ラジオ関西「シネマキネマ」インタビューWEBSPECIAL / CinemaKinema


『VIDEOPHOBIA』 宮崎大祐監督インタビュー

 

宮崎大祐が大阪で全編を撮り上げた白黒映画『VIDEOPHOBIA』が各地で公開中だ。ヒロイン・愛のスキャンダラスな動画がネットで拡散され、不気味に続く増殖は彼女の日常を侵食する。愛はサイバースペースの夢魔からの逃亡を試みるが、その先に開かれる世界は──。迷宮に陥った愛の顔を執拗に追うカメラは、大阪の街や風景も不穏な「貌」として写し出す。オリジナルと複製、自己同一性、仮構世界という過去作の主題をふたたび掘り起こしながら、映画の本質でもある「虚と実」にも迫る本作の深層を監督と共に探り当ててみたい。なお劇中の重要なアイテムは、神戸映画資料館の貴重な所蔵品である。

 

──大阪をモノクロームで撮ろうとした理由から教えてください。

しばらく色鮮やかな作品を撮ってきたので、いったん色を抑えた作品を撮りたいなと思っていた矢先に色彩豊かな大阪の街を舞台にして映画を撮ることになり、白黒で撮ったらどうだろうかと発想しはじめました。そして制作上の問題がありました。美術をつくり込めないし、照明をしっかり当てる予算も時間もない。そんななかで大阪の白壁やグレーの街路、暗い水路を活かすにはどうしたらよいかと考えた結果です。

──本作はキタやミナミという大阪の中心地から外れた生野や鶴橋で撮られています。そのような白黒映画に『(秘)色情めす市場』(1974/田中登)や『追悼のざわめき』(1988/松井良彦)などがあります。しかし本作が写す大阪は、それらと異なる質感を持っていますね。

大阪には映画にしても音楽──ロックであれノイズであれ──にしても独特なものに変容させる文化があって、それは東京っぽいというよりもアジア的な感性ともいえるかもしれません。ファッションにも「大阪らしさ」がありますよね。これまで『大和(カリフォルニア)』(2015/以下『大和』)や『TOURISM』(2017)で、神奈川やシンガポールの均質化した風景を撮ってきましたが、今回はニューヨークやパリのカルチャーに匹敵する独自性を持つ大阪のアンダーグラウンドカルチャーを、西洋人が独占する世界文化史に接合させて、植民地消費とは異なる、同じ地平で受容してもらう方法を模索しました。だから「大阪」を世界が再発見する契機になってほしいし、大阪を知っている方でも「あれ、これって大阪なんだ?」というふうに見てもらえるかもしれないですね。

──2018年の夏、本作の撮影現場におじゃましました。酷暑のなかの撮影でしたが、画面からは驚くほどあの暑さが抜けていて、都市でいえばブリストルのような冷たさを醸し出しています。

そうですね。何か大きな出来事が終わってしまったあとの煤けた空気というか。夜は人気もなく静かで、でもそれまで人が通っていった歴史や何かに取り憑かれている雰囲気を大阪の街には感じます。マーク・フィッシャーが援用したジャック・デリダの憑在論のようなイメージ。中心からは見えなくなってしまったけれど、そこから消えられない者たち、ことたちの蠢きのようなイメージがあって、それを「すくいだす」作業だったのかもしれないですね。河や堀などの水回りや、大都市とされる大阪とは違うところばかり撮ったのは、そういう声に耳を傾けようとしていたといえるかもしれません。

──プロットからシナリオへ、どのように発展していったのでしょう。

最初のモチーフに「リベンジポルノ」がありました。さらにそれを自分の映画として、いかにおもしろく仕上げられるか考えて、観客との関係性をつくる現代美術のような形をイメージしました。インタラクティブではないですが、画面を見ている観客たちが、事件の被害者と加害者に心理を重ねられるような。「カメラの暴力性」は過去作でも扱ってきた問題ですが、今回はそれを究極まで突き詰めたいとも思いましたね。物語をこねていくうちに多層化するのは『大和』も同様で、あの作品も当初はフリースタイルに没頭する少年ラッパーに関するシンプルな話でした。着想の段階ではわかりやすいところから始めて、それをその時々の自分の思想や時代感覚でどう崩すか。そのようなつくり方はすべての作品で共通しています。

