『いまはむかし 父・ジャワ・幻のフィルム』 伊勢真一監督インタビュー
記録映画の構成・編集の第一人者として多くの作品を手がけた伊勢長之助(1912-1973)。戦前は日本の占領下のインドネシアに出征し、130本に及ぶ国策映画をつくり続けていた。長男である伊勢真一が、生前の父の口から語られなかったその過去を探る『いまはむかし 父・ジャワ・幻のフィルム』が着想から30年を経てようやく完成、公開された。眠っていた「むかし」のフィルムと「いま」の人々の姿をつなぐ作品は「戦争」や「家族」を語ると同時に、アーカイブの意義も感じさせる。このドキュメンタリーをめぐり、監督にお話を訊いた。
──東京での3週間の上映を終えた本作が関西でも公開されました。東京の反応はいかがでしたか?
最近は、かつてのように新聞に記事が載ったからといって、観客が増える時代ではないですよね。ところが今回はネットでの広がりがあったし、もっと特徴的なのは──当然といえば当然ですが──インドネシアに関心を抱いている方や、日本で暮らすインドネシア人が上映期間の中盤あたりから多く見に来てくれるようになりました。本作はテーマだけに絞れば「戦争」と、活字情報的な受け取り方もあるかもしれません。でもそれだけではない、映画ならではの、映像からインドネシアの空気感を感じ取ってくれている手ごたえがありました。
──繰り返し写るソロ川の水面や、路地裏の風景と人々も映画に膨らみを与えています。完成までに長い時間がかかったのには複合的な理由があると思いますが、それをお話し願えますか?
まず、僕は仕事が遅い。『えんとこの歌 寝たきり歌人・遠藤 滋』(2019)は25年、『やさしくなあに 奈緒ちゃんと家族の35年』(2017)は35年越しだものね(笑)。自覚はないのに、「時間をかけた映画が多いですね」と言われてしまう。でも今回、制作期間が長くなったのは、やっぱり「戦争」はとても大きなテーマで、それをしっかり捉えて「こうだよ」と伝える自信や確信をなかなか掴めなかったからですね。じゃあ掴めたから完成したのかというと、掴めないままに仕上げたというのが正直なところです。
ほかの人が戦争を描いた作品に僕が引っかかっていたのは、「正しいこと」を十分に取材して伝えようとしているのはわかるけど、それが正しければ正しいほど他人事のように見えてしまうというか、自分のこととして感じにくい点です。「8月ジャーナリズム」と呼ばれる報道も、悪意があるわけじゃなく、毎年8月に戦争のことを伝えようとしています。でも、このあいだ読んだ本に、戦争に対するドキュメンタリーや報道は、正論を突き詰めるほど風化を進めるのではないかと書かれていて、それは少しわかる気がしたんだよね。
──喩えはよくないですが「夏の風物詩」のようになっている側面もあります。
それに、このテーマはテレビドキュメンタリーも含めて、史実を積み重ねてロジカルに語る傾向がありますよね。歴史の授業みたいだと、自分のことになりづらいと思うし、それは僕だけでなく、見る人に対しても同じです。戦争をテーマにしたものに限らず、ドキュメンタリーって、どうやったら見る人に自分のこととして捉えてもらえるかが勝負、というとおかしいかもしれないけど、つくり手にとっては大事なことです。
資料を多く集めれば、それなりのものはつくれるから、関係者の写真や証言で構成した作品も多いですよね。でも、それが他人事でとどまっているあいだは「戦争はよくない」にしても「あれはアジアを解放するための戦争だった」にしても、一種の思考停止を招いて「そこまで」になってしまう。メディアだけでなく、政治家の発言にもそういう傾向があります。彼らはなにか「正しいことを言っている」意識を持っている。評論家と呼ばれる人も、すごい勉強を重ねていて、僕らみたいな遊び人とは違うけど、……「僕ら」と言っちゃいけないね(笑)。
──僕もそうなので問題ありません(笑)。
少し極端な言い方をすれば、そういう「正しさ」を主張するよりも、間違えてもいいから、自分の体験や考えを提出していきたい。そうすれば、見る人が「いや、違うだろう」と感じることも含めて考えはじめます。考え続ける存在として人間がいて、間違えながらも現在進行形で生きている。だから思考を停止させてはいけないんです。
