映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第三十一回
ぶつかりあう肉体のなきも同然の間隙に「ジェリコの壁」をどう築くか
『ラブバトル』

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『ラブバトル』 Mes séances de lutte
全国順次公開中
監督:ジャック・ドワイヨン
2013 / 99分 配給:アールツーエンターテインメント

『ラブバトル』――男と女の、ときには女と女の、激しい愛のぶつかりあいにキャメラを向けてきたジャック・ドワイヨンの、すべての監督作を要約するような魅力的なタイトルではないか。原題は「わが闘いのセッション」(Mes séances de lutte)。自然のなかでもつれあう4組の裸の男女を描いたセザンヌの絵画「愛の闘い」――「愛の争い」と訳されることが多い――に由来する表題だというのだから、ここにいう「闘い」とは紛れもなく愛のそれだ。それにしても、ドワイヨンの新作が日本で劇場公開されるのは、映画祭上映などを除けば実に『ポネット』(1996)以来のことであるらしく、これを単純に快挙と持ちあげているだけでいいものか、途方に暮れてしまう。かつてはジェーン・バーキンのパートナーとしても知られた「ポスト=ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手も、今では71歳の老大家なのである。

もっとも、ドワイヨン版の「愛の闘い」は、どろどろとした情欲の噴出を期待した観客のさかしらさを軽く往なすかのように、ミケランジェリが弾く「ゴリウォーグのケークウォーク」のグロテスクな軽快さとともに幕を開ける。巨大なサングラスをかけてぷらぷらと田舎道を歩いてくる若い女の風情は、闘技場に入場する剣士の気魄からはほど遠く、のちに台詞でそうと告げられるまで、父親の葬儀を終えたばかりとはとても見えないだろう。そして他方には、髪と髭に白いものが目立ちはするものの、いまだ精悍な、狼にも譬えられる目つきをした孤独な男がいる。どこか東方的な雰囲気さえ漂わせる男は、改築中らしい家の壁土を力強い手つきで塗り固め、文字どおり自分の周囲に他者の侵入を阻む壁を張りめぐらしているかのようだ。

ここで「女」「男」とそれぞれ書くしかないのは、映画中でついに一度も彼らの名が明かされないからなのだが、つまりは普遍的な男と女のありようが期待されていよう二人が、ではどのように出会うのかというと、これまた呆気ないほど気さくな調子なのである。家の前に腰かけて一息つく男の後頭部が大きく手前にあり、その頭越しに女が歩いてくるのが見える。女は男の前まで来るやいなや、サングラスをかけたままでパッと相好を崩し、おどけたような仕草で話しかけるので、二人が初対面ではないこと、それどころか互いに異性として接近するための儀式めいた手続きはとうに済ませた間柄であることがただちに知れる。男と女の関係性を、いかなる説明にも頼らずして画面だけで瞬時に悟らせるドワイヨンの手並みは、さすがに鮮やかである。

にもかかわらず、と書かねばならないだろう。会話を通じてあきらかになるのは、二人が過去に体の関係を結びそこなったという事実なのである。自分の肉体を差し出そうとした女を、男は結局斥けた。その失敗に終わった誘惑を、もう一度演じなおそうと女が提案することで「愛の闘い」が開始されるのだ。「闘い」というのは比喩ではない。二人は音がするほど激しく互いの肉体をぶつけ、絡ませ、引き剥がし、またぶつけあう。「闘いのセッション」は幾日にもわたって何度も繰り返され、しかも一つの「セッション」と次の「セッション」とは時間経過や移動の表現を介すことなくぶっきらぼうに繋がれる。全篇が、会話によるわずかなインターバルを挟んで何ラウンドも続くただ一つの試合のようにも見えてくるのである。二人の手足にしだいに生傷が目につくようになるのが凄いが、相手をきっと睨みつけるときの女ファイターらしい意志的な表情と、男の前で満面の笑みをこぼれさせるときの少女のようにあどけない表情とを一瞬のうちに交替させるサラ・フォレスティエが素晴らしい。

