映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第二十回 主役は女だという「錯覚」の維持に賭けた男性作家の危ういたくらみ
 『エヴァの告白』

『エヴァの告白』 The Immigrant
全国ロードショー中
監督:ジェームズ・グレイ
2013 / 118分 配給:ギャガ

© 2013 Wild Bunch S.A. and Worldview Entertainment Holdings LLC.

  自由の女神がそこに、背を向けて立っている。斜め後ろの方角から望むその姿は、今にも振り返ってこちらに面ざしを向けようとしているかに見え、あるいはこちらから正面に回りこむこともたやすいように見えるが、むろん巨大な像は振り向いてなどくれない。薄く霧のたちこめた風景をズームアウトしていくキャメラは、すぐそこにそびえていながら決して手が届くことのない、女神との距離こそをあきらかにしていく。


 視界が拡がるにつれ、やがてじっと像を見つめる何者かの、ほとんどシルエットに近い黒々とした後ろ姿がフレームに入ってくる。その人物に注意が移り、石像ならざる彼または彼女の表情を今度こそは拝めるかと思った瞬間、画面は入国審査を待つ到着したばかりの移民たちの列へと転じ、誰もがマリオン・コティヤールとして知る女の顔がはっきりと示されるので、われわれは主演女優であることがあらかじめ告げられている彼女の言動を追うことに忙しく、自由の女神を見上げていた人物のことなどもはや構っていられなくなる。ただその人物は、どうやら今見ている移民の女とは違っていた気がするし、そもそも女ではなかったはずなのだが、そう確信をもって断言するには、導入のシーンはあまりにも呆気なくわれわれの視線から逃れ去ってしまっている。


 『エヴァの告白』という邦題の下に公開されたこの映画をあやふやな記憶のなかから手繰り寄せようとしたとき、冒頭でわずかに後ろ姿ばかりを見せていた人物のことがあらためて気にかかるのは、それが全篇を規定するファースト・ショットの見る主体であったからなのはもちろん、移民というこの映画の主題そのものと深く関わるがゆえのことでもある。実際『エヴァの告白』は、ずばり「移民」という原題をあたえられているのだが、まったく同じ原題を持つ『チャップリンの移民』(1917)の貧しい移民たちが、新天地の入り口にそびえたつ自由の女神を船の甲板から万感の思いで見上げたように、移民管理局のあったエリス島のすぐ傍らに立つ自由の女神像をどのように見上げるかは、移民の到着を扱うアメリカ映画にとってほとんど避けては通れない問題だからだ。『ゴッドファーザーPART II』(1974)のコッポラが、幼いヴィトー・コルレオーネを含む船上の移民たちに自由の女神を感動的に見上げさせたのも、こうした系譜に連なってのことである。では、開巻早々に自由の女神をでかでかと映し出しておきながら、それを見つめる人物のほうは故意に素性をあいまいにしている『エヴァの告白』は、そのことでどのような映画たりえているというのか。


 述べたように、この映画の物語が、コティヤール演じるポーランドからの移民エヴァをめぐって進むことに間違いはない。時は1921年。彼女は妹と二人、戦火を避けて新大陸に逃れてきたのだが、胸を病む妹とは到着してすぐ引き離されてしまい、自身も入国を拒否されて祖国に送り返されそうになる。紳士的なアメリカ人のブルーノ(ホアキン・フェニックス)に必死にすがって助けてもらうものの、じきに彼の正体は、目をつけた移民の女たちを大勢周りにはべらせ、踊り子として舞台に上げては裏で客をとらせるヒモだと判明する。金を貯めて妹を救い出したい一心から、エヴァはブルーノの下で娼婦に身を堕とす。