ただ、そう思いつつも、実際にはなかなか完成に至らなくて。僕の作品は自主制作で、映画館で公開して、そのあと自主上映することで成立させてきました。『えんとこの歌』も多くの支援をいただいて、第74回毎日映画コンクールでドキュメンタリー映画賞を受賞したあとには、50ヶ所近くで上映が決まっていた。それがコロナの影響で全滅しました。上映も出来ないし、この映画のためにもう一度インドネシアに行く計画も中止になった。じゃあ、いままで撮ってきたものをここでちょっと整理しようと今年に入って考えたんです。そして整理を進めるうちに、「もしかすると、現在進行形の状況のなかでまとめることに意味があるかもしれない」と思えてきた。
僕が「いちばんわからない」と思うのは「いま」と「自分」のこと。それを少しでも理解するために本を読んだり、人に話を聞いたりするわけですよね。本作でも語る「いまはむかし、むかしはいま」とは本当にその通りで、「いま」を知るために昨日も含めた「むかし」を知ろうとします。作品をまとめ終えて「わかった」とは言えないけど、わからないことはそのままに、その「わからなさ」も一緒に見てもらおうと思って、6月ごろに仕上げました。
──しかし翌月に、4回目の緊急事態宣言が発令されました。
7月には、反対意見も多く挙がっているのに、なかば強引にオリンピックが開催されました。すると、「やるべきじゃない」と言っていたメディアも一転して報道をはじめた。オリンピックはメディアのイベントだから当然とはいえ、そこには大きな矛盾があります。誰かが「手のひら返し」と言っていたけど、何を信じていいかわからないのが「いま」でもある。戦争だって、現在から振り返れば「なぜあのとき、あんなことを」と思う。翻って「いまはどうなんだろう」と考えると、戦争がすぐにはじまるということではないけど、同じような抑圧は続いています。「集まるな」「しゃべるな」と、それまでと正反対のことを言われている子どもたちも、こういう状況をどうやって持ちこたえてゆくのかと思いますよね。感染防止のために必要なことだけど、この抑圧には戦争の時代に近い部分があるかもしれない。
映画は、いつどういう状況で見るかで、ずいぶん変わります。いま、本作を見るときにも、いろんなかたちの想像力が湧き出てくると思っています。「この時期に上映して何様ですか」と言う友達もいたけど(笑)、逆にこの時期だからこそ見てほしいとも思うんです。
本作に引用した『ニュース特報 東京裁判─世紀の判決』(1948)は、親父が構成・編集した作品です。でも親父たちは、その数年前まではプロパガンダ映画をつくっていた。最初に見たときは、とても欺瞞的だと感じました。それまで国策映画として撮った映像を逆の意味で、「戦争はいけない」と言うために使っている。でも、編集でずっと見ていると「それだけでもないかもしれない」と思うようになりました。東京裁判は社会的な戦争の総括です。その中身はともかく、戦争を裁いた。それを描いた作品は「7人が絞首刑になった」と示したあとに、憲法9条のテロップが写ります。
──国会議事堂のフルショットに、テロップを重ねています。
普通のニュースであれば「死刑になった」で終わっただろうし、特にいまなら、そういうつくり手の主観的なカットは「ニュースではない」とより強く排除されるでしょう。でも、それを堂々と入れた作品は、まだテレビのない時代の映画館では大喝采だったそうです。いま同じものをつくって映画館で上映しても、そうはならないよね。「あの憲法はGHQが仕込んだ法律だ」とか、社会にはいろんな考え方があります。ただし公開当時は違って、あの時代だから成立した。さらに遡ると、80年前のプロパガンダ映画も同じですよね。ジャワ島の至るところで上映して、2万人から3万人を集めたといいます。
──本作では巡回上映をおこなったエピソードも語られます。当時、映画を見た人も登場しますね。