二つの肉体が繰り広げる「闘い」は、前もってすべて厳密に振付けられたものだという。実際、あるときなどは男が女の下に潜りこみ、巴投げのように脚を使って女の体を高くリフトしさえするのだが、敵対と共調が矛盾なく共存する一連の荒唐無稽でもある振付けを、舞踊の専門家ならばどう見るのか、興味深いところではある。それに、女が男に繰り返し挑みかかるさまは、亡くしたばかりの父への愛憎とその乗り越えという、精神分析的な解釈を容易に喚起するものでもあるだろう。しかし、ここで真に感嘆させられるのは、そのような「セッション」の連続だけで1本の映画を成立させうると踏んだドワイヨンの恐るべき大胆さと、そうしたこれ以上ない単純さを現実に成り立たせている映画的な技の複雑な用法なのである。

lovebattle02ドワイヨン自身は、この映画を「伝統的なウエスタン」に類比している(劇場パンフレット所収の川口敦子によるインタビュー)。だが、聡明なドワイヨンの発したこの言葉を額面どおりに受けとるわけにはいかないだろう。対立する二者のあいだの空間に、銃が有効な武器たりうるための距離をどう設定するかが決定的に重要な西部劇にあって、敵と味方が互いの肉体を激しくぶつけあうなどということは起こるはずがないからである。では『ラブバトル』の男女は、むしろ時代劇で激しい立ち回りを演じる侍たちのように、互いに距離を詰めあっては、肉体を傷つけあっているというべきなのだろうか。

述べたように、初めてわれわれの前に姿を見せた時点で、男と女は一度性交に失敗している。冒頭で一心に家の壁土を塗っていた男は、女の体にくるくるとカーペットを巻きつけ、またしても女を拒むことだろう。隠さず書いてしまうならば、二人の性交は映画中で確かに成就する。しかし、成就の瞬間が一篇のクライマックスを構成してしまうことを映画自身が打ち消すかのように、特権的と見えた「セッション」はすぐさま次の「セッション」へ、新たなセックスへと接続されるのである。その間にも、ぶつかりあう二つの肉体のあいだのなきも同然の間隙には、水を加えてこねる以前の乾燥した壁土から、そもそも壁土が取り出される以前のただの自然の泥へと、始源に向けて時を遡りつつさまざまな物質が差し挟まれて、男と女を密着させつつ、同時にその厚みの分だけ隔てることになる。キャプラの『或る夜の出来事』(1934)において一枚の毛布が「ジェリコの壁」として未婚の男女を隔てていたように、ここでも有形無形のさまざまな「壁」が、性交の成就による距離の消滅を映画のゴールにしてしまうことを一貫して阻みつづける。だから、この映画がひとまず閉じられる地点で何かが達成されたなどと考えるべきではないだろう。体力を回復した男と女はすぐに身を起こし、新たな「セッション」を再開するに決まっているからだ。

長いときで10分近くにおよぶ――セルロイド時代のフィルムならほぼ丸々1巻分ということだ――ここでの「セッション」を、ドワイヨンはワンショットで、ただし2台のキャメラを駆使して撮っている。細かくカットが割られているようで、その実、アクションじたいは途切れることなく連続しているというわけだ。その効果はめざましいものだが、ここでほぼ同時期に、やはり男女の身体的なアクションをマルチキャメラで撮る試みを実践したもう一人の映画作家のことを思い出さずにはいられない。『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』(2013)と『Seventh Code セブンス・コード』(2013)の黒沢清である。一続きのアクションを可能な限りワンショットで撮ることにこだわっていた黒沢が、最近になってこのような試みに転じたことの意味はけだし重い。その黒沢清は今、何をしているのか。ジャック・ドワイヨンの国に単身乗りこみ、彼の地のスタッフとキャストとともに撮りあげた黒沢の新作を、われわれは近いうちに見ることができるはずである。

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