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『さとにきたらええやん』 重江良樹監督インタビュー

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38年に渡り、大阪市西成区釜ヶ崎に子どもの居場所としてあり続ける「こどもの里」。そこに集う子どもたちと家族、職員や街が持つ様々な表情をとらえた『さとにきたらええやん』が関西で公開中だ。ともすれば社会派に傾きがちなテーマを、タイトルが示す通り、親しみを感じさせるタッチでまとめ上げた1時間40分のドキュメンタリー。1984年大阪生まれの重江良樹監督、そして構成も担当している大澤一生プロデューサーにインタビューをおこなった。

 

──監督は大阪のご出身ですが、東西南北でいえばどのあたりでしょう。

北ですね。この(十三の)近くで、いまは西成です。

──ビジュアルアーツ専門学校に進学された理由を教えていただけますか?

ビデオ・ジャーナリストになりたいと思っていて、「なれます」という学校の説明を聞いて、そのまま入っちゃました。

──当時はジャーナリストを目指しておられたのでしょうか?

そうですね。ジャーナリズムだけでもないけど、世の中で起きている理不尽なことに対して、自分が何か出来るんじゃないかとは考えていましたね。

──正義感の強い青年でしたか?

正義感というよりは「納得いかん」というか(笑)。

──それは社会のどんなことに対してでしょう?

19歳くらいのときに見聞きしていた中東問題や、戦争の報道のされ方が不思議でした。すごく悲しいことが海の向こうで起きているのに、いまひとつ自分の心に入ってこない感覚があったんです。

──しかし、監督の長編第1作となる本作は、ジャーナリズムを目指す映画とは異なる仕上がりになっているように思いました。

それはすごく意図しました。説明的なドキュメンタリーというよりは、情報量も説明も少ないけれど、見た人の感情に響くような映画になればいいなと思っていました。

──ナレーションは無く、テロップもごくわずかですが、決して情報が乏しいわけではないですよね。冒頭の数分だけでも釜ヶ崎の風景や、「こどもの里」(以下、「さと」)の賑やかな様子など、とても多くのものが映っています。

そうですね。あの5分くらいに、街と「さと」の一日とをぎゅっと詰め込んでいるので。

──喧騒を体感させるつくりですね。オープニングショットは、少年が自転車で街を走り抜ける姿をうしろから撮っています。あそこで使っているカメラはGoProですか?

いえ、あれは家庭用の小さなハンディカムに、手ぶれ補正を入れて撮っています。固定したり、色々と試してみたんですが、手持ちがいちばんブレずに振動が少なかったんです。自転車に据え付けると細かい振動を拾ってしまう。片手運転で、手持ちで撮る画がいちばんきれいでした。

──あの移動撮影は、本作の監督と被写体との距離感を示しているようにも見えました。追い越さず、置いていかれず、一定の程よい間隔を保っています。

satoni01そうですね。僕の持っていた距離感って、ああいう感じでした。そこまで狙ってはいないですが、あの自転車を漕いでいる中学生の男の子が、釜ヶ崎を案内してくれて、その真ん中にある「さと」に誘導してくれるという。かつての僕もそうだし、映画を見る人も連れて行かれるイメージですね。

──スムーズな導入で、ラストではそれに呼応するショットが見られますね。撮影を始めるまでに、「さと」へ5年間通われたそうですが、どれくらいのペースで足を運んでおられたのでしょう?

もともと学生のときに偶然出会い、ぽつぽつと通っていたんですけど、学校が夜間だったので、日中の子供たちの放課後の時間に行ったりとか。働き出してからは、自分のスケジュール優先でシフトを組める仕事だったので、さとに行く日を優先するようになりましたね。

──当時の監督はまだ20代ですよね。賑やかな街、たとえば梅田や心斎橋などで遊びたいとは思われなかったのでしょうか。

中学校を出て仕事をして、お金を稼ぐ大変さや使う楽しさを十代で知ったので、もう「遊びたい」とはあまり思わなかったんですよね。だから映像学校にも22歳で通い始めて、「何かを勉強したい」という思いが強かったですね。

──釜ヶ崎へ通い出した理由には、都会に近いところで育った反動もありましたか?

そうですね。僕の生まれた街には「下町感」があまりなくて、大阪市の端のほうの、団地がいっぱいあるような新興住宅地でした。「ザ・下町」みたいな街のつくりではなかったですね。ただ決して都会でもなく、団地が建っていて公園があるというだけの街でした。

──初めて西成に行かれたときの印象はどのようなものでしたか?

