ラジオ関西「シネマキネマ」インタビューWEBSPECIAL / CinemaKinema

『大和(カリフォルニア)』 宮崎大祐監督ロングインタビュー

©DEEP END PICTURES INC.

 

昨年の第12回大阪アジアン映画祭で上映された宮崎大祐の長編第2作『大和(カリフォルニア)』が遂に劇場公開される。舞台は監督が育った神奈川県大和市。米軍厚木基地がある町でラッパーを目指す女性をヒロインに据えた音楽劇は従来のラップ映画と異なる志向を持ち、家族劇や社会ドラマとも呼べる多層的な広がりを見せる。「言葉についての映画」でもある本作の基底となる思想も含めて、映画祭会期中に監督にお話を伺った。(※インタビューは2017年3月におこなったもので、当時の記録として時制をそのまま残しています)

 

──構想を立てられた時点で既にこのタイトルでしたか?

いや、最初は『BANG!』でした。シカゴのラッパーのチーフ・キーフのアルバル名で、短いし覚えやすいのでいいなと思いましたが、これだけではどんな映画かわからないので、もっといいタイトルはないかと考えるなかで『大和(カリフォルニア)』を思い付きました。

──カリフォルニアを括る丸括弧には視覚的効果もあります。

本作は僕が育った神奈川県大和市の話です。大和は米軍基地が大部分を占めている町。あるのは厚木基地と呼ばれる基地なのに、実際には大和市、綾瀬市、海老名市にかかっていて厚木には無い。それには諸説ありますが、僕が若い頃から、基地のなかの住所がカリフォルニア州らしいという都市伝説がまことしやかにささやかれていました。基地から数百メートルという近さの実家からでも「手紙を送るときにはカリフォルニア宛に送らないといけない」と。それに基づく映画なので『大和カリフォルニア』にしようかと思ったけど、直結させるとしっくりこなかった。そこで括弧を柵、あるいは国境というイメージで付けました。これは偶然ですが、日本各地に「大和」が付く市町村がいくつかあるそうです。その「大和」を通じて、いまの日本とアメリカの関係性、未来にまでテーマを敷衍できればと思いました。

──ほかに創作の源にあったものをお話しいただけますか?

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大和は本当に何も無い退屈な郊外の町です。そこで撮ることにしたものの、何を撮ればいいのか最初の段階ではわからなかった。そうして自分を掘り下げていくうちに、いつの間にか「お前は一体何者なんだ?」という問いに行き着き、そこで僕が日本、ひいては大和で暮らすなかで感じていたアイデンティティの揺らぎが噴き出てきました。子供の頃は父の仕事の関係で2~3年に一度は引っ越して、アメリカでも暮らしていました。十代後半まではそういうサイクルだったので、アイデンティティを感じられる場所や、「僕はこの町に誇りを持っている」という実感も無かったんです。アメリカに居れば日本人として、日本に戻ってくるとアメリカ人として排斥され、どこへ行っても部外者のように扱われた。そのときの想いは映画のなかに散りばめています。主人公はどこにでもある郊外に暮らしているけれど、その風景に違和感を抱いている。主人公・サクラを演じてくださった韓さんは韓国と日本、相手役の遠藤新菜さんのお父さんはアイルランドとイギリスのダブルで、音楽を担当していただいたLil’Yukichi(トラックメーカーとしてはLil’Yukichi、ラッパー名はCherry Brown)さんも日本とアメリカのダブルです。ほかにも、アイデンティティが複数に分かれている人たちが集まってつくられました。

──それも影響してか、冒頭のテロップは社会的な雰囲気をまとっていますが、ホームドラマになり、やがて音楽劇になる。様々な境界を越えてゆく映画になっています。

スピルバーグにしろカラックスにしろ、最近ではショーン・ベイカーなど、好きな作家たちはわかりやすいあらすじのジャンル映画的なところから入って途中から逸れていったり飛躍したりする。僕はそういう命がけの飛躍に映画の存在意義を感じていて、映画ならではの時間の流れや、「いま味わっているこの言語化できないが異様に刺激的な体験は何だろう」という部分に悦びを見出してしまう。物量によるカタルシスもいいけれど、厳密な思想や思考に基づいた構造、そしてある種の偶然を取り込んだ演出技術による世界や境界の逸脱が好きなんです。もちろん、「原作ものを万人向けにキッチリ撮ってほしい」というお仕事をいただいたら、そうするために最大限の努力はいといません。しかしこの映画はそうではなく、前述したような価値観と思考に基づく一種の賭けでした。そもそもコミュニケーションを前提とした創作はそれ自体が賭けであって、「よく出来ている」などと言われて翌月には忘れられるものをつくるよりも、想像もつかない誰かの人生を根底から変えてしまうような新たな思考・挑発の場として映画には存在してほしいですね。ただし僕の作品を、「作家が無責任で落としどころがない」と捉える方がいたなら、それは僕が賭けに負けたということでもあり、そのリスクは常に負っています。今回ダメでも次こそはと自分を励ましながら制作を続けている。言うなればハイリスク・ハイリターンな創作・作劇ですよね。

