インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

筒井武文監督ロング・インタビュー
──『筒井武文監督特集Part1』によせて──(前編)

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「レディメイド」

昨年の神戸ドキュメンタリー映画祭での『バッハの肖像』(2010)上映から1年を経て、初期2作品をプログラムした『筒井武文監督特集Part1』が開催される。特集に向けてのインタビュー前編では、少年時代から美術浪人を経て東京造形大学へ入学、今回上映される初の長編作『レディメイド』(82)制作までを振り返ってもらった。

──今日は作品のことに限らず、色々とお話を訊かせて下さい。まず、筒井監督が初めてご覧になった映画は何だったんでしょう?

おそらく、ジョシュア・ローガン監督の『サヨナラ』(57)。生まれたばかりの頃なので、勿論記憶は無いです。主演女優は高美以子さん。マーロン・ブランドの相手役ですが、高さんは僕の伯母さんなんですよ。生まれたばかりの僕が、映画館の前で高美以子さんに抱っこされている写真がありました(笑)。

──取材早々にそんな事実が(笑)。監督は『サヨナラ』の公開と同じ1957年、熊本のお生まれでしたよね。

はい、母の実家で。6歳の時に三重県の伊勢市に引越しました。映画館の雰囲気は小さな頃から好きでしたね。

──少し意外なのが、『ゆめボー読本』(『ゆめこの大冒険』パンフレット)によれば、中高生の頃は映画より美術に傾倒されていたということです。

ええ、ずっと絵のほうでしたね。美大を受けるつもりでいましたし、それで上京しました。

──三重におられた十代の頃のことをお話いただけますか?

簡単に言えば、中学1年生の頃はちょっと印象派ぽい絵を描いてたんですよね。その次がシュルレアリスムふうに。中2の時だったか、夏休みに茅ヶ崎にいる親戚の家に一ヶ月間遊びに行ったんです。それで銀座や京橋の画廊を回ったり、現代美術に触れて、一気に意識が目覚めちゃいましてね。アクションペインティングからポップアート、コンセプチュアルアートまで、そのあたりの志向がすごく強くなっちゃったんです。そこで一挙にグレてしまい、いわゆる中学・高校の勉強が馬鹿馬鹿しくなってサボっちゃった(笑)。「これでは普通の大学には進学出来ない」と思って、「美大しかない」に至った事情も無くはない感じですかね(笑)。

──ドロップアウトというか、一歩道を踏み外されてしまった?

美術に目覚めちゃうと、体制の中で成功していい学校に行っていいところに就職して、という考えへの反発がどうしても出て来ますよね。たしか、高校1年生の夏休みあたりから成績が急降下しはじめたと思うんですよ(笑)。

──筒井監督作品に見られるキャメラの下降運動さながらに(笑)

あとは音楽も好きでした。演奏できるわけではないけど、指揮を専攻していた先輩のところに入り浸って聴いたりしていましたね。

──では映画とは、それほど濃い付き合いではなかったんですね。

高校の頃は薄かったかな。でも、中学生の時の僕のアイドルはアラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドだったので、彼らの出ている映画は必ず観に行ってましたよ。

──お話からは当時の一般的な中学生とだいぶ違う姿を想像します。

いや、普通の少年ですよ!(笑)。要するにスターで映画を観るというね。監督が映画を作るという意識もやはり薄かったですね。

──なるほど。美術を志して上京なさってからは、どのような生活を送っておられました?

受験に失敗して、美術の予備校に通っていました。すると、列車の窓から駅のホームに貼ってある色んなポスターが見えるわけです。ベルイマンの3本立てとかね。でも上京して1年めは、「映画なんて観てる暇はない」という感じで映画館に行かないように意識して、『ぴあ』も買わずに過ごしていました。たぶん上京してからの1年間、映画館で観たのって3本くらいしかないと思う。どうしても観たくて観たのがパゾリーニの『ソドムの市』(76)です。

──3本のうちの1本がパゾリーニということはここでは保留しておくとして(笑)、現代美術をお好きな筒井青年が、駅に貼られた映画ポスターに古さや野暮ったさを感じることはありませんでしたか?

