映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第二十九回
現代に可能なスクリューボール・コメディのかたちとして評価する
『ゴーン・ガール』

『ゴーン・ガール』 Gone Girl
全国公開中
監督:デヴィッド・フィンチャー
2014 / 149分 配給:20世紀フォックス映画

デヴィッド・フィンチャーの仕事ぶりには、創造の核にあたるものがまるで見あたらない。たとえば、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007)で作風を一変させたとされるポール・トーマス・アンダーソンのような世代の近い作家を考えても、ポルノ産業、宗教、石油といった独特な切り口から、今日のアメリカをつくりあげた20世紀の歴史を一貫してたどりなおしていることはあきらかだろう。そうしたたいていの作家に見られる発想の取っ掛かりというか一定の型というか、意識的と否とを問わず撮るたびにあらわれてしまう症状のようなものが、フィンチャーの場合にはどうにも見いだしづらいのだ。

かといって、1本ごとにがらりとスタイルを変えるタイプというわけでもない。それどころか、彼は抑えた色調のスタイリッシュな映像を撮る個性的な作家として人気を集めているのであるが、その画面でさえ、逆光やスモークを好むリドリー・スコットのような人と比較して、一目で識別できるほどの特徴をそなえているとはいいがたいのである。20年を超える監督としてのキャリアを持ちながら、これまでにやっと10本の長篇を完成させたにすぎないフィンチャーの作品歴を振り返るとき、むしろ作品の核となるような中心の空虚さこそが、彼のもっとも明白な署名であるように思われてくる。

出世作である『セブン』(1995)や『ファイト・クラブ』(1999)からして、衝撃的ともいわれる結末の意外さが売りになってはいたものの、実際にはその謎を宙吊りにすることで延々と続く、悪夢めいた地獄めぐりの旅程にファンの心は捉えられていたはずだ。フィンチャー自身が、映画を成立させるために結末の種明かしなどまったく必要ではなく、謎はあいまいな謎のままであって一向にかまわないと確信するに至ったのは、『ゾディアック』(2007)においてではなかっただろうか。フィンチャーの映画は確かにミステリの体裁をとることが多いかもしれないが、犯人捜しのカタルシスからはほど遠く、人物たちは内実を欠いた空虚な謎に魅せられたまま、ゴールのない彷徨を続けるのである。こうして、通常とは逆の順序で人間の一生をたどる『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2008)での終わりに向かって蓄積を解消させていくような語りや、題材を聞いただけでは本当に映画になるのかと危惧された『ソーシャル・ネットワーク』(2010)における反=教養小説的性格が帰結することになるだろう。フィンチャー映画の人物たちが、しばしば観客の共感を安易に寄せつけないほど上位の社会階層に属し、金銭の労苦から解放されているのは、この中心の空虚さと関係してのことに違いない。物質的な困窮は、それだけで人物に行動の動機をあたえ、その解決に向けて物語を直線的に駆動させることになるからである。あらかじめ物質的に満たされた者の日々の倦怠――劇的な契機を欠くそうした場のほうが、フィンチャーの映画にとってははるかに望ましい出発点であるらしい。

問題は、フィンチャーの撮る映画そのものがそうした倦怠にとらわれて、最悪の場合、たんなる弛緩と冗長さとに流れてしまうということだ。結局続篇が撮られることのなさそうな『ドラゴン・タトゥーの女』(2011)など、さして魅力の感じられない謎解きに中途半端な実質を持たせてしまったがゆえの無惨な出来としか思えなかったのだが、ヒッチコックの『フレンジー』(1972)よろしく、殺人が起きつつある現場からキャメラが後退移動で逃げだした直後のショットで、再びキャメラが室内に位置しているのを目にしたときには、さすがに開いた口が塞がらなかった。あきらかに不必要なショットをなぜか入れないと気が済まず、結果として上映時間が引き延ばされていく――この欠点と、空虚な謎への執着とのあいだにどう折りあいをつけるかが、フィンチャーの課題でありつづけてきたのである。

それゆえ、『ドラゴン・タトゥーの女』に続くミステリ小説の映画化である最新作『ゴーン・ガール』には、大方の讃辞が聞こえてきてもかなりの不安を抱いていたのだが、結論からいって、これは現時点でもっとも好ましいフィンチャー作品であり、今後の展開に期待を持たせてくれる出来栄えだといってよい。

物語は、結婚五年目を迎えた夫婦の妻が、記念日当日の朝に姿を消すところから始まる。小さな町で起こった不可解な失踪事件は、家族と警察のみならず、地域のコミュニティやマスメディア、インターネットにSNSまで巻きこんだ全米規模の騒ぎに発展し、渦中の夫に世間の疑いの目が向けられる。いかにも猟奇的な誘拐殺人を想像させる謎に満ちた筋立てだが、事件の真相は中途で観客にだけ明かされて謎解きの興味はあっさりと放棄され、映画は男女の知略を尽くした活劇の様相さえ呈しはじめる。ここからがこの映画の真骨頂だろう。