──画も逸脱していくように、バリエーションが豊富ですね。

そうですね。ドキュメントのようであり、それでもフィクションがある。ミュージックビデオのようでもあれば、スチールみたいな画面もある。演技もナチュラルなのか、「芝居」なのか、その境界がどんどん乱れてモザイク状になっていく。一貫性の無さがダメだというご意見もいただきましたが、審級が喪失し虚実入り乱れ様々な眼が捉えている世界、つまり複眼性が僕の体感する現代なんです。だから本作も一貫性、普通らしさを壊していくのが当初からの狙いでした。

──話も飛躍しますが「ハイリスク・ハイリターン」を考えると、終盤の森からサクラのラップのシーンへのカッティングとモンタージュも、見方によっては観客のカタルシスを削ぐものです。

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そこを指摘してくださる方が多くて、いつも通り賛否両論なんですが、「あそこでバッサリいくからこそ君のことを信用できる」とおっしゃってくれた方もいます。当初からあそこはあのように切るつもりで、あの断絶(残響)と接続がこの作品にとって重要なものになると思っていました。2011年より前ならば、あそこはもう少し滑らかにいって、映画的カタルシスを持続したまま映画を終えることも出来たかもしれません。しかし実感として2011年の震災以降、きれいごとが役に立った試しはありません。避けては通れない現実がいまだ目の前に広がっていて、忘れたり、視界から逃れることはあってもそれは確実に目の前に存在している。だから、いくら境界を崩していく映画でも、映画的カタルシスに身を委ねても、すぐにその現実に戻ってきてギリギリと目を凝らさないといけないのです。僕だけでなく、あなたも、君も、映画のなかの主人公たちも等しくそれに向き合わないといけない。映画やデジタルの世界に限界は無いですが、我々は知らぬ間に生まれ、たまたま今日現在呼吸している存在に過ぎないわけで、その事実(現実)と向き合わなくてはいけない。そしてこうしている間にも残酷な連鎖、連続する問題は止まろうとしない。映画はどこまでいっても、あくまで映画であり、現実は現実として確実に在ることを見せたくて、あの切り方をしました。

──そこでサクラの顔にモンタージュされるものも重要で、ここではファーストカットにも写り込んでいる、ある円形のアイコンと言っておきます。

そうですね。あの丸が存在する前に、いま日本と呼ばれる場所に住んでいた人々はどうだったのだろうかとよく考えます。しかし僕もそこまでナイーヴにやるつもりはないです。きれいごとしか言わない文化左翼の玉砕万歳浪花節の撤退戦が大の苦手なので。現実を見ながらも万人を同時に幸福にする夢を見なければなりません。

──「現実見ながら夢見る」はサクラのリリックですね。クライマックスとなるシーンのそのラップは、一般的なものではなく、ポエトリーリーディングに近いものです。

普通のヒップホップのサクセスストーリーでいうと、あそこで主人公がうまく歌って、ペラペラと映画の外の時間にすると数十分でそれなりに上達したラップを披露して物語が終わり「勝ち上がり」になると思います。しかしラップがうまくなる、つまり技術がどうとか、ラップのマナーを形式的に踏まえている云々よりも、彼女が国境を越えた自分の言語──言語と言わずとも表現すべき何か──を見つけることがこの映画最大のテーマでした。だからあのシーンで初めて人=他者を見つめて自分の言葉をぶつけ、吐露して、言いたかったけど何故か言えなかったことを吐く。それがいちばん重要で、ラップのフォルムや習熟度の問題ではない。一時間半かけて主人公がそれなりに上達したラップを見せるのは、ただのラップ映画、サクセス映画です。よく音楽やスポーツ映画にある、その手のサクセスというのは今の社会を見渡しても全くリアルには感じられない。百歩譲って「じゃあアメリカに行って何億円ものディールをつかんで、グラミー賞を獲る」とか、少し現実的になって「紅白に出る。レコ大をとる。宇多田ヒカルやUAにフューチャリングされる?」え、それで? それらはいずれも僕には大して重要なことのように感じられないんですよ。日本国に2017年に生きている低所得な中年の実感として。語弊があるかもしれませんが。そういう伝統・格式・努力すれば何とかなるみたいな価値観を重視する方がラップ界にも映画界にも多いことは知っているし他意は無いですが、少なくとも僕はそういうものを信じられないし、積極的に目指していきたいという人間ではありません。自分も映画のキャラクターも生きざまの背骨がある。ただし、その他は常に柔らかくしておきたいんです。思い付きや時の流れを反映できるように。そしてその程度の誰にでも思い付く射程ではなく、自己のなかで見出せなかった声を発見した女性がこのあとどう生きていき、周りにいる隣人たちに影響を与え、また影響され、自分の言葉を受け取り直して、それがどう広がっていくかというところまでこの映画を持っていきたかったんです。