当時の僕の意識は、完全にミニマルアートやコンセプチュアルアート、あるいはカラーフィールド・ペインティングに向いていて、バーネット・ニューマンやジャクソン・ポロック、モーリス・ルイスやフランク・ステラのようなものがやりたかった。でも、いきなりそういう絵を描いても入試には落っこちるんです(笑)。自由課題にも出してたし、馬鹿と言えば馬鹿なんですよね。「こんなの落とされるに決まってるだろう」という作品を創ってました。つっぱってましたね(笑)。結果、浪人が重なってしまい、予備校に通っていても結構時間が空くようになるんですよ。それで上京3年めに新宿アート・ビレッジ、フィルムセンター、アテネ・フランセ文化センターなどの特集にハマッてしまった。覚えているのはフィルムセンターの溝口健二特集であったり、アテネ・フランセのアラン・レネ特集やアラン・ロブ=グリエ特集。そこらへんが通い出した最初の頃だったと思うんです。あとは新宿アート・ビレッジで過去のサイレント作品とかも。それで観ていくうちに昔の映画、1920年代までの映画のほうが面白いなと思いはじめたんですね。同時に、アヴァンギャルドな作品を中心に展示している東京画廊や南画廊などの画廊巡りもしていたので、20歳前後は古い映画と現代美術の両極の面白さに惹かれていた時代だと言えますね。

──古典とモダンが共存していたんですね。映像に対する意識の変化もあったのでしょうか?

漠然と「映像を使った仕事をしてみたいな」という気持ちも芽生えはじめていたんです。ビデオを使ったコンセプチュアルアートであるとか、あとは個人映画、自主映画の類ですね。アメリカのアンダーグラウンド映画もその頃に観ていましたので。ただ、美術の一領域として何か撮れるかなとは思ったけど、映画を撮ろうとは全然思っていなかった。

──では、映画を撮ろうと思い立たれたのはさらに後のこと?

上京して3年目までは、油絵科しか受けてなかったんですよ。3年めに初めて東京造形大を受験したんだけど、デザイン学科に映像専攻もあったんです。「じゃあついでにこっちも受けてみようかな」と思って受験したら、映像専攻に受かった。コースは写真と映画なんですが、自動的にそっちへ進むことになりました。

──造形大は油絵でも受験されたんですね。

うん、落ちた(笑)。

──いま振り返ると、結果として良かったとも思います(笑)。このあたりから筒井監督と映画の関わりが本格的に深まって来るんですよね。大学に入ってからは、どんな学生生活を送っていたんでしょう?

1年生と2年生の頃は、ほとんど大学をサボッて映画館にばかり入り浸っていました。

──筒井監督の伝説、「学校にフィルムを持ち込んでまで観ていた」のもその頃?

それは3年になってから。1年めと2年めは、大学にほとんど行かず都心の映画館に行ってました。造形大があるのはJR中央線の一番外れ、高尾なんですよね。先へ行くと甲府のほうなので、大学へ行ってしまうともう映画なんて観られないわけですよ(笑)。だから、中央線を大学とは逆方向に向かってたんです。でも、一応進級しないといけないじゃないですか?だから友人に出席カードを出してもらったり代返してもらったりして、何とかギリギリで単位に必要な出席日数の3分の2を確保した。非常に悪い学生でした(笑)。それで3年になると、16ミリで映画実習がはじまるんですよ。そこで写真か映画かのコースが決まる。16ミリの実習があるということで、3年からはかなり真面目に大学へ行ったんです(笑)。

──ようやく、いわゆるキャンパスライフがスタートしたんですね。

そうですね。同じように出席していなかった学生がもうひとり居て、それが諏訪敦彦監督ですね。諏訪さんは映画を観に行ってたんじゃなくて、山本政志さんや長崎俊一さん、山川直人さんの助監督をしていた。現場に行って学校にほとんど来ていなかったという。ヨドバシカメラで、8ミリフィルムを盗んで捕まったというエピソードがありますが、まあ彼は自主映画界の英雄でしたね。

──おふたりともに悪い学生だったと(笑)。初の監督作『6と9』(81)も16ミリ作品ですよね。その前には8ミリで撮られていたんでしょうか?