──そうしてモチーフが広がり、「見る/見られる」ことがメインテーマになっています。

覗くことも含めて、「見る」という行為は他者に影響を与える可能性、ひいては暴力性を持ち得ます。宇宙は誰かが見たことから始まったという物理学の説もあるほど「まなざす」ことは世界の根源にある事象です。それを映画表現で描きつつ、過度に実験的な手法に走らずにいかに物語化させるか? その部分はかなり意識しました。

──「現代美術」「覗く」という言葉から思い出すのはマルセル・デュシャンのオブジェ、通称『遺作』です。これは壁に空けた穴から奥にある作品を覗き見るつくりで、その作品に顔がない点も本作に通じるかもしれません。

つくるときに『遺作』のことを考えたことがありませんでしたが、たしかにやりたいことは似ている気がします。あのオブジェも裸体は見えているけど顔は見えず、のちの「露出過剰な時代」を予見していたように思える。現代美術でいうとウォーホルもそうで、なんてことのない複製品──レーニンの肖像写真──が最後の作品のもとになっていて、大量消費時代におけるアイデンティティや自己代替性の問題を本作と同様に取り扱っているように見える。そのような現代美術的な発想の転換やレディメイド的な視座は『TOURISM』以降、より意識していますね。iPhoneで撮った動画でも、ものによっては立派な映画になる。そうした「開き直り」というのか、アイロニカルな権威づけはなんら具体的なものではないと知りつつ、デュシャンなどを参考にして考え続けている問題系です。

──『TOURISM』には監督不在で撮られたシーンもありましたね。そういう作家と作品の関係からもデュシャンを思い起こしました。

今回の公開にあわせて全国各地で特集上映も組んでもらいました。すると、「やはり全作品に宮崎印が入っているね」という方が多くいる一方で、「まとめて見ると同じ監督の作品とは思えない」と感じた方も結構いらっしゃいました。つまり、単一の作品だけを見て「これは宮崎大祐の映画だ」と認識できない方が結構いた。それは新たな作品を撮るたびに、逆説的に作家の名前が透明化しているということでもあると思います。それでも芸術作品や映画がその存在意義を作家の名前に依存している奇妙な循環関係はおもしろいし、現代的だと思います。いい加減な動画を撮って「これは映画だ」と謳うのも一種の戦略でしょう。ただ、映画だと宣言するからには本気で「これは映画だ」と思っているし、繰り返しますが、そこには物体化および数値化されない何かがあると考えています。

──続けて、主演の廣田朋菜さんのキャスティングの経緯を教えてください。

地元の大和市で田中羊一監督が撮った短編『ライセンス』(2018)の現場を手伝いに行ったんです。その主演が廣田さんでした。ぼくはもともと能面のような何も語らない、ある反射としての顔の在り方がすごく好きで、特に当時はそのことをよく考えて「顔の映画を撮りたい」と思っていました。そこで廣田さんの顔がとてもおもしろく見えたんです。撮影の帰りも一緒で、そこでも「どうすればさらにおもしろくこの顔を撮れるか」と観察していましたね。打診すると「是非」と乗ってくれました。
この映画にセリフはあるけど、ほとんど無声映画といってもいい。「精神的自動装置は、見者の心的状況の中にあり、この見者は反応することができないので、つまり思考することができないので、なおさらよく見、遠くまで見るのだ。」とはジル・ドゥルーズの言葉ですが、リアクションだけでも廣田さんなら持つだろうという目論見での抜擢でした。とはいえ、ひとりの女性が何かを見ているだけではやっぱり難しい。『MARIA! MARIA!』(2007)というヒロインが話さない過去作では、60分の手前で息切れした感がありました。今回はロケ地もおもしろいし、その頃より映画づくりも多少はわかってきたので、廣田さんを信じてやればどうにかいけるんじゃないかというポジティブな賭けでした。後半に登場する芦那すみれさんは、実際に廣田さんとシェアハウスで暮らしていて、お互いの癖もよくわかっている。こちらも現場までお会いする時間がないという賭けでしたが、そういった運にも恵まれて制作が進みました。