──それはラストにも反映されていますし、従来のラップ映画と比較すると違和感を覚えそうなサクラのラップも、アメリカでは新しいスタイルとして普及しているんですね。

いま日本ではラップバトルという、ラップの徒競走というか、向かい合って互いに韻を踏み罵倒するゲームのようなものが流行っています。スケートでいうと、スピードスケートとでもいいましょうか。そのゲーム性はそれはそれで面白いですが、一言でラップと言ってもラップはバトルだけじゃないし、他の楽しみ方もあります。その文化的下地が徐々に日本にも出来つつあることは嬉しい限りですが、ともあれ、僕はラップでいうとバトルではない音源を軸にした練り込まれたラップが好きで、まあいわばフィギュアスケートですよね。フィギュアはスピード面では決して速くないですが、その芸術性や鑑賞後の余韻は格別です。スラム出身のラッパーが書いた詩がときにどんな芸術の名作にも引けを取らない程美しいこともあります。ラップはリアルであることが第一公理なので、ラッパー自身がハスラーであってもナードであっても人生を切り売りして音にしている感じが、こっちも本気で聴かないとただでは済まないなという気にさせるジャンルです。本作も、いま日本で主流と思われている、アメリカで20年前に流行ったスポーツラップの愛好家から見たら不愉快なものに映るかもしれません。しかしお話ししたように、自分のリアルを自分の言葉で吐くのがラップであり、そもそものブルース音楽であるはずです。もっと言えば、それは芸術家なる者の生きざまでもあるはずです。そこが見せられれば、スピードも韻もいらないんです。余談ながら、いまアメリカではバトルもビートが無くなっていて、ほぼポエトリーリーディングというか、普通の会話のような雑談のようなバトルも多いです。だから人前で己の持ちうる言葉を相手にぶつけるのが最新の型であって、本作はそれを踏襲しています。それから、バトルMCにも深遠な言葉を吐く方も多くいらっしゃるということは言っておきます。

 

──サクラが歌うリリックは監督が書かれたのでしょうか?

僕が書いた部分もありますが、韓さん自身がダブルとして生きてきたなかで感じたことも色々あって、それを現場でミックスしました。事前に「こういうことをやります」と書いてあるリリックはお渡ししていたので、韓さんがそれを咀嚼した上で決まりましたね。

──作品を見た方のツイートを読むと、サクラのラップを「聴き慣れた言葉」と書いているポストがありました。むしろそこが肝だと感じましたが、いかがでしょう。

ヒップホップの歴史=使い回されている言葉をそれなりには踏襲しているということもあると思います。しかし、映画の中でもさんざん言っていますが、「聴き慣れた言葉」以外に僕らは何を使ってコミュニケーションを取れるのでしょうか? うなり合う? 叫び合う? 言葉による暴力で痛めつけられながらも、どこまでいっても言葉を用いることでしか他者と交流できない僕らはどうするべきかを考えるべきではないでしょうか?

──たしかにクライマックスでサクラが流暢で妙に独創的な言葉を駆使すると、先程おっしゃられた「ジャンル的正しさ」に物語が回収されかねません。

それこそ、あの前のシーンでの体験を経て「何でいきなりそうなってしまったの?」という話になってしまう。変わったのは彼女の中のちょっとしたこと。でもそのちょっとしたことですら、掘り下げれば大きな変化です。それは縦への変化やサクセス的に高いところに行くのではなく、横にもっと広がっていけることに気づくという本作のテーマにつながっています。パッと聴いただけでは具体的に何が変化したのかわからないかもしれないけれど、かなり繊細でナイーヴな変化を狙って演出していきました。

──横への広がりは、キャメラや人物の動きなど視覚でも積み重ねられていますね。そして「聴き慣れた言葉」こそ、サクラにとっても、ナラティヴにおいても自然だと感じます。

