インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW


『BOLT』 ヤノベケンジインタビュー

© 林海象/ドリームキッド/レスパスビジョン

 

林海象監督の7年ぶりとなる新作『BOLT』の関西上映がはじまった。三章構成の作品の主人公は、いずれも震災が人生に影を落とす男(永瀬正敏)。各章の連なりは明示されないが、第1章「BOLT」では震災による事故で汚染水が漏れ出した原子炉のボルトを締めに向かう原発作業員たちが描かれる。この章の美術を担当したのは現代美術作家・ヤノベケンジ。2016年に高松市美術館で開催された個展「ヤノベケンジ シネマタイズ」の展示スペースをスタジオに使い、自身の造形作品を映画に組み込む異例の撮影を敢行した。1990年のデビュー以降のキャリアをたどりながら、創作とその根幹を成す思考、そして作品と社会の接点などをお話しいただいた。

 

──展覧会場で本格的な映画撮影をおこなうのは非常に稀な例です。その発端からお聞かせください。

瀬戸内国際芸術祭(2016)の開催にあわせて、高松市美術館で個展をおこなうことが決まっていました。それより前に林さんから「原発作業員の映画を撮りたい。美術はヤノベさんに任せたい」と打診を受けていました。その「BOLT」は制作にも撮影にも相当な費用がかかるもので、企画がなかなか進まずにいた。自主制作ながら、脚本を読むとかなりのバジェットが必要だとわかる内容でした。僕は《アトムスーツ・プロジェクト》で1997年にチェルノブイリに行き、それからも核を問題にした作品を作り続けてきました。東日本大震災による原発事故が起きてからは「何とかしたい」と思い、《サン・チャイルド》(2011)などを制作しました。核に対してどう挑むかという部分も含めて、物語を紡ぎながら一貫性をもって活動を展開してきた。林さんの原発事故や核への考えも理解していたし、その映画は僕の人生の映画でもあり、何かシンクロするのではないか。そのような想いもあって協力したいと考えました。

──高松市美術館での撮影はヤノベさんからの提案でしたか?

個展だから、僕が自由な形で展示構成していい。そこで林さんに「いっそのこと、美術館のなかにセットを組んで撮影しましょう」と提案したんです。映画撮影に使えるように作品を仕立てて、インスタレーションとして設置しました。原子炉格納容器は《ウルトラ―黒い太陽》(2009)です。防護服は新しく作りましたが、デザインはチェルノブイリに行ったときの《アトムスーツ》(1997)をもとにしています。展覧会は僕のバックグラウンドがわかるように、デビュー作《タンキング・マシーン》(1990)から旧作を経て、映画のセットにつながる構成にしました。そこへ永瀬正敏さんをはじめとする俳優陣、京都造形芸術大学(現在は京都芸術大学)と東北芸術工科大学の生徒を交えた林さんたちの撮影チームが来て、実際の撮影を展覧会に持ち込みました。観客は、パフォーマンスでも演劇でも映画の上映でもないインスタレーションとして撮影現場に立ち会うことが出来る。その展覧会に、僕の人生の映画化という意味で「シネマタイズ」というタイトルをつけました。

──では映画撮影を想定した上で、展覧会タイトルを付けられたんですね。

打診を受けて展覧会の構成を決めて、タイトルも映画を撮る前提のもとで付けたものです。

──展覧会のカタログは4枚組のDVDとして発行されました。その形式も映画的です。そこには本作のパイロットフィルムのメイキングも収めています。この取材は大阪・北加賀屋のMASK(MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA)でおこなっていますが、パイロットフィルムもここで撮られたのでしょうか。

そうです。永瀬さんが防護服を着た姿や原子炉、それに通じる廊下などの映像を撮りました。

──公開版の予告、そして本編冒頭に写るのも、この先にある木津川をはさんだ風景ですね。DVDカタログでヤノベさんは「展示を見た人がイマジネーションを膨らませて、その段階では未完の映画を想像する楽しみがある」と語っておられました。実際に長編として完成した作品をご覧になっていかがでしたか?

