インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『TOURISM』
宮崎大祐監督インタビュー

『大和(カリフォルニア)』(2016/以下、『大和』)に続く宮崎大祐の長編『TOURISM』(2018)。現在も各地で上映がおこなわれている本作のあらすじを要約すれば、神奈川県大和市に住む女子がくじで旅行券を当てて、その旅先のシンガポールで迷子になるというだけのシンプルなもの。しかしそこへ様々な意匠を盛り込み、ポップなロードムーヴィーを仕立て上げた。日本とシンガポール、映画と動画など、民族やフォーマットの境を超えてゆくつくりからも監督の個性と思想を感じ取れるだろう。大和に程近い厚木での特集を記念して、昨年おこなったインタビューを公開したい。

 

──まず作品のリズムについてお聞かせください。『大和』でも見られたスローモーションを使っていますが、全体的にだいぶ変わった印象を受けました。

シンガポールに到着したあとのコンビニのショットは、スマホのスローシャッター機能で撮影しています。2000年前後にあった、「ウォン・カーウァイ風なことをやるのって恥ずかしい」という自意識を20年近くかけて克服しました。最近はなんとなくやれなかった、そうした映画的手法をMVなどのお仕事で試させてもらい、映画に取り入れています。

──今回は監督が編集も担当しておられます。一定のビートを刻むリズムではないですよね。それはのちほど伺う複数のカメラの使用も影響していると思うのですが。

初めてすべて自分で編集したので、全体的にぼくの生理にダイレクトなスロー・コア調のリズムになっているかと思います。編集をするときは、ターンテーブルでミックスをつくるのに近い感覚でおこないます。まず見て聴いて、心地よいリズムに整える。ロジカルにカットを揃えるのではなく、感覚的にバンバン切って、整合性やバランスはあとで取ります。『大和』は平田竜馬さんが編集してくださったので、少しリズム感が異なりますね。これまでぼくが編集すると、「普通ではない」と言われてきたので、なかなか人に見せる勇気を持てませんでした(笑)。

──音楽に近い感覚で編集するのは宮崎監督らしいですね。

編集のリズムは、その時期に聴いている音楽にもろに左右されますね。映画に限らず、日常生活でもずっと頭の中で音楽が流れています。小学生のときも模試の最中に脳内で槇原敬之が鳴り止まなくなって泣いてしまったことがあります(笑)。いまでは静寂な時間を設けるためには、意識的に止めない限り、ずっと頭の中で音楽が流れ続けています。

──序盤のスー(SUMIRE)のインタビューパートはジャンプカットです。セリフをジャンプでつなぐのはおそらく初めてですね。

ジャンプカットは「これから見るものはあなたたちの常識をザクザクに切断します」という宣言と、作品のリズムを出すためで、編集のBPMを自分の生理に近づけるために用いました。

──監督の作品は脚本で参加したものも含めて、すべて地続きであると以前伺いました。本作にはインスタライブのシーンがあります。インターネットの世界を物語に取り込む発想は、脚本作『ひ・き・こ降臨』(2014/吉川久岳)の延長線上にあるものではないでしょうか。

つながっていますね。ネット社会をどう扱うかは、現代の表現として避けられない。電話が携帯になったことで映画表現が変化したのと同様に、インターネットが生活に浸透して語りも変わったはずなのに、それをあまり反映していない日本映画は反動だと思います。時代を反映してなんぼのハリウッド映画は、その辺りの処理が実に知的でおもしろいですよね。日本でもできないことはないでしょうから、ネットを使った表現をヴァージョンアップできないだろうかとはいつも考えています。InstagramもYouTubeもtinderも含めて。

──『ひ・き・こ降臨』はネットがあることで世界が閉じる物語でした。本作はそれを反転させた、ネットがなくなることで世界が開けるという捉え方はできないでしょうか?