「耳にした言葉」の積み重ねでしか新しいものは出来ないことは、作品のなかにも込めています。新しいことをひたすら創造し続けたところで、それも人によっては聴き慣れないけど、別の人には聴き慣れた言葉でしかない。その上に立ったところで何をするかというのもテーマで、「アメリカ人のコピー」云々、「参照元のないコピー」と問うくだりもありますね。

──コピーというと、タイトルの「カリフォルニア」はハリウッドのある場所、すなわちアメリカ映画を象徴する記号でもあります。映画をつくったり見る上でアメリカは意識せざるをえない国です。基地問題だけでなく、いま挙げられたセリフがあらわす「コピー/引用」という点でも、日本とアメリカとの距離がポイントになっています。

高校までほとんどハリウッド映画だけを見て育ちましたし、僕の師である筒井武文監督からは「映画とはつまりアメリカ映画だよ」とも教わりました。また、技術も内容も思想もアメリカ映画、ハリウッド映画に比肩できる映画業界は世界中に無いというのが僕の意見であり恐らく事実です。だから、当然アメリカ映画との距離感をよく考えます。概念としての「アメリカ」も現代の思想を考える上で非常に重要ですよね。僕の周りには、もういいおっさんなのもあり、「ハリウッドで映画を撮りたい」なんていう人間はいません。でもそんな場所が実在していて、そんな夢があるから、想いがあるから、昨日も今日も、ここ数年、筆舌し難いほど生きることが辛い時間が続いてもどうにか我慢できたということがあったのかもしれない。アメリカであれフランスであれ、植民地主義的なまなざしに徹底的に抵抗することは必須ですが、いったん自分を相対的に見ることの出来る対象を設定するのは重要なことだと思います。タイトルにはそういう要素もあるし、いまは違うかもしれないけど、ある時期まで世界って「アメリカとその他」に区切られているような気がしていました。その区切りの結晶化が大和市や日本で、どっちが内でどっちが外なのかよくわからない状態になっている。裏表がひっくり返ってしまっている世界を描くのは、この映画でやりたいことのひとつでしたね。

──ドゥルーズ=ガタリのフレーズを借りれば、本作では大和の「脱領土化」がおこなわれていると感じました。ふたたび言葉の問題に戻ります。前の長編『夜が終わる場所』(2011)ではヒロインがかなり癖のある東北弁を話していましたね。そこからも、監督は「言葉についての映画」を撮り続けていると考えられないでしょうか。

両親、特に父親は佐賀寄りの筑豊エリア出身で方言が強いんです。東京へ出て来て恥ずかしい思いをしたのかもしれませんが、僕はNHKみたいな標準語で育てられました。それでもアメリカで育ち、関西にいた時期もあります。だから常に齟齬がありました。大和も都心からは近いですが、標準語からは少し違う「だべ言葉」などが使われているせいか、ズレがある。感情が高まったときや本当に何かを伝えたいときに自分の言葉で伝えられない、自分の言いたいことを言えていないという苦悩をずっと抱えて生きてきました。「英語なら」と思って試してみると、それもダメで。ハマる時もあるんですが。そういう体験が本作のもとにあるし、「自分の心情にいちばん近い言葉って何だろう」というのはずっと考えてきた問題です。

──「言いたいことが言えない」のは、まさしくサクラの悩みですね。監督はまず脚本家デビューされ、それからも監督業と並行して、ほかの方の作品の脚本を書いておられる。その点でも書くことに長けた「言葉の人」と捉え得ると思います。それが表現領域を言葉に限定せず、映画にこだわるのはなぜでしょう。

言葉について言葉で語るのは、否定神学に近い難しさがあると思うんです。「神がいないから神がいるのだ」「言葉がいらないから言葉で書くしかないのだ」という自家中毒。音楽もそうかもしれませんが、映画にはそこから離れられる可能性がもっともあるような気がしています。

──監督の映画における言葉については、今後も考えていきたいですね。お父様の話を伺いましたが、本作は家族の関係もおもしろく、確固とした「共同体」というより流動的な「状態」に近い。その揺らぎをキープしています。

古い家父長制家族はもっとも保守的で世界の様々な暴力システムの温床になっている気がしますが、こういう揺れ続ける流動的な疑似家族は人類にとって最後の寄る辺になるような予感がしていて、それもこの映画の根底にあるものです。

