風間志織監督インタビュー
80年代、高校生で8ミリカメラを構えて自主制作映画界に躍り出た風間志織監督。2014年の公開作『チョコリエッタ』は、大島真寿美の原作小説の時代設定を2021年に移して森川葵と菅田将暉を主演に迎え、かつての監督をなぞるようにカメラと映画を通して〈生〉を模索する十代の青春期を描き出した。その設定にあたる今年、2000年以降の長編作『火星のカノン』(2001)と『せかいのおわり』(2004)にデジタルリマスターを施し、各地で3作のリバイバル上映がおこなわれている。9.11と3.11を経た世界で、これらの作品は観客の目にどう写るだろうか。
──監督の映画の特色のひとつは、引きの画を生かした空間設計です。『火星のカノン』の劇場パンフレットに掲載されたインタビューでは「すっごい引きの、人が点みたいに写っているような絵が好き」だと語っておられます。
本当に? そんなことを言ってましたか(笑)。
──覚えておられませんか?
まったく(笑)。でもこの映画や登場人物たちが、宇宙のなかのひとつの星のようであれば、というイメージで言ったんだと思います。若い頃はインタビューで本音からずれた発言をすることも多かったけど、歳を取って、そういう気取りはやめてもいいかなと思えてきました。
──劇中には赤色が随所に配置されていて、特に冒頭の10分でそれを印象づけます。ヒロイン・絹子のダウンジャケット、それからタイトルカットを経て、彼女がマンションへ戻ると、その道の突き当りに工事の赤い点滅灯があります。
あれは美術によるものです。絹子が部屋に入ると、その窓の向こうで点滅する赤い光も照明の大坂章夫さんがつくり込んでくれました。当時は「ちょっとやり過ぎちゃったかな」と話しましたが、これもいいだろうと判断しました。
──不倫と同性愛を題材にしたこの作品は、前作『冬の河童』(1995)のあとからずっと構想を温めていたそうですね。
はじめは小川智子さんとお酒を酌み交わしながら、ぼんやりと話をつくっていきましたが、もう少し固めようと直しを重ねるうちに彼女が疲弊した部分があって、実際に撮るときには及川章太郎さんに来てもらい、ミックスするのがよいのではないかということになりました。及川さんの直しで「軽やかさ」と言うのかな、クスッとした笑いの要素が加わりましたが、それまでは少し重々しい雰囲気でしたね。
──主演のクノ(当時の表記は「久野」)真紀子さんはパンフレットのインタビューで、絹子のキャラクターを「普通の人より足が地面から浮いた、漂っている感じ」と語っておられます。
最初はもうちょっと重かったんです。小川さんはVシネマの脚本も書いていたので、その匂いが脚本に残っていましたね。
──パンフレットにはクノさんだけでなく、公平役の小日向文世さん、聖役の中村麻美さん、真鍋役の渋川清彦(当時の芸名はKEE)さんのインタビューも載っていて、俳優陣が一様に監督からのプレッシャーがあったと述べています。
ええ! ひどいことをしてしまったかも(笑)。
──しかし今回のリバイバル上映にあたり、ふたたび皆さんがコメントを寄せておられます。そこでも小日向さんが、卓球のシーンを20回以上繰り返したと振り返っていますが、撮影の時点でキャリアはすでに十分あり、演技力も評価されていましたね。
小日向さんが出演した、キムタク主演のテレビドラマ『HERO』(2001)は人気がありましたね。撮影は『火星のカノン』のほうが先なんです。公開の頃には、ドラマでブレイクされてたんじゃなかったかな。
──その小日向さんがパンフレットで「監督とは結構ぶつかった」、監督は「小日向さんとは一番やり合った」と語っています(笑)。全体的にテイクを重ねたようですが、卓球のシーンのテイクの多さは何が原因だったんでしょう。