いや、そこは一概には言えません。ネットを使わない=書を捨てよ町へ出よう的な、「ネットを遮断したほうが実は発見が多い」という意見を寄せてくださる方も多いのですが、そういう意図はあまりなくて。ネットの利点も活用しながら町へ出ようよというイメージです。ネットだけが悪なのではなく──悪い面も多々ありますが──体験主義にも善し悪しはある。古臭い二元論はいうまでもなく、決断主義やら多数決信奉でいまの世界は閉塞している。それならば、二つでも三つでも幾つか同時に美点が並立・混在してもいいのではないかと思っています。

──はじめにウォン・カーウァイの名前が挙がりましたが、ニーナ(遠藤新菜)がシンガポールで飲食店の店主とやりとりするあたりは『恋する惑星』(1994)を思い出しますし、ファーストショットの逆光は岩井俊二的ですよね。いまお話しくださった現代性を下地に、80~90年代のミニシアター系作品の要素を──MIX CD的に──ミックスした映画のようにも見えました。ふたりがシンガポールに着いてからの展開も、ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984)に近いといえば近い。

それはありがたいご指摘ですね。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』では後半に辿り着くフロリダだったかな? 「故郷とあんまり変わらないな」というようなセリフがありしたよね。世界が等しく平らになってきてしまっている中、ぼくがいまだぼく足りうる理由は何なのか。様々な国の様々なアート映画が並び立って、世界への窓となっていたあの時代には憧憬もあります。

──最初は部屋の映画だったのがロードムーヴィーに変転するのも似ていると感じますが、多くのロードムーヴィーは何かしら到達するゴールを設けていて、辿り着くと同時に主人公の成長物語が完成します。本作も『ストレンジャー・ザン・パラダイス』も、その部分が希薄ですよね。

ロードムーヴィーの多くはA点からB点に移動します。一般的な説話の多くは不在の中心の周りをグルグル回り終わる。本作のイメージはこれらを混ぜた、不在の中心Aと無限にあるB、C、Dの軽やかな往復です。もはやどちらが中心か周縁かわからなくなるくらいの。『大和』は不在の中心からようやく一歩離れられたところで終わってしまったので、それをもう一段進めたいなと考えました。ぼくは映画に幕が降りる/閉じるのがすごく嫌いで、いつまでもどこまでも続いていてほしいと思うんです。本作にもそういうニュアンスを含ませました。

──そのラストの、『夜が終わる場所』(2011)『大和』を引き継ぐ、主人公が去っていく引きの画は最初から構想されていたのですか?

そうですね。引きで、ふたりが再会して抱き合ってパンアップしていくと街の灯りがある画のイメージは持っていました。でも去っていくのを撮るのは何故でしょう……、チャップリンの影響かもしれないですね(笑)。去る主人公の後ろ姿で終わる映画を撮るのは、「あの人は何か新しい人になって行ってしまった。劇場を出たらぼくも新しい自分に変わらないと」と感じる映画が好きだからかもしれません。

──ラストでニーナはどう変化したのでしょう。

時間が経つと当然人は変わります。1秒後の自分も1秒前の自分も原子レベルでは絶対にいまとは違う。だから学生時代、講師に「主人公の変化が描かれていない」という指摘を受けて、馬鹿らしいなと思ったことを覚えています。だって映画は時間の芸術じゃないですか。この圧縮された90分の間に、彼女の眼にはどれだけのものが映り、耳にはどれだけの音が伝わり、頬にはどれだけの風がそよいだか。だから冒頭と結末とで彼女たちが全く違う存在になっていないわけがない。

──シナリオひとつのセオリーとして、不在のあいだに登場人物が変化しているというものがありますよね。その意味でもスーにも変化が起きている?