© 林海象/ドリームキッド/レスパスビジョン

第3章「GOOD YEAR」、第2章「LIFE」と完成した順に見せてもらいました。そして第1章の「BOLT」が出来て1本の映画として改めて見ると、やっぱり1章ずつ見るのとは印象が異なりますね。「BOLT」には極限状態の緊迫感があって、制作の土台を知っている僕でも息が詰まる思いでした。続く「LIFE」ではある種の絶望的な状況を迎え、「GOOD YEAR」はファンタジー色の入った、未来への希望も若干見える展開です。1章ごとに独立して見ることも出来るし、3本をつなげると解釈の幅が広がる映画になっています。章立ての順を組み替えると、また見え方も変わってくるでしょうね。林さんは完成までに色々なパターンを試されたと思いますが、最終的にこの形に着地させました。

──その3本には水のイメージが共通しています。第1章に生理食塩水を貯めた《タンキング・マシーン》を使ったショットがあります。林監督のアイデアですか?

あれは林さんのアイデアでしたね。

──そのショットが第3章に活きてきます。初期のヤノベさんの創作の大きな源が「妄想」でした。そこで自分も妄想を広げて、仮に3本を連なった作品として見ると、主人公にヤノベさんの姿が重なりました。「BOLT」は《アトムスーツ・プロジェクト》でチェルノブイリに向かった姿、「LIFE」では放射能に関わったことに対して罪の意識を覚える姿(*)。続く「GOOD YEAR」の主人公は自動車修理工です。これは創作で鉄を扱うヤノベさんそのものではないだろうかと(笑)。
(*)1997年、《アトムスーツ・プロジェクト》でチェルノブイリを訪問したヤノベは、無人である筈の立入禁止区域で自主帰還住民に出会ったことから贖罪意識と後悔を覚える。

なるほど、そういう解釈も出来ますね(笑)。「BOLT」にはクリエイターである僕と、俳優である永瀬さん、監督である林さんの三者の対決という気持ちで挑みました。完成した作品は林さんの映画だけど、それを僕がどこまで侵食して引っ張れるか? その楽しさがありましたね。林さんの世界観が僕の表現にどれくらい入ってくるのかという期待もあったし、永瀬さんの存在もとても大きかった。永瀬さんは作品によっては、役づくりで体重を10キロ以上落としたエピソードもあります。本作の撮影で高松に滞在しているときも3日ほど、ほとんど睡眠を取らなかったんです。それは原発作業員が寝ずに作業していたのではないかと想像して、自分を極限に追い込むためでした。撮影時もフラフラ、顔面蒼白の状態でボルトを締める演技をされていました。最後に締め上げるシーンもなかなか林さんのOKが出ず、リテイクを繰り返してOKが出た途端に、酸欠で倒れられて病院へ運ばれたんです。その姿勢に心を打たれました。そして僕のデザインした防護服に永瀬さんの身体が入ることによって、これまで以上の表現として昇華されました。そのように3人の表現者の強い想いが混ざり合って完成した作品だと感じます。

──ほかにもヤノベさんの作品では《サヴァイヴァル・システム・トレイン》(1992)を使っていますね。それも存在感を放っていて、三者の表現が拮抗しながら調和している。その映像は予備知識がないと、美術館で撮ったとは思えないかもしれません。

© 林海象/ドリームキッド/レスパスビジョン

僕自身が作った作品やセットにも関わらず、映画を見て迫力に圧倒されました。それは本当に映画の力ですね。

──防護服を着た作業員たちがトンネル状の廊下を行き来する姿と遠近感は『2001年宇宙の旅』(1968)のようでもあります。あのトンネルの材質は何でしょう。

あれは土木工事で使う水路を作るためのコルゲート鋼板という鉄の管です。亜鉛メッキ処理を施してU字型に加工したものを買ってきて、上下に合わせて連結しました。既存製品を利用してトンネルにしたのです(笑)。

──既存製品から作られたとは想像外でした(笑)。トンネルは美術館の通路に設置されたのですか?