とりあえず、一度も間違えずに球をラリーできるまでやってみようと思いました。たしかテイク21まで撮って達成したけど、映画にはそのふたつ前のテイクを使っています。「出来たじゃん!」と言いながら、うまくいき過ぎてもあまり面白くないことに気づいて(笑)。それで、キープにしていたテイク19にしました。
──絹子と公平の関係が変化するポイントでもあるし、会話しながらの卓球は大変だったでしょうが、クノさんは「球を見なくても出来るようになった」と語っています。
運動神経がいいですからね。「ミスしなくなるまでやってみようか」と言ったら、実際に出来たんですよ。
──あそこは卓球の音もよく響いていますね。録音は鈴木昭彦さんです。
球の音が目立つようにしました。
──ほかにも好きな画が多く、選び出すのに悩みますが、聖が絹子のマンジョンへ引っ越してくる流れの、部屋で煙草を吸っている絹子のカットは佇まいや陽射しがいいですね。
あそこは不思議な間合いがありますね。
──風もいい具合にカーテンを揺らしています。引っ越しのトラックを見下ろす絹子のPOVを挟んで、もう一度彼女の画に戻ると、カメラは同軸で少しだけ寄っています。
「何が起きているのかわからない絹子」というイメージですね。
──そこで説明的な寄りの顔を撮る人も多いでしょうが、それでもミディアム・ショットなのが風間監督らしいです。ところで『火星のカノン』には同じポジションで撮ったカットがふたつしかありません。マンションの廊下を奥から撮った画で、これはなぜでしょう?
それには理由があって、実はマンションをひと部屋しか借りてなかったんです。その条件で、ふたりが隣り合わせに住んでいることを説明しないといけなかった。だから、あの撮り方で位置関係を見せています。
──20年来の謎が解けました(笑)。あのマンションは少し不思議なつくりですよね。
玄関の横に大きな窓があってね。
──珍しいつくりの建物を探したのでしょうか。
ロケハンで、貸してくださるマンションを探すなかで、たまたま助監督(宮田宗吉)が見つけてくれました。世の中にいっぱいある変なつくりの建物が好きなので、「ここがいい!」と決めた覚えがあります。
──それから、絹子が勤め先のプレイガイドの階段を降りていくと、その玄関口に聖がフレームインしてきます。二人乗りした自転車は都心を通って、ビルにたどり着き階段で屋上まで上ってゆく。これも好きなシーンですが、すべてワンカットでつないでいます。この流れについて教えてください。
あれは実際に夕方の新宿の町を自転車で走っていますが、時間が迫っていて、きっちり決めずに「この辺で撮っちゃおうか」というノリでした(笑)。
──そうは見えませんが、たしかに陽が沈みかけていますね。
カメラマンの石井勲さんは不本意だったようで、後日リテイクしたいと希望を出していたけど、「これでいいじゃないか」ということになりました。いま見てもいいよね(笑)。
──ヌーヴェルヴァーグ的でもある、いい画です(笑)。ビルの屋上で向こうに夜景が広がるカットでは、床に灯りがともっています。
あれは床の格子状の網に、針金を差し込んで小さなライトを置きました。隙間からチラチラと光るように。
──ライトの数が多いので、かなり細かい作業だったのでは?
緻密な作業でしたね。灯りより格子のほうが大きいから、置き方によっては光が見えなくなってしまう。その日の風向きも影響したし、大変でした。提案したのは私でしたが(笑)。
──「夜空に浮かんでるみたいだ」という台詞が表すように、宇宙をイメージさせる広がりのある画で絹子が画面の左、聖が右にいます。この並びにするのに迷いませんでしたか?
どう決めたかさえ覚えてなくて、迷うことはなかったですね。石井さんがずっとその並びで撮っていた気がします。
──ここもカメラは引きのままで、ふたりの正面の表情はほぼ写りません。やはり寄りはまったく撮りませんでしたか?