まず、ぼくも人が書いた退屈なシナリオを読むと真っ先に「人物の変化がないね」と言ってしまう定型文人間であることをお詫びしつつ……(笑)。それはともかく、時間のメディアである映画の中で人は変化しないわけがないので、人物の変化を少し違う視点から捉えると、時間の堆積というのは無限の偶然の束ですよね。極端な話、スーもニーナとはぐれる前と後では全く違う人間になっているかもしれない。たとえば、あのシーンのスーはSUMIREにそっくりな「SUMIRA」なる人の演ずるスーになっているかもしれない。これは映画の中だけの話ではなく、確定的なことが何ひとつない世界に生きる我々の現実です。つまり、誰かと待ち合わせをして、予定通りその人と会えたということもとんでもない偶然の積み重ねです。
もっとわかりやすく言うと、いまはスマホがあるのでそんなことはなかなかないけれど、一昔前は好きな子の家に電話すると十中八九親が出た。その大いなるハードルを越えて、震える声で約束を取り付けて待ち合わせ場所に行くと、本当にそこに彼女が来ているという圧倒的な凄みや感動。そういった当たり前のようでいて、これってもの凄い奇跡だなと思えるラストをあそこではやりたかったんです。
このドアを開けると違う次元につながってしまう確率もゼロではない。それでも人はその偶然を積み重ね、すり抜けて、また出会う。現代に生きる我々は、そんな奇跡を所与のものとして日々暮らしています。だからもう一度その奇跡を受け止め直せないか。当時ぼくが新しい実在論にハマっていたのもあったでしょう。くらもちふさこさんもずっとそういう奇跡を漫画で描いていますよね。たとえば同じ学校に通っていてオンライン上では仲良しだけど、現実では出会えていない高校生がふたりいる。それがある日突然出会ってしまうというような物語が幾つもあります。本作もご覧になった方が誰かと待ち合わせして、「わ!来た!すごい!」と思っていただけたのなら何よりです(笑)。

──くらもちさんの漫画は『駅から5分』や『asエリス』などでしょうか。物語の構築度がすごいですよね。

そうですね。映画だと、あらゆる境界も人称も審級もブチ切って脱領土化された単体のカットがバラバラに並列する海の中で、一瞬だけ浮かび上がる何らかのつながりも奇跡といえますよね。

──渡邉寿岳さんの16ミリ用のレンズを取りつけたカメラ以外にもiPhoneや小型のカメラを使っておられます。複数のカメラを使う映画が増えていますが、それぞれ狙いやコンセプトが異なります。本作では?

確たるものが何もない=すべてが正しくそして間違っているポスト・トゥルースの時代には、人の数だけ現実や視点があります。最近では個人発信のニュース番組が人気だそうで恐ろしい限りですが、その時代性は本作にも反映させていて、人称がわからないカメラ・アイが複数並列的に存在するようにしました。同じ事件を撮影した別の投稿者による動画がネット上に数多あるように、複数の現実がそれぞれ同時に存在していて、それがグニャグニャとした塊=この映画になっている。それは映画ありきのカメラ・アイという硬直した暴力性に対する抵抗でもありました。

──予告編でも見られる、旅行券が当たったことをニーナがスーとケンジ(柳喬之)に報告するショットは、はじめは主観だと思っていたらそうではないことがわかります。彼女たちの家に住む幽霊の視点とも取れますが、あのカメラの動きは監督、それとも渡邉さんのアイデアですか?

ああいう変な演出はほぼぼくです。あのシーンは初期の黒沢清へのレファレンスとしてやりました。死んでも生きてもいない不気味な何かが、地球上の同質化した悪い場所に取り憑き、うごめいている。それがこの映画を機に回帰してくる。『大和』も本作もそんな映画なのかもしれません。技術的にいうと、もう少し若い頃はショットごとの狙いがあざとすぎて映画自体に奉仕できていませんでしたが、最近は少しずつ映画の自由さを謳歌できるようになりました。

──道に迷ったニーナが現地の女性に案内してもらうシークエンスの、地下鉄で撮ったショットは何か変わった機材を使っていますか?

撮影に向かう途中に100円ショップがあって気晴らしに入ったら、スマホに付けられる安っぽい魚眼レンズみたいなものが売ってたんです。実はスマホ撮影は、自撮り棒に数千円かけるほど凝っていたのですが、100均レンズをカメラマンの渡邉くんに渡すと、しばらく間を置いてから「……わかりました」と装着してくれました(笑)。

──そのレンズで撮られたショットは、左にいるニーナにはピントが合っていますが、右の女性は心霊写真みたいにぼやけています。

現実が崩れていっているんでしょうか(笑)。冗談です。ぼくは整体に行ってうつ伏せに寝たあとに起きると、眼球がなかなか元に戻らず、視界があのようになります(笑)。髙嶺剛監督の映画にもああいう遠近感が狂う画が多くて、逆遠近法的な「普通に見られる不自然さ」というか。左と右でフォーカスの深度が異なっていますね。
[取材に立ち会っていたboid・樋口泰人さん]
ゴダールの3Dと同じことをやってるなと思った(笑)。

