今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「フレームの外へ 現代映画のメディア批判」

著者:赤坂太輔
出版社:森話社
発行年月:2019年11月

 

 

 

赤坂太輔インタビュー

映画はもとより、掌のなかのスマートフォンでも大量の映像が高速で消費される今、それを縁どるフレームが何らかの意図を持って見る人々を誘導する道具であるのに気づく者がどれだけいるだろうか。映画批評家・赤坂太輔の著作『フレームの外へ』はロッセリーニとブレッソンを起点に、おびただしい数の現代映画作家と作品の分析を通して、それらが今日の映像メディアにおいて担う役割を解き明かす。国も時代も超えて映画史をつづら折りのごとく行き来する本書が示すのは、視聴覚環境をもとに社会が形成するより巨大なフレームからの突破口でもある。初の単著を巡って著者インタビューをおこなった。

取材・文/吉野大地(掲載にあたり、2020年4月の取材に加筆を施した)


──タイトルは赤坂さんの批評活動を集約した一言ですね。

これは森話社の当時の担当者・五十嵐健司さんと話したときに最初に出たものでした。しかしサブタイトルの「現代映画のメディア批判」と内容自体は、『NOBODY』に連載中の「メディア批判としての現代映画」の延長線上にあるものですね。

──連載初回も本書の第一章「イン&アウト」と同じく、ロベルト・ロッセリーニとロベール・ブレッソンを扱っておられました。フレームの「外」を明確に意識化された時期はいつ頃でしょう。

約12年前、大学で教えはじめたときにロッセリーニとブレッソンの映画が持っていた「当時の新しさ」をまず考えました。それはどういうものだったのか? ロッセリーニの場合は第一章に書いたとおり、フレームの外から働きかけるものに対してフレーム内の人物が変化していく。一方、ブレッソンの映画はフレーム内にいた人物が外へ出ていったときに観客は感覚を視覚から聴覚へとリレーさせなければならない。両者とも、フレーム内と外の関係から観客に映画の新たな見方を要請した。そう考えたのが出発点でした。

──両者の半世紀以上前の方法は今でも充分に現代的だと思います。しかし現代音楽や現代美術に比べて「現代映画」という言葉は今ひとつ浸透していない印象を受けます。定義が曖昧なのも理由のひとつかもしれません。また本書では古典映画も扱っておられます。「現代映画」を定義づけるものは何でしょうか。

ロッセリーニにせよブレッソンにせよ、第二次世界大戦中から撮りはじめて、戦後にその作風が決定的なものになった。彼らの作品を「現代映画」と呼んでいいのかという議論はあると思います。「現代映画」と言うときの基準として、自己批判的・自己参照的になる要素をその映画が持っていることが挙げられます。先ほども言ったように、それが見る人の視線の変化を要請するからです。それは後の世代──ヌーヴェルヴァーグやポスト・ヌーヴェルヴァーグから現在まで──に非常に大きな影響を与えました。その端緒を考えると、やはりロッセリーニとブレッソンにたどり着く。本書ではその意味で一応、彼らを現代映画の出発点と設定しています。
もちろん彼らに影響を与えた映画作家もいます。それについては例えば第二章「リアルというフレームの行方」で、映画史を遡る形でジャン・ルノワールやエリッヒ・フォン・シュトロハイムたちを取り上げました。のちの章に出てくる小津安二郎なども含めて、古典映画であっても現代性を持つ作家がいます(本書には書いていませんが、『NOBODY』46号では小津の『父ありき』(1942)のリアルタイムと『晩春』(1949)の跳躍をジャン=クロード・ルソー、クラウス・ウィボニー、グスタボ・フォンタンら現代映画作家たちの先駆として論じました)。映画を語るときには、ある作家を据えてその先へ直線的に進むよりも、それに影響を与えた作家に言及しないといけない。本書は現代映画の出発点を示しながら、その前にも戻っています。遡りながら前に進む。その方法が必要だと考えました。

