『ドライブ・マイ・カー』 濱口竜介監督インタビュー
村上春樹の同名短篇小説に、さらに二篇を接続して映画化した濱口竜介の新作『ドライブ・マイ・カー』が全国で公開中だ。妻を失った演出家・家福(西島秀俊)と彼の愛車サーブ 900を運転することになったみさき(三浦透子)。カメラはふたりの移動を捉えながら、その関係の微細な移ろいと響き、そして目には見えない「信じ得るもの」を描き出す。過去作にない方法で、劇中に用いられるチェーホフのセリフに倣えば「いつ明けるとも知れない夜また夜」を主人公たちと共にくぐり抜けた監督にインタビューをおこなった。
──本作からはとても新鮮な感触を覚えました。そのひとつが手話表現で、これまでの「言葉の映画」の魅力を踏まえながら、新しいステップに挑まれています。
神戸滞在期に、〈さがの映像祭〉という聴覚障害者映像祭に呼んでいただく機会がありました。そこで、健聴者は僕や通訳の方ぐらいで、周りの方たちは手話で話している状況に置かれました。そのときに手話が「障害者の言語」というよりも、単に「異文化の言葉」だという印象を受けたんです。そして、やはりより身体的な言語なので、手話で話す姿からは口話以上に、常に生命力みたいなものが溢れている感じがしました。それから、いつかは自分の映画に取り入れたいと思っていました。
──『不気味なものの肌に触れる』(2013)はダンスへの関心を反映した作品でした。本作の手話表現は、その延長線上にあるとも捉えられないでしょうか。
それもあるでしょうね。『不気味なものの肌に触れる』では砂連尾理さんに振り付けを担当していただきました。砂連尾さんのダンスに強く惹かれたのは、それ自体がコミュニケーションでもあるように思えたからです。そこで踊る人たちの起こす相互反応と、自分が映画でやってきたこととのあいだには連続性を感じました。手話は、まさに言語とダンスの中間地点のようなものとして自分には捉えられた、ということだと思います。
──ただ、現場では日本語を韓国手話に、韓国語を韓国手話へと、気が遠くなるような通訳の作業、いわば非常に「回りくどい」方法が採られています。
やってみるまでは、通訳の作業がこれほど回りくどいことだとは想像していませんでした(笑)。この辺りを綿密に整理してくださったのが、監督補の渡辺直樹さんです。直樹さんによる交通整理がなければ現場は崩壊、とまでは行かなくとも、多言語演劇がこのような質に達することはなかったと思います。撮影が終わった今は、とても幸運に恵まれたと思っています。オーディションを経て、ご一緒することになったユナ役のパク・ユリムさんが素晴らしかった。健聴者の彼女は役が決まってから、みずから韓国手話のコーチを付けて準備をしたうえで現場に臨んでくれました。その取り組みも含めて素晴らしかったですね。この点では、8ヶ月程度コロナで撮影中断を余儀なくされたこともプラスに働いたと思います。
──その「回りくどさ」が本作を高みに押し上げたと思います。さらに英語など、多くの言語を扱っています。制作面でのハードルは上がるでしょうが、複数の言語を使うことで、俳優のリアクションにも変化が起きたのではないでしょうか。
藤井仁子さんが『親密さ』(2012)について書いてくださった作品評で、僕がいかに「顔を撮ること」に腐心しているかを論じていただいているんですが、これを読んで、初めて自分のやっていることを理解した部分はかなり大きい。やはり自分はリアクションをひとつの「出来事」として撮りたいんです。今回は複数の言語を使うことで、予め想定されたようなリアクションを、出づらくすることができたと思います。
──そして過去作になかった要素は、男女の性描写です。それを撮らないことについて、過去に監督から「現場で俳優やスタッフに強いる緊張の問題があります。でも『さよならみどりちゃん』(2005/古厩智之)はいいですね」と伺いました。雑談レベルのお話でしたが、あの作品には西島さんが出演されています。「西島さんなら撮れる」という気持ちはありましたか?