© 林海象/ドリームキッド/レスパスビジョン

通路ではなく、展示室のなかにトンネルを作りました。美術館には展示スペースがふたつあり、《タンキング・マシーン》からこれまでの作品を展示したひとつめのスペースは、僕の回顧展的な構成です。そこからトンネルをくぐり抜けると、ふたつめのスペースに入ります。それが撮影スタジオで、水槽に入った《黒い太陽》が汚染水の溢れる原子炉として設置してある。トンネルは作業員がそこへ近づくための廊下になっています。

──実際の個展ではトンネルの壁、そして撮影スタジオでもあるインスタレーションスペースを出たところに永瀬さんの撮影した写真を展示されていました。ヤノベさんは個展に先立ち「LIFE」の撮影現場にも行っておられます。永瀬さんの写真の展示案は、「LIFE」の現場で出たものですか?

いや、永瀬さんが写真を撮っておられるのは前から存じ上げていました。展示の発端は、ここでパイロットフィルムを撮るときに永瀬さんが《アトムスーツ》を着用されたことだと思います。その体験が何かのトリガーになって、「ヘルメットを使った作品を撮りたい」というプランが生まれたんです。それでヘルメットのなかに色々なオブジェを配置した写真シリーズを現・京都芸術大学のスタジオで撮影して、美術館に展示しました。撮影も役づくりと同様に妥協がなく、その姿には感化されたし、クリエイターとしてリスペクトを覚える瞬間でもありました。映画を作るプロセスで、色々な作品が一緒に生まれたのも幸せでした。

──ヘルメットも《アトムスーツ》にアレンジを加えたものですね。その作業もみずから手がけられたのでしょうか。

© 林海象/ドリームキッド/レスパスビジョン

俳優の表情がよく見えるように、ヘルメットのなかに照明を仕込みました。ヘルメットの原型は僕が作っているし、照明のコントロールなどもおこないました。基本的にものを作るのが好きなんです。

──造形作品を作るのに、設計図を渡してあとは任せる作家も多いかと思います。そうして実際に手作業で作られているのもヤノベさんの作品の特色です。

子供の頃は工作少年で、当時から作ることが大好きでした。やはり、いちばん好きなところは人に任せられないですね(笑)。何も無かったところに一からものが生まれる瞬間に立ち会うのはドキドキしますし、それが自分の脳内と腕から生まれるのには今でも興奮を覚えます。また、現在は京都芸術大学という教育施設にいますが、工房(ウルトラファクトリー)で若い人たちが新しいものを制作する場所に立ち会えるのも嬉しいですね。作ること、そしてその現場が好きなんです。だから、たとえ大きな作品でも人に任せず、作れるなら何とか自分で作りたいと思っています。

──ヤノベさんの作品には《ジャイアント・トらやん》(2005)など、圧倒されるほど巨大なものもあります。そのスケールはどのように決めるのですか?

元々の基準は自分の身体のサイズでした。着ることが出来たり、なかに入れるスケールから始まり、次は「もっと大きく」とハードルをどんどん上げていきました。その構造物と格闘することにも興奮しましたね(笑)。普通ならコントロールできないくらいの大きなものを動かしたいという想いもあって巨大化しました。それに飽き症なので、今までと同じだと退屈なんでしょうね。次は今までやれなかったことや、違うサイズのものを作りたくなったり、世の中になかった表現形態に踏み込みたいという欲望も巨大化の理由かもしれません。

──映画に使われた、ボルトを締めるための大きなスパナもヤノベさんが制作されたものです。あれは何で出来ているのでしょうか。

俳優の方たちが持てるように、ある程度軽いFRP(繊維強化プラスチック)という素材で作りました。

──軽そうに見えないのは造形と演技の力ですね。「BOLT」のラストの主人公のアクションは《スタンダ》(2001)の太陽を仰ぎ見る姿と同じです。ひょっとして、林監督は展示から構想されたのでしょうか。

