえりと叫ばずにはいられない。かといって、そのおもしろさが反動的な種類のものかというと、そういうわけでもないところが素晴らしい。唐突ながら、フォードの『駅馬車』(1939)を思い出していただきたい。あのアパッチによる襲撃シーンで、なぜインディアンは馬を撃たないのかというよく知られた話があるわけだが、いうまでもなく、そんな疑問を抱く隙さえ見る者にあたえず映画を疾走させた点が『駅馬車』の凄さなのである。それは無責任な放置であるどころか、まさにプロの作り手の責任ある知性と技術の行使なのだ。同じように――と書けばさすがに褒めすぎだろうが、J・J・エイブラムスの『イントゥ・ダークネス』もまた、おのれの手に余るような「大問題」が浮上する隙をつくることなく、一流のアスリートにも似た無駄のない走りを2時間余りにわたって息も乱さず実現させる。自分からわざわざ躓こうとしている連中が、愚かに見えはじめるではないか。
とはいえ、見はじめてすぐに『イントゥ・ダークネス』という映画を信用できたわけではない。映画は、とある惑星の火山活動に密かに干渉するつもりが惑星の住人たちに発見され、海中に隠したエンタープライズ号までカーク船長が必死に逃げ戻る、それこそ『駅馬車』を思い出させなくもないシーンからいきなり開始される。もっとも、そう書けるのは後から振り返って整理したからにすぎず、何がなんやらわからないまま、いきなりアクションを炸裂させて、それからしだいに状況を呑みこませていく導入の仕方は、あきらかに「古典的」な作法に背いた、「現代的」なハリウッド映画特有のものである。いってみれば、『2001年宇宙の旅』(1968)の意表を衝く先史時代のプロローグを、地球にモノリスを置いた側の視点から活劇化したようなものだが、この惑星の住人たちの「未開」ぶりの過度の強調が鼻につく。それが、1960年代後半に放映を開始したオリジナルのTVシリーズから継承された、エンタープライズの内部における人種混淆の楽天的な表現と対比されてのものであることはあきらかである。しかし、いっさいを現在の視点から「ネタ化」して露悪的に弄ぶようなここでのシニカルな態度が、今までに見られたエイブラムスの美質に反しているようにも思われるのだ。
危惧の念は、見ていくほどにさらに募る。謎のテロリストによる無辜の市民を巻きこんでの連邦中枢部への襲撃をきっかけに、いったんは決裂していたカークとスポックとが和解し、超法規的措置として、遠い星までテロリストを殺害しに行くという展開は、いかなる現実の「大問題」を下敷きにしているかがあまりに明白で、そんな映画はキャスリン・ビグローに撮らせておけといいたくなる。だが、連邦と一触即発の状態にあるクリンゴンの領土に逃げこんだテロリストが、別に敵側に味方しているわけではなく、主人公らにとって友/敵の対立を超えた存在であることがわかるにつれ、映画は俄然おもしろさを増す。それ以降もカークたちは、味方だと思っていた人物と敵対する状況に追いこまれ、目前の危機を乗りきるために、今の今まで敵だった人物と組むことを強いられるといったように、単純な対立と思われた図式は二転三転し、そのせわしない反転のメカニズムこそが、現実の「大問題」への物欲しげな目配せを振りきって映画を疾走させるからだ。当初、憎きテロリストと目されていたカーンを前に、カークが殺害することを断念し、逮捕して地球に連れ帰ることを決意するシーンも、無駄な心理描写で映画の速度を緩ませることなく、あくまでも目に見えるアクションとして具体化されているところがいい。殺さないにせよ、とりあえず恨みをこめてぶん殴るだけはしたたかぶん殴ってやったが、あんまり相手の体が硬いので埒が明かずうんざりした、といった具合なのである。
この反転のメカニズムは、エンタープライズ号の内部の序列にまで持ちこまれる。前作の『スター・トレック』でもそうだったように、エイブラムス版でのカークは自ら行動する船長であり、仰々しい玉座を思わせる船長席にゆったりと腰かけてもみせるが、結局はじっとしていられず、代わりの者を席に着かせて、後は任せたと自分から危機のただなかへと飛びこんでいってしまう。敵と味方の関係だけでなく、上官と部下、救う者と救われる者といった関係もここでは一貫して流動的であり、そのことが国家や組織への忠誠心、正義感、はたまた自己犠牲といった重苦しい「大問題」から個々のキャラクターを爽快に解き放つことになる。
したがって、クライマックスでカークがとる、現代の多くの日本人観客が動揺を禁じえないであろうある英雄的な行動も、現実の「大問題」に過度に引きつけて見る必要はないと思う。そもそも、カークにそうした行動を促すことになる状況は、エンタープライズ号の動力源が危機にさらされるという、この映画の主題論的な一貫性のなかで見られるべきものだし、宇宙船の内部を、隔壁でいくつも仕切られた、ひたすら奥に伸びる広いようで閉ざされた空間として終始強調するこの映画には、潜水艦映画の宇宙版といった趣さえあるのだ。制御不能に陥った原子力潜水艦ならば、このような英雄的行動がとられるのはむしろ自然なことで、ここにあるのは軍隊状の組織への忠誠心からくる自己犠牲というよりも、プロフェッショナリズムの貫徹といったものだろう。カークを蘇生させる、一見取って付けた御都合主義に見えるかもしれないラストの展開も、当座の目的のためなら敵をも利用するというこの映画の反転のメカニズムにあくまで則っているのだから、その手並みは見事というしかない。
『スモール・ソルジャーズ』(1998)のジョー・ダンテが、子ども向け映画の体裁を借りつつアルドリッチの『特攻大作戦』(1967)を現代に甦らせたように(嘘だと思うなら「コマンドー・エリート」の面々の声を誰が担当しているか、確かめられよ)、ここでエイブラムスは、カルト的な人気を誇るSFシリーズの体裁を借りつつ、冷戦終結以降すっかり成立しにくくなってしまった潜水艦映画を、たんなる懐古ではなく再生させることに成功している。ここで私が思い出さずにいられないのは、やはり冷戦終結後に真正面から潜水艦映画に取り組んだ『クリムゾン・タイド』(1995)でのトニー・スコットのことだ。『アンストッパブル』(2010)にも出演したカーク役のクリス・パイン、キャメラのダン・ミンデルなど、トニーゆかりの人々の名前も目立つエイブラムス版『スター・トレック』は、トニー亡き後のアメリカ映画の行く末に希望を抱かせるに充分な出来に仕上がっている。今回の『イントゥ・ダークネス』での最大の見ものは、ある意味では、俳優としてのクリス・パインの予想を超えた成熟ぶりだろう。彼が精神的な父であるパイク提督とバーのカウンターで語らうシーンでの堂に入った切り返しは、J・J・エイブラムスがサービス精神に富んだ活劇作家であるだけでなく、トニー・スコットもそうだったように、俳優たちから最良の表情を引き出しうる優れた演出家であることを豊かに告げている。