ジャカルタなどの町には映画館が少しあったそうだけど、多くの村では映画なんて見たことない人がほとんどでした。その人たちに、プロパガンダ映画はものすごい勢いで浸透したと思うんです。当時の人々は、きっとびっくりしたでしょうね。リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895)を見た人たちが驚いて逃げ出したという言い伝えがあります。きっと親父のつくった映画にも、映像がもたらす驚きがあったんだと思う。親父の映画を80年前に見たジャワの人や、およそ70年前に『東京裁判─世紀の判決』を大喝采のなかで見た人の感覚は想像するしかないけど、それをいまの状況で見るとどうだろうか。いい意味で錯綜して、考えるに足るものがいくつもあるだろうし、見た人が考えてくれれば、つくった意義もあると思っています。
──本作は監督と娘の伊勢佳世さんが語り手をつとめておられます。語りがふたりに分かれることでも見る側は錯綜するかもしれませんが、結果的に映画の射程を広げています。佳世さんの起用は、編集前から考えておられたのでしょうか。
最後の仕上げのときでしたね。最初は、芝居をやっている娘がだいぶ上手になってきたから、という親心もありました(笑)。去年、羽仁進さんのドキュメンタリー(「映画監督 羽仁進の世界〜すべては”教室の子供たち”からはじまった〜」/NHK)を偶然見たら、それも娘がナレーションを読んでいて、なかなかよかったんです。それなら「伊勢真一の作品でも」と思いました。
そして、語り手によっても、さっきお話しした「自分のこと」に引き寄せられるかもしれないと考えました。最初は書いたものをすべて娘に読んでもらったんです。でも、映画には僕も出ている。それは恥ずかしいことでもあるけど、「実はよくわかってない自分」を、見る人にもう少し感じてもらったほうが正直でいいかなとも考えました。役割でいえば、僕が話しているのは私的な思いですね。東京で見てくれた、映像の仕事をしている人には「あの伊勢さんの語りはどうやって録ったんですか?」と訊かれました。
──モノローグにも、誰かに語りかけているようにも聞こえますね。
その微妙な感じはどう録ったのかと問われたんだけど、あれは撮影に同行した息子(伊勢朋矢)に向けて話しているんです。その声だけ編集して、モノローグとして画に当てました。
誰に向かって語るか? 語りには、対象が大きく作用します。しゃべるとは引き出されることとイコールで、相手が息子、あるいは学者、テレビのアナウンサーと変われば、その中身も変わってゆく。この映画では、モノローグに使うつもりで息子に向かって話す言葉を録って、ところどころに入れています。息子でないと語れないことも結構あるからね。
──長之助さんが手がけた『マラリア撲滅』の引用パートに一ヶ所だけ、監督の声をインサートしています。もとの素材の完成度が高いだけに、「身内贔屓といわれるかもしれないけど」ではじまるフレーズを挟み込むのは難しかったのではないでしょうか。
あそこは、客観的なふりをして語ることも出来たけど、どうせ身内贔屓なら思い切ってあれくらい言おうと思って(笑)。でも、むかしのフィルムを見て、本当によく出来ていると思いました。『マラリア撲滅』なんかは特にね。あの作品のスタッフは戦後、顕微鏡映画の第一人者になったり、アニメーターとして活躍されました。それにあの時代、未完成作も含めれば3年半で130本もつくっていたのには驚きます。日本ではフィルムのない状況だったのが、インドネシアでは軍の仕事だから潤沢に使えた。たとえプロパガンダ映画にしても、そんなに映画をつくり続けられたのはすごいと思う。その映画がそのまま残っていたのも、またすごいことです。
インドネシアの製作所に残っていたフィルムはもうバラバラで、日本に持ち帰ったものも駄目になっていました。フィルムの保存は難しい。でも、親父のいた日本映画社(日映)ジャワ支局を含めて、日本の製作会社のフィルムの扱いは杜撰でした。それをオランダが接収してから、ずっと保存してくれていた。『マラリア撲滅』のフィルムは、オランダ視聴覚アーカイブの保存庫の2階にきれいに整理・保管されていて、これはみんなに見てもらわなければと思いました。
──本作に使われた映像を見ると、ピカピカのプリントですね。