たしかにそうですが、どうでしょう。そこまで読み込まれていたのか、林さんと話したことはないです。それは僕の作品を知った上でのレアな解釈ですね(笑)。

──展覧会に行った方が映画を見れば気づくかもしれません(笑)。さて、美術作家のヤノベさんを映画監督になぞらえて捉えると、作品からはSFの作り手というイメージが浮かびます。そしてヤノベさんは現場主義者でもある。チェルノブイリ、そして東日本大震災後には飯舘村を訪れて、その体験を創作に活かしておられます。そうした姿からは、ドキュメンタリー作家に近い面があると感じます。

近年では福島の《サン・チャイルド》の撤去(2018)の件も含めて、世の中の動きとともに作品が語られます。美術や映画や演劇のフィールド、エンターテインメントの枠を超えて、社会の物語のなかに作品自体が取り込まれている。その意味で、フィクションとリアルのあいだを行き来する作り手だという自覚はあります。

──ヤノベさんの作品は美術館の外の空間で展示される機会も多く、「BOLT」も映画館で公開することで、その作品がふたたび美術館を出たと解釈できます。社会に取り込まれた作品が同時に社会を取り込んでいるともいえるでしょうか。その作品は初期の段階から物語性を持っていました。

僕の本名は漢字では「矢延憲司」です。それを「ヤノベケンジ」というキャラクターに設定して、僕自身の人生の映画を撮る気持ちで創作している意識が1990年のデビュー時からあります。作品も、時代背景や現実世界の変化によって様々な顔を持ちながら、その時々の物語を編み込んでいく構造を持っています。映画のような作り方をしている現代美術作家だと思っていますが、かといってそれは既存の映画や演劇でもなく、彫刻や美術作品でもない。今までにない表現媒体のなかで自分を探そうとしている自覚もありますね。

──東日本大震災のあと、映画の作り手はフィクションが現実を超えうるのかという問題に直面しました。《アトムスーツ・プロジェクト》をいま振り返ると、その問いに先行する試みだったようにも思えます。

チェルノブイリで見た現実をどう昇華するかと考えて、21世紀を迎える2000年に創作のテーマを「サヴァイヴァル」から「リヴァイヴァル」にシフトしました。東日本大震災が発生したときは心が折れそうな気持ちに陥りましたが、すぐに《サン・チャイルド》を作れたのは、そのときも自分のなかで変化があったからでしょうね。

──《アトムスーツ・プロジェクト》の作品群には「映画館・チェルノブイリ」(1997)もあります。廃墟になった映画館を写した鮮烈な写真作品ですが、これはのちの《森の映画館》(*)と対の関係にあると考えられないでしょうか。
(*)子供サイズの映画館。そのなかでもヤノベの制作した映像が上映される。

© 林海象/ドリームキッド/レスパスビジョン

そうとも取れるかもしれません。《森の映画館》は2004年の作品ですが、やはり自分を変える大きなステップでした。自分自身がアトムスーツを着ていたのに代わり、父親が演じる腹話術人形の《トらやん》にメッセージを託して語らせる方法を採ったり、ユーモアを交えることで表現の幅が広がる瞬間を感じました。あとは未来に残すべきメッセージを伝えたい気持ちもありました。「映画」という語り口には、チェルノブイリで見た光景──未来の廃墟──が起点になった部分もあります。
そして映画を作りたい想いは、実は京都市立芸術大学に入学した動機としてあったんです。でも僕の入った80年代半ばの日本映画は難しい状況でした。興行的なことも考えなければ作品に作家性を乗せられない。それならば、美術作家として個人の創作のなかで自分の物語も含めた世界観を構築するスタイルを取ろうと考えました。90年代初頭にサブカルチャーという同時代の美的感性を作品に重ねて、村上隆さんたちと同時に出てきた世代ですね。

