今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW
2011 6

「観客へのアプローチ」

編者:藤木秀朗
出版社:森話社
発行年月:2011年3月

「観客」とは、いったいどのような人々を指す言葉であるのか。日本の優れた映像作家であり、映画批評家である松本俊夫は、自らのエッセー集のなかで、「大衆」という言葉が、ほとんど意味を持たない、抽象化された観念でしかないと述べているが(註1) 、『観客へのアプローチ』の編者である藤木秀朗は、松本俊夫の言う「大衆」と、本書のキー概念である「観客」という言葉との注目すべき類似性を指摘している。「観客」というカテゴリーに当てはまるのは誰なのか。逆にそのカテゴリーから除外されるのは誰なのか。そもそも、「観客になる」ということは、どういった行為を指すのか。このような問題は未解決なまま、「観客」という言葉は、多くの批評や研究のなかで使われ続けている。『観客へのアプローチ』という書籍は、そのタイトルが示す通り、複層的な面を持つ「観客」に多角的にアプローチすることを目的としている。
『観客へのアプローチ』は、全三部から成り立っている。第一部「映画文化と観客」では、スターやテクノロジー、映画市場調査や批評といった映画文化と観客の関係が論じられている。宮尾大輔は、林長二郎のスターダムと女性観客の関係に注目し、中村秀之は日本における3D映画言説を研究対象としている。また、加藤厚子は、1930年代〜1960年代の日本における大手映画会社の市場認識を調査し、アーロン・ジェローは、日本にける映画批評史をまとめている。
第二部「社会と観客」では、映画観客の社会問題との向き合い方が時系列的に論じられている。キム・ドンフンは、1920年代〜1930年代の日本植民地支配下のソウルにおける映画文化に着目し、藤木秀朗は1920年代の日本における「民衆」像、及び「観客」像、そして両者の関係性について論じている。木下千花は1942年のマキノ正博監督作品『婦系図』を、北村洋は1940年代〜1960年代の淀川長治とトランス・ナショナルなファン活動を、そしてトマス・ラマールは、オタク文化とフリーター運動という極めて「現代的」な事象を取り上げている。
第三部「場と観客」においては、観客が映画と出会う環境(「場」)が論じられている。碓井みちこは、映画以前の視覚メディアとしての写し絵とその観衆の関係性を考察し、ジョセフ・マーフィーは、1920年代の文芸春秋社の雑誌『映画時代』におけるファン像の問題を検討している。笹川慶子は1935年の溝口健二監督作品『折鶴お千』の道頓堀における受容を分析し、畑あゆみは1970年前後に活動した日本ドキュメンタリストユニオン(NDU)による記録映画の自主上映プロセスについて論じている。『観客へのアプローチ』に収録されている14本の論文を、本レポートのなかで全て紹介することはできないが、代わりに、特に興味深い内容に思えた幾つかの論文はピックアップしてみたいと思う。
まず、第一部「映画文化と観客」においては、映画批評を受容の一形態と見なすアーロン・ジェローの「映画の批評的な受容―日本映画評論小史」を挙げておきたい。この論文では、1910年代〜1990年代における日本の映画批評が批判的に論じられている。日本における映画批評の支配的なパターンは、1910年代に芽生えた、いわゆる「印象批評」であるという。これは、映画を観ながら、自らが受けた印象を語るという形式の批評であるが、日本の映画史上には、この印象批評に対抗する批評パターンも幾つか存在した。1920年代後半〜1930年代前半のプロレタリア映画運動に始まった、いわゆる「イデオロギー批評」は、そういった対抗の好例である。イデオロギー批評は、マルクス主義から強い影響を受けており、戦時中は国家の抑圧に苦しみながらも、戦後は輝かしい復活を遂げた。ところが、1960年代に入ってからは新左翼の批評家から厳しい批判を受け、その勢力は失われた。更には、皮肉なことに、1960年代に顕著であった、従来の批評パターンに対する抵抗もまた、結果としては、「表層批評」という名の新たな印象批評へと辿り着いたという。本稿の著者であるアーロン・ジェローは、1910年代〜1990年代の日本において影響力をふるった全ての映画批評が、批評を行う主体(批評家自身)の存在価値や、映画批評と観客の相互関係を全く理論化できていなかったと述べており、これまでの日本社会において、映画批評が「観客にとって必要なもの」として認識されてこなかったのは、この理論化の失敗に起因するのだと結論づけている。本稿は、日本における映画批評の歴史への導入としてだけでなく、今日の日本における映画研究のダイナミクスを理解するためのガイドラインとしても、非常に有意義な論文であるように感じられた。