次から次へと予想を裏切る展開で、一貫して見る者に先を読ませない『ゴーン・ガール』は、時評で取りあげるには書けないことだらけの厄介な作品でもある。だが、従来のフィンチャー作品の評価の分かれ目としてあった明白なホモソーシャリズム――女性蔑視と同性愛嫌悪に根ざすことで、それだけいっそう男同士を強固に結びつける社会的な絆――が、原作者のギリアン・フリンを脚本家としても得たことで、男女双方の言い分が互いに一歩も譲らぬまま正面から激突する、二焦点の対立構造に転じようとしていることは強調しておきたい。巧く立ちまわっていたつもりが、想像もしなかった女の本音を突きつけられてオロオロするばかりの主人公を演じるベン・アフレックが、薄っぺらな美男として最高のはまり役である。他方、女優としての華やかさや個性に乏しい妻役のロザムンド・パイクも、男が期待する任意の女の物語をそのつど代入することができる空ろな容器のような存在として、むしろ評価されるべきだと思う(『ファイト・クラブ』でのアメリカではまだあまり知られていなかったヘレナ・ボナム・カーターや『ドラゴン・タトゥーの女』でのルーニー・マーラなど、ブレイク前の女優を好んで起用するフィンチャーの志向は、こうした論脈で考えることができるのではないだろうか)。

そうしたフィンチャー作品としての新機軸がよくあらわれているのは、主人公の運命を左右する周囲の主要な人物が、女ばかりで固められているところである。まず、主人公の双子の妹というのがそれじたい目新しい設定だが、独身で男の影も感じられない彼女は、兄と一心同体のあけすけな口のきき方で、ときに妹としてのそれを超えるただならぬ心情さえ垣間見せる。そして、予断を排した中立的な捜査を心がけているようでいて、主人公を犯人扱いする同僚に対しては彼を庇うような言動を見せる女刑事。さらに、高名な作家である妻の母親がいる。アメリカ中で読まれているらしい児童文学のシリーズを通じて、実体とかけ離れた理想化された娘のイメージを流通させたこの威圧的な母親は、これといった取り柄もない義理の息子のことをあからさまに見下している様子だ。主人公を取り巻くこうしたさまざまな女たちのタイプは、それだけ主人公を男として孤立させ、劣等意識を増大させることになるだろう。主人公の運命に関わる唯一といっていい男はアフリカ系の敏腕弁護士だが、その圧倒的な成功者ぶりは、主人公の非力さを際立たせるばかりである。

男性性の危機にある主人公をブロンドの美女が翻弄する母権制的な世界観といい、半ばで観客に真相を明かすつくりといい、この映画には容易にヒッチコックを連想させる細部が満ち満ちている。しかし、ヒッチコックに目配せをしたスリラーなど映画史には掃いて棄てるほどあるのであって、そうした細部をいくら数えあげてみても、この映画のユニークな魅力を説明できるとは思えない。そもそもフィンチャーを二流、三流のヒッチコックとして今さら位置づけたところで仕方ないではないか。

『ゴーン・ガール』で注目されるべきなのは、むしろ歴史的に使命を終えたジャンルだと思われていたスクリューボール・コメディに、思いがけないかたちで新たな生命を吹きこんだ点である。常軌を逸した言動でもって男女が互いの価値観を正面からぶつけあう、このトーキーの定着とともに隆盛した一群の過激なコメディ映画は、近年でもたとえば『Mr.&Mrs.スミス』(2005)でのように、ジャンルの定型を大きくデフォルメすることで幾度か現代化が図られはしたが、真の再生に至ることはなかった。『ゴーン・ガール』は、大胆にもコメディであることを真っ先に手放し、体を張った両性の闘争という本質のみに集中することで、かえってこの歴史的なジャンルの再生に成功したのである。この映画の冷え冷えとした、コメディからもっとも遠いはずの世界が、スクリューボール・コメディの幾多の名作がそうだったように家猫が徘徊し、富豪の花婿候補がふられ、主人公夫婦の離婚の試みがことごとく挫折するうちに、いつしか黒い、引き攣ったような笑いを見る者に惹き起こす点こそ、これまであまり経験されたことのない種類の新しさなのだ。

実際、男からすると開きなおって「まあ、いいか」とでもつぶやくしかない、この現代に可能なスクリューボール・コメディの結末の「感じ」の先例を、強いて映画史にもとめるとすればどうだろうか。男の私には、スクリューボール・コメディのなかでもとりわけ常軌を逸した傑作中の傑作、ハワード・ホークスの『赤ちゃん教育』(1938)しか思いつかないのである。

これまでの映画時評|神戸映画資料館