僕は8ミリで撮ったことがないんですよ。いきなり16ミリだったので。ただ、自分が劇映画の監督を出来るなんて考えてもいなかった。あのう、当時は内向的で、人見知りをする性格だったんです。スタッフを集めて監督できたのは、西村朗くんという同級生の力なんです。何せ大学に行ってなかったから、同級生で顔と名前が一致するのは、4、5人なんです。向こうも僕を知らない。その数少ないひとりが西村くん。僕のことを凄いんだと周りに言って、スタッフを集めてくれた。彼は卒業後、電通PRセンターに就職するんだけど、『ゆめこの大冒険』(86)のプロデューサーもやってくれて、2年分のボーナスを全部映画につぎ込んでくれた恩人なんです。

──そうした繋がりがあったんですね。習作的な『6と9』に続く長編、今回上映される『レディメイド』(82)のクレジットには「シネトラクト制作作品」とあります。これはどのようなグループでした?

ready_made01「シネトラクト」は上映活動のために作ったんです。主なメンバーは、西村くんと高瀬伸一くん。最初に上映したのが吉田喜重監督の『嵐を呼ぶ十八人』(63)。あとはニコラス・レイの『にがい勝利』(57)とか、ロバート・アルドリッチの『怒りの丘』(59)など何回かやりましたね。学内で日仏学院の16ミリ・フィルムを持ち込んでの上映もあったんだけど、都心のほうでホールを借りて上映していました。その団体の名称に「シネトラクト」と付けていた。『嵐を呼ぶ十八人』の上映パンフレット用に、吉田喜重監督にインタビューを受けていただいたことが、僕の人生を変えましたね。それまでは単に映画の受け手だったのだけど、何かしら主体的に動こうというふうになってくる。

──上映から映画づくりへ、ということですね。そこで制作の源になったものは何だったんでしょう?

たぶんこれは僕の特殊な事情なんだけど、何かに後押しされないと撮らない。撮らないというか形式主義者なものですから、『レディメイド』のいちばん大きなモチベーションは、「16ミリでシネマスコープ映画が撮れる」ということだったんですよ。「シネスコで撮れる、じゃあ撮ってみよう」と思ったんですね。なぜ16ミリで撮れたかかと言うと、シネスコの撮影用レンズは35ミリしかない。それがアリフレックスのキャメラだとマウントが同じなので、16ミリに35ミリのレンズを付けられるんですね。そうして16ミリでシネスコを撮れることを知って、当時造形大に教えに来ていたキャメラマンの赤松龍彦さんが日本シネセルというPR映画の会社の社員でもあり、そこに35ミリのシネスコレンズがあることも教えてもらった。そのレンズを造形大にあったアリフレックスのSTに付ければ16ミリでもシネスコが撮れるとわかって、何本か短編も撮っていたんです。さらに「モノクロ映画を撮ろう」ということで企画がはじまりました。だから撮りたいものがあって撮ろうと思ったわけではなく、「シネスコをモノクロで」ということからモチベーションが湧いたんです。

──さっき、コンセプチュアルアートをお好きだったとお聞きしましたが、『レディメイド』もコンセプトが先行していたんですね。

そうでしたね。もうひとつは、周りでも自主映画を撮ってる人は沢山いたけど、「僕が撮ったらもう少しまともなものが出来るんじゃないか?」といけないことを思ったりもしました、はい(笑)。

──撮る人が多く、競争心も強い時代だったかと思います。しかし、そこで、16ミリ/シネスコで撮ろうという人も少なかったのでは?

いなかったですね。ただ当時の造形大の教授に中川邦彦さんがおられて、中川さんはロブ=グリエの親友でもあり、彼の原作で短編映画を撮っていた。そのうちの一本『浜辺、はるかに』(77)はその形式で撮られています。この作品にも赤松さんが協力して撮影していたと思うんですけど、そこで16ミリのシネスコ映画というものを観てはいたんです。

──赤松さん、中川さんのお名前は『レディメイド』のクレジットにも見られます。筒井青年は、シネスコのどういった点に惹かれていたんでしょう?

シネスコはいいですね、惹かれます。「映画」という感じがしますねえ。それとね、人と同じことをするのが嫌いなんですよ(笑)。人がやっていないことをやりたがる癖があって(笑)。

──それは監督らしいというか(笑)。本格的な初作品のタイトルが『レディメイド』であるのにも、色んな含みがあると感じるんです。

ええ、個人的には色んな含みがあります。

──初の長編なら、もう少し気負いを感じるタイトルを選ぶ人が多いように思います。2007年の特集上映にあたり、葛生賢さんが書かれた『筒井武文のワンダーランドへ』では、映画史との関連からタイトルが読み解かれています。その通り、出発点に『レディメイド』という題を置くのは一つの表明とも受け取れるのですが?