確かに『さよならみどりちゃん』はゼロ年代日本映画のなかでもとても好きな1本ですし、西島さんにお願いした遠因にはなっていると思うんですが、今回は何よりも性描写に物語上の必然性がありました。原作を読んで、映画にそのような描写が明示的にないと信じられない話になるだろう、これはやらないといけない、と。なので「現場で俳優やスタッフに強いる緊張」は、今回は受け入れるべきと思いました。考えたのは、その緊張の負荷が俳優に偏らないように、ということでした。カメラの前に立つ人と後ろにいる人の負荷は埋めがたい差があるわけですが、せめて少しでもマシになるようにコミュニケーションは心がけました。
「愛し合うふたりのセックスにカメラが立ち会うのは不可能だ」というカサヴェテスの発言があります。僕はこれに概ね同意しているし、これからも撮る気はありません。僕はその言葉を「それに対応するカメラポジションがそもそも存在しない」とも解釈しています。三宅唱監督が『きみの鳥はうたえる』(2018)を撮ったあとにも、その問題に関して訊ねました(*注)。すると「撮れると思う。なぜなら彼らは『愛し合っているふたり』とは違うから」と答えが返ってきて、「まあ、確かに(笑)」と思ったんですが、本作ではそれに近い感覚がありましたね。家福と音(霧島れいか)は愛し合っている夫婦ではあるけれど、セックスの瞬間は──特に居間のソファで撮っている場面においては──肉体が触れていても、精神的には限りなく離れている。それなら撮れるのではないかと思いました。
*(『ユリイカ』2018年9月号 特集「濱口竜介」に「三宅唱監督への10の公開質問」として所収)
──『ハッピーアワー』(2015)撮影前の「即興演技ワークショップ in Kobe」に、柴田元幸さんをゲストに招いた回がありました。それが今回、村上春樹さんの小説を映画化するきっかけにもなっていますね。その際に柴田さんが「翻訳とはできるだけ身体を透明にして、執筆者の言葉をろ過する仕事だ」という趣旨のお話をされていたかと思います。本作で、音がセックスの最中にイタコのようになってある物語を語ります。何か接点はあるでしょうか。
あの語りは映画のもとの一篇「シェエラザード」から選びましたが、先日、野崎歓さんと対談しました(『文學界』2021年9月号掲載)。ご自身も素晴らしい翻訳者である野崎さんは「我々がおこなうあらゆる作業は翻訳なのだと言える」という趣旨のことを『翻訳教育』(2014/河出書房新社)に書いていたと記憶しています。音のイタコ的なストーリー・テリングもいわばひとつの翻訳なんだとは思います。ただ、柴田さんがおっしゃったような「絶対的に透明な存在」にならない部分は確実にある。翻訳者に固有の身体ですね。演技も、テキストとして書かれたある役柄を自分の身体を使って翻訳して、立体化していると言えます。そのときに演者が透明になって役が生まれるのではなく、演者の身体がむしろ作用します。身体によって歪められてしまったり、その身体からしか生まれないものが存在するようになる。
音がイタコ状態で語る話も、彼女の身体や記憶に固有のものとして捉えました。それを語る行為は、音自身のそれまでの生と深く結び付いている。単純に天から降ってきたのではなく、彼女からしか生まれない話です。だからこそ、それがのちに繰り返されるときに家福は衝撃を受ける。演技においても同じようなことが起きると思っています。その役者に特有の仕方で、あるテキストは現実に翻訳されることになります。
──その「演技」を主題にした物語は家福がほぼ出ずっぱりです。これは、不在のあいだに主人公に変化が起きる語りのモデルと異なります。
群像劇的な語りのほうが──言葉を選ばずに言うと──効率のいいケースもありますが、今回は映画における「一人称的な語り、のようなもの」を実験してみたいと思っていました。もちろん、カメラは常に客観的に、三人称的に物事を捉えるので、それはできるだけ家福以外の人物に事件を移すのは避けよう、というぐらいのことです。
映画と文学では、人物の内面への移行のし易さが違います。ただ、家福自身が語るよりも、色々な人への彼の対応を見ることのほうが、彼の内面的な声を聞くよりも、実は家福の人間性や彼の抱える問題がより観客に伝わるような気がしました。家福自身が、自分自身が何に苦しんでいるか十分にはわかっていない、という物語だからです。そういう一人称的な語りが映画にとって何であるのかは結局、掴み切れていませんが、家福が最初から最後まで出てくる映画にしようとは思っていました。