 映画の主軸となるのは、エヴァとブルーノとの愛憎相半ばする不可思議な関係である。ブルーノは、エヴァを食いものにしつつも、職業上必要とされる抑制を超えて彼女に強く魅かれており、何としてもエヴァを手元に置きつづけようとする。そのことを他の女たちは快く思っておらず、ブルーノをめぐる女たちの共同体は、エヴァが現れて以降、平和をかき乱されることになる。この種の二面性をそなえた複雑なキャラクターを演じるとき、ホアキン・フェニックスはいつも素晴らしい。他方のエヴァも、ブルーノを憎み、敬虔なカトリック信徒として罪の意識にさいなまれながらも、生きぬくためにブルーノの庇護を必要とする。ここにジェレミー・レナー扮する、ブルーノの従兄弟でもある奇術師オーランドがからみ、彼の悪意を欠いた軽薄さが、エヴァとブルーノの関係をさらに苛酷な試練にかけていく。


 ブルーノとオーランドという二人の男の運命を狂わせる自らの美しさについて、エヴァがどこまで意識的であるかは定かでない。指を切って滲んだ血を口紅の代わりに塗りつけ、何度も顔をはたいて血色をよく見せようとする印象深いシーンでさえ、自身を美しく飾り立てるためではなく、あくまでも強制送還を逃れるためなのだが、彼女の呪わしい美貌は、すでに映画が始まる以前、移民船のなかでも「不道徳な」事件を惹き起こしたとされている。オーランドが、満場の観衆のなかにいるエヴァにたちまち目を奪われ、手にした花を思わず贈ってしまったように、エヴァの美貌は本人の意志とは関わりなく、男たちの視線を惹きつけずにはおかないのだ。


 ここに奇妙な逆説が生じる。エヴァをこの映画の宿命的なヒロインとして支えているものは、エヴァの美貌に引き寄せられ、破滅していく男たちの視線でしかないからである。その支えを失うとき、エヴァは文字どおり名もなき移民たちの群れに沈む。『エヴァの告白』の危うい魅力は、エヴァという女を一貫して主役として支えつづける、男たちの献身に存している。そうした献身を誰にも意識させることなく、女は独力で主役たりえているのだという「錯覚」を、いかにして維持するかにこの映画の成否がかかっているのだ。事実、この映画で鍵となるのは、エヴァが男を見たと信じているとき、彼女はすでに男によって見られているという視線の先後関係である。エヴァが移民管理局で初めてブルーノの姿を見かけたとき、あるいはブルーノに気づかれずに金を盗むことができたと信じていたとき、彼女は実は、観客も知らないところでブルーノの視線にあらかじめ捉えられていたと後になってから明かされる。すべては女を自分の傍に置いて、意のままに操るための男の策略ですらあったのだから、この視線の先後関係がどれほど重要なものであるかはあきらかだろう(この意味で、『エヴァの告白』という邦題の命名者は、主役は女だという「錯覚」をあまりにもナイーヴに信じこんでしまっていないだろうか。映画中で実際になされる「告白」も、エヴァの知らないうちにブルーノによって盗み聞きされているというのに)。


 しかし、映画はあくまでも主役は女だという「錯覚」の維持をまっとうしようとする。エヴァとブルーノの関係をただ一つの画面に凝縮したラスト・ショットは、陽の光を浴びて未来へと漕ぎ出していく女たちの姿を「図」として提示しながら、それを可能にした犠牲的な献身に消耗し尽くした男のみじめな姿を「地」として忍ばせるだろう。われわれは、今こそ冒頭で自由の女神を見上げていた人物が誰だったかを悟る。彼もまた、映画が始まるはるか以前の時点においてエリス島に到着した、おそらくはユダヤ系の「移民」にほかならないのだから。


 同時にこの認識の瞬間は、主役は女だというこれまで映画が必死に維持してきた「錯覚」がほころび、自己犠牲に酔う男のナルシシズムへといっさいが反転してしまいかねない、もっとも危険な瞬間でもある。現代のアメリカでもっとも才能豊かな男性作家の一人であるジェームズ・グレイは、この危うさに自覚的だっただろうか。それとも彼は、今も自分が女を主役に映画を撮ったという「錯覚」を少しの疑いもなく信じているのだろうか。

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