運送屋の仕事もしていて、そのときにも釜ヶ崎に行ったりはしていたんです。当時は、「汚いおっさんばっかりやなあ」と偏見の目で見ていたし、いざ「さと」と出会う日に釜ヶ崎を歩いていても、「おっさんの多い街だな」と感じていました。最初は、「暴動」「ホームレス」「日雇い労働者」というネガティヴなイメージと、「怖い街」という偏見がありましたね。

──それが通い始めることになるとは、不思議な縁ですね。

satoni02「さと」に行ったその日に子どもたちと遊んだんですが、この街に子供がいるとはまったく思っていなかったので、それが不思議でした。「さと」のなかに入って子どもに「名前はなんていうん?」と訊かれて、重江なので「シゲ」だと言うと、「シゲか。遊ぼうや!」みたいなノリで(笑)。閉館時間まで遊んで「長居したな」と思っていたら、職員の人が「また来てください」と言ってくれた。「いいんですか? じゃあまた来ます」と返事をして帰って、そこから続きましたね。

──その後の5年を撮影の準備期間として捉えると、非常に長い時間です。

その5年間は「撮りたい」とか映画にしようとか、まったく考えなかったんですよね。喩えとして適切かどうかわからないですが、週に1回、行きつけの居酒屋に行く、もしくは2回ジムに通うのと、たぶん同じ感覚だったと思うんです。そうして「さと」へ行くのが息抜きでもあったし、楽しみにもなっていた。行けば行くだけ関係性が出来てきて、こちらも心地いいし、たぶん相手もまずまず喜んでくれていたと思うし、活動もいろんなことをしている。変わったというか、学校やテレビでは学べないことをいっぱい教えてくれるので、楽しみつつ学びつつの5年間でした。撮影とか言い出すと、「こんなに居心地いいのに、関係性が壊れてしまうやん」とも思ったので、撮ることは考えなかったですね。

──「さと」の子どもたちは、それぞれ家庭の事情を持っています。通い出した当初からそういうことに関心を持たれていましたか?

satoni03いや、最初は学生の軽いノリで無知でしたね。あとになって少しずつ教わっていきました。子どもたちが夜回りして、野宿しているおっちゃん達に声をかける場面がありますが、あれは夜中に出かける前に、1時間半くらいの学習会をやっています。毎年色々なテーマでおこなっていて、野宿をしている人たちがどういう生き方をしてきて、なぜ野宿しているのかというところから話を始めるんですよね。世間からすれば「どうでもいい」と思われるかもしれないことを丁寧に教えてくれて、僕も勉強になりました。

──釜ヶ崎を出て夜回りしている子どもたちは成熟した、「さと」にいるときの無邪気さとは別の表情を持っているようにも見えました。

「さと」は子どもたちが多くの人と出会える場で、本当に様々な人が出入りするし、そのなかでいろんなことをやらせてもらえる。誰が来てもいい場所ですが、相対的に見るとやっぱり何かしら、しんどいことを抱えている子どもが多い。そういうしんどさや、「これは嫌だな」という痛みのようなものを知っている子たちは、自分が痛みを知っている分、他人にやさしくなれるのかなと見ていて思いますね。

──3年前に大阪市が「こどもの家」事業を廃止したことが撮影のひとつの契機になったそうですが、撮り進めるなかで、素材を見たビジュアルアーツ専門学校の先輩である小谷忠典監督から、「被写体との距離が遠い」という意見があったとか?

ちゃんとしたドキュメンタリーを撮るのは初めてで、緊張感のある、ピンと空気の張っているときに、カメラを持ってぐっと寄っていくのはなかなか難しいことでした。経験のあるプロなら行けたんでしょうけど、空気感を壊さずにどこまで寄ればいいのか全くわからなかったし、カメラマンや監督ではない、ただのひとりの人間だったんですよね。小谷さんに「その考えは甘いし、(撮られる人に)失礼だ」と厳しく言われました。

──本作は監督が撮影も兼ねています。もしカメラマンとの2人体制なら、撮るものもだいぶ変わっていたのではないでしょうか。

satoni07そうですね。いい方向に変わったかもしれないし、悪くなっていたかもしれないですね。最初の5年間の関係性があっての撮影だったので、そこにカメラマンをひとり入れたとすれば、その人が「さと」や子どもたちとどう関わりながらやっていけるのかはわからない部分なので。誰かと一緒にやりたいと思うことも多々ありましたけど(笑)、いまとなっては、ひとりで撮影してきてよかったなと思いますね。

──SHINGO★西成さんのライブシーンも撮影はおひとりで?