撮らなかったですね。
──寄りたくなったり、おさえで撮っておこうと思う人もいる筈ですが、監督は無闇に寄りを撮りませんね。
要るときは要るし、寄りで見てほしい場面では撮ります。でも、そうじゃないときは「要らないじゃん」と思うんですよね。それから、『火星のカノン』公開の頃はVHSが主流だったソフトがDVDに移りはじめていました。「映画は映画館で見なくていい」、そんな風潮が広まりつつある時代に「映画館で見る映画」を撮ろうという意識がありましたね。「これは映画館で見てね」と積極的に言っていたのも思い出しました。
──こういう引きの画が多い映画は、スクリーンで見ると気持ちがいいですね。
それを意識していたんだと思います。
──そのあと、路地のカットを挟んで長回しに続きます。ここは、ふたりが歩く舗道の下を走る電車の音のズリ上げでつないでいる。先ほど挙げた新宿のシーンもそうだったかもしれませんが、環境音で編集しているのは、おそらくこのシークエンスだけですね。
たしかにそこだけかも……。私はそういうことをやるのが結構好きなんです。
──後半、マンションのベランダのシーンから温泉旅行に移るところは音楽でつないでいます。夜の長回しに話を戻すと、聖を置いて絹子がフレームアウトして去っていく。カメラは絹子を追わず、遠ざかる足音だけでふたりの隔たりを示します。今回見直しても「音だけで十分伝わっている」と思いました。
そう、映画ってそれだけでいい。
──画面にはひとり残された聖が写ります。鈴木さんのマイクは車の通行音などノイズを多めに拾っていて、聖の混乱した心理とシンクロしているように思えます。この夜の暗がりも映画館で見るべき暗さだと思いますが、マンション前で聖と公平がやり合って進んでいく駐車場も、そうとう暗いですね。
今回、『火星のカノン』と『せかいのおわり』をデジタル・リマスターしてはっきりわかったのは、デジタルは暗いシーンが苦手というか、フィルムは「暗い透明感」が出るけど、デジタルだと「暗いものはただ黒」みたいに見えてしまうことですね。デジタルはこのシーンくらいの暗さは得意じゃないんだなと思いました。デジタル撮影用の照明にすればよいのでしょうが。
──それでもふたりの激しい感情が伝わります。ちなみにあの駐車場のシーンもテイクを重ねたのでしょうか。
5、6……、7テイクはやったかな。それくらいは撮りました。
──小日向さんがパンフレットのインタビューで「こんなにフィルムを回して平気なのかって心配した」と語っておられます(笑)。そして監督の作品には切り返しがほとんど無い印象があります。今回の特集の3作のうち、切り返しで撮ったのは『チョコリエッタ』のバス停のシーンだけではないでしょうか。
『火星のカノン』終盤の絹子と聖の家に公平が娘を探しにくるシーンで、サイズは違うけど、切り返しにしています。あまりやらないぶん、切り返すときは明確に「撮ろう」と考えるので覚えていますね(笑)。
──そうでした(笑)。あそこだけ切り返しで撮った理由はなぜでしょう。
ひとつは、女性ふたり対公平の構図を見せるためですね。それに、そういうときに人はいい顔をします。
──そういえばあの切り返しは高低差もありますね。クノさんが「漂っている感じ」と形容しておられた通り、登場人物たちの表情からは、何かしらの曖昧さを感じ取れます。
曖昧な顔になるのは、自分にとっても人に対しても幸せでないことを止められないときや、決断できないときだと思います。
──公開当時は、ラストカットににも一種の曖昧さを残している印象がありました。いま見るとカット尻も、近年の日本映画、特に商業作品にあまりない切り方だと感じます。
「わからない」ということになるのかな。
──当時から結末の解釈には幅があると感じていました。見直してみても、ラストカットのニュアンスを汲み取れているか、正直確信を持てなかったのですが、監督はどう捉えておられますか?