『レディメイド』って「既製品」。「これは前に撮られている映画ですよ」という意味もありますね。特殊なものがあるわけでもないという宣言でもあるし、由来は勿論デュシャンです。でも基本的に撮っている時は、コンセプトを離れて映画を撮ろうと必死ですよ。観た人が面白がってくれるものを撮りたい。ただし「自分が観て面白くないものは人が観ても面白くないだろう」と、つい自分が面白いと思えることに走ってしまうんですね(笑)。さらに『レディメイド』の響きで言えば、「貴婦人とメイド(LADY/MAID)」という女性の二面性みたいな意味にもなるんですよね。そういう両義性も少し込めてはいます。

──両義性は、その後の筒井監督作品を貫くものでもあります。

それから当時の僕が「何が撮れるだろう?何を撮ればいいんだろう?」と考えていたかを振り返ると、『レディメイド』の前の作品『6と9』はカンニングをモチーフにした作品なんですよね。

──犬童一心さんが学生役で出演されているんですね。

readymade026と9が間違えて見える。試験場から窓の外にサインを送った人は6のつもりなのに、紙をひっくり返したせいで9に見えてしまい、その間違えた答えを必死に覚えた犬童さんが最後にちょっと遅れて試験にやって来るという話なんです。ヒッチコックの『裏窓』(54)の煙草の灯りのように、中にライトを入れて黒いボックスに9の文字をくり抜いた、象徴的なショットも撮ったけど編集でカットしました。何かしらコメディチックなものを目指していたんでしょうね。『レディメイド』のストーリーを思い付いたきっかけは、ある日、犬童さんの家に夜中に行ったんですよ。行くと玄関に居たので「一心!」と声をかけて相手が振り向いたら、一心にそっくりだけど彼じゃないんですよ。弟さんだった(笑)。そこで「こんなに似てるのなら、ふたりを出して人違いの話にしたらどうかな?」と思った。それから子供がふたり出てきますよね、6歳の志紋と4歳の麻衣。彼らはいとこの子どもで、僕はすごく可愛がっていたので、その子たちを出したいという思いもあった。ふたりが遊園地で迷子になって、そこには同じような格好をした男性が3人と、問題を抱えた3組のカップルも居るという話をでっち上げたのかな。そういう経緯だったと思います。

──では、当時筒井監督の周りにあった現実の要素がかなり取り込まれていた?

はい。だからすごく抽象的なものと具体的なものがどこかで結び付いて、こういう変てこりんな映画になったんでしょうね(笑)。

──筒井監督の得意な手法、ワイプが既に使われていますね。

これもやっぱり「映画だ」という気がするんです。成り立ちは舞台の上の幕なんでしょうけど、ワイプでの鮮やかな空間の転換は、繋ぎに意味を込められる。消えてゆく画面と出て来る画面で空間的な驚きが徐々に増してゆくとか、あるいは皮肉な効果を出すとかね。そういう空間上の意味を狙える手法だから好きなのかな。あとね、ワイプって単純に「快楽」なんですよ。人が歩いているのに合わせてスッとやると気持ちいいじゃないですか?それに色んな方向に作れますからね、斜めにも行けるし。メリーゴーラウンドのシーンでは、その速度に合わせると気持ちいいんですよね。

ready_made02──気持ち良さと表現がどう連結しているかは、筒井監督の映画の大きなポイントかと思います。また『レディメイド』には、「1982年の豊島園のドキュメント」に見えるような瞬間があります。そのように撮ろうという意図はお持ちだったんでしょうか?

うん、同時録音にこだわったんです。それでノイズの大きい、特に前半は台詞が聴きづらい音設計になってしまったんですけどね。何だろう……フィクションを撮ることに対する踏ん切りがついてなかったこともあるのかな。フィクションを撮っているにも関わらず、「嘘は嫌だ」っていうかね。だからカット割りにしても、切り返しを撮ることにすごく抵抗感があったんです。切り返しで片側からまとめて撮ることを避けて、出来る限り順撮りにした。カット割りして構成しているところはしているから、矛盾しているんですけどね(笑)。

──観覧車の中のシークエンスで、同じ人物サイズの切り返しが見られます。

あれはキャメラが引けなくて。観覧車の中ではツーショットが撮れないですからね(笑)。あのシーンだけ、お金を払って機材屋さんから超広角のレンズを借りてるんですよ。

──そうだったんですね。中盤のトイレを中心にした錯覚めいた「場所の反復」も遊園地を迷宮のように仕立てています。

遊園地の中の6箇所くらいを、機械的に順番を変えずに何回繰り返したかな・・・・・・7、8回くらい繰り返していて、いま見るとたるくって「ああ、もうカットしちゃえ」と思うんですけど、当時はやっぱりああいうことがやりたかったんでしょうね。あそこは、本来なら6面マルチになるべき画面をモンタージュしているわけです。

