映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第二十八回
バントでせこく進塁しつづける「石井裕也システム」を侮ってはならない
『バンクーバーの朝日』

©2014「バンクーバーの朝日」製作委員会

©2014「バンクーバーの朝日」製作委員会

『バンクーバーの朝日』
2014年12月20日(土)全国東宝系ロードショー
監督:石井裕也
2014 / 132分 配給:東宝

評価していた映画作家が、撮りつづけるうちに当初美質と思われたものから次第に離れていくというのは、もちろんめずらしいことではない。たとえば、1980年代以降のヴィム・ヴェンダースに起きたことは、まさしくそれだった。そうした場合、批評する側は、過去の作風を懐かしんで近年の変節を嘆くこともできるだろうし、困惑を隠しつつ、作家主義的な方針からあくまで擁護の姿勢を貫くこともできるだろう。あるいは、ただたんに口をつぐむのかもしれない。だが、これと反対に、駄目に決まっていると思われた作家が、わずかな期間に難点を克服するというか、不純物を濾過したように浄い姿に変貌するというのは、滅多にあることではない。

もっとも、長年撮っていれば、邪念が消えて洗練された技だけが残るということはありえよう。半世紀近くもペースを崩さず撮りつづけているウディ・アレンや、すでに劇映画の監督からの引退を表明したスティーヴン・ソダーバーグのように。しかし、そんな彼らももともとの限界を乗り越えたわけではまったくないのである。公開中の『インターステラー』がクリストファー・ノーランの作品にしては見れるほうだというのも、今回採用されている語りが、大仰な見かけとは裏腹に、実はこれまでになく直線的なので、従来からあきらかだった欠点――時間と視点の拙劣な処理に由来するサスペンスの空転など――が比較的に目立たないというだけの話だ。

ところが、あるとき見方を180度変えざるをえなくなった、その意味で「化けた」としかいいようのない作家が出現したのである。しかも、どの時点から評価を改めるべきなのかもはっきりと特定することができる。監督の名は石井裕也、「化けた」のは昨年公開された『舟を編む』だ。1983年生まれというから、昨今の日本映画の状況に鑑みれば、普通だったら自主映画でやっと注目されはじめるような年齢にしかまだ達していない。

もともと私は石井裕也の撮る映画をまったく評価していなかった。ほとんど耐えがたい思いで見たといってもよい。評判をとった『川の底からこんにちは』(2010)のときには、「中の下」の人こそが放つという輝きを映画の主題に選んでおきながら、主要登場人物以外がたんなる「その他大勢」にとどまっているではないかと批判した。それだけに、強い誘いを受けて渋々見た『舟を編む』の人物が、一人残らず魅力的に息づいているのには驚きを禁じえなかったのである。最初の評価を間違ったとは思っていない。やはり石井裕也が「化けた」のだ。同時に、それが石井一人の力で成し遂げられたのでないこともあきらかだった。セットの見事さに顕著だろうが、キャストにしろスタッフにしろ、現在の日本映画ではありえないほどの贅沢な条件が揃っているのを見れば、若い監督が芝居のことだけに専念できるように、いっさいを按排した人の存在を陰に感じずにはいられない。プロデューサーの不在が叫ばれる今日、これがどれほど讃嘆されるべきことであるか。

しかし、そんなふうに周囲に支えてもらうだけで終わらなかったところが、この監督の真に評価されるべき点なのだ。どうやら彼は、『舟を編む』での例外的に贅沢な現場経験を通じて、確実に何かを掴みとって自分のものにしたらしいのである。そのことを如実に物語る新作が、早くも2本撮られている。1本は初夏に公開された『ぼくたちの家族』、もう1本は間もなく公開される『バンクーバーの朝日』である。ハッとする細部を――おそらくは『舟を編む』以上に――含んでいるのは『ぼくたちの家族』のほうだと思うが、かなりの大作である『バンクーバーの朝日』も、最近映画館から足が遠のいているような層にも安心して勧めることのできる、危なげない仕上がりを見せている。奥寺佐渡子のオリジナル脚本や『舟を編む』に続く顔合わせとなる原田満生の美術、それに佐藤浩市を含む充実した俳優陣など、またしても贅沢な条件に支えられてのことであるのはいうまでもない。

『舟を編む』以降の石井裕也による3本の監督作において、いずれも気弱な男性主人公たちは、それぞれに困難な状況のなかで皆を従えて強力に牽引するのではなく、周りに支えられながら、全員をゆるやかに繋ぎとめる中継点のような役割を果たしている。むしろ彼らは、そのような役割を自らのものとして見いだすことで、周囲にとってより望ましい環境を、たとえ一時的なものではあっても、辛うじて実現させるというべきだろう。そのさまが、石井裕也という決して「強い」作家とはいえない一人の作り手自身の変貌と、いやでも重なって見えるところが爽やかな感慨を呼ぶのである。