第二部の「社会と観客」において、私が関心を抱いたのは、キム・ドンフンの「分離されたシネマ、絡み合う歴史 日本植民地支配下の1920年代朝鮮映画文化」である。本稿において、著者は植民地支配下のソウルにおける映画文化に着目し、それが完全なる「日本映画文化」でも、混じりっ気のない「朝鮮映画文化」でもない、複雑な様相を持つ極めて特殊な文化であったことを明らかにしている。1920年代当時のソウルは、日本帝国の主要都市の一つであり、日本の外地でもっとも日本人の人口が多い植民地都市であった。ところが、ソウルに住む朝鮮人と日本人の生活区域は明確に分離されており、朝鮮人は主に北村(現在の鍾路地区)、日本人は主に南村(現在の忠武路と南大門地区)に住み、北村と南村は、清溪川によって隔てられていた。当時のソウルには、計8軒の映画館が営業していたが、その内5軒は南村に位置し、残りの3軒だけが北村にあった。そして、南村では主に日本映画が、北村では主に朝鮮映画が上映されていた。このため、1920年代のソウルに住む日本人観客は、朝鮮映画史の出発点となった羅雲奎監督の『アリラン』(1926年)を観ていなかったのだという。ところが、ハリウッド映画やヨーロッパ映画の上映は、北村でも南村でもほぼ同時期に行われ、日本人向けの映画館と朝鮮人向けの映画館は映画興行を行うにあたって、しばしば協力を行ったりもしていた。二つのナショナル・シネマによって共有された1920年代のソウル映画文化を身体的・物理的に象徴する存在としては、いわゆる「自転車少年」が挙げられている。当時のソウルでは、朝鮮系と日本系の映画館で同じ映画が上映される場合、それらの映画館は一つのプリントを共有することが多かった。清溪川の両岸の映画館は、同じ作品を異なる時間に上映するスケジュールを立て、映画のプリントは、二館の上映時間の合間に自転車少年に配達してもらっていたのだという。今回のキム・ドンフンの論文を通して、私は北東アジアにおける映画史の複雑さと面白さ、それに将来的な研究のポテンシャルの高さを改めて再確認することができた。
第三部「場と観客」においては、畑あゆみの「「運動のメディア」を超えて―1970年前後の社会運動と自主記録映画」が特に興味深かった。本論文において、著者の畑あゆみは、1970年前後に作られた数多くのドキュメンタリー映画のなかでも、特にNDU(日本ドキュメンタリストユニオン)の製作による『沖縄エロス外伝・モトシンカカランヌー』(1971年)に注目し、その作品分析や、作品の製作・自主上映プロセスのケーススタディーを行っている。『沖縄エロス外伝・モトシンカカランヌー』に代表されるようなNDUの諸作品と、1970年前後に作られた他の「政治的なドキュメンタリー」との決定的な差は、NDUの作品が、単に社会運動の高揚を目指す作品としてだけでなく、運動の実態に対するネガティヴな反応を促す作品としても意図されていた点にある。小川紳介や土本典昭による作品の自主上映運動においては、従来の「作家―観客」の二元化・階層化が依然として際立っていたが、NDUの自主上映運動においては、「作家」や「作品」、「観客」といった概念区分の除去や、作品の「反私有化」、「作家」の権威的な地位の否定、そして映画製作者の「無名性」などが目指された。本稿の結論において、著者は、NDUが試みた自主上映が、政治運動に対する「混乱・拒絶を含む多様な見方を浮かび上がらせる場としての」新しい上映空間を作り出す試みであったと述べている。畑あゆみの論文は、今日の日本においては未だに珍しいドキュメンタリー映画研究の一画であり、それが『観客へのアプローチ』に記載されたという事実は、ドキュメンタリー映画研究に自ら従事している私にとっては、非常に嬉しいことであった。
『観客へのアプローチ』は、実に多彩な研究テーマを持つ執筆者を集めた書籍であり、本レポートでは残念ながら取り上げることができなかった他の諸論文もまた、読者のあらゆるニーズに対応する貴重な情報を提供している。本書は、「観客」にまつわる研究の幅広い可能性を示す重要な文献であり、この本と出会い、知的な刺激を受けた数々の読者によって、今後新たな「観客」スタディーズが企てられることに期待したい。

(フィオードロワ・アナスタシア)

註1)「大衆という言葉はあらゆるものごとを測定する絶対の処方箋とされており、すでに大衆の実体から遠く遊離して、実は抽象化された観念にすぎなくなっている場合が多い。」松本俊夫『映像の発見―アヴァンギャルドとドキュメンタリー』(清流出版、2005年)217頁。


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