映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第二十四回
「ループ」は少しも映画的ではないという真理をトム・クルーズが証明する
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』

『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 Edge of Tomorrow
全国公開中
監督:ダグ・ライマン
2014 / 113分 配給:ワーナー・ブラザース映画

©2014 VILLAGE ROADSHOW FILMS(BMI)LIMITED

edgeoftomorrow何しろ「複製芸術」と呼ばれるくらいだから、映画は常に反復と結びつけて理解されてきた。何かの引き写しでしかないこと、似たり寄ったりなものの反復でしかないことは、近代に至り、映画とともにほとんど初めて肯定的な価値を得たのである。そうした根本的な価値転換がなければ、アメリカ映画の栄光もまたなかった。同じような構造の一定のパターンを、決まった生産ライン上で、わずかばかりの差異をともないながら大規模に反復してみせたことこそ、アメリカ映画なるものの本質だったからだ。アンドレ・バザンによる「システムの天才」という名高い評言は、こうした事態を指してのものだった。ハリウッドのスタジオ・システムとは、個人の独創性によってはもはや規定しえない、歴史的に新しい「天才」だったのである。

だからそのアメリカ映画が、近年日本で「ループもの」と称されている題材に目をつけたとしても、意外ではないとひとまずはいうことができる。トム・クルーズ主演の『オール・ユー・ニード・イズ・キル』は、日本の「ループもの」のライトノベルを原作としているのだが、日本以外の国ではそのことは大した売りになっているようには見えないので、ハリウッドはあくまでもたまたま見つけた目新しい題材として、この原作に飛びついたにすぎないようだ。

時はどうやら近未来。人類は、地球外から侵略してきた謎の生命体との全面戦争を繰り広げており、戦況は人類にとって芳しいものではない。そのさなかに、メディアを駆使して若者を戦場に送りこむ広報活動を担当していたトム・クルーズのアメリカ人将校は、人類の存亡が賭かった決死の上陸作戦を前線から報道する任務を突然命じられる。ろくな戦闘経験もない彼は、得意の口八丁でこの任務を逃れようとするものの、思惑が裏目に出て、将校の位を剥奪されたうえに一兵卒として最前線に送られてしまう。

ここまででもすでに充分現実離れしているほどに目まぐるしい展開なのだが、「ループ」の起点となるのは、前線の基地でクルーズが意識を取り戻すこの地点である。何が何やらわからぬうちに戦闘スーツを着せられ、実戦に投入されたクルーズは、土蜘蛛のような姿をした恐ろしくすばしこい敵の大軍との戦いで、呆気なくというか案の定というか、命を落とす。すると次の瞬間、何事もなかったようにすべてが前日に戻ってしまっているのである。やがて判明するように、特別な地球外生物の血を浴びたことが関係しているらしいのだが、「ループ」の事実にクルーズ以外は誰一人気づいていないようだ。こうしてクルーズは、数えきれないほど死んでは同じ戦闘を何度も何度も戦いつづけ、そのうちにいやでも兵士として成長を遂げて、エミリー・ブラントが好演するジャンヌ・ダルク風の女兵士と力をあわせ、敵の中枢へと迫っていく。

主演がトム・クルーズで、人類が圧倒的な劣勢にある地球外生物との戦いというと、スピルバーグの『宇宙戦争』(2005)が思い出されるところだ。しかし、ダグ・ライマン監督の本作には、あの時期のスピルバーグに特徴的だった凄惨さも「9・11」以後の政治意識もまったくといっていいほど感じられない。明白にノルマンディー上陸作戦を意識した戦闘シーンといい、イコノグラフィとしては同じスピルバーグでも『プライベート・ライアン』(1998)のような戦争映画が下敷きにされており、全体としてはヒューモアを交えながら、爽快な娯楽活劇としての直線的な勢いに賭けているようだ。もっとも、映画が本当に笑いを誘うかどうか、本当に勢いがあるかどうかとなると別問題なのだが、ともかくもこうしたアプローチゆえに見逃しがたい問題が生じる。映画が直線的な勢いに賭ければ賭けるほど、「ループ」というもともとの設定が空転することになるからだ。