いい状態でしたね。戦中のプロパガンダ映画は、いま一般的にイメージされる映画とは違うものかもしれません。でも、80年後に見られることで新たな意味を持つことが出来ます。見て「話には聞いていたけど、こんなことをやっていたんだ」と思ったしね。日本国内でつくったものが残っているだけでも貴重だけど、インドネシアで、こういう映画がつくられていたことには驚きました。
──監督の語りに「誰にも知られず、見られることもありませんでした」という一節があります。そのようなフィルムも丁寧に蒐集・保存しているアーカイブの意義をあらためて感じました。
僕の知る限りでは、日本はあのフィルムを戻してほしいという交渉をまだ進めてないそうです。要するに、あれは負の遺産じゃないですか? それも器が小さいというか、ドイツの収容所問題への向き合い方とは大きく違いますよね。ヨーロッパでは、負の遺産も共有・保存する姿勢がかなり定着している。大英博物館が植民地から略奪してきたものをただ並べている問題もあるけど、次の世代にその問題をつなげていくときに、そういうものが何かを語りはじめるんです。日本はその点で、あまりにも腰が引けてますよね。特に現政権は、戦時中にアジアで撮ったフィルムなんて要らないと言うかもしれない。でも、インドネシアだけでなくアジア諸国を訪ねて、戦争とはいえ自分たちの先輩がしたひどいことに思いを馳せる、それは多くの人が共通して持っている体験ですよね。それでもアジアの問題はまだ疎かにされているし、外交でアメリカやヨーロッパに向けて色々やるのも戦前・戦中・戦後と変わってないように見えます。
──最近では、入国管理局の問題もそうですね。
むかしから残る、アジアの人々への意識がもとになって、いまでもああいう事件が起きているのかもしれない。「8月ジャーナリズム」は被害者としての日本を掘り下げるけど、12月8日、太平洋戦争開戦に至るまでのことはあまり語りません。比重でいえば、圧倒的に8月の情報のほうが多い。そういうことも含めて、アジアに対する認識が薄い状態がいまも続いていますね。
──本作に登場する戦争の記憶を持つ人々は、それぞれの日本や日本語に抱いているイメージを語り、ときに沈黙します。それから長之助さんが構成・編集された映像を見ると、厳密に演出しているのがわかります。戦時中に仕事をされたインドネシア国立映画製作所の編集室に、監督が入るシーンがありますよね。お父さまの仕事を受け継ぐように、そこもしっかり演出されています。
あのシーンは、自分が出て芝居をしているわけですよね。いまのドキュメンタリーの本道から見ると、ああいうのを好まない人もいるかもしれません。でも「親父はこれをずっとやってたんだ」と言葉で伝えるよりも、姿で見せたかった。特にフィルムを知らない世代に向けてね。どう思われるかは別として、僕もフィルムで育ったから親父に乗り移ってほしい、そんな気持ちもありました。
──演出面では、インタビューに応じてくれた人たちのクローズアップを終盤でつないでいます。その最後に、いま「ドキュメンタリー」と一般的に捉えられている多くの作品には見られない演出をしておられますね。
あれは「なんちゃって」みたいなものかな(笑)。あそこも含めて、映画全体に多重的な意味合いを持たせたかった。プロパガンダ映画は、徹底した「やらせ」ですよね。僕もPR映画を撮るときには、そういう「演出」をします。「ドキュメンタリーでやらせはいけない」と時々言われるけども、「やらせでない映画ってあるのかな」とも思いますよね。
親父は戦争についてほとんど語ろうとしなかった。その「語らないこと」で、自分は考え続けるようになりました。様々な局面で「語らないといけない」と言われることのほうが多いだろうけど、一方には「語らないこと」の重さもあって、語られると「あ、そうか」で済むことを、考えないといけなくなる。「演出」も、さっきも言った思考停止にならないように自分が受け止めて、見る人にも考えてもらえるものをつくるうえで必要な作業でした。
──多重性がよくあらわれていると感じたのは、野外上映のシーンで戦時中のプロパガンダ映画を見ながら、それに合わせて現代の子どもたちがインドネシア国歌を合唱する姿です。ここはフレームのなかで「いま」と「むかし」がつながっている。先ほど伺ったアジアの問題を考えざるを得ませんでした。