いろんな見方があるでしょうね。この作品でケルンの女性映画祭に行きました。観客にはレズビアンのカップルが多くて、上映後の質疑応答であるカップルが「この映画はふたりが幸せになってない。私たちはレズビアンのカップルが幸せになる映画を見たいんだ」と言ったんです。でも、絹子と聖はすごく幸せかもしれないじゃないですか? 判断は見る人に委ねられているし、私が色々と話しても、そのカップルは納得がいかない様子でした。それからは「見た人が怒るような結末なのかな。そういうつもりはないんだけどな……」とずっと心に引っかかっていました。
最近、十数年ぶりに見直すとかなり忘れていて「面白いな、これ」と楽しんで見ることが出来ました。まるで他人がつくった映画のように(笑)。ラストも「あ、ふたりは幸せだな」と私自身はっきり見えた。演出側の意図としては、ラストの捉え方は観客に委ねているので、どのように捉えられてもよいのです。でも歳を取って改めて観客として見てみると、表情も含めて「幸せじゃん、このふたり」と思えたんですよね。聖が肩にキスすると、絹子はそれに反応してもたれかかる。そのときに笑っているような、泣いているような、でもちゃんと聖の体温を感じている表情を浮かべて映画が終わる。今ならケルンの彼女たちに「表情を見て。幸せだから」と断言できます。
──それを台詞で説明しないのも、この映画のよさですね。続いて中村さんと渋川さんを主演にした『せかいのおわり』が撮られます。
及川くんとのコラボレーションがうまくいったのと、渋川さんが長い芝居をするのは、たしか『火星のカノン』が初めてでした。中村さんも面白かったので、若いふたりで軽く撮れる映画をつくろうと思い立ちました。
──監督の作品では初めてのデジタル撮影です(※劇場公開にあたり、35ミリフィルムに変換された)。
予算のないまま自主映画の体制ではじめたので、ミニDVで撮ることにしました。この映画の制作は、珍しくアクティブに動いてみました。
──それでも画がまったく古くないですね。
石井さんの腕のおかげです。でも小さなカメラ(パナソニックDVX-100)で撮るのは初めてで、いちばん戸惑っていたかもしれない(笑)。
──石井さんと出会ったのはいつ頃でしょう。
高校生のとき、PFFの『イみてーしょん、いんてりア』(1985/第1回PFFスカラシップ作品)の現場のお手伝いに1日だけ来てくれたのが最初の出会いらしいです。
──冒頭、スーツケースを引きずった中村さんが演じるはる子がフレームインするトンネルのカットはキマってますね。どのようなイメージを持っておられましたか?
トンネルの向こうに光があって、はる子はとりあえずそっちへ向かいます。彼女の人生もトンネルのなかにある状態で、光の向こうへたどり着く前に、座って煙草を吸って休んでしまう。しかも何だか泣いているみたいで、そういうところから物語がはじまる象徴的な画ですね。
──やはり曖昧な表情を浮かべています。物語の中心になるのは、渋川さんが演じる慎之介が勤める盆栽店です。特に苔に重点を置いた盆栽店にした理由を教えてください。
当時、「苔盆栽」が話題になりはじめていたんです。慎之介の仕事をどうするか考えていて「盆栽店が面白いかも」と軽いノリで決めました。あとは、人工的な緑のある都会の物語のイメージもありましたね。
──この盆栽店がとても変わったつくりで、長方形の穴と、そこから地下に通じる階段があります。そもそも、どのような建物だったのでしょう。
これは当時、私が住んでいた家の「ご近所映画」なんです。スタッフルームにも家を使っていて、軽いフットワークで撮りたかったから近所でロケハンしました。すると空き家があって、お話しするとなかを見せてくれて、貸していただけることになりました。元々は印刷工場で、地下に続く穴は裁断した紙を捨てるために空けているんです。その穴も面白いなと思って。
──あれは紙を落とすための穴なんですね。最初に劇場で見たときは、空間を把握し切れませんでした。まさか印刷工場だったとは。
そう見えないでしょう? 穴があって、その前に水槽を置いています。それが一階の中心ですね。手前が盆栽店で、奥が生活空間。地下は左右に美術でドアをつくって、慎之介と店長(長塚圭史)の部屋にしました。
──あの水槽は、『火星のカノン』の宇宙のイメージを引き継いでいるようにも思えます。色彩も含めて盆栽店の美術が凝っていますが、監督からの提案は?