──ぼくもそう感じました。右目と左目で違うものを見ているような違和感を覚えますね。

整体に行くと、世界をゴダール3Dな視界で見られるのは映画史的にはついてますね。変な画といえば、ニーナがシンガポールの家族と自撮りしているショット。あれも髙嶺さん風で、撮影中に渡邉くんから「おかし過ぎる。大丈夫か?」と言われました。スマホの液晶がカメラのほうを向いている。つまり、どう写っているかわからない状態で家族と自撮りしているわけですよね。ではカメラは一体何を撮っているのか? そういった極めて不自然な、でもあまり気づかれないショットが劇中に幾つかあります。

──『大和』はサイケデリックな音楽が印象的な作品でしたが、本作は色彩でもそれを表現していますね。ペドロ・コスタとも共に仕事をしているカラリストのゴンサロ・フェレイラとは、どのように作業を進めたのでしょう。

ゴンサロが彩色した幾つかのカットのスチールが送られてきて「どれがイメージに近い?」と訊かれて、その中から選んでいきました。古い褪せたフィルムタッチのものもありましたが、最終的にこのネオ・アジアン風味になりました。というのも、このような色合いの映画を日本映画どころか世界映画でも見たことがない。ぼくは最先端に憧れる、前人未到に挑みたい病なので(笑)。

──『大和』でお話を伺った際にはご自身の創作を「ハイリスク・ハイリターン」と称しておられました。そのスタイルは変わりませんでしたか?

いまや「ハイリスク・ノーリターン」ですね(笑)。リスクだけで何も返ってこない。

──まるで『ストリート・オブ・ノー・リターン』(1989)じゃないですか(笑)。ペドロ・コスタといえば、ダンスシーンの前にスーが『ホース・マネー』(2014)のヴェントゥーラと同じポーズを取ります。

撮影中はペドロ・コスタよりも、ゴダールのパロディと考えていました。被写体がいいとああいう無責任なショットもガンガン撮れるし、入れられる。スチール撮影のようにSUMIREさんに軽く動いてもらって、ぼくはカメラにアイドルオタクのように張り付いてメモを読みながら幾つかのポーズを指示して、よいものを撮りました。撮影しているときは『ホース・マネー』のことはすっかり忘れていて、あとで気づきましたね。

──冒頭にアップで映しだされる、3人の部屋に置いてある釜のようなものは一体何でしょう?

撮影当日、ロケ現場の田中羊一監督邸に行ってみんなで準備していると、床に奇妙な機械が置いてありました。田中家の秘密っぽいから訊いてはいけないという重い空気もありましたが、ぼくは一休さんキャラなので思い切って「あれは何?」と訊いたんです。田中くんは元来非常にロジカルでスノッビーな人です。「UFOは絶対存在しない」といった類の本をわざわざ買って読んでさえいます。その彼が「あれはカーボンを入れて火をつけると発火するコウケントーという光線治療器で──真偽は定かではないですが──、手や体をかざすと万病が治る」と言い出したので言葉を失ってしまいました。病状によって用いるカーボンの種類も異なるそうですが、みんなが凍りついていると追い打ちで、「むかし、お母さんが包丁で指を切ってしまって、すぐにこれを当てたから治ったんです。本当すごいんですよ。よかったら当ててください」と言って、その場が更に妙な空気になりました(笑)。

──Amazonで検索すると、たしかに販売されていますね。結構高額で(笑)。

はい(笑)。冒頭の着火は、ゼロから1が生まれる宇宙のはじまり的なイメージで使いました。

──それからニーナが働く工場では何か化学繊維らしきものを扱っています。あれは?