戦前のカナダに実在したという日系移民たちの野球チームを描く『バンクーバーの朝日』では、前作の『ぼくたちの家族』に続いて妻夫木聡がそうした主人公を演じている。取りたてて傑出したところがあるわけではないが、真ん中にいることに周囲の誰も異存はない――そんなチームのキャプテンを、妻夫木が好演しているというよりも、ただその役回りに相応しくそこにいるというのが好ましい。実際、負け続きだったバンクーバー朝日を白人からも愛される人気チームへと一挙に押し上げた彼の秘策とは、体格からして違いすぎる相手との正面対決をあっさりと放棄し、バントと盗塁でもってせこく進塁しつづけることだというのだから、野球映画としてはほとんど拍子抜けだろう。だが、以前にもこの場で指摘したとおり、実は映画向きとはあまり思えない野球の試合場面を最低限の簡潔なものにとどめ、口下手で不器用な主人公の周囲にひととき現出する、誰にとっても望ましい環境を描きだすことに専念したのが、この映画の賢明さなのである。白人街と日本人街のあいだの空隙に開いたような、塀のすぐ裏側にまで街並みが迫った野球場が文字どおりそのような環境となるが、その反時代的に巨大なオープンセットが素晴らしい。

小回りをきかして全員の力でせこく点数を稼いでいく朝日の野球は、まるで石井裕也を監督とする映画づくりのあり方そのもののようだ。とはいえ、それはたんに無難な行き方に甘んじているのとは異なる。撮影所のシステムが機能していた時代であれば、そうした環境は、映画を撮るための自明な前提としてあった。その前提が完全に失われた今日にあって、石井はなぜか撮るたびごとに、いわば「一人撮影所システム」を周りに立ちあがらせることに成功しつづけているのである。これを称賛しないわけにはいかないだろう。

「石井裕也システム」が、たんに無難なだけであるのとは異なる点を一つだけ指摘しておこう。チームのエースで漁師が本業のロイ(亀梨和也)が主人公に迷いを打ちあける場面、また日本人であるがゆえに進学の夢を絶たれた主人公の妹(高畑充希)がチームの全員が揃う席で複雑な思いとともにスピーチをする場面など、この映画では、人物が真情を吐露する重要な場面の入りで、しばしばその人物の顔がよく見えない。前者ではキャメラが妻夫木と向かいあう亀梨の背中の側にあり、後者の場合は一座の全体を捉えたロングショットとなっているからだ。われわれは、語られる声の調子とその思いつめた内容から、当然顔を見たくなる。そんな見る者の思いが充分に募るのを待って、ようやく画面に彼らの顔が現れるのである。われわれが本当に彼らの顔を見たと思えるのは、それゆえであるに違いない。端役に至るまですべての人物が魅力的だというのは、こうしたさり気ない技が随所に効かされて初めて可能になる。

やたらと過去の栄光を懐古したがるこの国の最近の風潮を考えると、海外での日本人の成功物語に胡散臭いものを嗅ぎとる人もあるかもしれない。映画中でも、戦争の足音が日増しに近づくにつれ、バンクーバー朝日に移民たちの政治的命運をさまざまに託そうとする人々が登場する。しかし、そうした声に対して主人公たちが、ほとんど当惑しか示していないことに注意するべきだと思う。あからさまに拒むわけでもないが、彼らはここでも多様な利害の中継者としての自らの役割に忠実なのだ。

結局は朝日を呑みこむことになる歴史の悲運を体現するのは、チームのなかでただ一人、一度も土を踏んだことのない祖国に渡るフランク役の池松壮亮である。『ぼくたちの家族』で全体の鍵といえる次男を演じていた彼が、ごく小さな役でしかないことが初めのうち意外だったのだが、ホテルのボーイ姿がマネの笛を吹く少年のようによく似合っていた池松が、やがてその制服を脱がざるをえなくなるくだりでこの配役に得心がゆく。仲間のもとを去った彼は、その後、思いがけないかたちで再びスクリーンを横切ることになるだろう。だが、本当にそれはフランク=池松だったのだろうか。後からは確かめようもないそのはかないイメージのなかで、彼がボーイの制服と似ていなくもない、だが致命的に異なる衣服に身を包んでいたことが鈍い痛みとなって胸に残る。

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