──第二章以降、さらに論は幅広く展開されます。ルノワールとリアリズムを巡っては「制作当時の素材や技術の限界をドキュメントし、露わにして見せる演出」を考察し、その限界の露呈こそが「映画がなし得るリアリズム」であり「観客に歴史的思考を与えるもの」だと説かれます。続く章でも、時にフレーム=画面の枠の問題を超えながら現代映画が論じられます。そのような自己批判的な映画が求められる理由は、サブタイトルにある「メディア批判」ですね。その最大の対象はテレビですが、家を出ても街頭モニターや個人のスマートフォンの画面内など、至るところで動画が流れている。こうした日常に映像が自然のように溶け込んだ時代に、現代映画が成しうることも本書の基調になっています。それは赤坂さんが長年に渡り主張されてきたことでもあります。

現代の状況では、「自然」といっても何もせずそこにあるわけじゃなく、ほとんどが何らかの情報を発信しています。情報を伝達して、出来ればそれによって人を動かすために機能している。「操る」とも言えるでしょう。大半が広告や何かを語っているもので、それらはみずからが語る媒体であることを透明にしておきたい意図を持っています。それに対して現代映画は目に見える形にする。つまり音や映像で自己言及的なものにします。「不自然」にすると言ってもいい。そうすることによって「あれ、変だな?」と見る者に思わせて、それが決して自然なものではないことを改めて認識させる。何かの意図から作られていると示すことで、注意を喚起します。

──「変だ」と思わせる現代映画作家たちの方法が精緻に解説されます。ランダムにひとつピックアップすると、ストローブ=ユイレの『和解せず』(1963)。この映画はハインリヒ・ ベルの小説をもとにしていますが、大胆な脚色を施し、編集も物語を滑らかに語らない。原作と照らし合わせると違和を覚える作品です。

第六章「『ミュリエル』から『和解せず』へ」でアラン・レネの『ミュリエル』(1965)と『和解せず』を論じたところですね。本文にもあるように「この2作を比較して見てみるといい」と言ったのはジャン=リュック・ゴダールです。それはある種、構造に関する発言でしたが、この章ではフレーム内に留まるレネを肯定的に書いています。時間が経過しているけど、それを見えないようにする。といっても経過しているので時間が跳んだ感覚はありますが、一方の『和解せず』は見えるようにしている。その対照を論じました。2作を論じるときに『ミュリエル』から『和解せず』へは移れるけれど、その逆は出来ないとも書きました。レネがその機能を消そうとしているのに対して、ストローブ=ユイレはみずからの映画の機能自体を暴こうとする。両者の差は逆の順では示せないし、ここが古典映画から現代映画への移行の決定的な点のひとつとも解釈できます。
本書ではロッセリーニやブレッソンに影響を受けたゴダールやジャック・リヴェット、エリック・ロメールといったヌーヴェルヴァーグの作家たちやストローブ=ユイレも含めたポスト・ヌーヴェルヴァーグの作家たちに対して、ふたりの直後に現れたミケランジェロ・アントニオーニやイングマール・ベルイマン、レネをかなり批判的に取り扱いました。例えばベルイマンはヌーヴェルヴァーグの作家や、それに続くフィリップ・ガレルやジャック・ドワイヨン、アメリカではジョン・カサヴェテスやロバート・アルトマンたちにもかなりの影響を及ぼしています。その意味で映画史を語る上で欠かせない作家ではあるけれど、彼らの影響は「必要悪」だったのではないかという批判です。でもそれは決してベルイマンを「見るな」ということではなく、「見てください」という意図を踏まえたものです。なぜなら見て認識しなければ、その劣化コピー的な映像にさえ操作されてしまうからです。

──ベルイマンはフレーム外の消去や演劇を実況中継として撮ってしまった点などへ批判がなされます。対して第五章「『時代劇』から上演の映画へ」には、『修道女』(1966)についてのリヴェットの「意図的に演劇を演じている」という発言の引用があります。これにも先駆者のロッセリーニと同様に、劇映画の機能(=カメラ前の上演のドキュメンタリー)を暴こうとする意識が見られます。この章で問われるのがそのような「上演の映画」と時間のフレームです。