あそこは軍の防弾チョッキなどを制作する工場で、その作業のあいまに雑巾をつくっているんです。オレンジ色っぽいのが、防弾チョッキに使われる圧力に強い繊維ですね。

──ではあのシーンはシンガポールの慰霊塔のショットにかかっているともいえますね。本作ではケンジ──彼は設定上やむを得ないのですが──が前半、『大和』でもある男性が中盤で消えてしまいます。この「男性の不在」についてお話しいただけますか。

先ほどもお話ししたように、現代までの説話に限らず歴史のほとんどは不在の中心の再来を待ちしのぶ、あるいは自分がその不在の中心になろうとして自壊するものばかりです。『大和』では、ベケットの『ゴドーを待ちながら』をもとにした不在の父=アメリカ、もしくは天皇というイメージを措定し、大和という町=日本にそれを重ねて作劇しました。中心を仰ぐわけもなければそれが再来することも信じられず、己が中心になることが即ファシズムと直結するのであれば、中心から遠く離れ、己が散り散りになるまで己の中の中心性=男性性を入念に解きほぐしながら生きるしかない。男性ゆえのその不可能性を引き受ける生はつらいものになるでしょう。
しかし、幸いなことにぼくにはその痛みと並走してくれる愛する人々や映画なるものがある。だから男性を生きることと男性性を脱構築していくことの引き裂かれに生きよう。この弱い心はときに映画や愛する人々だけでは耐え切れず、故郷を必要とすることもあるかもしれない。それでも常に中心から遠く離れる歩みを止めないようにしよう。いつも己を省みるようにしよう。いつの日か、中心などなくとも人々が幸せに生きられる日が来るまで。それが最近のぼくの実感です。

──男性への態度として、トリュフォーが「夕方五時以降は男に会いたくない」と語った逸話があります。それに近い感覚はありますか?

うーん。かっこいいので使いたいですが(笑)。別に男性嫌悪ではないんですよね。宮崎版は「一日中誰かと会いたい」ってのはどうですか?(笑)

──いいですね(笑)。道案内してくれる女性はブレッソンの『やさしい女』(1969)のTシャツを着ています。スタイリストも兼ねた遠藤新菜さんが用意したものですか?

いえいえ、ぼくがブレッソンオタクとはいえ、あのTシャツは偶然でした。彼女は映画祭のプログラマーなので、シネフィリックなチョイスでしたね。

──すごい偶然ですね。そして不思議なナレーターがいます。あの声の主は誰でしょう?

ちーちゃんという、boidの田中さんのお子さんです。

[同じく取材に立ち会っていたboid・田中有紀さん]
渡邉くんとは以前から友達で、撮影中に宮崎監督に「子供の声を使いたいので一度やってもらえませんか」と頼まれて、軽い気持ちで引き受けました。テキストを読ませてiPhoneで録音したデータを送ると、それがそのまま使われることになって。でもそれはまだboidで『大和』を配給する前だったので、たまたまの偶然です。

──偶然の重なった映画ですね。録音の高田伸也さんがあとで声に手を加えているのでしょうか。

高田さんからは録り直したいという意見もありましたが、ぼくはあの感じがいいと思って「これでいけるなら」とお願いするとOKが出ました。ゴンサロのグレーディングと同様に、あの声もオンラインだけでやり取りしたものです。

──ポスプロの多くの部分はオンラインでおこなわれたんですね。しかし出来上がった映画は、やはりスクリーンで見てほしいと思われますか?

それはみなさんの自由なので、見ていただければパソコンでもスマホでもいいと思います。しかし、スクリーンだと色んなものがはっきりと見えてはっきりと聴こえる。普段の流し見とは違う視点で世界が見える。二度と味わえない一回切りの体験ができるということです。押しつけはしません。でもスクリーンで映画を見て育ってきた人間としては、やっぱり劇場での上映を前提に撮影・仕上げをしています。時代に応じて色々な視聴方法があって当然だし、そこは柔らかくしておきたい。だから「家で見ておもしろければスクリーンで。もっとおもしろいから」というスタンスですね。

──「動画」で構成されたパートもあります。映画の配信も盛んになりつつある現在、動画と映画の差をどうお考えでしょう?