──2010年代の日本映画の傾向のひとつに「顔の映画」があり、監督はその流れから距離を取っておられた印象があります。それゆえに本作が「顔の映画」になっているのには、少なからず驚かされました。

『大和』でも顔を撮っていたとは思いますが、撮影前に「顔を撮るぞ」とあらかじめ宣言したのは本作が初めてだったかもしれません。カメラマンの渡邉寿岳くんに「何を撮りますか?」と訊かれて、「極端にいうとそのシーンで何が起きているかわからなくても、顔を撮り続ければ映画になる筈だ」と伝えました。サフディ兄弟の寄りと引きだけの映画からの影響もあったし、やっぱり顔が好きなんでしょうね。ミュージックビデオでも「顔以外は撮らなくていいんじゃないか」と思ったりする。顔で持たないと、その俳優と仕事をするのは難しい気がします。

──アングルは別として、顔への寄りのアプローチは、ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』(1928)に近いかと思います。しかし、『ジャンヌ』のヒロインが涙を流すのに対して、本作では鼻血が出ますね。

(笑)。予告編にも使ったあのショットはすごく好きですね。なんてことのない、ただ顔をふと上げて鼻血が出るだけのショットです。でも自分もあの怒涛の世界に飲み込まれる気がするし、ああいったショットが撮れない限り、次のシーンには行かない過酷な撮影を繰り返していました。編集も大変でしたね。全体的におかしい映画ですが、特にあそこは気になるレベルでおかしい(笑)。最初の編集をばらして、不自然なつなぎでもいいので、あの顔を活かすための編集をやり直しました。

──あのショットも含めて、廣田さんに具体的な顔の演出はされたのでしょうか。観客が視線を注ぎ続けるという意味で、廣田さんの顔がスクリーンになっているようにも思えます。

当然ながら視線や何に集中するかは指示しますが、ぼくの映画に出てくれる俳優はみんな不思議な顔になります。なぜかはわからないけど、ぼくが撮るインスタグラムもそうです。われわれは着ぐるみの表情にさえ喜怒哀楽を読み取ります。歌舞伎や能もそうですよね。そこから考えると、顔には無限の情報がある。「スクリーン」とは言い得て妙で、たしかにそのように機能しています。ちなみに愛の部屋にもスクリーンがあり、後半の事務所のシーンにもあえてホワイトボードを設置している。撮影時に「スクリーン」という言い方はしなかったけれど、観客の視線を折り返す鏡のような存在として、廣田さんの顔があるイメージを持っていました。

──鏡といえば、愛が鶴橋を疾走するシーンでは画面が反転してミラーになります。

あそこは必死に前傾姿勢で走ってほしかった。でも廣田さんは背中を伸ばしてアスリート的に綺麗に走るんです(笑)。編集段階で「反転させてみたら?」と思い付きで提案すると、つげ義春の世界みたいな画になって、ぴったり自分のリズムと合いました(笑)。

──『TOURISM』でもスマホの自撮りが反転しているショットがありましたね。メインヴィジュアルに使っている愛が二階の部屋の窓辺で煙草を吸うシーンでは、視線の先もおかしなことになっている(笑)。その見下ろすショットと、中盤の愛を俯瞰で捉えたショットは対のようです。

切り返しになっていますね(笑)。

──遠隔の切り返しだとすれば、あそこも鏡ですよね。俯瞰で撮られた愛が立っているのは厳密には三差路ですが、十字架に見えます。

そうです。あそこは十字型の路地、地面に描かれた十字を探して撮りました。

──『大和』ではサクラが十字架のネックレスを付けていました。

『大和』には十字路の空(から)の画もあり、『TOURISM』のラストショットも十字路でしたね。フリッツ・ラングからクリントイーストウッドに至る、十字架が写ると不吉な、もしくは決定的なことが起こるアメリカ映画の系譜をしつこく辿りました(笑)。

