今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW
2014 11

「映画術 その演出はなぜ心をつかむのか」

shiota01著者:塩田明彦

出版社::イースト・ プレス

発行年月:2014年1月

「映画術」という言葉を耳にしたならば、映画好きの誰もが思い浮かべるであろう一冊の書物がある。フランソワ・トリュフォーがアルフレッド・ヒッチコックに行ったインタビューを書籍化した『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』がそれである。「サスペンスの神様」が後進の映画監督に自らの手の内をさらけ出したその内容が画期的なのは言うまでもないが、翻訳者である山田宏一・蓮實重彦の両氏によってタイトルに採用された「映画術」という言葉そのものが大きなインパクトを与えたであろうことは、その後世に出た数々の映画本のタイトルをこの言葉が彩ってきた事実からして想像に難くない。何やら映画を作る上での奥義のような響きを持つ一方、自らの名前がタイトルに冠された『黒沢清の映画術』のまえがきで黒沢清自身が困惑気味に語っているように、本当にそんな「術」が存在するのかどうか疑わしくもあるのだが、とにかくこの言葉に人を惹きつける何かがあるのだけは確かなようだ。そんな「映画術本」の系譜に新たに加わった本書は、その内容が映画学校で行われた連続講義の採録という点からして異色である。著者であり本講義の講師でもある塩田明彦は現役の映画監督であるが、本書はそんな著者が自身の作品や現場体験についてひたすら語り尽くすような類の書物ではない。中心に据えられているのは、著者が偏愛する映画作品の様々な場面を参照しながら、「カメラの前で起こる出来事をいかに魅力的で強いものとするか」を主に監督と俳優との関係から探っていくことなのである。


そんな本書が興味深いのは、観る者の心を動かす「演出」や「演技」の秘密が探究される過程において、同時に著者自身の映画監督としての手の内も明らかにされていく点である。とりわけ、「演出」と「演技」という別々の役割に対して、著者が共通して同じものを求めているという事実には注目すべきであろう。「映画が本当に面白いのは、上辺で語られている物語がある一方で、それとは別の次元で、もうひとつの物語がスタイルとして語られているからです。」「語られている物語に対して複数の次元を作り出していく、それが映画における演出というものです。」「たったひとつのエモーションしか打ち出していない芝居は観ていて飽きるんです。いくつものエモーションが、潜在的にそこに存在してなきゃいけない。」これらの発言の中で挙げられている複数の次元/複数のエモーションは、例えば物語ること/演じることにおける「厚み」とでも言い表すことができるであろう。それでは、そのような「厚み」は一体どのように獲得され、いかに映画を豊かなものにしていくのか?この問いを解き明かすために、著者は「演技と演出が出会う場所」、つまり実際にカメラが廻される撮影現場における演者と作り手の協働関係に着目するのである。例えば、俳優たちとの様々な軋轢が語り草となっているアルフレッド・ヒッチコックが、実は誰よりも俳優たちの存在を意識しているがためにその俳優にしかできない演出を現場で編み出し実践していること。時に無表情を貫く小津安二郎の映画における俳優たちが、あえて「表現する」のではなく「存在する」という演技に徹することによってその「場」の中にエモーションを立ち上げることに深く貢献していること。人物の内面描写に時間を割かないフリッツ・ラングが、それを省略することでかえって複雑に入り組んだ感情を作品全体に浮かび上がらせていること。このように、著者が言うところの「演技と演出が共鳴し合っている状態」を明らかにしていくことによって、本書はまさにタイトル通り「その演出はなぜ心をつかむのか」という問いの核心に迫っていくのである。  



しかし、このような分析の見事さもさることながら、本書が魅力的な書物たり得ているのは講義を行う著者自身の語り口によるところが大きいのではないだろうか。時に映画史を横断しながら、時にトリビアルな話へと脱線しながら進行するその語りは、下手すると生真面目なだけの「学校の授業」に陥りがちな講義に独特の「軽さ」を与えていく。もちろん、そんな「軽さ」が講義の内容を薄っぺらなものにしているなんてことはありえない。それどころか、「演技が音楽になる瞬間」という突飛な観点から「演技におけるリアリズムとは何か?」という厄介な問題を問うたり、ジョン・カサヴェテスと神代辰巳という意表を突いた組み合わせを打ち出してくるなど、本書の終盤における大胆かつ刺激的な展開はこのような「軽さ」ゆえに成立していると言えるだろう。そんな語りの根底にあるのは、映画を論じる過程にあっても、第一にあくまでそれを映像と音による「事件」として捉えようとする著者の姿勢である。それは、映画の全貌を無理やり言語化可能な「意味」として把握しようとすることへの抵抗とも言えるだろう。したがって、本書の冒頭でも述べられているとおり、著者はこの講義を通じて「演出」や「演技」における唯一絶対の正解を導き出そうとは考えていない。むしろここで目指されているのは、「事件」としての映画がもたらす驚きに対して多様な言葉を投げ掛けていくこと、そしてそこから絶えず新たな問いを打ち立て続けていくことだと言えるのではないだろうか。それは、著者が映画監督としてこれまで幾度となく試みてきたことであるだろうし、もしかすると、我々をそのような行為へと誘うことこそが、本書が明かす「映画術」の真髄なのかもしれない。

(坂庄基/神戸映画資料館スタッフ)


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