映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第十八回 ただたんに普通であることが輝くという事態はまったく普通ではない
 『楽隊のうさぎ』

『楽隊のうさぎ』
監督:鈴木卓爾
2013 / 97分 配給:太秦、シネマ・シンジケート
全国順次公開中

 つましい暮らしを送る『ゲゲゲの女房』(2010)の漫画家夫婦の周りには妖怪たちが平然と出没していたぐらいだから、現代の中学校の校舎に人間大のうさぎが突然現れても、今さら騒ぎたてるにはおよばないということだろうか。鈴木卓爾の新作『楽隊のうさぎ』で気の弱そうな男子中学生の視界をこれ見よがしに横切っていくそれは、うさぎといっても、どこからどう見てもうさぎの被り物を被ってうさぎのメイクを施した、時代錯誤のちゃんちゃんこを着た人間の女でしかなく、これを「うさぎの扮装をした人間」ではなく「うさぎ」と断じるだけの根拠は、実は映画のなかに存在しない。『ゲゲゲの女房』の妖怪には、水木しげるをモデルとする主人公の漫画家が、妖怪の登場する貸本漫画を描いているという「根拠」が一応あったのに対して、ここでのうさぎにその種の「根拠」は、ただの口実としてもあたえられていないのである。したがって、白昼の校舎を徘徊し、主人公である男子中学生の傍らでじれったそうに身をよじらせたり、彼のことをただじっと見守っていたりするうさぎを、地方都市に暮らす中学生の日常にこともなげに溶けこませてしまうこの映画の手並みは、『ゲゲゲの女房』にも増して大胆なものというべきだ。これほどの自然な大胆さを鈴木卓爾が獲得しえたのは、とある町に足を踏み入れた誰もがなぜかそこから出られなくなるというルイス・ブニュエル的な設定を、まったくブニュエル的ではない飄々とした日常性と両立させてしまった『ポッポー町の人々』(2012)での経験が大きかったに違いない。 もちろん、人間の恰好をしたうさぎが駆けていくのをある日見かけた主人公が、その後を追いかけることで未知の世界に迷いこむという仕掛けが、いかなる文学的典拠によって正当化されうるものであるかは、あらためて解説するまでもないだろう。しかもうさぎは、主人公がふと視線を投げかけた先か、主人公が独りきりでいるときの傍らにしか出現しないので、主人公だけに見える幻想としてこのうさぎを理解することが、観客に期待されているもっとも自然な見方だといえる(映画史には、ジェイムズ・スチュアートだけにそのような巨大うさぎが見えた例もあるのだが、今は措く)。それでもここでのうさぎが、選ばれた人間にだけ見ることのできる特別なものではなく、ことによると誰にでもこのような自分だけの何かが見えているのかもしれないと思わせるほどの自然さで映画の世界をうろつきまわっていることは、この映画になんとも新鮮な魅力をもたらすことになる。 主人公は、あるとき、入学して間もない中学校の無人の廊下でうさぎを見かけ、後を追って音楽室に行き着く。そこでは、のちに打楽器パートのリーダーだとわかる吹奏楽部の女子生徒が独りティンパニを叩いており、主人公が飛びこんでくることをまるで予期していたかのように、落ち着きはらった声で、こんなふうに演奏してみたいかと誘いかける。うさぎの出現とともに流れはじめたティンパニの現実離れした響きは、気がつくと劇伴であることをやめて物語世界内の現実音に変わっており、その境目を特定することはできない。直後に続くシーンでは、主人公はすでに吹奏楽部に入ってしまっているのだから、この映画は、妖怪じみたうさぎという大胆な設定をもちいることで、「なぜ吹奏楽なのか?」という問いをものの見事に宙吊りにしているのだ。そのうえ、音楽に特に興味があったとも見えない主人公の周りでは、音楽好きの近所の魚屋が、早くから吹奏楽部への入部を、おそらくはごく軽い気持ちから勧めていたりもしたので、吹奏楽部に入るという主人公の選択からは、自発的な意志の彩りが周到に取り除かれていたことになる。何も部活をしないわけにはいかないという暗黙のプレッシャーの下で、たまたま吹奏楽に行きあたったから入部したという以上の動機は、主人公の側にあたえられていないのである。

 これといって取り柄のない、引っこみ思案な主人公をうさぎを介して吹奏楽に引きあわせた『楽隊のうさぎ』は、その後も吹奏楽の魅力にみるみる引きこまれていく主人公を、しかしあくまでごく日常的な普通の水準にとどめおく。そもそもこの学校の吹奏楽部は、別にコンクールで賞を獲ったりするような強豪ではなく、顧問の教師が職員室で同僚から厭味をいわれるとおり、校内でもあまり大きな顔はできない立場にあるようだ。この職員室でもいたって影の薄い、それでいて生徒たちからはちゃん付けで呼ばれるほど信頼されている顧問役の宮﨑将がここでも素晴らしいのだが、彼が打楽器奏者の一員となった主人公のことを気にかけるようになるのも、パートリーダーの女子生徒から、ああいうおとなしい子をあえて真ん中に持ってくるとおもしろいのではないかと提案されてのことにすぎない。パートごとに先輩が後輩を代々指導するという吹奏楽部ならではの集団のあり方をふまえ、この映画自身も、選ばれた特別な指導者が大勢の普通の人々を統率するというあり方を、慎重に排しているのだ(実際この映画は、撮影に1年近い歳月を費やし、オーディションで選ばれた子どもたちが互いを教えあいながら合奏をつくりあげていく様子を全篇吹替なしの同時録音で記録した「ドキュメンタリー」でもある)。 こうして『楽隊のうさぎ』は、普通の人々が例外的に輝く特権的な瞬間を捉えるのではなく、普通の人々がただ普通の毎日を送ることがそのまま輝くさまを、さりげない手つきで捉えてみせる。いうまでもなく、このような事態はまったく普通ではない。たいていの「普通」の映画では、コンクールでの勝利だのコンサートでの喝采だのといった目的のために、そこへと至る日常のすべてが、ひたすら奉仕させられるばかりだからである。主人公を演じる川崎航星の、口下手で無表情なようでいて、その実、他人の言動にキャメラの前で鋭敏に反応することのできる豊かな感受性も称賛に値しよう。 クライマックスに位置するのは、あくまでも普通に徹しようとするこの映画に相応しく、父兄や地元の人々を客席に迎えて定期的に催される普通の演奏会である。部活を引退した先輩たちも、あの音楽好きの魚屋も、誰もがただそこに居あわせている。そのあくまで普通の、ごくありふれた晴れやかさに、かえって胸を熱くせずにはいられない。この場に招かれながら来ることのかなわなかった者に対しても、映画は感動的に普通の結末を用意しているのだが、その詳細は秘す。ただ、下手をするとこの映画が細心の注意をはらって築きあげてきた普通さを逸脱して取って付けたようになりかねない、気恥ずかしいような熱い台詞を、独りだけ大阪弁を話す転校生の口からいわせるという処理の聡明さには、最大級の賛辞を送っておきたい。やはり映画には、恥ずかしがらずに堂々とメッセージを口にすべき瞬間というものがあるのだ。映画の主題を要約する、この種の直截な台詞を禁欲するという昨今ありがちな韜晦を退け、積極的に普通であることを選択したこの映画の非凡な聡明さが、その台詞が発せられる大阪弁の実にさりげない普通の調子とともに、見ていて静かに心に沁みる。

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