──古い家族、つまり家父長制とは反対の動きをしているように感じました。女性ラッパーを主人公にしていることからも。

暴力の連鎖や共同体の歪みは、前述したような家父長的イデオロギーから来ることが多いと思っていて、一度それを女性の力を使ってぶち壊すことが出来ないかという思想的な出発点から女性のラッパーにしました。男のラッパーの映画ならいくらでもあるので、「ほかの人がやることをやる必要はない」という、いつもの天邪鬼な発想も影響していますね。

──本作はヒップホップだけでなく、ロックの要素も大きいです。このハイブリッド性はどこから来たのでしょう。

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最初はロックの要素はほとんど無かったんです。ヒップホップだけで押し切ろうと思っていた。でも僕は興味がひとつにとどまらなくて、ワンテーマやひとりの人物で語るのが苦手なんです。だって世界には多くまなざしがあるじゃないですか。そして「かっこいいものがたくさんあるのならそれを全部使うのが映画」と信じているのと、ラップ側だけの押し出しで主人公が何か教訓を得るという作劇は外部が無く他者がいないように思えて、ラップの引き裂かれやアメリカとの関係性、言葉や標準語の問題にぶつけられるものを考えたときに、60年代にアメリカから来て、そういった今ラップが向き合っている問題を経てきたロックが出てきました。日本幻野祭(1971)などで闘争の道具として使われていたサイケデリック・ロックを、現代のレベル・ミュージックであるラップにぶつけてみたらどうなるだろうと。ゴジラvsガメラ的なイメージで宍戸幸司さんやGEZANを召喚しました。

 

──次に物語を支える撮影に関して伺えればと思います。食卓のシーンは最初はひとりずつ撮っているのが、二回めはツーショットになる。フレーミングで人物の距離感の変化を見せていますね。

それもまた師匠から教わったことで(笑)。「関係性をすべて距離で見せられるのがアメリカ映画だ」ということを教わりました。今回はフレーミングと距離感はすごく意識して撮っていますね。『夜が終わる場所』は、撮りたいように撮ったとまでは言わずとも、撮るだけでいっぱいいっぱいだったこともあり、今回は徹底的に考えました。ただ一方で、フレーミングや距離の重視が俳優の生理や芝居を阻害するものになると作品の魅力が一気に減ってしまうので、彼女たちの存在を十分に尊重した上で決めていきました。

──芦澤明子さんの手持ちの長回しが冴えたファーストカットも本作の核心を押さえています。どのように固めていったのでしょう。

あれは僕がこの映画を構想したときに、まず最初に思い付いた画で、トンネルや洞窟から視点が生まれ出るイメージがありました。暗い平成を亡霊が這いずり出てくるような。冨永昌敬監督の『乱暴と待機』(2010)のファーストカットの影響もあります。でも洞窟と産業廃棄物処理場が隣り合った場所なんて無いだろうと考えていたとき、洞窟の代わりにコンテナがあったんです。そのロケ地も見つかったのは撮影前日。あのコンテナ内からはじまる長回しのなかに、本作が扱う「1945年以降」や、「1868年の近代化」以降の日本の歴史の堆積、連続する問題を背景として感じられるようにしました。その堆積の最終章、新たな問題の口火かもしれない平成も今や終わりかけている。その時代のそこで生きる主人公が新しい声を見つけられるのか? だとしてもそれで何を成すのか? 立ち上るべきなのか? 諦めて身を引くべきか? そのようなイメージのなかで組み立てたものをワンカットの映像として表現しました。ファーストカットで映画のテーマすべてを表現しろというアメリカン・フィルムメイキングですよね。

──画面から察するに「歴史の堆積」には震災も含まれていますよね。そこで、キャメラは光源を探し求めるようにコンテナから出てゆく。あの移動だけでも主人公の在り方や、監督が描こうとしているものを感じ取れます。

もちろんです。あれは非常に大きな結節点でした。安い言い方かもしれませんが、僕たちの世代は「ロストジェネーション」と呼ばれていて、子供の頃から下がる一方の人生を世代として経験してきて、そのダウンワード・スパイラルのピーク?として2011年の東日本大震災が発生しました。被害の甚大さに言葉を失いながらも、「もはや何も無くなった。いま変わらないで日本はいつ変わるんだ? 変わるはずだ」と期待したこともありましたが、蓋を開けてみたら日本はこの6年間なんら変わりませんでした。誰が何をやっているのかわからないが、金持ちがもっと金持ちになり、貧しい人がより貧しくなっているだけで、東北に震災があったことすら、あの「たった20年しか経っていない」阪神淡路大震災と一緒に忘れ去られようとしている。失われたのは30年どころではなくなってしまった。それをこんな男ひとりが、こんな小さな映画がどう出来るんだということを本気で、真面目に考えたいし、あがきたいし、その道筋と怒り、「宣言」を一発目で見せたいと思って撮ったカットですね。

──そうした社会性を追っていくと、森の住人のように見えるホームレスの人々が登場します。『夜が終わる場所』にも出てきましたが、彼らの存在が示すものをお話しいただけますか?