そうです。舞台袖から客席方向、それと祭の櫓の上から。行ったり来たりしましたね(笑)。

──撮影期間は2年に及びます。続けられた大きな理由は?

続けられた理由……、何とかメシを食えたからじゃないですかね(笑)。もちろん、「さと」が大好きで、自分から撮らせてもらいに行っていることが大前提としてありました。でも、食べていけたからでしょうね。最初はどれくらい撮影に通って、どれくらい仕事をすればいいのか、バランスも全然わからなかったので。はじめはほとんど仕事もせずに通い詰めていましたが、あっという間にお金が無くなりました。

──撮影素材はどのくらいありましたか?

トータルで500時間くらいですね。

──撮り始めてからは、対象になる子どもを自然に絞り込めましたか?

そうですね。「気になるな、おもしろいな、撮りたいな」と思える子は何人かいましたが、通ってくる子のなかでも、たまにしか来ない子だとなかなか難しいですよね。それと、「さと」には学童保育事業、緊急一時宿泊、ファミリーホームの三本柱があります。どの子も魅力的で、思い入れはありましたが、撮れる頻度や3つの事業との兼ね合いなどを考えた結果、映画に出てくる主要な3人の子に絞られました。

──撮影のゴールは、映画のラストに合わせて設定されたのでしょうか。どのような撮影プランをお持ちでしたか?

satoni051年撮ってみて、子供たちのことは結構撮れたという思いがありました。でも、何か違う。一緒に住んでいなくても子どもたちは親の話をするし、やっぱり大好きなんですよね。僕自身も、「子どもたちがこんなに親のことを好きだと言う理由はどこにあるのかな?」とか「どんな親なんだろう?」と考えていたし、館長の荘保共子さんがいつも言っていた言葉が、「子どもにとって親は宝であり、子どもが抱えるしんどさは、その親のしんどさである」。それは撮影を始める前から勉強させてもらったことのひとつでもありました。だから2年めは、親御さんの話を聞きたいと思った。また、撮影を始めたのは4月でした。それから2年後はメインで出ている3人の節目──卒業だったり入学だったり──の時期でもあったので、2年めに突入したときに、「ポイントはそこだな」と考えました。

──メインのひとりは、母親と少し離れて「さと」に住む女子高校生です。監督は、彼女と同時にお母さんも撮影されている。両方を知る立場から、どんなことを感じておられましたか?

長いあいだ一緒に住んでないけど、お互い思いやっているのは撮影しながら知っていました。ふたりを切り離さず、うまくバランスを取りながら、いい距離で暮らしていけるように調整しているのが「さと」だと思ったんですよね。子どもが親から切り離されて施設に入れられる「措置」ではなく、うまく家の近所で寝泊りが出来て、親の状態を見ながら距離感を保てる「さと」の在り方がいいなと思ったし、里親である荘保さんも含めて、そのような家族のかたちでもいいんじゃないかな。そう感じましたね。

──監督は初めて「さと」を訪れた際に、荘保さんに「何でこんなところで子どもの施設をやっているんですか?」と質問されたそうですね。撮影を終えて、その答えは見つかりましたか?

必要だったし、「やりたい」と強く思う人がいたからでしょうね。

──本作ではその「さと」から、釜ヶ崎のコミュニティの姿も見えてきます。

satoni06釜ヶ崎ってむかしから、ちょっとしんどかったり、貧しかったり、社会からはみ出した人たちがいた町です。細かく言うと、行政から追いやられてきた節もありますが、それは措いても、そういう人たちが集まる町だからこそ支援をする人や、「一緒に何とかしようや」という人もいっぱい集まる。宣伝で「人情が色濃く残る町」とも言っていますが、そういう部分もありながら冷酷な現実もあって、路上で誰にも看取られず亡くなる人がいれば、「シノギ」という野宿者同士の盗みも起こる。きれいごとばかりじゃないですけど、僕はこの町のことが好きやし、いろんな支援団体や個人がいて、でも「救いの手を差し伸べる」という人は自分の知っている範囲ではいない。「むっちゃ普通にやってる」というか(笑)。「さと」の職員の人にしても、子どもが好きで働いていたり、大変そうだから相談を受けたり一緒に学校へ行ったりと、仕事であり仕事じゃない。「さと」という場所自体が、ハコを与えられて「はいどうぞ、やってください」というシステムではなく、「これがやりたい」という何もないところから人が集まり、そこへ子どもたちもやって来た。そうして始まった場所の強みを感じましたね。