「上演の映画」は、「実時間=リアルタイム」という形でシーンを構築します。ワンシーン=ワンアクトと呼んでいますが、ロッセリーニやリヴェットたちが採っている手法ですね(本書には書きませんでしたが、リヴェットはすでに1950年に黒白サイレントで撮った『ル・カドリーユ』で、シュトロハイムがやっていたリアルタイムを構築しています)。アルフレッド・ヒッチコックが『ロープ』(1948)を撮ったときは、35ミリフィルムを装填した重いカメラでカットを割らずに人を出し入れして、ワンシーン=ワンカットで見せようとした。現在振り返ってそれを見ると、当時の映画撮影の「限界」を記録していたことがわかります。そのことに価値があったのが、カメラのデジタル・軽量化によって長時間撮影が可能になり、誰でも安易に出来るものになってしまった。それはただのつまらない段取りのドキュメンタリーに過ぎません。
ワンシーン=ワンアクトはそれとは違い、晩年のカール・テホ・ドライヤーやジョン・フォードがそうですが、一幕の芝居をあたかも目の前で演じられているように、適切な距離やアングルから撮られたカットをつなげて、なおリアルタイムとして再現することにこだわった。そこでは作り上げられ再構成された「フィクションとしてのリアルタイム」が示されます。それは映画や映像作品ならではの次元でもあり、「上演の映画」は捉えにくい時間を捉えさせる方法です。

──本来は不自然な時間ですね。それを受けてのマノエル・ド・オリヴェイラの「上演の映画」と政治を巡る論も大変興味深いものです。そして本書ではスティーヴン・スピルバーグも批判の対象となります。

スピルバーグは優れた映画作家です。その反面、非常に問題があると結論づけざるを得ない。理由は、追跡シーンで常に追う者と追われる者をひとつのフレームに入れてしまったことです。先行するアメリカ映画では追うものと追われるものを別々に示していたのを、スピルバーグはその距離を絶えず明らかにした。それは同時に見る者の想像力を奪ってしまったのではないか。そこに着目しました。

──追跡の運動を同一のフレームに収めることで、両者の距離を明確にするのと同時に、観客はそれを想像せずに済むようになります。それに比較されるのがラオール・ウォルシュの『恐怖の背景』(1943)。ショットを細かく分析しながらウォルシュの追跡の距離感や観客が「追いつけない」速さがフレームの外、つまり想像力にあるとされます。

ウォルシュに関しては古典映画史のある部分を論じているので、現代映画をテーマにした本書に入れるかどうか迷いました。しかし先に述べたとおり、現代よりはるか先をいっていると思える、そして今はもう撮れないであろう映像を撮った作家として捉えました。この第四章「想像力は消えた」は古典アメリカ映画の「速さ」と「距離」について論じた箇所ですが、その後のオーソン・ウェルズやロバート・アルドリッチやサム・ペキンパーといった人々のあと、今では映像テクノロジーの進歩が「距離」への想像力を消してしまいました。

──テクノロジーが映画と観客にもたらす弊害には「解像度」もありますね。そして「今ではもう撮れない」という文脈では、撮影所とそのシステムが機能しなくなった時代の日本映画も扱っています。

日本映画を入れるか迷った時期もありました。しかし、やはり入れるべきだと思い直しました。いま作られている映画は、撮影所時代の映画とは明らかに違うことを意識するために必要ではないかと考えました。

──その第八章「闇から浮上する身体へ」で興味深いのが、テレビドラマも扱っている点です。今のテレビではありえない「画面の暗さ=見えづらさ」から『シルバー仮面』(1971)も取り上げておられますね。

テレビの映像にも放映当時は悪評を被ったり、のちになって理解されるものがあります。そうして見直されるためには映画作品として──この言い方が適切ではないかもしれませんが──上映されるべきだと思っています。『シルバー仮面』は実相寺昭雄の作品として映画館で上映されることで再評価されたり、「あれは何だったのか」と検証される映像だと思って取り上げました。実相寺の映画は評価できないのですが、これは70年代当時のテレビの限界を見せるという点で評価できると思っています。もちろん映画作家として素晴らしい勝新太郎主演のテレビドラマ『新・座頭市』(1979)や『警視-K』(1980)などもそうですね。