──『大和』は十字と円形のものが写ると何かが起こりますね。それから本作は基本的に寄りと引きの画で構成しています。物語自体も祭りのシーンが象徴する躁と、対照的な鬱のシーンから成っていて、全体が二極化しています。真ん中がありません。

祭りのシーンに関しては格差が開いて、国としてはどんどん貧しくなっているのに、なんだか妙にアッパーなムードがある現代日本の雰囲気を写したくて撮りました。ネットの炎上もそうだし、映画に対する内容や物語ではなく、みんなが見ている、つまり「お祭りが起きているからそこに加わろう」という雰囲気もどうも気持ちが悪い。その空気をある種のホラーとして、歴史的に記録しておく必要があると考えました。ちょうどワールドカップの開催時期でもあったし、街では夏祭りがおこなわれている。でもその裏では本作が描くような陰惨な事態が存在します。それはまさにいまの日本なんじゃないかと思いました。エンディングテーマやクラブシーンもアッパーですが、そのほかは基本的にダウナーで、乖離していて中間がない。まさに現代的なポスト・モダンの構造で、それに応じて映画全体をなるべく寄りと引きだけで構成しようとしました。クローズアップとロングショット、躁のシーンと鬱のシーンしかない。その組み合わせで映画のグルーヴをつくろうと試みました。

──「グルーヴ」に関してもう少しお話しいただけますか?

昔から、少し遅れてきて腰に効く反復リズムが好きですね。ハードコア・パンク的な性急なビートより、ファンク系の一拍ズレてくるような、アフリカン・アメリカのダンス・ミュージックが好きで、身体に染み付いたその心地よさを映画でどう表現するか? ここ最近の作品では毎回それを考えています。

──音の話題を続けると、音楽を担当されたDJ BAKUさんには、どのような提案をされたのでしょう。

劇中にグリフィスの映画が映ります。そのおよそ100年前の文化に対して我々が何をやれるだろうかと考えたときに、ぼくはつねに映画という媒体の未開発で危険な部分を掘り出したい。その可能性の多くが音声や音楽、つまり音にあることは間違いありません。そこで、自分のなかで鳴っていたアングラ・ダブステップを出発点に相談しました。ダブステップはベース・ミュージックなどという名称に変わり、一躍ポップになってしまいましたが、そうではない、地下に潜ったダブステップというか。もっとアングラで蠢いている質感の音、たとえばロンドンのレーベル・ハイパーダブや、東京だとGOTH-TRADのパーティー「BACK TO CHILL」で鳴っているような音。そういうイメージでBAKUさんに相談しました。それも躁と鬱の二極化と同じで、古典風映画と現代の音楽という二層構造ですね。

──強調された低音は、おそらくBAKUさんが初期から使っておられるヤオヤ(ローランドTR-808)によるものでしょうか。その音の当て方については?

「このショットにはこういう音が欲しい」とリクエストしました。といっても、ロジカルな音の当て方ではまったくないです。「論理的にここにはこの音が来るべきだ」という当て方じゃなく、これまでの作品と同様に直感的な配置になっています。稀に周りの人の意見を採り入れることもありますが、特に今回は欲しい音をつけてもらいました。Burialというミュージシャンがいて、彼の音楽のようなリズムが撮影中も編集中もずっと頭のなかで流れていました。それに沿って、フィルターの挿入やベースのドロップをイメージしてお願いしました。

──マーク・フィッシャーもBurialのリスナーで、批評も書いていましたね。さて、監督の映画はかならず過去作を踏まえたつくりになっています。本作もそうですが、もちろん変化した部分もある。その両面に関して伺えればと思います。まず本作はかなり早い段階で物語がシュールになる。これまでにない語りです。