いやあ、全然覚えてないですね。たぶん「緑がテーマだよ」と伝えたくらいで、あとはお任せしたんじゃないかな。『火星のカノン』のテーマカラーはオレンジに近い赤でした。
──劇場パンフレットの色ですね。
そうそう。それで『せかいのおわり』は緑だと伝えたと思います。
──俯瞰や、階段からの仰ぎなど様々なポジションからのカメラワークや、演出も空間の魅力を引き出しています。
こちらが面白いと思ってやると面白くなりますね。俳優たちも、セットを見て「これは何ですか?」と楽しんでいました。
──ちなみにパンフレットのインタビューによると、渋川さんは脚本を読んで「慎之介って寅さんじゃないか」と思われたとか。
脚本をつくるときに意識しました。渋川くんはその頃、寅さんが大好きで、『男はつらいよ』シリーズを全部見ていました。『せかいのおわり』は渋川くんと中村さんに「こういう台詞を言ってもらいたい」と当て書きするところからはじまった作品です。及川くんには「今回は寅さんをやろう」と話しました。
──でも台詞回しは渋川さんらしく、渥美清風ではないですね。
そこは変えない「及川流・寅さん」です(笑)。
──盆栽店の車はダイハツ・フェローのピックアップで、当時すでに発売から40年ほど経っていた旧車です。
ああいう車で盆栽屋をやっているのはかっこいいですよね。最初は普通の軽トラックでやる案もあったけど、色々見せてもらうなかで、値段は少しお高いけれど、あの車をお借りすることにしました。人より車のギャラが高かったかもしれない(笑)。
──現在はさらに希少車になっていて、ざっと相場を調べてみてちょっと驚きました(笑)。そのフェローを俯瞰で撮ったカットがあって、荷台にはる子と慎之介がいます。
あのカットではる子が、世界の終わりに大洪水が来る夢を見たと話します。だから、あれは荷台がいかだになっているという意味も込めた画ですね。
──はる子の話には「放射能の汚染水」という言葉も含んでいます。放射能のモチーフは次作『チョコリエッタ』にも見られますが、監督は当時この作品を「テロ映画」と称しました。航空機を撃つイメージショットがあったり、いま見ても9.11以降の時代の空気が色濃く反映されていると感じます。大洪水であったり、不穏なモチーフをラブコメ的な作品に散りばめていますね。
当時の時代の空気というと、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生して、その後のアフガン侵攻、報復が報復を呼ぶ泥沼。私の記憶では、90年代後半から9.11までは──間違っているかもしれないけど──人類史上初めて大きな戦争がない時代だったんじゃないかな。それでも内戦や紛争などの歪みはずっとあったんですよね。大きい戦争がない時代に、その歪みがあのような形で出てしまった。でも、そこで報復しても何も残らない。
そんな時代に『せかいのおわり』を撮りながら個人的に感じていたのは、みんなが傷ついている。この作品のような悪意はなくても、普通に暮らしているだけで傷つけられて、それに復讐しても、どこにもたどり着けなくなってしまう。登場人物たちが復讐するという意味で「テロ映画」と呼びましたが、どうにかしてそういうものを止めるために、キスや落とし穴を織り込みました。キスで暴力を止められたらいいなとか、落とし穴は深いかもしれないけど、そこで連鎖が終わればいいという、ささやかな願いを込めた夢みたいな物語ですね。
──店長はみずからを平和主義者・博愛主義者と呼びます。演じた長塚さんはさらっと言っていますが、実は重みのある台詞ですね。そしてラストは沖縄ロケなんですね。関東近郊だと思っていました。
テーマは人工的な緑だけど、最後は自然の緑で終えないといかんと思い、沖縄になってしまいました(笑)。
──「ご近所映画」が沖縄へ(笑)。そこで、はる子と慎之介を横移動で捉えたカットがあります。きれいな横移動だと思って見ていると、はる子に思わぬ出来事が起こります。あそこはレールを敷いて撮っていますよね?