──本作が描く「喪の共有」は、監督が大きな影響を受けた、先ほど名前の挙がったカサヴェテスの『ハズバンズ』(1970)に似ている気がしました。それから錯覚かもしれませんが、不意に思い出したのは、西島さんが声で出演された『SELF AND OTHERS』(2001/佐藤真)。亡き人の声が響き続ける点が通じています。
正直なところ、本作をつくるにあたって具体的に想定した映画はほとんどありませんでした。唯一、企画を立てる段階で「キアロスタミのような車映画ができるかもな」と思った程度でしょうか。脚本を書いているときも、あまり映画らしい映画にならない予感がしたので、「よくも悪くも今回は自分が考えているような〈映画〉を追いかけない」という気持ちで取り組みました。既存の映画に近づけようとは考えずに撮る。何かに似せようとは意識せず、出来上がった物語を脚本に沿って普通に――「普通」とは何かという問題はありますが――撮るようにしました。でも、それは脚本が要求したことだった気もするんです。それだけの物語ではあった。そのように撮ることで、自分が新たな境地に導かれるかもしれないという期待があったし、実際にそうだったとも思います。
──物語はいくつかの類似が連なりながら進みます。シンプルな例では家福とみさき、音とユナはそれぞれ似た過去を持っている。脚本は、意識的にそうした相似形を成すように書かれたのでしょうか。
意識的に配置した部分もありますが、むしろそれを発見していく感覚のほうが強いですね。それも書いているときに明瞭に発見するわけでなく、あとで読んだときにそのようなものが見つけ出されます。会話や物語を滑らかに進めるためには、何らかの類似が必要になり、ないと続かない。たとえば家福とみさきがお互いの過去を語るときに、彼らは違う話をしています。だけど最終的にそれが似ていると理解する。僕が脚本を読んで発見するように、彼らも発見するんです。だから意図的に類似をつくるというよりも、発見によって物語が次のステージに進める。それが脚本を書いているときの実感ですね。
──みさきが運転する車内で家福の座る位置が変化していきます。それに伴い、ふたりが似た葛藤を持つこともだんだん明らかになる。ポジションと移動のタイミングは、脚本の段階で練られていましたか?
ある程度は脚本段階で考えました。でも、それが正しいと確信するのは現場においてですかね。微妙に位置調整をすることはありましたが、基本的には最初に考えたとおりです。初めに家福が座るのは助手席の後ろで、みさきの運転の手さばきが見えるポジションです。バックミラー越しに表情も見えるけれど、監視するようなポジションでもある。次は運転席の後ろ、相手が見えない席に移ります。これは信頼の証のひとつだし、まだお互いをよく知らないふたりが居心地よくいられるためのポジションでもあります。彼らが深い話を始めるとしたら「ここしかない」と思いました。そこでのふたりは、まだお互いに見つめ合う関係性ではないし、相手を十分に認識していない。でも共に「知りたい」と思って話し始めるなら、このポジションだろう、と。それを経て助手席に移ります。タイミングとしては、家福はとっさにそこに座ってしまう。高槻(岡田将生)と距離を置きたい衝動に準じて助手席に乗り込みますが、それによってみさきとの関係が一歩進む。そこからポジションの移動はありません。だからどちらかといえば、関係からポジションが生まれるというよりも、その逆ですね。座った席から関係が生まれていきます。
先日、伊藤亜紗さん、北村匡平さんと鼎談した折に、伊藤さんがすごく腑に落ちることを言ってくださいました。「濱口さんの映画は人間関係から捉えられがちだけど違う気がする。存在があって、それが互いに影響を与え合っているのではないか」と。そして、おそらく物理的な近さはやはり、その影響力を左右するのだとも思います。車内のポジションも、距離が近くなることで存在同士の影響が強まります。また存在が与え合う影響は、言葉や実際に何かを受け渡すことでも生まれます。その影響があっちへ行ったりこっちへ行ったり、また自分のもとへ戻り帰ってくる。それは脚本を書くうえで、構築するというより「物語を見つけ出す」作業なんです。その、存在同士の影響関係を発見できれば、物語がしっかり進行すると考えています。逆に言うと、それを発見するまでは十分に進まない、というところもあります。