単純にカメラを置く位置だけでも、「やらせ」とまではいかずとも、映画はずいぶん変わりますよね。撮られるほうも「今日は本当のことを言おう」と思う人もいれば、「嘘ではないけど本心は隠しておこう」と思う人もいるでしょう。カメラがビデオになってからは、リップシンクで撮ることが日常化した。そうなると、どうしても「リップシンクで話していることは真実だ」と思われがちです。「この人がカメラの前でそう言ってるんだから本当だろう」ってね。よほどの悪意を持って嘘をつこうとしない限り、「本当のことを言いたくない」と思って話しても、リップシンクだとそれが真実だと受け取られてしまう。
ドキュメンタリー映画は、本来はモノローグや様々な要素を建築のように積み上げてつくられるものです。リップシンクで平面的に撮るだけじゃなく、もっと立体的であるべきだと思っています。そこへさらに光や音が混ざり合って、見る人がいろんなことを思い浮かべる。そうして注意深く見てもらうと、挙げていただいた野外上映のシーンももちろんそうだし、たとえ無意識で自分がやったことでも、多義的に受け止めてもらえる可能性があるんじゃないかと思います。二度、三度と見に来てくれる人がいるのは、そういう部分に反応してくれたのかもしれませんね。
──「戦争」というテーマだけでなく、監督の『奈緒ちゃん』シリーズに連なる家族映画、フィルムやアーカイブをめぐる物語、エッセイ映画の趣も感じる広がりのある作品ですね。蓮實重彥さんが『見るレッスン 映画史特別講義』(2020/光文社新書)で『えんとこの歌』について書かれた文章は読まれましたか? 「ひどいショットが一つもない」と賞賛されています。
蓮實さんが立教大学で教えていた頃から面識があって、彼はその後、ゴダール論なども書くようになって、教え子には黒沢清さんたちがいます。僕はそれより前の世代だから、関係性も違って、そんなに親しいわけでもないんだけど、映画をしっかり見る人なので嬉しかったですね。本作も「見ませんか?」と案内の葉書を送りました。すると外出禁止令が出ていたらしく、「見たいけど見られないんです」とメールが届きました(笑)。
──先ごろ、アテネ・フランセ文化センターで堀禎一さん[1969-2017]の特集上映がおこなわれて、監督の『えんとこ』(1999)もプログラムされました。堀さんは生前、監督の映画をずっと熱心にご覧になっていたそうです。そのことはご存じでしたか?
堀さんのことはまったく知らなかったけど、特集の機会に『天竜区』シリーズ(2014-2017)を見せてもらうと、よかったですね。僕の作品を見ていたのも知らなくて、「片思い」してくれていたんだなと思って、少し照れくさくなりました(笑)。そうして堀さんや蓮實さんに映画として評価してもらえるのは、素直に言って喜びですよね。「なんかわからないけどいいよね、あいつ」と言ってもらえたと受け止めています。
──そして今回の大阪の関連上映には、『ルーペ ─カメラマン瀬川順一の眼─』(1996)もプログラムされています。『ルーペ』で問われる「撮られなかったカット」は本作の「語られなかった言葉」に通じるように思えますし、ほかにも共通点の多い作品ではないでしょうか。
いろんなことが重なっていますね。本作で話している通り、親父は僕が幼いときに家を出て行ったので、瀬川さんが父親代わりのような存在でした。その「父親」のモチーフもそうだし、ふたりとも映画人で瀬川さんはキャメラマン、親父は編集者だった。『ルーペ』で瀬川さんが「いるけどいない」と言います。つまり「作品が出来上がれば、それは監督のものになって、俺たちはいなくなるんだ」と。親父もきっと、ずっとそう思っていたに違いない。『公式長編記録映画 日本万国博』(1970)の構成・編集は親父が手がけているけど、監督の谷口千吉の名前だけが残っています。『ルーペ』にも映画人のそうした、いい意味でのつっぱりや矜持が写っているし、あの時代に戦争と関わらざるを得なかった映画人という点も通じていますね。
──関連上映では、長之助さんの監督作『森と人の対話』(1972/撮影は瀬川順一)も見ることが出来ます。そこからも「いまはむかし、むかしはいま」を感じていただきたいですね。本日はありがとうございました。
(2021年9月25日 大阪・シアターセブンにて)
取材・文/吉野大地