映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第二十六回
「マーク」への愛と別れを唄いあげるイーストウッドの新たなるフィナーレ
『ジャージー・ボーイズ』

『ジャージー・ボーイズ』 Jersey Boys
全国公開中
監督:クリント・イーストウッド
2014 / 134分 配給:ワーナー・ブラザース

榎戸耕史氏の話によると、相米慎二は生前、ことあるごとに「マーク」を考えろと口にしていたらしい。松竹といえば富士山、東映といえば荒磯に波のマークがあるように、撮影所にはその撮影所特有の色というものがある。その伝統に敬意を払った仕事をしろというわけだが、むろん相米が監督として一本立ちした1980年代には、すでにそうした伝統は過去のものとなっていた。それを百も承知で相米は、たとえば『魚影の群れ』(1983)や『あ、春』(1998)を、松竹の富士山マークを冠するに相応しい映画として、かつ、撮影所時代にはありえなかった現代にのみ可能なやり方で、形にしてみせたのである。

ところで、『アウトロー』(1976)以降のクリント・イーストウッドによる監督作は、自身のプロダクションであるマルパソを製作の拠点としながらも、わずかな例外を除いて、必ずといっていいほどワーナー・ブラザーズのマークとともに開始されている。しかも、「WB」と記された紋章が青空に浮かぶこの名高いマークは、しばしばそこだけ白黒で提示されるのだ。この趣向に過去の偉大な伝統を懐かしむ、後ろ向きの感情がこめられていないとはいわない。しかし、世紀が改まってからというもの、先鋭さの度を増す一方のイーストウッド映画を見てきた者にとって、そこで真に表明されているものが、伝統の継承であると同時に切断、あるいは相続不可能なものの相続という、相米の場合とも通ずる歴史意識であることはあきらかだろう。肩の凝らない音楽映画とも推測された最新作『ジャージー・ボーイズ』の劈頭にまたしても白黒のワーナー・マークが掲げられているのを見て、思わず居住まいを正してしまったのは、あらためてそんなことを考えさせられたからだ。

実際、イタリア系であまり素行のよろしくない「ジャージーっ子たち」の若き日々を追うこの映画の前半部ほど白黒のワーナー・マークに似つかわしい演出を、これまでイーストウッドがしてみせたことがあっただろうか。やがてザ・フォー・シーズンズというグループ名で成功を収めることになる彼らが現実にも生きた時代こそ1950年代であるが、息もつかせぬ語りの快調なテンポは、ほとんど30年代のワーナー映画を想起させるといってよい。ほんの一例を挙げるならば、ある夜、二人が宝石店に強盗に入り、一人が見張りに立つ。すると案の定というべきか、顔見知りの警官が向こうからやってくるので、見張り役は急遽女の部屋の窓を見上げるロミオを装い、あらかじめ打ちあわせておいた歌で仲間に合図を送る。どうにか警官をやりすごすと、慌てて裏口に回って三人がかりで金庫を運び出すが、あまりの重さに金庫を載せた車は大きく傾いて前輪が宙に浮く。時間がない、早く逃げろというので構わず車を発進させるもまともに運転できるはずはなく、しばらく走っただけで近くのショウウィンドウに派手に突っこんでしまう。仕方がないので車を置き去りにして遁走するが、場面が替わると三人揃って裁判にかけられている、といった調子だ。直前の『J・エドガー』(2011)では、ワーナーの看板ジャンルだったギャング映画が、犯罪者を取り締まるGメンの側を主人公とするように変化した経緯を巧みに物語中に取り入れてみせたイーストウッドは、ここでかつてないほど「マーク」への忠誠を誓っているように見える。

この快活なテンポを生んでいる大きな要因が、物語の節目節目で人物がキャメラ目線で観客に向かって直接話しかけるという、原作であるミュージカルの舞台から引き継がれた語りの形式であることは間違いないだろう。始まるなり、メンバーのなかでもっともやんちゃでリーダー格のトミーが、颯爽と街を闊歩しながら観客に向かって自信たっぷりに語りかけることで、物語は効率よく前へ前へと滑走する。驚いたことに、当初のトリオに加え、新しいメンバーとしてボブを入れるかどうかで熾烈な駆け引きが演じられる段になると、今度はボブがくるりとキャメラのほうを振り返り、語り手の座をトミーから奪う。そして、われわれは理解する。ここでは人物間の力関係と、誰が物語(=歴史)を語るのかという問題が直結しているのだ。