僕は身分や肩書、さらに言えば言語や資本も含めた社会の「システム」や「交換」から抜けてしまっていても、確実に存在している「他者」として、普段目には入っているけれど見えていない者たちという意味で、ホームレスの方々や周縁にいる存在について考えることが多いです。前作の流れとは異なりますが、今回はシナハンをしているときに、ある種のユートピア的な、日本政府でも米軍でもない誰の土地かわからない場所で自給自足して楽しく暮らしている不思議な人々に森のなかで遭遇した経験から、あのキャラクターたちがつくられました。もちろん彼らは「ハザマ」に実在している。実体を持っていながら、言うなれば「社会的な幽霊」であるあの方々についてまた撮りたいと思っています。

──「社会的幽霊」と、彼らが奏でる音がノイジーであることにも関わりを見いだせそうな気がします。ノイズは純粋に音として捉えれば一種のゴースト、すなわち幽霊です。最初にも触れましたが、森でサクラがそっちの世界に行ってしまうのかと思いきや……

この作品では色々な境界が無くなっていく。あのシーンでも、映画のなかのフィクションと現実が壊れる手前でまた現実に戻ってくる構成を意識していたので、先ほどお話しした切り方とつなぎにも関わってきますね。すべてが溶け合い、すべての人々がつながり、心がひとつになり幸せに生きていけるのが理想郷なのかというと、決してそうではないと思うんです。人類はそれに向かって歩んできたけれど、結果凄惨な暴力が返ってくるという歴史を繰り返している。それでもなお万人が等しく生きられる世界を信じるのならどうなるんだという問いに対する、境界なき世界の門番のような存在として彼らを登場させています。だから主人公は戻ってこないといけない。それを門番たちもわかっている。また、しばしば登場する戦闘機の騒音=ノイズは歴史のなかで連続する問題のメタファーであって、それを乗り越えるほど大きな音、あるいは声は有り得るのかというのも主題のひとつではありました。

 

──続けてその音についてもおきかせください。サウンドデザインは、監督が脚本を書かれた『孤独な惑星』(2011/筒井武文)も担当された森永泰広さんが手がけています。どのように作業を進められましたか?

森永さんには、こちらが用意した音楽や収録音にリミックスのような作業をしていただきました。それを乗せたものを見て、さらに音響として参加してくださった黄永昌さんとリミックスし直すような工程でしたね。音はとても凝った過程を経てつくられています。ふたりのミュージシャンがリミックスしたものを互いに抜き差しするなかで音響が生まれてきた。僕も意見を出したので、ひとりの人間が固めるのではなく、3人の三角形の間でキャッチボールというか、バウンスがおこなわれて出来上がったものです。音楽をやってくださったLil’Yukichiさんも含めると、4人で叩き合って最終的な形に向けていきました。

──ひとつの音でも映画と同様に複数性を持っているんですね。Lil’Yukichiさんには、最初から監督の求める音のイメージを伝えていたのでしょうか。

そもそもサウス(アメリカ南部発祥のヒップホップ)のヒップホップが鳴っている映画がつくりたかったんです。ここ20年の世界音楽の最先端はサザン・ヒップホップなので。ついて行けていないのは日本だけです。そんな中、Lil’Yukichiさんは、おそらく日本で初めてサウスのビートを広めはじめた方だったのでオファーしました。普通のヒップホップだと「ドン、パッ、ドンドン、パッ」だけど、僕は低音を強調した「カチカチ、ブーン、ブーン」とベースが強烈なサウスの曲調が好きでして。「低音強烈目で」というお話をしつつ、例えば「ここには、このミュージシャンのこういった調子のタッチが欲しい」とお願いすると、膨大なストックの中から選んだり、作曲してくださったりして音が送られてくる。それを画にはめてみて進めました。森永さんがそれらの音声・音楽の束をサウンドデザインし直して、過剰なところはまた減らし、と進めました。あの方も一曲に映画の全てを入れてみたりと極端なことをするので、いつも仕事をするのが非常に楽しいですね。

──想像以上にこだわって組み上げられた音響ですね。

音でもう一本映画をつくるくらいの勢いでしたね(笑)。会話のリズムも物音もそうで、全て音楽のように配置しているので、たぶん音だけ聴いていてもおもしろい設計になっています。