レールと、中村さんが怪我をしないようにクッションも敷きました。
──今でもすごいと感じるのは、歩いている中村さんが、次に起きる出来事への気配をまったく見せないことです。
そう見えるのは、後ろから慎之介が呼びかけて、はる子を振り向かせているからです。でも現場で中村さんにそれをやってと言うと「えー!怖い!」って(笑)。
──たしかに怖いし、あそこはテイクも重ねられないですね(笑)。そこからふたりの俯瞰に続きますが、同軸で顔に寄っていきます。こういう寄り方は、監督の映画ではあまり見られません。
最後はふたりの寄りで終わりたいと思ってそうしました。
──音楽は岸野雄一さんが担当されていて、エンディング曲はBITOさんによるチャック・ベリーのカヴァーで、これもセンスがいいですね。では駆け足で『チョコエッタ』に話題を移して、原作は独特のリズムを持つ小説です。最初に読んだときの印象から教えてください。
第一印象は「大変だな、知世子」でしたね。
──その時点で映画化は決まっていましたか?
いえ、原作者の大島真寿美さんはかねてから交流があって、刊行されたタイミング(2003/角川書店)で読んだんです。
──『せかいのおわり』を準備されている頃でしょうか。知世子(森川葵)が抱えている葛藤や鬱憤、すなわち「大変さ」は、かつての監督にもありましたか?
ないと言うと嘘になるだろうけど、あるとすれば、正宗(菅田将暉)に近かった気がしますね。彼は怒っていて、映画も撮っている。それから知世子を撮ろうとして「馬鹿!」と言われますよね。知世子の母(市川実和子)も高校時代に8ミリで撮られていて、カメラに向かって「バーカ!」と言うシーンがある。私も同じことを言われた経験があるんです(笑)。そういうこともあって、近いのは正宗ですね。
──正宗の部屋にはブレッソンの『抵抗─死刑囚の手記より』(1956)のポスターが貼ってあります。のちのシーンでは、彼の台詞に「抵抗」という言葉が入っています。
正宗のテーマは「抵抗」なんです。つねに抵抗する人。使うポスターに私はタッチしなかったので、美術部がそれを汲んで貼ってくれたのかもしれない。
──森川さんも菅田さんも、この時期にしかない表情をしています。
そこがこの映画のみどころですね。
──また原作は、フェリーニの『道』(1954)が大きなモチーフになっています。単行本の凝った装丁にはスチルも使っていて、映画に採り入れざるを得ないですよね。とはいえ権利の問題で『道』を引用できないので、もう1本映画をつくるくらいの勢いで『チョコリエッタ』版の『道』を撮って、それが物語に溶け合っています。
そう言ってもらえてよかったです。パチもんではあるけど、見るからにパチもんではだめなので、フェデリコ・フェリーニへの敬愛を込めて頑張りました。これも石井さんのおかげですね。
──公開当時も監督に取材して、正宗が自分の映画のために回しているカメラの映像は菅田さん自身が撮ったと伺った覚えがあります。正宗の手持ちカメラの映像はすべて菅田さんの撮影ですか?