ボブが加わり、ザ・フォー・シーズンズと名のるようになった4人組は、あれよあれよとヒットチャートを駆けあがる。ところが順風満帆と思われたある日、トミーがひそかに多額の借金をつくっていたことが発覚し、しかも相変わらず悪びれた様子もないことでメンバーのあいだに亀裂が走る。映画の爽快な調子に初めて水がさされたこのとき、いちばん目立たない存在だったニックが不意に発声して語り手の地位を襲う。実は今まで見ないようにしていただけで、いずれ厳しい現実に直面させられることはずっと前からわかっていたのだとニックが語るのを機に、初のフラッシュバックが導入され、意図的に語り落とされていた挿話が明かされることになる。同時に、映画はワーナー・マークに相応しかったあのきびきびとしたテンポを爾後、決定的に喪失するだろう。あたかも前半の流麗な語り口によっては語られえなかったものにこそ、後半部では向かいあうのだとでもいうかのように。

後半部で語られるのは、メンバーの金まで使いこんでいたトミーの莫大な借財にまつわる顛末だけにとどまらない。リード・ヴォーカルであるフランキーの妻との不和や娘の非行、長く腹に貯めこまれてきたニックの不満など、見たくなかった現実が、繰り延べつづけた負債の返済期日のように、前ぶれもなく一斉に訪れるのだ。それらはまさに予告もなく、突然押し寄せてくる。いったいフランキーの妻は、いつの間にあれほど夫を憎悪するようになっていたのだろうか。愛らしかった娘は、いつの間にあんな不良に育ってしまったのか。途中経過を飛ばして残酷な結果だけをいきなり突きつける後半部における語りの異様なまでの不均衡は、断じてこの映画の欠点ではないし、前半部をいきいきと走らせていたあの語りの経済性とも似て非なるものである。それは、この映画において語られたものと語られなかったもの、観客の視線に供されたものとそこから零れ落ちたものとの緊張をあきらかにし、高めるはたらきをしているのだ。

今や現実は、電話一本で告げられた娘の早すぎる死となって名声の頂点に立つフランキーを打ちのめす。葬儀を終え、独り座りこむフランキーのほうへとキャメラは前進し、フランキーもわずかに顔を上げて、悲しみのなか、今にも口を開きそうな素振りを見せる。われわれは、トミー、ボブ、ニックと受け継がれてきた語り手の役目が、とうとうフランキーに回ってきたのだと当然思う。だが、フランキーの口から言葉なり歌なりが洩れることはついになく、ショットは唐突に中断されてしまう。

主人公と見做してよかろうフランキーの思いがけない失語にうろたえながら、われわれが、この映画を気軽にミュージカルと呼ぶことが途轍もない誤りであると理解するのはこのときである。もはや歌にも踊りにも結びつくことができないエモーションの負の強度こそが、沈黙のうちに『ジャージー・ボーイズ』の全篇を震わせているからだ。愛に満ちた懐古的なパスティーシュとも思われた「マーク」への讃歌は、結局、そのような「マーク」の下にあっては決して語られえなかったものの存在に逢着する。こうして『ジャージー・ボーイズ』は、「マーク」への愛ゆえに「マーク」を殺す、イーストウッド的な「フィナーレ」の最新ヴァージョンとしての正体を現すのである。「マーク」への愛と別れを主題とするそのフィナーレを、1960年代という「マーク」の転形期において唄いあげるこの映画は、劇中に登場するちっぽけなテレビ画面に『ローハイド』のクリント・イーストウッドその人を映し出すことで、自らの来歴にも高度に意識的であることを示している。

ニュージャージーの夜の街路のセットで出演者全員が唄い踊る最後の「カーテン・コール」は、この映画が通常の意味でのミュージカルにもっとも接近した部分ではあるだろう。そこでは、堅気相手にマフィアの親分が見せる余裕を魅力的に演じたクリストファー・ウォーケンまでもが、さり気なくタップを踏んでいたりする。だがナンバーが終わり、最後の音が消えた瞬間、キャメラ位置がどのように切り替わるかは見逃さないでいただきたい。ポーズを決めたまま誰もがその場に静止し、静寂のなかで荒い息遣いだけが響く。「マーク」の下では決してありえなかった画面の連続に目を見張ったのも束の間、すべては闇に呑まれて消える。

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