──様々な局面での限界が問われます。巻末の索引で数えてみると、最も多く言及される作家はゴダールでした。ほぼすべての部分で好意的に、その現代性を論じながら限界点も指摘しています。

『ヌーヴェルヴァーグ』(1990)あたりからECMがゴダールの作品制作に参加して、その音楽が使われるようになります。以降、それまでのゴダール作品のサウンドにあった、例えば音の切断や接続面という技術的限界を記録したノイズ性が失われていった点は批判的に見ています。

──引用の文字列によって「読まれる作家」になったという指摘にも膝を打ちました。そうした点で特権的に扱う作家がいない本ですが、ゴダールの数々の作品の分析はとても読みごたえがあります。個人的に思い入れのある1本を挙げると『勝手に逃げろ/人生』(1979)のスローモーションの分析は、読みながら「あれを言語化するとこうなるのか」という気持ちよさを覚えました(笑)。

それはありがたいです(笑)。あれも最初に取り上げたウォルシュとの対比になっている部分ですね。またゴダールの90度の角度から撮影・編集して作られるシーンについて考えていて、思い浮かんだのが小津安二郎でした。ゴダールと小津では時代も撮影形式も違う。撮影所で撮っていた小津には潤沢な予算やスタッフなど、何から何まで揃っていた。ゴダールの時代になるとそれは無くなったけれど、ではそこにあるものは何かと考えたときに、この組み合わせもアリかなと思いました。

──小津から堀禎一監督作品への展開も、本書のひとつの山場ではないでしょうか。

日本映画のひとつの終点として位置づけたい。執筆時に、そのような考えがあったのだと思います。堀くんの作品はまだまだ見られていないし、今後語られ続けてほしいですが、彼はその状況が整う前に逝ってしまった。そのことに対して怒っているんです。彼はいてくれるだけで重要な存在だった。もちろんこれは友人で、いろんなことを話したからそう思うんですが、本書を最もよい読者として読んでくれる筈ではなかっただろうか。そのようにも感じています。彼は正当な日本映画を低予算で、極端にいえば自分ひとりで作る作品に活かし体現しようと試みていたと思います。大学時代にフランスに遊学したあとは、ピンク映画の現場で助監督をつとめていた。日本映画の政治的な部分も受け入れて作品を作りながら、その先も見据えていたのが「さてこれから」という時に亡くなってしまいました。それに対して位置づけるのはまだ早いのかもしれません。でも敬愛も込めて映画史の上に置いてみたかった。日本映画が培ってきたものを個人的な作業に活かしたのが、ドキュメンタリー『天竜区』シリーズです。これを出来る人は今後現れないだろうという意味も込めました。

──『天竜区』への「個人作業として体現した唯一の、そして最後の現代映画」という言葉も印象的です。続く第十章「メディア・イメージに抗って」ではエジプトやスペイン、ブラジルやチリなど、日本では辺境とされる傾向のある国々の映画を丹念に追ってゆきます。それらの多くは日本で配給・公開されない作品です。

少し問題のある言い方かもしれませんが、配給や上映に関わる方が自分たちの目や耳を操作されてしまい、それを知らないことが他国への想像力を絶つことにつながってしまっている現状があると思っています。それはメディアを使った操作に観客や視聴者が抵抗する能力を奪う、とても危険な状況です。さらに本書でも指摘しているように、国際映画祭の文脈がテレビ的になってしまっている悪影響もあるでしょうね。

──海外の映画祭とテレビとの関係、資本の供出などについては2013年におこなったインタビューでも指摘されていました。

それを何のためにやっているかというと、結局テレビで放映するためだと思うんです。本書で「現代映画」と呼ぶものの重要性は文字情報が象徴するテレビ批判なので、その延長にはテレビ的になっている映画祭のシステム批判もあります。