全部ではなかったと思います。ただ、知世子がモノローグのように話しながら歩く姿を撮っているのは菅田くんのカメラです。撮影を進めるなかで、すごく上達していきました。
──それをさらに石井さんがトラックバックで撮っているシーンですね。菅田さんのカメラが一瞬ズームするのも生々しさがあってよいですが、あのシーンのところどころで、ふたりにきれいな光が射します。大坂さんのライティングでしょうか。
あそこはどうだったかな……。正確に覚えてないけど、自然光を狙っているのは確かです。
──この映画はロードムービーでもあり、正宗と知世子がバイクで旅に出ます。その道中で通行禁止の柵を開いて、奥に去っていく画は一点透視図法。次のさびれた商店街のカットも同じ遠近法で、逆アングルから撮っておられます。この構図とつなぎは監督が決めたものですか?
覚えてないけど、そうだったんじゃないかなぁ? カットつなぎは意識してなかったかなぁ? でも、いつも頭のなかで編集しながら撮影はしているなぁ……。
──もうひとつ画に関して伺いたいのは、夜の埠頭のシーン。ここではふたりの顔を正面から撮っていません。
それはやっぱり海の側に行けないからですね。
──旬のふたりが出ているのだから、カメラのほうを向いてもらう演出もあると思いますが、顔が見えているのは横からのカットだけですね。
あそこで正面からの顔は要らない!(笑)
──それに尽きますね(笑)。クライマックス的なシーンを、ほぼ横顔だけで語るのは『火星のカノン』を思い出します。さて、この旅の途中、明らかに東日本大震災、3.11の原発事故以降を連想させる描写があり、そのパートは『せかいのおわり』以上の終末感を帯びているかもしれません。映画は小説の時代設定を変えて2021年の物語にしています。2021年にこの映画がリバイバル上映されることに対して感じていることをお話し願えますか?
『チョコリエッタ』の脚本は、9.11をきっかけに露呈したクソみたいな世界を生きる時代背景に書き換えられました。2013年の撮影から8年経って、あの頃思い描いていたゆるやかなディストピアである2021年は、現在のリアル2021年に重なります。当時より、今のほうがすんなりと受け入れて見てくれているような気がします。
──ファンタジックなタッチも見られますが、ディストピアのリアリティは明らかに今のほうが増しています。ラストカットに関してもお聞かせください。少し省略があるものの、おおむね原作小説に沿っています。ただ、原作では知世子がカメラと三脚を持って海へ行き、手持ちで撮る描写になっています。映画ではカメラは固定のままですね。
ラストカットは固定ですが、このシーンは知世子が撮っている空や海の手持ちの見た目から入っているので、そこは原作とさほど変わらないと思います。
そういえば、このラストシーンについては思い出があります。完成したときに、撮影に使わせてもらった高校で十代の子たちに向けた試写会を開催しました。出演してくれた子もいるしね。そこで大学生の男の子が「どうしてですか?」とラストの展開に触れました。「僕は原作どおりのほうがいいと思う」と。この2時間38分という長い映画では、正宗のカメラ越しの知世子を見ている時間が多い。メインは彼が撮った知代子で、私たちはそれを見るわけですよね。「小説は正宗が撮った映画で終わるけど、この映画はそうでなくていい。だから変えたんだよ」とその子に話したんです。
──これも公開時に伺った逸話ですが、その試写会で「この映画って厨二病の話ですか」とも言われたんですよね。
そう! 大島さんは「厨二病は素晴らしいんだ!」と言ってましたね(笑)。
──大島さんに同意します(笑)。ラストは知世子がカメラ超しに見ている幻影から、石井さんのロングショットに移ります。今回の特集の3本を通して見ると、最初にお伝えしたように『火星のカノン』は人を点のように、そして『チョコリエッタ』のラストの知世子もそう撮られていて、円環を成しています。
ほんとだ。『せかいのおわり』のラストはほぼアップだけど、そう考えると面白いですね。
──俳優陣が重なっていたり、9.11から3.11というカノン(追走)的な見方も出来るのではないでしょうか。そして『せかいのおわり』公開時よりも ソフトや配信での鑑賞が主流になった現在、この機会に「映画館で見る映画」を満喫してもらえればと思います。
(2021年9月28日)
取材・文/吉野大地