映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW
2015 3

第三十回
「サソリ」になりそびれた現代の英雄は「伝説」として印刷される
『アメリカン・スナイパー』

『アメリカン・スナイパー』 American Sniper
全国公開中
監督:クリント・イーストウッド
2014 / 132分 配給:ワーナー・ブラザース映画

何しろ金持ちだから仕方がないのだが、スピルバーグという人には、手当たり次第にいろいろな題材に唾をつけておいて、そのなかから本命を絞りこむと、残りの企画はあっさり他人に譲り渡してしまうという悪癖がある。巨大なクジラが何でもかんでも一呑みにして、海水だけ吐き出すようなものだ。最近でいえば『インターステラー』(2014)は、まさにそのようにしてスピルバーグから後輩のノーランへと「下賜」された企画であった。それと同じ頃に伝えられたのだったか、史上もっとも多くの人間を殺害したアメリカ人狙撃手の実話を自分の主演で映画化したがっているというブラッドリー・クーパーが、スピルバーグに企画を持ちこみ、スピルバーグのほうでも乗り気になっていると聞いたときには、不安をかきたてられるとともに、どうせまた降りるに違いないと思ったものである。はたしてスピルバーグは早々と降板したものの、代わりにイーストウッドが監督することに決まったという続報には、心底仰天させられた。まだほとぼりの冷めていない、同時代のなまなましい出来事を直接映画の題材とすることは、スピルバーグがかつて示したことのないふるまいであるが、近年、一連のサイクルとして定着した「イラク戦争映画」をイーストウッドが撮るというのは、さらに予想外のことだったからである。

思えばスピルバーグとイーストウッドというのも、不思議な因縁で結びついた二人だ。『マディソン郡の橋』(1995)をもともとはスピルバーグが監督するはずだったことなど、今では記憶する人も少なかろうが、以降も硫黄島二部作を共同でプロデュースするなど、付かず離れずの良好な関係を保っているように見える。彼らは歳こそ一回り以上違うとはいえ、ともに70年代の初めに監督デビューを果たした同世代の作家だといってよい。興味深いのは、もっとも先鋭的だった時期のスピルバーグ映画の問題系を、今世紀に入ってからのイーストウッド映画こそが継承し、比較にならないほど深化させているように思われることである。それについて詳述する余裕はとてもないが(この連載では、かつて『リンカーン』[2012]評のなかでごく簡単に触れたことがある)、イーストウッドによる「イラク戦争映画」への取り組みが、こうしたイーストウッド評価をすべてご破算にしかねないものとして大いに危惧されたのだ。

『アメリカン・スナイパー』と題された映画は、いきなり砂まみれの戦地のただなかで、対戦車手榴弾を隠し持っているかもしれないイラク人母子に、主人公クリスが照準を合わせる場面から始まる。あどけない少年とまだ若い女とは民間人の恰好をしており、引き金を引くことは当然に躊躇われるのだが、味方の戦車はすぐ近くにまで迫り、いっさいを俯瞰しうる高所に位置する狙撃手には一刻の猶予も許されない。どうするのかというじりじりするようなサスペンスを文字どおり宙に吊り、主人公が故郷で過ごした青年時代に戻って、彼がシールズに入隊するに至った経緯が綴られていくところで、冒頭からの嫌な感じが強まることになる。子どもの受難は21世紀イーストウッドにおいて不可解なまでの執拗さで反復されている主題だが、そのことを別にしても、ここで子どもの生き死にが、たんに観客の関心を映画に惹きつけておくための焦らしの材料として、利用されているように思われるところが不快さを招くのである。

長い回想を経て、再び冒頭の場面に帰ってきたとき、結局子どもは主人公の手で狙撃され、女もまた撃たれる。しかし、その後も主人公が別の少年を狙撃すべきかどうかで迷う同じような状況が現れ、あるいは米軍に情報を提供した族長の息子が手酷い報復を受けたりするのを見るうち、この冒頭場面の反復は、むしろ主人公に癒しがたい外傷を刻印するという重要な意義を持っていたことに後から気づかされる。都合4回にもわたった派兵の合間、祖国での平穏であるべき歳月において、生まれたばかりのわが子を見にきた主人公が、泣きだした自分の子を看護婦が故意に放置しているという妄想に囚われて、新生児室のガラス越しに取り乱すシーンは、この映画でもっとも戦慄的な瞬間を構成しているが、自らの手による子殺しは、これほどまでに主人公にトラウマとして取り憑き、その精神を蝕みつづけるのだ(ちなみに、原作となった自伝において、クリス・カイルはイラク人の女を撃ったことしか書いておらず、一緒にいた子どもを殺したことについてはついに語ることがなかった)。