──作り手と受け手がともにテレビ的なわかりやすさや情報伝達を追求した結果が、国内外を問わず今の社会の有様ではないかと感じます。

それは今の状況に如実にあらわれていますね。そのことを考えはじめたのは米ソ冷戦が終結し、ソ連が崩壊した1991 年頃でした。それまであからさまでなかったテレビが湾岸戦争以降、急速にプロパガンダの役割を映像によって担いはじめた。第二次世界大戦時にはその役割を映画が「メディア映像」として果たしていました。それがテレビに取って代わられ、お払い箱になった。じゃあお払い箱になった映画に何が出来るかと考えたときに、逆にそれを批判する重要な役目を担ったのではないか。ゴダールは凋落した映画を「元二枚目」と形容しました。主要メディア、エンターテインメントとしては落ちぶれたけれども、その映画にしか出来ないことはメディア批判ではないか。現代映画の自己批判性やみずからの機能を暴く「自傷行為」はそのためにある。ただ映像を受け止めているだけの観客からは疎ましがられたり、「難しくてつまらない」と言われたけれど、実はそう言った観客のほうが間違っていたことを本書では主張しています。その点で「戦争反対」を唱える本でもあるし、人々を操るメディアへ抗う本だと受け取ってもらってもいいかもしれません。

──戦争に関しては、小津作品に「懺悔」という視点からも言及されていますね。

小津は完璧な映画が撮れるのに「あれ、おかしいな」と思う人には思わせる、いわば「ひび=亀裂」の入った作り方をしている。それが何故かは、彼が生きているあいだはわからなった。実は気づかない観客はスルーできることが小津映画の残酷な点なんです。でも、今になって思えばわざわざ作品にひびを入れたのは自分が参加した戦争の道具になった映画を、再びそうさせないためだったのではないかと考えて書きました。

──東京・キノコヤで昨年2月に刊行イベントがおこなわれました。会場へ足を運んだ知人から後日届いたメールに「赤坂さんは反戦のキュレーターだ」と記されてあり、たしかにそうだと納得しました(笑)。

「ストローブ=ユイレはカット代わりで整音してないけれど、YouTuberの映像もそうで、そういう映像を見慣れている人にはもうインパクトは無いのではないか」というようなことも訊かれました(笑)。ただ問題はそこではなく、やはり時代の限界点をどう捉えるかであって「YouTuberたちも自分の限界点を見つけなければ、その映像は忘れ去られるものになるよ」と答えました。YouTubeには大量の映像があるわけですから、限界を見出せなければ見る人の記憶に残らない。だから今、映像を作っている人たちのほうが大変な面はあるかもしれないですね。

──映画だけでなく、ウェブに氾濫する多くの動画はテレビを模した作りで、その流れは加速化しています。赤坂さんが繰り返し指摘されるテロップやクレジットの多用による「文字情報化」ですね。映像メディア、ややオーバーにいえばそれに追従する社会全体の文字情報化が進んでいるのを日々実感します。

今はコロナウィルスに感染して死亡した人の数が毎日カウントされています。それが続くと感覚も麻痺しますよね。文字情報になると実感できなくなるけど、個人の死として受け取るならば、その恐ろしさもわかります。そして今、大量に作られている映像の行方も問題です。記憶されずに消費されてゆくなかには貴重な映像もある筈で、そこへアクセスできるかと考えると難しいところがあります。それを批評家なり書き手がアクセスして救い出せる可能性もあるでしょう。でもその批評家なり書き手もみずからのカノンや倫理やパースペクティブを示すことが出来なければ、ただ「傑作」と言っても危険な扇動になってしまう。トランプのツイッターのようなもので、受け手もそれを考えなければただ操られてしまうだけ。作り手の存在も大事だけれど、救うためにも批評が大事な時代になっていると思います。

──コロナ禍で、本書で取り上げられる作家の作品をオンラインで見られる機会が増えました。赤坂さんはそれらを積極的にツイートで紹介しておられましたね。

自宅待機を強いられた各国の多くの作家やプロダクションがYouTubeなどのオンラインで作品を見られるようにしています。この本で扱う作家たちもそういった形で新作を発表していて、ちょうどよいタイミングでした。ただ今回の状況はあまりにも特殊で、いつまでアクセスできるのかはわかりませんが。