劇場でかかった動画=映画と考えていたこともありましたが、Netflix映画も最近は増えているのでさらに定義が難しくなっていますね。アイロニカルに言えば、監督が「これは映画だ!」って言えば映画なんじゃないでしょうか。もはや映画って「こんなもんは映画じゃない」という主観的否定でしか定義できないですよね。そういう意味では映画が散り散りに、柔らかくなったのはいいことなのかもしれない。本作にもそういう解釈を広げる扇動的な側面があります。これが映画なのかという問いには当然否定的な声もあるでしょうけど、ぼくは常に「かくあるべし」よりも「かくありき」の不安に揺さぶられながら映画と人生に向き合っていきたいですね。

──さらにグラフィティなどのヒップホップカルチャーにも精通している監督にお訊きしたいのは、ストリート──というのは大雑把な総称ですが──と映画館が地続きになっているのかという問題です。

現状そうなっていないので、そこを地続きにしたいとは思っていますが、ここまで社会のタコツボ化が進むとどうなんでしょうか? それこそ先ほど否定した中心化なのかもしれない。ともあれ、ここ10年以上の世界のアートはストリート的なものが牽引しているという事実がまずあり、映画クラスターの文化系の人々はおおむねストリートに興味があり、ストリートの人たちも映画に対してただならぬ憧れを持っているというのは肌身に感じます。だから、たとえ小さな島同士でもそこをどうにか接合して開いていきたいと思うんです。どちらも表現者、あるいは鑑賞者としてアートを志向する点では垣根はさほどないはずです。ぼくは音楽も美術もファッションもアート全般が好きなので、おもしろいもの同士が縦横無尽につながっていく世界を想像してしまいます。映画はそのバイパスの役割を果たせる。かつてヌーヴェルヴァーグの監督たちやジャームッシュ、青山(真治)さん、冨永(昌敬)さんがそうしたように、ミュージシャンや小説家、俳優、デザイナー、哲学者、批評家など、時代を牽引できる人たちをネットワークして、閉塞した社会の中にうねりをつくっていくのも映画の役目だと思います。
ちなみにぼくがアート映画にハマッた2000年前後は、パンフレットに載っている批評や紹介文をたどって、どんどん他の映画やミュージシャンに出会えました。その頃に体系的に知ることができたアーティストはいまも追いかけている人が多いです。劇場で売っているTシャツを見てUNDERCOVERを知ったり、サントラのライナーノーツを読んで、作り手が影響を受けた音楽をさかのぼったりしていました。映画はそういった文化や芸術の集積地だった。だから変な影響をたくさん受けて、こんな人生を歩むようになったんですけどね(笑)。
いまやメジャー映画が単なる消費活動で、不動産投資と変わらないような動きしかしていないのなら、単館系でかかっているアート映画やインディペンデント映画が社会のライナーノーツのような存在になり、有機的につながっていけば、メジャーとはまったく違う映画業界の広がりが出てくると思うんです。日本は人だけはいっぱいいるわけですから。まったく、吐き気がするほどロマンチストだなと自分のことを思いつつ、明日戦争が起きるかもわからず、何も信じられない時代ならば、せめてロマンくらい持ちましょうよ。持てない人にはぼくが直接届けに行ってあげますよ(笑)。

──(笑)。ぼくがむかしパンフレットで執筆者の存在を意識したひとりが、『右側に気をつけろ』(1987)の樋口さんでした。監督のお話を踏まえると、こうして出会えているのもひとつの奇跡かもしれないですね。せっかくですので、最後に樋口さんから本作のみどころをお話しいただけますか。

樋口 最初は戸惑うと思うんです。映画館に映画を見に来たはずなのに「これは一体何なのだろう」と。ドキュメンタリーでもないし、これからものすごいことが起こるようにも思えない。いわゆる芝居が目の前で繰り広げられるわけでもない。そんなふうに始まって、気がつくと──やはり監督が言ったように──出会ってよかったと思ってしまう。その見事に罠にはまる感じも含めて、見たことのないことが起こる映画といえるんじゃないかな。それがすごく新鮮で、ハイリスク・ノーリターンではないけれど、何が戻ってくるかまったくわからないところへ一緒に行きましょうと誘いかける映画でもあると思います。

(2019年7月 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

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