『夜が終わる場所』(2011)『大和』『TOURISM』では、その要素は後半にかけて強くなりますが、本作では前半からフルスロットルですね(笑)。主人公が不条理や何が起きているかわからない状況をただ見ている、もしくは立ち会わされる連続のなかで映画を立ち上げてゆくのが課題でした。以前から細かく物語を転がすよりも、串刺し状につながった出来事やシーンが飛躍していく作劇──ぼくの思う現代映画的な作劇──を追求していて、それを最も徹底したのがこの作品です。映画はやはり物語を追うよりも、出来事や時間=運動を追うもののほうがおもしろい。ぼくは最近ミックステープやミックスCDなどのDJミックスをやる感覚で映画をつくっています。脚本のいわゆる構造に沿っていなくても、話がよくわからなくても観客がノッていると仮定すれば「この選曲でここまで盛り上がってきたのなら、次はこの曲でも付いてきてくれるだろう」という音楽的発想にもとづいて展開を考えます。
クラブのフロアで踊っていても、ノレないDJだと全然ダメで、ちょっと盛り上がっては急に途切れたり「ここでこんなベタな曲がかかるのかよ」とがっかりしますよね。でもノレるとジャンル違いの曲が流れても、DJがつなぎ損ねても踊り続けられるし、「こんな大ネタでも踊れるんだ」という驚きや発見があります。だからうまいDJの手にかかれば、気づいたら狂乱の渦に巻き込まれていることも多い。それは映画にも共通することですね。好きな音楽は重いロックやヒップホップだけど、映画の構造に関しては、一方でとても好きなハウスやテクノが影響しているかもしれません。ヒップホップで踊るのはなかなか高度ですからね。

──ハウスやテクノはキックの強い音楽ですよね。もし映画でキックにあたるものがあるとすれば何でしょうか。

ショットのなかの時間の流れやスピード感でしょうか。しゃべりのテンポや俳優の動き、カメラのパンニングの速度などを総合したものがそれにあたると思います。カットの切れ目は分かりやすいブレイクであり、拍子ですよね。現場でも自分はキック、つまりバスドラを刻んで時間を司りながら演出しているイメージがあります。

──そして全編を貫く違和感も過去作にないものです。

『大和』は音楽映画で、実在する街が舞台になっています。後半にやや抽象的な展開があるものの、ぼくの育ってきた環境を撮っているのでアウトラインはわかりやすい。『TOURISM』は物語がないといえばない。でも傍観者の立場で、自分も旅に参加している気分で見られたと思います。それに続く本作は徹底的に観客を挑発する映画です。リューベン・オストルンドの『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017)や昨今の様々な現代美術のように、権力によって世界に敷かれた境界線を踏みにじりながら、スクリーンさえ超えて、見る人を「お前はどうする?」と煽るような映画になりました。過去作と同じようなハッピーな気分で見ることは出来ないかもしれない。でも、そうでなければもはや映画芸術は存在意義が薄れてきていると思うし、作品を重ねるごとに「映画はどこまでが映画なのだろう」「YouTube動画と何が違うのだろう」「それでもまだ存在する理由はどこにあるのだろう」と考え抜いた上でつくっています。この作品は「これが映画でもいいんですか?」という問いかけでもあり──映画じゃないと言われればそれまでですが──これでも映画でしょうという自分なりの返答です。勝手ながら、見てくださる方も自動的に加担しないといけない映画にしたので、毎シーンがぼくとのQ&A合戦のつもりで見ていただけると幸いです。

──では一貫性について。『大和』でサクラが歌うリリックに「コピー元のない本物になれる」というフレーズがあります。本作ではそれを反転させた「本物(実体)を失ったコピー(虚像)」が問われます。複数の名前を持つ愛のアイデンティティもその問いに関わり、それらは『大和』の主題の発展形、もしくは語り直しと捉えられないでしょうか。