──赤坂さんの主張は以前から一貫しています。しかし本書はそうした状況も反映したタイムリーな一冊として読めます。

執筆時点の状況から見て、現在進行形の映像というものを考え直す本を可能な限り短期間で書きおろすチャレンジでしたね。10年前には本を作ろうとは考えていませんでした。というのも活字はネットのように書いたテキストからほかのテキストへ、または映像へ跳ぶことも参照も出来ないので、そこに閉じ込められていることになります。それは不自由だと感じていました。その前に、出版社に結構な数の企画を出したのが全部断られて「もういいいや」という気分になっていたことも少し関係しています(笑)。それから20年ほど海外作品の上映や紹介をやってきて、「じゃあ本を出そうか」と考えたタイミングで五十嵐さんに相談すると、こうして形になったのは非常に幸運でした。

──そして文体も独特ですね。通読してもポイントを読み落として、何か誤読しているのではないかという錯覚に囚われます(笑)。

そう読んでいただけると、書き手としてはむしろうまくいったのかなと感じます。ひとつの映像を描写しながら、もうひとつ、あるいは複数の映像を同時に描写してゆく書き方を最初に構想しました。読んだ方から「ゴダールの映画史みたいだ」という感想をもらいました。それはちょっと恐れ多いですが(笑)、もう少し恐れ多いことを言うなら、ジェイムズ ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は、ひとつの文章ではなく複数のイメージや詩を喚起するように書かれていて、それが一種の読みづらさの原因にもなっている。さすがにそこまでやると映画本として出せないと思い、その高望みはさっさと捨てましたが(笑)。でもひとつのことを書きつつ、さらに複数のことに言及しながら文を構成する大それたプランは最初にありました。

──偶然かもしれませんが、『フィネガンズ・ウェイク』は序章にタイトルが挙がっていますね。少し脱線して、本書を読みながら「この文体は何かに似ている」とずっと考えていて、あるとき「ジェームス・ブラッド・ウルマーの音だ」と気づきました。ほぼ妄想ですが(笑)。遡れば赤坂さんが以前、ウルマーの演奏動画をツイートされていました。

ウルマーはオーネット・コールマンのバンドメンバーでした。ふたりとも好きでよく聴きますが、オーネットの「自分の音楽を構成する要素を対等に、イコールにする」という発言は印象に残っていますね。彼がみずからの音楽をハーモロディクスと呼び、「五線譜の上にひとつ置いた音はあらゆる調性で演奏して構わない」と言ったとき、あるインタビュアーが「それは不協和音じゃないか」と反論した逸話があります。しかしオーネットは聴き手の耳を変えようと要請したのではないか。私はそう受け取りました。「自然」と思われている和音に対する「不自然」を問う重要な思考だと思います。それからむかし好きで読んでいた本に、作曲家/フリージャズ奏者のアンソニー・ブラクストンと批評家のグラハム・ロックの共著『Forces In Motion』(未邦訳)があります。これは音楽史とブラクストンのカルテットの紀行から構成した素晴らしい本です。ジャズだけでなく様々な音楽への考察もあれば、アフロ・アメリカンの歴史の本でもある。その豊かな本の記憶がほんの少し影響しているかもしれません。無いかもしれないけど(笑)。

──様々な読み方を許容する本ですが、フリージャズを聴くようにも読めるでしょうか。そして映像との距離の取り方を考えさせる内容は、どのような形であれ視聴覚メディアが今後拡大するなかで古びないでしょうし、フレームの問題も絶えず問い直されるものだと思います。

映画史的な本には、先ほどお話したとおり映画はすでに没落したもので、その過去を懐かしむための資料として捉えられる側面があります。そうした本は限定的な読者向けと言われてしまいますが、本書はそんなつもりで書いてはいない。今でも見直されるべき重要な映画があると考えないと、文字情報やインフォメーションだけの映像メディアの牢獄のなかで操り人形にされて死ぬしかない。執筆の動機にはその危機感も大きかったですね。今は世界がウィルスのフレームに閉じ込められていて、この状況も絶えず人を閉じ込めようとする力とそこから出ようとする力があることを示しています。その意味でフレームとは映画やテレビの画面、パソコンのモニターなどに限定されないものだと考えています。

 
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