──それをどう撮るかに関してお聞かせください。助手席の後ろに家福が座っているときに、ワンシーンだけ、みさきとのツーショットがありますね。ほかの車内シーンでは、ふたりをワンショットで撮っています。あそこだけツーショットにした理由はなぜでしょう。
まず単純に、家福をフレームから外すのが難しかったんです。車内を前から撮るとき、カメラは基本的にボンネットの上に置きます。斜めの角度ではどうしても変な感じで家福が入ってきてしまう。それでもみさきのワンショットを撮ろうとするなら、ポジションをかなり(運転席側に)詰めないといけません。でも、あそこは真正面に置くタイミングでもない。結果、あのような形になりました。それに、みさきのセリフが長いシーンでもあります。そこで家福のリアクションを同時に撮るのは悪い選択ではない。
ただ、編集的に言えば、あのような車内のツーショットを積極的に撮りたくないのは、次のショットにいくモチベーションが弱くなるからですね。ワンショットなら、別の人物の表情を撮るために次のワンショットに進めます。でもツーショットでふたりの顔が映っていると、カットを割る理由が失われるというか、そこからワンショットに行くことは少し説明的なものになるリスクがあります。それでも、あそこに関してはテキストも十分に強度があったし、何より演じた三浦さんが「覚醒した」ように素晴らしかった。これならずっと見ていられる、映画を持たせられると考えました。初めてふたりが本格的に言葉を交わし出して、みさきの語りを家福が聞く関係性が生まれるシーンでもあるので、編集時に「このツーショットがまさに核となる」と判断しました。
──物語が進み、北へ向かう車内で、家福とみさきが類似した過去を互いに打ち明けます。ここは一種の運命共同体になったふたりが、その関係を深めるシーンです。それを示すにはフロントガラス越しのツーショットをひとつのフレームに収める選択肢もあったと思いますが、やはりワンショットでつないでいますね。
素朴な理由で言えば、この場合のツーショットは「ベタだから」ですね。まさにふたりの旅路というシーンではあるとは言っても、人物ふたりの正面にカメラを据えてドドン!と撮るのはちょっと恥ずかしかった(笑)。そのあとに「車と風景」を捉えた画がその役割を果たしてくれるのではないか、と思いました。
──言われてみるとそうですね(笑)。本作は夜の車内シーンも多く、場所が移動しても、窓の外はぼかした光以外は真っ黒です。ネオンなどの無駄な情報を省く意図があったかもしれませんが、夜が抽象化されているようにも見えました。この黒味に関して教えてください。
身も蓋もない答えですが、車を走らせられる空間がそういうものでした。つまり、撮っていたのは夜を表現するための空間でなく、「ここしか走れない」空間です。フィルムコミッションの最大限のご協力や、制作部の大きな努力を得ても、すごく明るい空間で車を走らせることが難しかった。たとえば長い会話をする場合に明るい場所を選ぶと、そこには基本的に必ず信号があるんですね。するとその度に減速したり、止まってしまう。速度が頻繁に変わると編集でつながらなくなる可能性が生じるのは勿論ですが、演技の集中力にも影響します。それを避けるために高速道路など、ずっと走っていられる空間を選びました。ただし、高速道路の上でも場所によって高さが違うので、外の風景は変わってしまう。そうした問題に対する総合的な解決として、黒々とした画面が誕生しました。
──その黒さが本作に「夜の映画」の味わいをもらたしています。車内シーンの撮影時に、監督はどこにおられたのでしょうか。
車内では、できるだけ俳優のそばに居るのが望ましいと考えました。映画に使ったサープ 900の後部には人が入れるくらいのスペースがあり、上に蓋を被せるような形でトランク風の空間をつくって、基本はその蓋の下でモニターを見ていました。ただ、家福と高槻が対峙するシーンでは、岡田くんの前にカメラがあって、後部スペースのカメラ脇に西島さんがいます。蓋を外していても非常に狭い空間なので、そこではさらに邪魔にならないように、僕は小さくなって後ろのスペースにいました。
──そこからだと、演技を直に見ることは難しいですよね。
その状態だと、モニターを通してしか見ることができません。直に見られないのなら、牽引車に乗ってモニターを確認する選択肢もあります。劇用車内にはトランシーバーが置かれているので、牽引車内とコミュニケーションは取れます。ただ演技を終えて、牽引車内のスタッフ間であれこれやり取りしてからトランシーバーで「もう一回」と言われると、役者はおそらく「何がNG理由なんだろう?」ともやもやした気持ちになると思うんですね。細かなことですが、やはり肉声で話せる距離感のほうがありがたいと思いました。