東京・キノコヤで『大和』を上映した際に話しましたが、あれはシナリオでは「コピー元のないコピー」になっていました。しかし現場でサクラを演じた韓英恵さんから「この場面でこの言葉を発するのは少し違和感がある」という意見がありました。ぼくのたどり着いた概念としては「コピー元のないコピー」と歌ってほしかったのですが、実際にその状態を受け入れて幸せに生きている人がどれだけいるのかと考えると、実感レベルでなかなか難しい。やはり有りもしないオリジナルである可能性をどこかに求めて、その可能性を信じる己を騙し続けるからこそ人は生きていける。このサクラもそうではないか。そのコピー性に生きるしかないのではないか。そう考えて『大和』ではあのリリックを良しとしました。ただ、シナリオ上では元々「コピー元のないコピー」でした。
やはり本作でも同じ問いを繰り返していて、「所詮はコピーである」とわかった人生を「点」としてある一瞬過ごすのは簡単でも、「線」として死ぬまで持続するのは途轍もない苦痛を伴います。『大和』の廃バスのシーンでサクラが「私が死んでも誰も気づかないんじゃないか」と言うように、現代は他者と常に代替可能な存在であることを強いられる。アルバイトに喩えると、自分が抜けたらシフトが機能しなくなると思って必死で働き、過労死寸前で耐えられなくなって辞めると、次の日には自分に似た男が淡々とシフトを遵守しているという世界です。要するに、自分の替えなんてどこにでもいるという認識を現代人の誰もがいつの間にか植えつけられている。
でもそれは数値やパラメーター上の話で、実際に生きている人間や動物は誰もがそうではないと直感的に知っている筈です。誰しもがそれぞれに唯一無二であるということは生きていれば当たり前のように実感する筈なのに、効率性と利潤のみを追求して膨張する後期資本主義のシステムは、まったくそんなことはないと人間の部品化を強いてくる。そんな資本主義による実存的不安に追われている現代人が、そこからどう抜け出せるのか。抜け出せないならば、どうその焦燥を和らげられるのか、ぼくはずっとそれを自分の映画のテーマにしています。先日、Twitterに観客の方が寄せてくれた「『大和』のサクラとレイ(遠藤新菜)というふたりのキャラが愛というひとりの女性の内面に閉じ込められたのが『VIDEOPHOBIA』じゃないか」という感想はその通りで、本作は「コピー元のないコピー」であることを耐え忍ぶことにフォーカスした88分ともいえるでしょう。死ぬことも生きることも出来なくても、それでも人生は続いてしまう。どこまでいっても存在しない自分を引き受けてどう生きていくか。それを描いたつもりです。

──デジタルの進化で、様々な局面で人間がただのIDやデータに還元される現代を写した映画であるとも感じます。

最近、知人から「君は本当のところ何をやりたいの?」とよく訊かれます。それは「お前は何者だ?」という問いにも近く、世界を単純化しようとする力を感じます。ぼくには心の底からこれをやりたいとか、これが自分だと思えるものが無いんです。真面目にそう答えて「ニヒルで面倒くさい奴だ」とネガティブな印象を与えたくはないですが、本当に無いものは無い。でも、何かをつくり上げたあとで「あ、ぼくが本当にやりたかったのはこれだったんだ」と事後的に思うことはままあります。例外的に『大和』は「これを撮りたい」という思いで取り組んだ作品ですが、「絶対にこの物語で」と決めていたわけではないし、『TOURISM』も『VIDEOPHOBIA』も最初から「どうしてもこのようにしたい」という願望はなかった。でも完成したものを見ると明らかに自分のやりたいものになっていて、あやふやな願望ではじまった営みが様々な幸運を経て、こうして形になって本当によかったと実感することを繰り返しています。
本質的には捉えようがない現実を前にして何かを試み、事後的に自己を彫り上げていくのは、「コピー元のないコピー」として生きることを受け入れ耐えながら、いつかその歩みが独自の光を帯びるのを待つことに似ているかもしれません。まずは無心で身を捧げること、あとになってその意味を考えてみること。それがいま、ぼくが生き続ける上での倫理なのかなと考えています。身の回りの些細なことや生活を羅列してゆくと、それは必竟社会や何かしらの哲学的問題系に突き当たります。しかし「ポスト・トゥルース」が喧伝される時代に「これが答えです」という傲慢な結論を持ってきて、その世界を閉じてしまうリスクや愚かさには敏感でありたい。諸問題を並列して、そこから観客が新たな問題や発見を引き出したり、それぞれの「答えらしき答え」を見出してもらう創作にこそ価値を感じます。

