映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第十二回 たどり着くことから解き放たれてすべては「はじまり」となる
『親密さ』

 

『親密さ』
「濱口竜介プロスペクティヴ in Kansai」で上映中
監督:濱口竜介
2012 / 255分 製作:ENBUゼミナール

 年頃の男女が毎度のように何人も行き交っては魅かれたり反発したりしているというのに、濱口竜介の映画でセックスが重要だったという記憶がまるでない。つまるところ誰もが惚れた腫れたで一喜一憂しているらしいのだが、そうした男女の思いは事故で届かなかった手紙のように不器用に行き違うことがほとんどで、稀に唇を重ねたりベッドを共にしたりするカップルが現れても、そのカップルの組みあわせは決まって観客の予想を裏切るものだ。しかもそうしたキスやセックス、さらには結婚の成就によって映画が終結させられたことはなく、見る者に一息つかせることさえないまま、さらに込み入った事態が展開されていくのである(もっとも極端な例は石田法嗣をめぐって男たちの性愛的な関係がもつれる『THE DEPTHS』[2010])。他人の脚本(渡辺裕子)で撮られた『永遠に君を愛す』(2009)でだけ、波乱のうちにどうにか挙行される主人公たちの結婚式が映画を終わらせていることは興味深いが、このときですら、エンドマーク代わりの「NOT THE END」という字幕のとおり、ヒロインの河井青葉が宿した子どもといういちばん厄介な問題は映画内で棚上げされたままなのだ。
 ハワード・ホークスの映画のように、性愛を超えた大人の男女の余裕溢れるパートナーシップが描かれるわけではもちろんない。ソフィア・コッポラのように、いまだにプロダクション・コードが存在しているかのようにあえてふるまうことで、反時代的な上品さを保とうというのでもない。まったく反対に、濱口竜介は性愛の成就を達成されるべきゴールとしないことで、すべての登場人物たちを、まるで人類史上、初めて恋という感情を経験する人のような未知の惑いのうちに置くのである。いったい、キスしたいとかセックスしたいとか結婚したいとかいうたどり着くべきゴールを奪われた恋する人は、自分自身を狂おしく衝き動かす感情を、どこへどのように振り向ければ満たされるというのだろうか。濱口的な男女は、何を達成すれば望みが叶えられたことになるのかも自分で知らないまま、行き場のない感情にそのつど顔を曇らせ、あるいは輝かせ、声をつまらせ、あるいは張り上げ、ときに不可解にも見える突発的な行動へと走る。だからといって、それで何かが解決されるわけでもないので、次の瞬間にはまた同じことがはじめから生きなおされることになるだろう。このゴールを欠いた不断の「はじまり」こそが、文字どおり『はじまり』(2005)と題されたみずみずしい短篇さえ含む濱口竜介の世界を一貫してかたちづくっているのである。したがって、一部で不評を買ったらしい『PASSION』(2008)の結末も、別れるという選択をも男女にとってのゴールとしない、濱口的な「はじまり」の規則の厳格な徹底として見る必要があると思う。
 そこにたどり着きさえすれば映画が終わることができるというゴールがいつも宙に吊られているのだから、濱口によって4時間を超える長大な映画が撮られたとしても驚くにはあたらない。『親密さ』は、演劇を上演しようとする若者たちの姿と上演されたその舞台、そしてごく短い後日譚の3部から成り、濱口にしか撮りえない、真に独創的な異形の作品といえようが、同時にこれほど濱口的なたどり着くことからの解放が、ストレートにあらわれた単純な作品はないともいえる。同棲中の恋人どうしでもある演出家の男女を中心に稽古の紆余曲折が2時間弱、実際に客を入れて上演された舞台が2時間強、さらに10数分のエピローグが付くという構成は、確かに型破りなものだろう。それじたい「short version」として独立して上映されるほどの長さを持つ舞台劇は、この映画の全体を、演出家カップルの結局は別離に至る人生の一季節の物語として見ることを妨げており、また予想外の展開へと飛躍するエピローグのバランスを欠いた簡潔さは、さまざまな困難の末に上演される舞台劇を全篇のクライマックスとして見ることを妨げている。そうすることで『親密さ』は、一組の男女の恋の顛末という枠組みにはもちろん、苦労を乗り越えて成功裏に芝居を上演する若者たちの群像劇という枠組みにも収まることなく、255分にわたって不断に「はじまり」でありつづけるという離れ業を実現しているのである。
