映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第三十二回
リーアム・ニーソンの厳粛さが演出の非力を超えてたちのぼる
『ラン・オールナイト』

『ラン・オールナイト』 Run All Night
公開中
監督:ジャウム・コレット=セラ
2015 / 114分 配給:ワーナー・ブラザース映画

あれはたしか、『夫たち、妻たち』(1991)を撮り終えたばかりのウディ・アレンへのインタビューが『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』誌に訳載されたときのことだったと思う。カサヴェテスのうわべだけの模倣でアレンもとうとう『カイエ』の公認を取りつけたかと複雑な思いで読んでいると、このリーアム・ニーソンというのは初めて見る俳優だがなかなかよい、あなたは彼をどこで見つけたのかとインタビュアー氏が訊ねるくだりで大いに腹を立てた。なんだ、おまえはサム・ライミのあの素晴らしい『ダークマン』(1990)も見ていないのか、と。

私もその時点では、リーアム・ニーソンの映画俳優としてのキャリアがすでに10年におよぶことなど知らなかったし、『ダーティハリー5』(1988)に無名時代の彼が重要な役で出演していたことも忘れてしまっていたはずである。しかし、顔を失った科学者が、自ら発明した人工皮膚で次々と顔を取り替えながら敵に復讐していくという『ダークマン』の痛快さに快哉を叫んだ者ならば、リーアム・ニーソンの名を記憶するのに何の努力も要らなかったことだろう。画面で見てもあきらかな2メートル近い長身に、異様に肩幅の広いがっしりとした体躯。その上に、どちらかといえばあまり血のめぐりのよくなさそうな頭が乗っかったさまは、こういってはなんだがフランケンシュタインの怪物を思わせる。しかも、ぐっと突き出た前頭葉からいきなり鼻梁が鋭く延びているせいで余計落ち窪んで見える眼窩の底では、虚ろで怯えたような小さな瞳が泳いでおり、屈強な体格との不均衡が見る者を不安にさせよう。つまりは普通だったら爽快な活劇には到底向かない、暗さと重さが特徴の俳優なのだが、まさにそこが『ダークマン』の、意志に反して苛酷な境遇へと突き落とされる文字どおりのダーク・ヒーローぶりにぴたりと嵌まったのである。そして、何よりあの声。ロラン・バルト的な意味での声の肌理には欠ける、いささか胸腔で響きすぎる声ではあるものの、代わりにその重厚な低音には、どこかあらぬ場所から轟くような凄みがあり、二目と見られぬ素顔を包帯でぐるぐる巻きにした変幻自在のヒーローに、現実離れした遍在性を付与することに成功したのだった。

『シンドラーのリスト』(1993)でリーアム・ニーソンを主役に抜擢したスティーヴン・スピルバーグが、宿願の企画だったリンカーン大統領の伝記映画において、最後まで彼に題名役を演じさせることを考えていたのは、まさにあの声でゲティスバーグ演説を読ませたかったからであるように思われてならない。結局、別の俳優によって演じられた『リンカーン』(2012)は、その繊細すぎる頼りない声が影響してか、むしろこの稀代の演説家から声と言葉をあたう限り奪い、彼以外の人物たちに分有させることを目論んでいたかのようだ。ともあれ、歳をとりすぎたことを理由に二度となかろう大役から降板したニーソンは、しかし近年は突如アクション・スターへと変貌し、活劇不遇の時代に娯楽に徹したアクション映画に主演しつづけるという、誰も予想しえなかった若々しい活躍を見せることになる。『ダークマン』の精神を失っていなかったということなのだろうか。

驚いたことに、目下この国では、すでに還暦を超えたリーアム・ニーソン主演のアクション映画が2本同時に公開されている。ジャウマ・コレット=セラの『ラン・オールナイト』とスコット・フランクの『誘拐の掟』(2014)である。どちらも実は肝心のアクション演出にかなりの難があるのだけれど、見るほどに不満をいう気が失せていくのは、筋立てのおもしろさもさることながら、やはり俳優、とりわけ主演俳優の力が大きいようだ。ここでは前者に話を絞るが、2本それぞれが、傑作でもなんでもないくせに妙な魅力を持っていることは強調しておきたい。後者については、それが活劇の側に突きぬけることを一貫して妨げているのではないかという疑念を払拭できないままに、キャメラがミハイ・マライメア・Jrであるという事実だけを記しておこう。