確かに「ループ」はアメリカ映画にとって新鮮な題材だったかもしれないが、それでもこの映画には、直接のモデルとなるアメリカ映画が存在したと思われる。ハロルド・レイミス監督の『恋はデジャ・ブ』(1993)がそれである。田舎町に取材で訪れたテレビのお天気キャスターが、なぜかそこから出られなくなり、同じ1日を延々と生きつづける破目になるというこの映画は、コメディ仕立てではあるものの、終わりのない「ループ」に囚われたビル・マーレイ演じる主人公が絶望のあまり、何度も自殺を試みるさまさえ描いている。とはいえ、同じ毎日の繰り返しに主人公が絶望的に退屈するというのは、物語の内容としてそのように語られるというだけであって、見ている側まで本当に退屈させられるわけではない。同じ1日の「ループ」は、目印となるようないくつかの印象的な場所なり状況なりの反復によって見る者に示唆されたり、台詞で示されたりするにすぎないのであって、本当に同一の映像を観客が同じだけの時間をかけて繰り返し見せられるわけではないのだ。観客を本当に退屈させるわけにはいかない商業的な物語映画としては、当然の選択だろう。つまるところ、『恋はデジャ・ブ』は時間的な囚われを、空間的な囚われへと置き換えている。物語が語ろうとしている内容とは裏腹に、この映画の実際のありようは、理不尽にも田舎町に閉じこめられた主人公がどうやってそこから脱出するかという、特別目新しくもないものにとどまっているのである。

『オール・ユー・ニード・イズ・キル』が、「ループ」を具体的にどう処理するかにあたり、これと同じ解決策を採用していることはあきらかだろう。映画に直線的な勢いを持たせるために、同じような場面の退屈な繰り返しは極力端折り、戦場となるビーチや田園地帯の一軒家など、いくつかの「チェックポイント」を主人公が試行錯誤しながら次々にクリアしていく過程に集中する。するとどうなるか。「ループ」という設定が、完全に有名無実化するのである。語られている内容がどうであれ、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』という映画の実際のありようは、簡単には死なない屈強なヒーローがさまざまな障害を乗り越えてゴールを目指す、ありふれたアクション映画とほとんど変わらなくなるのだ。

われわれがこの結果から一つの教えを引き出すことができるとすれば、それは、いわゆる「ループ」と映画的な反復とは、決定的に似て非なるものだということを措いてほかにない。映画が直線的な時間の経過につれて継起的に展開するものである以上、物語内容における「ループ」も、結局はもつれた糸をほどいて伸ばすようにして、直線的に書き換えるしかないのだ。よく知られた「クレショフ効果」の実験を引くまでもなく、まったく同一のショットですら、編集しだいで異なる意味を持ちうるのが映画なのであり、同一の建物を8時間にわたり固定ショットで撮影したアンディ・ウォーホルの『エンパイア』(1964)のような「実験映画」でさえも、冒頭のフレームとたとえば6時間後のフレームとは、絶対に同じもののたんなる繰り返しではない。

「ループ」に映画的なところは少しもないというこの真理を、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』において物語内容を裏切ってまで鮮やかに証明しているのは、ほかならぬ主演俳優トム・クルーズの身体である。相変わらず見事な白い歯並びを見せてへらへら笑っていた調子者が、不可解な状況に突き落とされて言葉を失い――アイデンティティを揺るがされるような危機に直面して失語に陥るとき、トム・クルーズはいつでも最高の表情を見せる――、寡黙のうちに自らを鍛えあげて勝利をつかむというクルーズの身体がたどる軌跡は、「ループ」という物語上の設定とは無関係に見る者を動かすのだ。深い水中で音声を奪われ、実質的なパントマイムとして演じられるこの映画のクライマックス、あるいはクルーズが無言でただ微笑むラスト・ショットは、かつての彼の軽薄な饒舌家ぶりとの対比において、初めていくばくかの感銘を呼ぶ。

こうしてトム・クルーズは、映画とは何かという問いに、言語を介することなく、またしても自らの身体をもって答えてみせる。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』を見ることの意義はこの点に尽きていると、皮肉でなく断言したい。

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