 それゆえ、映画と演劇の融合というような観点からのみ『親密さ』を理解することは、まったくの誤りではないにしても、舞台劇のパートだけを特権視しているという意味で、皮相的すぎるといわざるをえない。同じように、舞台劇のパートがどれほど現代に生きる若者の名状しがたい、痛切でリアルな心情を掬いとっているにせよ、それをドキュメンタリー的であるとして、映画を見るわれわれが属している現実世界と無媒介に連続したものであるかのように捉える態度も、厳に慎まねばならないだろう。『親密さ』の物語世界は、映画中で挿入される日付がわれわれのほぼ同時代を示しているにもかかわらず、驚いたことに戦時下にあり、現実そっくりでありながらも意図的に現実との違いを強調された設定は、その種の短絡した見方をあらかじめ退けている。では、全篇を貫くそうした設定まで導入することで、『親密さ』という映画が互いに独立した3つのパートを串団子状につなげただけで終わらず、長大な持続を通して何事かを成し遂げているとすれば、それは何なのだろうか。
 まだ舞台の配役も決まっていない映画中での最初の日の夜、電車で帰る演出家の令子は恋人でもあるリョウに向かって、今回は私たちは出演しないほうがいいという。それではリョウが書いた台本のいちばんいい部分――「小ささ、とか弱さ」――が出ないというのである。こうして二人はそれぞれ演出と美術に専念しようとするのだが、ひとまず主役といえよう詩を書く青年である衛役のミッキーが、舞台を降板して民兵になると決めたことから上演は暗礁に乗り上げる。その代役を、急遽リョウがつとめるまでの葛藤が第1部を締めくくることになるのである。結果として、第1部と第3部の主演といっていい令子は、第2部では一観客として客席から舞台を見守る姿が時折挿入されるばかりとなり、全篇を通じて脚光を浴びつづけるのは、リョウ一人ということになる。だとすれば、『親密さ』はリョウを特権的な主人公とする映画なのか。むろんそうではない。リョウが衛を演じることは最善の策ではないということがはじめから明言されており、しかもリョウによって演じられる衛には、降板したミッキーの不在が絶えず亡霊のように張りついているので、リョウのとりあえずの中心性は、常に決定的であることからいくぶんか脱落するように周到に仕掛けられているのである。
 「小ささ、とか弱さ」。その言葉のとおり、『親密さ』には名のあるスターは出ておらず、演技経験の浅い、通常の商業映画であれば現時点で重要な役が回ってくることはまずありえない若者だけでキャストが固められている。正直なところ、先に完成した「short version」が初めて上映されたとき、舞台挨拶でずらりと並んだ出演者たちの顔を見て、これで本当に映画が成立するのかと不安に駆られたほどだ。だが、はじめから「映画的」であるわけではない彼らの顔と声が、映画が進むにつれてスターに成長していくというのではなく、小さく、また弱くあるままで思いがけない輝きを放っていくさまは感動的というしかなかった。しかも、この感動は完全版でさらに深まることになる。第1部で強く印象に残った人物が第2部では後景に退く、反対に第1部でほとんど印象に残らなかった人物が第2部で堂々たる存在感を発揮するというようなことが、幾度も起こるからである(第2部で鮮烈な輝きを放つ性同一性障害の詩人の悦子役など、前ぶれもなく現れたかのようだ)。しかも、このことは第2部の演劇を客席から見る匿名の観客たちにも起きる。濱口竜介にとって「いい顔」は映画をつくるために利用される素材などではなく、撮ることによってそのつど生起しなければならない事件なのである。逆にいえば、撮ることとともにそこに「いい顔」が立ち現れなかったときには、その映画は失敗だということになろうが、8ミリで撮られた『何食わぬ顔』(2003)から数えても10年になる監督歴で、濱口はそのような失敗を一度として犯していない。
 それと同時に、第1部の終わり近く、夜が明けていく街を令子とリョウが延々と歩きつづける、対立を乗り越えて和解へと至る破格の長回しでは、明けようとする夜の最後の暗さのなかで、二人はほとんど後ろ姿、あるいはシルエットとなっており、特定の目的地へとたどり着くことから解き放たれた彼らの歩みは、それじたいとして「はじまり」であるために、もはや「いい顔」さえも必要としていないように見える。『親密さ』が、濱口竜介のこれまでの集大成であるとともに、来るべき新たな段階を予示してもいるのは、たとえばそのような点においてである。小さく、弱いものが、ただそのようなものとして存在し、どこへたどり着くでもなく、別々の列車のように、ひととき並走し、また別れていく。「こうして、所属の条件のもとではたえず隠れたままになっており、なんら実在的な述語ではない、そのように存在していることが、それ自体明るみになる。そのようなものとして露わにされた個物ないし単独の存在こそは、望ましいもの、すなわち愛する価値のあるものなのだ」(ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』上村忠男訳、月曜社、10頁)。

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