「朝まで逃げきれ」という表題が示すとおり、『ラン・オールナイト』にはこの一夜をどう生き延びるかというデッドラインが明確に設定されている。かつては腕利きの殺し屋として恐れられながら、今では自身が重ねてきた罪の重さにさいなまれ、酒に溺れるばかりとなったリーアム・ニーソンの主人公は、冒頭近くではサンタクロースに扮して子どもたちをあやすという屈辱にあまんじているのだから、この夜とはつまりクリスマス・イブのことである。不運にも事件に巻きこまれたわが子の危機を救うため、親友でもあるボスの二代目を殺めてしまったことから、ニーソンは不仲だった息子と二人、聖夜のニューヨークを逃げまわることになる。だが、無事に朝を迎えられたとしても、それはニーソンがいっさいの罪を被って警察に独り出頭し、過去に犯したすべての殺人についても告白することを意味しているのだから、どのみち普通の意味でのハッピー・エンディングなどありえない。暗く、重い、リーアム・ニーソンの活劇スターとしての異色の資質が輝きはじめるのはこのときである。

そうでなくとも自らの罪の深さにおののいているニーソンは、当然のことながら、これ以上の悪事に手を染めることを望んでいない。まして今夜の敵は、落ちぶれた自分の唯一の理解者といっていい、長年の親友なのである。嫌々ながら暴力をふるわざるをえない状況へと追いつめられるとき、リーアム・ニーソンの鈍重な身体は、ただ気力だけに支えられながら、厳粛な悲劇性をたちのぼらせる。ニーソンを追うエド・ハリスのボスがいい。ニーソンに犯した罪の懺悔を迫る、聖職者めいた刑事を演じるヴィンセント・ドノフリオもまたいい。ノンクレジットでニック・ノルティが出演していることも付け加えておこう。ここではニーソンと敵対する者こそが彼とどこかで心を通わせており、あるいは同じことだが、ニーソンの理解者こそが彼と敵対せざるをえなくなるのである。そのことが、おそらくは演出の非力をも超えて、この映画にいっそうの厳粛さをまとわせる。

脚本はブラッド・イングルスビー。すべてにおいて惜しいというか勿体ないとしかいいようのなかった『ファーナス/訣別の朝』(2013)の脚本を、監督のスコット・クーパーと共同で書いていた男である。事件を目撃した少年を探してニーソン父子が虱潰しに駆けずりまわり、その後は警察とヒットマンを巻きこんでの大捕物が繰り広げられる巨大な団地のシークェンスが、広さと狭さの矛盾する感覚を拮抗させて新鮮な印象を残した。

ところで、逃れようのない運命を前に、それでも最後まで生き延びることを賭けて戦いぬくリーアム・ニーソンといえば、ジョー・カーナハンの『THE GREY 凍える太陽』(2012)はご覧になっているだろうか。早くからトニー・スコットへの傾倒を隠そうとしなかったカーナハンが、スコット兄弟のプロデュースにより完成させたこの厳しい野心作に、『キネマ旬報』のベスト・テンでただ独り票を投じたことを、私が映画評論家としてどれほど誇りにしていることか。トニーの訃報が届いたのは、この映画が日本で公開されていた最中のことだった。そのカーナハンの『THE GREY』に続く最新作をDVDスルーにしてしまったこの国の映画の現状に憤りをおぼえる方は、どうか思い思いに、何がしかのアクションを起こしていただきたい。タイトルは『クレイジー・ドライブ』(2014)。トニー・スコットにもゆかりのある某若手スターが玉袋丸出しで熱演しているので、お見逃しなく。


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