──そのような町を映しているので、社会派のドキュメンタリーにも出来たと思うんです。しかし最初にもお話ししたように、本作はそういうつくりとは違いますね。

「きっちり情報を示して、きっちり見せまっせ」とか、「手持ち撮影で、テロップが無いなんて有り得ない」という意味での真面目なドキュメンタリーよりは、最低限の情報だけでいろんなことを想像できたり、感じたことが間違っていたとしても、感情に迫るものが僕は好きだし。この映画をおもしろくないドキュメンタリーにはしたくなかったんですよね。

──何かを想像させる場面として、夜の釜ヶ崎の実景ショットが終盤にあり、それまで監督の視点で構成されていた映画の転換点になっています。あのショットについてお話しいただけますか?

ざっくばらんに言うと、荘保さんが生死の境をさまよう。そのときに子どもたちの心配そうな様子から音楽が入って実景へと流れていくんですが、やっぱり「人の生死のなかのひと晩」ということで、路上で亡くなった人が大勢いる街の歴史と、人の生き死にをぼんやりと示したかったんですよね。自動販売機の光の前に人はいないけど、空き缶と靴がある。そのどこかに人がいたということですからね。音楽は後付けで、「何か入れたい。画だけじゃ弱いし、でも中途半端には入れられないし」と思っていて、そこにSHINGO★西成さんの素晴らしい歌を当ててみたら、あんなにハマると思わなかったのがドハマりした。歌自体のメッセージ性が強いので、こちらの意図とは外れていても、聴きながらいろんなことを想像してもらえたらと思います。

──音については、同席されているプロデューサーの大澤一生さんにもお話を伺いたいのですが、ここ数年、手がけた幾つかの作品にポピュラー・ソングを効果的に使っておられますね。『ドキュメンタリー映画 100 万回生きたねこ』(2012/小谷忠典)ではコーネリアス、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(2013/太田信吾)では青葉市子さん。ヒップホップも広義のポピュラー・ソングだとして、本作のSHINGO★西成さんの音楽に関してお話しいただけますか?

satoni04大澤:SHINGO★西成さんのPVを見ると、よく地元で撮られているんですね。あいりん労働福祉センターであったり、西成の街並みのなかで撮影されている。それを考えたら、ハマらないわけはない。そしてこの映画では、言葉がある種の鍵になるポピュラー・ソングが感情に寄り添うだけでなく、俯瞰で見てくれるポジションにある。少し引いた目線に連れて行ってくれる構成要素として生きてくるんじゃないかと思ったんです。あと、SHINGOさんの歌自体はヒップホップのスタイルを採っていますが、演歌のような「歌心」があるんですよね。いま、こういう歌心のある曲をつくれる人はなかなかいないんじゃないかなと。それがこの街と、「さと」の在り方とすごくリンクしていて、途中から「いわゆる劇伴として入れてみたらいいんじゃないか」と監督と話しながら決めました。

──主張し過ぎず、きれいにハマっていますよね。

僕と編集の辻井潔さんは、「歌、合うだろうか」、と言っていたんですが、「一回やってみろ」と言われて、試したらハマッたという(笑)。

──大澤さんは本作の構成も担当されています。

大澤:脚本制作に近いものですね。ドキュメンタリーは編集で脚本をつくっていくようなものなので。

──プロデューサーとして、監督とはどのような作業をメインにおこなわれましたか?

大澤:今回は、重江監督の伝えたいことが明確にありました。「こどもの里という場所があって、こういう魅力的な子どもたちがいる。子どもだけでなく、親や社会の状況も含めて『さと』のことを世に伝えたい」という意図がはっきりあった。ただ、そのメッセージを映画として伝えていくためにはどうすればいいのか? ストーリーテリングであったり、映画的な映像言語、編集言語に置き換えていく作業を、僕と編集の辻井君でサポートしました。

──そのようにして完成した作品の劇場公開が始まり、監督はどのような手応えを感じておられるでしょう。

いろんな方が声をかけてくれて、やっぱり嬉しいですよね。劇場へ一緒に来た子どもたちにもお客さんが「よかったよ。がんばったね」と言ってくれると、彼らも僕も嬉しい。その「よかった」という声が広がっていけばと思いますね。

──それでは最後にひとことお願いします。

「おもしろいですよ、ドキュメンタリーのくせに」って感じです(笑)。ぜひ見てください。

(2016年6月13日 大阪・十三にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

映画『さとにきたらええやん』公式サイト
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