──サクラのラップが新しいセリフ回しのようにも聴こえました。音楽的なセリフというか、セリフに近い音楽というべきか。

セリフ回しや声は演出のベースを決めるものだと思っていて、いつもリハーサルはまず声の高さやスピード、リズムなど、音声的な方向から入ります。映画史を考えると──普段そこまで考えていないのでいきなり言い出すのは申し訳ないんですが(笑)──僕のなかに「映画史は音楽史と比例している」という仮説があります。以前、岸野雄一さんともそういうお話をしましたが、テクノが流行しているときはテクノっぽいカッティングや演出が流行る。ロックの時代はロック。いまヒップホップが流行っていて、編集面ではあるとしても、それを反映した作品や演出はなかなか無いなと思っていました。韻を踏んでいたり、ラップっぽいセリフ回しもあり得るでしょうけど、やってみるとどうも技法が前に出過ぎて「やり過ぎかな」と気になってしまうケースが多い。ラップ好きとして時代を先取ろうと色々試行錯誤するなかで、たまたまああいうフロウ(ラップの歌い方、調子)というか、副産物として変わったセリフ回し、不思議な芝居の在り方にたどり着きました。あのシーンで流れるスクリュー(速度を下げたヒューストン発のヒップホップ)の効果もあるかと思いますが、今までの映画にはない独特な雰囲気にはなっていると思います。あれはラップでないしセリフでもないし、何て言ったらいいんでしょうね。その言い表し難い感じを狙っていたとはいえ、癖になりそうな何かがありますね。ラップミュージカルのようになるのは嫌だったので、それは避けて。ああいう演出で映画を一本撮るとなると難しいかもしれませんが、新しい演出のヒントになりそうですよね。

──画でも速度を下げたスローモーションを効果的に使ったシーンがありますね。さらに編集のリズムでは、ディゾルヴも使っておられます。リリカルなタッチで、ああいうセンスもお持ちだったのかと少し驚かされました(笑)。

(笑)。僕はブツ切りで武骨な古典的カッティングが好きですが、仕事でミュージックビデオを撮るようになって「映画的にはかっこ悪いとされている技法だけど、使うことでリズムを変えられるし、何だろう、この良さは」と思いまして。結局、新しい物好き、天邪鬼で、やってはいけないと言われることをやるのが好きってことなんだと思うんですが。理論的には今のつなぎがいいけど、もうひと声編集でがんばれないかと考える過程で、映像詩的なディゾルヴをリズミカルに入れると、より映画の楽しみ方が増えるかな、「宮崎、こんなこともやるんだ!」って思ってもらえるかなと思って採り入れるとすごく良くて。それまで編集の平田竜馬さんと「ほんとにディゾルヴ入れるんですか?」と話していたのが、入れたら編集室で「めっちゃいい!」とふたり同時に声を上げて(笑)。

──いいですよね(笑)。続くシーンへのタメにもなっています。

そうです。いつも通り、現場でキャストはもちろんスタッフの方に「ここよくわからない」と言われましたし、あそこの編集もラッシュをご覧になった方たちからは「何故こうなるの?」と言われたんですが、毎回答えは、「大丈夫です。僕は完璧にわかっているんで」と微笑むばかりで。結果、賭けてよかったと思っています。

 

──韓さんと組まれるのは今回が初めてです。現場でどのような印象を受けられましたか?

普段は物腰柔らかで華奢で、ほんとお嬢さんなんですが、映画もとてもよく見ていらっしゃって、「映画のために身を捧げます」ということもよくおっしゃっていますね。本当に心から。だから映画界の聖女みたいな存在ですね、僕にとっては。一緒にお仕事をさせていただけることになったときも「私は監督がプロデューサーも兼ねているような想いのこもった映画を支えて生きていきたいので、頑張らせてもらいます」と言ってくださったり、撮影中も「明日死んでもいいと思ってこの役をやっているので、監督も死ぬ気でかかってきてください」と言われて、「僕もずっと本気だし、明日死んでもいいと思っている」という、中学生のようなやり取りをしていました(笑)。でもやはり華奢で小さく、普段はナイーヴな方が、あのグレーのスエットを着てカメラの前に立つと不思議なことに身体が大きく、どっしりして見えるんです。存在感というか、何なんでしょうね。最初のカットを撮ったときに「韓さん、デカいな」という印象を受けたのが記憶に残っています。