──本作での愛のコピー、つまり盗撮(と思しき)映像は固定であるはずが手持ちの、いわば幽霊の視点で撮られています。この視点は『大和』のファーストショットや『TOURISM』序盤の室内シーンでも見られました。客観といえば客観ショットですが、それでは収まりが悪く、文章でいう自由間接話法ではないかと思っているのですが。

自由間接話法はかなり意識しています。『大和』のファーストショットは土地に住み取り憑いたおばけ的な何か──それこそ黒沢清さんや高橋洋さん的な──のイメージで撮りました。そこから自分なりに考えるようになって撮ったのが『TOURISM』で、その後、横田創さん(2019年の短編『ざわめき』では脚本を執筆)と人称や自由間接話法の話をしたことが本作のカメラアイにつながってゆきました。

──さらに本作ではイプセンの『幽霊』も引用しています。監督は「ジャンル映画における幽霊」とは異なる思考でそれを捉えていると思われます。いかがでしょう。

「幽霊」は英語では「ghost」ですが、それより「devil」に近いもの、形を持って人を呪い殺すおばけ的な存在を想像されがちです。でも、ぼくはより物理的なレベルで考えてみたい。最近の哲学の流行でもあるように、人間の知りえる領域は世界のごく一部でしかない。災害や疫病もそうで、人間の基準では世界のあらかたが解明されていると思い込みがちだけど、実際は知っていることのほうが圧倒的に少ないですよね。ぼくは知らないゾーンのほうへ意識や興味が向かっていて、その領域を「幽霊」と呼びたい。
たとえば何かが現れて、自分の把握できる次元で周りの人間に怖い思いをさせるというのは、その未知の何かの一義的な受け取り方で、そうではない理由でその何かが存在しているかもしれない。UFO=宇宙人の乗り物であるとか幽霊=人間に取り憑く魂という通説とは異なる次元で、我々の認識や目の届かないレベルで世界が存在していて、そういうものたちからこの世界がどう見えているのか、そういうものたちの時間はどう流れているのか、そして我々の認識の外にいる/ある彼らを映画でどう捉えられるか、『TOURISM』以降考えています。その思考は本作にも何らかの形で反映された気がします。

──いまのお話を受けてお聞きしたいのが、本作の「不確かさ」です。愛らしき女性の動画が拡散される設定ですが、本人であることを同定できず、またその動画を彼女以外の誰かが見る説明の画がない。終盤の展開にも、それまでとのつながりを確実に保証するものはありません。

映画は、見る者が勝手に物語やつながりを想像して画面を追ってゆきます。ただ、そのカットに実際に写っているものも、次のカットとのあいだに時間的なつながりがあるかといえば、すべて「わかりやすく不確か」ですよね。ほとんどのものが作者の都合で編集して、あとから音を付けて加工されている。一見、現実の生々しい時間を切り取り、それが連続する時間の束となって見えているものも、実際はすべて構築された仮構世界です。世の中の不確かさをわかりやすくしたものが映画ともいえる。扉を開けるとどんな現実が広がるかわからないと言っても過言でないほど、世の中が不確かであることが明らかになり始めている。それでも我々は、すべてを当たり前のように都合よく解釈して日々生きています。それは勝手にストーリーラインを組み立てる観客の意識と同じです。本作ではその面を推し進めました。
当然、見てくださる方は終盤とそれまでが持続していると捉えるでしょう。もちろん作者としても、そのつもりでつくっています。でも一歩踏み留まって考えてみると、同じ制作会社のまったく違う白黒映画が間違いで後半にくっついていたり、狂人が映画館をジャックして自分の映画を途中から上映しはじめた可能性だってなくはないわけです。そうした、すべてがズタズタになった何も信じられない世界の恐ろしさを、この映画で見せたいですね。そしてカットや行間に潜む、我々が普段は見過ごす、そうした不確かさや希望を見せるのがぼくの考える映画であり芸術です。

取材・文/吉野大地

 
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