この新生児室のシーンが恐ろしいのは、それが結局主人公の妄想でしかなかったという「種明かし」がないままに中断されてしまうからだが、『アメリカン・スナイパー』は、これまでのイーストウッド作品にはなかったほど、主人公の視点というものに意識的である。狙撃手が主人公である以上、当然のこととはいえ、問題の冒頭場面をはじめ、銃の照準を模して円型のマスクをかけられた視点ショットが多用されるのだ。冒頭場面では、少年が手榴弾らしきものを服の内側に隠すさまが、主人公の視点ショットとして見る者にも確かに示される点が重要だが、銃で撃つことを意味するshootの一語が、キャメラによる撮影の意味を併せ持つという事実を持ち出すまでもなく、ここでは狙撃という行為が、主人公の視点の問題として厳密に考えられているのである。だからこそ、主人公が自分を付け狙う宿敵スナイパーの姿を2キロメートル近くも先に捉えるクライマックスが決定的なのだ。照準越しに示される視点ショットは、ここではあまりにも遠方であるためにぼやけており、そこに宿敵の姿が正しく捉えられているかどうかを見る者が判断することはできないからである。ここに至って主人公は、見る者がどうあっても同一化しえない地位へと移行する。端的にいって、今の彼にはわれわれには見えないものが見えているのである。衝撃的な結末を待つまでもなく、主人公はわれわれの手の届かない、砂嵐の彼方に姿を消すというべきだろう。

そのような場所に赴いてしまったイーストウッド映画の主人公を、われわれは少なくとも一人知っている。『チェンジリング』(2008)のアンジェリーナ・ジョリーである。驚くべきことに、彼女は自分が到達した境地を指して「希望」と呼んだのだった。他方、ここでのアメリカ人狙撃手が希望を得るどころか帰るべき家庭=故郷(home)を失い、精神を荒廃させるしかなかったのは、彼が男だからだろうか。「第1回派兵」「第2回」……といった字幕がぶっきらぼうに出るばかりで、カットするともうアメリカからイラクに飛んでいるといったこの映画の大胆なシーン繋ぎは、イラクでの戦闘中にも携帯電話を通じてアメリカにいる妻と会話するという現代の戦争ならではの描写と相俟って、距離の感覚を廃棄していく。家庭と戦場、祖国と敵国との距離を無化するというよりも、より正確には、そうした対立図式じたいを失効させ、どことも知れぬ場所に主人公を投げ出してしまうのである。こうして主人公は、早くから与えられていた呼び名に相応しい実質を、皮肉にも自身の存在の消失と引き換えに獲得することになる。「伝説」となるのだ。

この映画で幾度となく口にされる「伝説」という語の用法に、フォードの『リバティ・バランスを射った男』(1962)における同じ語の残響を聴きとることはたやすい。伝説が事実となったならば、印刷されるべきは伝説のほうである――『アメリカン・スナイパー』がクリス・カイルという実在のアメリカ人狙撃手を強固な「伝説」に仕立て上げているのは事実であるが、その「伝説」とはこのような意味なのだ。「伝説」の陰で忘却される歴史の敗者の存在に、『父親たちの星条旗』(2006)の作家が意識的でないなどということはありえないだろう。『父親たちの星条旗』はもちろんのこと、『ミスティック・リバー』(2003)にしても『J・エドガー』(2011)にしても、21世紀イーストウッドにあっては、歴史の敗者の犠牲の上に初めて星条旗がひるがえる。その痛みと苦さが、現実政治においても共和党左派という、単純な二大政党制によっては割りきることのできない、きわめて複雑な位置にイーストウッドを立たせているのである。

今や『アメリカン・スナイパー』が、21世紀イーストウッドにとっても特別な作品であることはあきらかだろう。ここにおいては歴史の勝者と敗者とが、同じ一人の男に同居しているのである。彼は印刷されるべき「伝説」であると同時に、もはや顧みられるべきではない惨めな敗者でもある。そのような事態を前に、われわれはいったいどうふるまうべきなのか。沈黙のみが相応しいと、この映画自身は告げているようである。だが、堪え性のない饒舌な批評家は、このアメリカ人狙撃手を『ダーティハリー』(1971)の「サソリ」から隔てているものは何なのかと考えざるをえなかった。この俳優イーストウッドの代表作に敵役として登場した連続殺人犯は、冒頭から示される狙撃の腕前からもあきらかだったように、時代の文脈からして、ヴェトナム戦争の帰還兵と見るのが妥当である。そんな体制の犠牲者を残忍な快楽殺人者として描き、容赦なく私刑に処したからこそ『ダーティハリー』は反動的なファシスト映画であると非難されてきたのだ。これに対して現代の英雄に待ち受けていた苛酷な運命は、結果として、彼が「サソリ」になることを首尾よく妨げたというべきだろうか。

一つだけ確実にいえるのは、イラク戦争後の現代に「サソリ」が出現したとしても、それを始末してくれる「ハリー」はもはやどこにも存在しないということである。


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