──貫禄さえ感じさせますね。

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雰囲気もただならぬものがありますよね。普通に存在している人の身体を映画内のフィクション的身体──威厳があるというのか──に変換するのも演出の重要なポイントだと思っています。しかし韓さんは、普段はかわいらしく佇んでいるのに、僕がそこまで力を加えなくても自然にそういう「存在」に変化できるのがすごかったですね。あるシーンを撮る前に韓さんが入った檻をカメラの前に持って行って、「よーいスタート」で檻を開けると思う存分やってくれて、カットをかければ檻に戻ってもらい次の場所へ檻を運んで行くというイメージで、極端に言えば猛獣のような存在感でした。ずっと生きてきた大和の町を撮りたかったけれど、あまりに非映画的な場所で何をすれば映画に見えるかがわからず何年も経過しました。それが韓さんがオープニングやエンディングで駅前に立っただけで、大和が映画の一部になりました。そのことに涙が出るほど感動したし、本当に何も無い景色に映画らしきものが芽生える瞬間が見られたのは、韓さんのおかげでした。

──韓さんのお話で「プロデューサーも兼ねた監督」という言葉が挙った通り、監督は本作でプロデューサーも兼業しておられます。

やっぱり信頼できるプロデューサーがいて自分がクリエイティブに集中して分業できれば一番いいし、そういうやり方が圧倒的に正しいと思いますが、いまの世界のアート映画シーンを見ていると、監督がプロデューサーも兼ねることが多いですよね。僕はプロデューサーの一番の仕事は一言でいって金策だと思います。なぜなら、お金が無いと映画制作もへったくれもありません。現実はお金があっても解決できないこともありますが、映画制作はそのほとんどがお金で解決できると思います。だから極論を言えばお金持ちはその日から「映画プロデューサー」を名乗れる。では、それ以外にプロデューサーの仕事は何があるのかというと、基本的にはもっとも引いたポジションで客観的な評価をして作品を最大限に広める、売るための方向修正をする、策を練ることだと思います。僕の場合、お金という最大必須の能力は無いですが、撮りたいものを撮ることばかりに集中していた数年前に比べれば、どんな人にお願いしてその企画を制作し、その映画をどんな人たちにどのような道筋で届け、広げていくかというようなことを、少しだけ考えられるようになりました。歳のせいもあるでしょうが、映画祭などで素晴らしい若手監督などに出会ったときに、自分はこの才能のために何か出来ないだろうか、この傑作やアイディアを世に送り出すにはどうしたらいいのだろうかとも考えるようになりました。先程も申し上げたように僕は本業が映画監督であって、「映画プロデューサー」ではないので、お金も全くありませんし、それは結局、映画が好き過ぎて仕方ない、良い映画を世界の人々に見てもらいたいからという、ある種宗教的な理由でしかないのですが。そんな中、例えばこうするともっと作品が広まるんじゃないと企画から監督と一緒に考えたり、スタッフやキャストを紹介したり、小金を集めたり、現場に出て上映まで携わった作品にはときに「プロデューサー」の肩書を付けていただくようになりました。昨今は作品自体より、ポスターや予告編の完成度で映画が評価されることが多いです。そういう映画の見方もいいのですが、映画の持つずっと深いところに響き残り続ける面白さや敬うべき歴史に身を捧げる人間という意味でも「プロデューサー」の肩書を付けるようになった。そんなところでしょうか。

──なるほど。さて本作の結末ですが、主人公の後姿を捉える画は『夜が終わる場所』を踏襲しています。意識されたものですか?

そうですね。でも今回は隣に人がいます。一本ごとに完結させてつくっていくのもおもしろいですが、自分の映画は弁証法的で、毎回前作への論理的・倫理的挑戦になっていて、なかなか次に転がるのが難しいです。そして人の作品に脚本を書くとしても自分で撮るとしても、確実に「自分の人生のなかで命を削って、ある種の生きざまの証明としてこれをやった」と納得できるものでないと何だかなと思ってしまう。そうなると考えるとそれなりに納得のいった仕事・創作はいつの間にかつながった話になっていて、『夜が終わる場所』から、その後脚本を書かせてもらった『ひ・き・こ降臨』(2014)、『ひかりをあててしぼる』(2016)など、そして『5 TO 9』(2015)から本作まで、自分のなかではずっとつながった物語としてある。本作のエンディングが『夜が終わる場所』とほぼ同じなのは偶然ですが、前作では坂を微妙に下ったあと上っていったのが、今回は歩む相手も道筋も真横へと変わっている。たまたまでありながら、何かあるんでしょうね。些細なようでいて、自分にとっては大きな違いだと思っています。

──それはサクラのかすかな変化が、掘り下げれば大きなものであるのと同じなのかもしれないですね。ありがとうございました。

(2017年3月 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

映画『大和(カリフォルニア)』公式サイト
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