──モンタージュでは、人のオン/オフのシーンも面白いですね。このあたりは「映画の編集」を強く意識させます。

空間のモンタージュですね。人間に沿ってやるんじゃなく、空間に人間が出入りするという。だから矛盾してるんですよね。いつもドキュメンタリーと、映画の中でしか出来ないような異空間を作るという両方のことを意識しています。最初の『レディメイド』からそうでした。

──その後の筒井作品に引き継がれる要素を見てゆくと、クライマックスに鏡を使っておられます。ガラスは筒井監督が好んでいる装置ですよね?

遊園地のクライマックスシーンでどこがいいかを考えると、まあミラーハウスになっちゃうわけですよね(笑)。

──普通に撮れば映り込んでしまうので、あそこでの撮影は難しかったのでは?

ええ、実際にキャメラマンが映ったり、僕が映ったりもありました(笑)。編集で画面をダブらせて二重露出にしたりとかしています。色々と編集で作っていますね。本当は実景だけじゃなく、スタジオにミラーハウスのセットを組んでガラスを割ったりもしたかったんですよ。お金が足りなくて無理だったんですけど。

──冒頭の数分以降、ずっと舞台は遊園地。これを選ばれたのは、やはり「楽しさ」ということを優先されてでしたか?

遊園地は映画の素材としてとてもいいですね。『レディメイド』の95パーセントくらいは遊園地の中。目一杯使わせてもらいました。

──筒井武文の映画は、はじまりからワンダーランドであったと言い得るかもしれませんね。ところで、今であれば自主映画で遊園地を撮影するならゲリラ的に撮る、あるいはそう撮らざるを得ないケースが多いと思います。でもこの作品では、クレジットにきちんと名前があります。

「学生の映画なので」と言ってお願いに行ったら、許可してくれたんですよ。しかも無料。ただし「土日は避けてください」ということだったので、平日の5日間で撮影することになった。それを2週間、だいたい10日くらいで撮りました。あとは子どもが出ているじゃないですか?子どもを疲れさせてもいけないと思ったので、日程は水曜を撮休にして、月・火曜と木・金曜に撮ったんですね。すると、これは本当にツイてたと思うんですけど、2週間とも撮影の日だけ晴れて、休みにしていた日に雨が降った。2週めに一日天気の悪い日はあったけど、そのとき「ほんとに天気って映画にとって大事なんだな」と思いましたね。それと、最初の週は春休みで人混みが凄い。でも、翌週は新学期でガラガラ。後半、急に人がいなくなっちゃうんですよ。それから当時、ぴあ映画祭でトリュフォー特集をやっていた。あれは渋谷のパルコパート3だったかな?トリュフォーが来日もしていて、撮休の雨の日には観に行ってました。トリュフォーの最初の長編3本ってモノクロ/シネスコですよね。「モノクロでシネスコってやっぱりいいなあ」と撮影の合間に痛感して(笑)。

──『レディメイド』は「筒井武文によるヌーヴェル・ヴァーグ」と捉える事も出来ますね。

そうですね。ヌーヴェル・ヴァーグの初期作品、特にトリュフォーなんかモノクロ/シネスコだし。『ピアニストを撃て』(60)やジャック・ドゥミの『ローラ』(60)には憧れましたし、あとはカラーで、サイズも違うけど『地下鉄のザジ』(60)、あるいはレネの『去年マリエンバートで』(61)などはすごく意識していますね。そういう作品をシネマ・ヴェリテ風に撮れないかなと最初に漠然と思っていました。

──たしかに少しアナーキーな子供の笑い声の響きからも、『ザジ』を思い起こしたりします。そして、その4年後にヌーヴェル・ヴァーグから「筒井武文による無声映画」が撮られることになるわけですが、その間に何か転機があったんでしょうか?

『レディメイド』が82年、『ゆめこの大冒険』は86年と表記されますが、完成が86年で、実際に撮りはじめたのは2年後の84年なんです。『ゆめこの大冒険』は、『レディメイド』の中の追いかけっこのシーンを拡大したものだとも思うんです。あそこでやり切れていない、中途半端だったなという思いがどこかにあった。そういう意味ではすごく繋がっていると思います。

(後編に続く)

取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

 
2014年10月4日(土)・5日(日)『筒井武文監督特集Part1』

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