──当時は「ネオ・ポップ」という潮流がありました。

僕もその流れで登場したけど、いち早く社会的なメッセージ性を持つ作風に移行しました。1991年の美浜原発の事故を受けて《イエロースーツ》を作り、そこから「サヴァイヴァル」というテーマが生まれた。その後、1995年には阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件が起こり、リアリティの必要性を感じてチェルノブイリに向かい、ほかの作家たちとは違う道を歩むことになりました。

──90年代前半はサブカルチャーと「妄想」をベースに活動されていたのが、現実の壁にぶつかり葛藤が生じた。ヤノベさんの30年のキャリアはその「サヴァイヴァル」期から「リヴァイヴァル」期へ、そして「3.11」以降と3つのクールがありますね。

ものを作る興奮から考えると、さらに転機があります。《タンキング・マシーン》は24歳のときの作品で、アイデアを思い付いた日は興奮して眠れませんでした。脳内化学物質が出たからだと思いますが、チェルノブイリのプロジェクトを進めていたときにも色々なアイデアが溢れ出て、また眠れなくなった(笑)。《スタンダ》を作ったときや《森の映画館》が出来たときも大きなインパクトを受けたし、そのように作る立場に変化をもたらす機会は幾度かありました。
ただ、チェルノブイリで見た光景の衝撃や原発事故が起きたあとの状況に対しては、職業として美術作品を作って売るというレベルじゃなく、創作物に社会的な意義を持たせないといけないという決心──社会的試練を乗り越える想い──を抱きました。自分のなかにあるイメージを熟成させて表現する。美術作家のその本質的な部分はもちろん僕にもあります。でも存在意義を感じるのは評価、もしくは批判されて世の中のリアクションとつながるときです。才能に恵まれて作っているというよりも、自分は美の神様に「こういうものを作れ」と役割を与えられて作らせてもらっているのではないか。そう思えるくらい、この世に生まれて生かされている認識は、発表した作品が果たす役割と結び付いています。

──《子供都市計画》(2004)も社会とつながったプロジェクトだったと思います。僕が最初にヤノベさんの作品を見たのはたしか1991年、KPOキリンプラザ大阪でしたが、それから30年が経ち、社会がまた「サヴァイヴァル」の時代に突入している印象があります。

そうですね。僕が「リヴァイヴァル」を提唱したからといって世の中が再生・復活するわけではない。でも世紀末から新世紀の変わり目にはそういうシフトが必要でした。今の世界は新型コロナウィルスもあり、世紀末に向かっているような現状があります。『BOLT』に即していえば、この映画は原発事故とその後の話です。核の問題は局地的に福島、広島、長崎、チェルノブイリなど一部の国のものとして扱われがちだけど、本来は感染症と同様の全人類規模で向き合わないといけない問題と考えています。僕はチェルノブイリでそれに気づいたし、《サン・チャイルド》も福島のためだけではなく、人類の問題として作った作品です。『BOLT』の公開も東日本大震災から10年を迎えるこの時期であったり、非常事態宣言下の状況ということも含めて、人類が核の問題を共有して向き合うべきだと気付かせてくれるかもしれない。その意味で公開のタイミングは間違ってないと思います。

──「シネマタイズ」も含めたヤノベさんの作品群は現実を映画的な虚構に変容させる作用がありました。『BOLT』は劇映画ですが、虚構から現実へという逆の動きがありえるかもしれないということですね。核の問題は今後も創作の軸となるでしょうか。

作った作品は現実に存在するし、それがまた次の作品につながります。《イエロースーツ》という防護服を作ったことがチェルノブイリに行くきっかけにもなり、それを経て核の問題と向き合うという連続性があるので、核から離れた作品を作ることがあっても、気に留めながら創作を進めなければと思っています。そうして作り続けるのが、人生の映画を撮るということなのでしょうね。

(2021年2月5日 大阪・MASKにて)
取材・文/吉野大地

 
映画『BOLT』公式サイト
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