──『寝ても覚めても』(2018)には、ラジオから声が流れるシーンがふたつありありますね。その収録を見て驚いたのは、そういう場合、つくり手はたいていコンソールルームにいます。ところが監督はブースに入って、パーソナリティのあいだに座って無言で相槌を打っておられた。今回もそれに似た意識だったのではないかと思います。そして、今お話しいただいた対峙の場面のカメラポジションは俳優の正面です。これは、原作から忠実に抽出したセリフに呼応しているとも取れます。脚本の時点でそうだったのでしょうか。
そう撮るつもりで書いてはいました。といっても単にセリフをなぞったわけでなく、正面のポジションはときによっては強すぎるし、使う際にはいつも迷います。今回は「こうでないと映画が持つまい」と考えた部分と、逆に「こう撮ると、どんなものが映るのか」という興味がありました。撮影では、まずは実際に車内後部座席に並んで西島さんと岡田さんに演技してもらっています。そこで「OKだ」と思えるテイクが撮れたことで、初めてカメラを正面に置けるようになります。この互いの演技の記憶がない限りは、正面ショットであそこまでの演技に発展することもなかったと思います。
──ふたりを正面から切り返す時間はかなり長く、そのあいだはみさきのリアクションも挟まれません。そのシーンも含めて彼女は映画を見ている観客的な存在にも思えたのですが、キャラクター造形にあたり、どんなイメージを持っておられましたか?
言われてみれば、物語を知るうえでいちばんいい位置にいる傍観者的な立場かもしれませんね。原作のみさきは家福の話を聞き、理解して、彼女の見解を通じて慰めを与える。しかし映画では、先ほどおっしゃられた運命共同体的な、家福と同じステージまで上がってほしい思いがありました。でも「キャラクターを壊すことなく、原作の役割を超えないといけない」と思いながらも、ここまで具体的なイメージは持ってなかったかもしれません。ただ、それを可能にする方法を考えたときに、原作のように家福がみさきに妻との話を直接的に語ってしまうのは映画として少し弱いと感じていたのだと思います。回想シーンを使うつもりはなかったので、それでは単に長々とした説明になってしまう、と。どちらかと言えば、それ自体で感情的な事件の目撃者というか、同席者としてその話を知る形にしました。このことで彼女は、彼女自身の持っている記憶を触発されることになる。つまり後半になってより彼女自身が現れてくるように、家福と高槻の会話として音の話を聞かせる形にしました。その高槻の話を聞くことで、みさきが母との過去をもう一段深く語る展開にも広がる。
──家福と岡田の対峙が終わり、みさきがその会話を受けてあるセリフを口にします。それは観客にもそう信じさせないといけない言葉で、傍観者的な位置にいた彼女が家福の人生に介入するポイントでもあります。そこで失敗すると、たとえ劇映画でも、そのなかのリアルが破綻するわけですよね。
脚本に書いた時点では、公園のリハーサルで家福が「いま何かが起きた」と言うのと同様に、「これは本当にそう聞こえるのか」と、かなり不安になりました。でもこういうのって、やっぱり脚本を読む役者やスタッフへの宣言でもあったと思いますね。ここはそうでなきゃいかんのだ、という。ただ、原作にある高槻の言葉は、そういうことを起こし得るものだと感じてもいました。あそこは原作では、高槻の言葉が「彼のどこか深いところから出てきた。演技でないのは明らかだった」というふうに、ある種の真実の響きを持つものとして家福に解釈されています。自分も読みながらそれをまさに感じた。描写によって説明されたからではなく、高槻の言葉そのものに、既に「ろ過」されたような印象があったんだと思います。それは、村上さんが執筆時にまさにそのような境地に至って書かれたからではないかと想像します。その感覚があったので、テキストをきちんと身体化して口にするときにそれは起きるのではないか、という期待があったんだと思います。実際にあの場面での岡田くんは素晴らしい。原作の核とも言える部分を素晴らしく表現してくれました。
──その高槻の語る話は原作を膨らませていて、彼のその後を予告するようにも聞こえます。どのように書かれたのでしょう。
プロットでは「高槻が音の話の続きをする」くらいで、あとは空白にしていました。そこから試行錯誤を重ねるうちに、脚本の〆切が迫ってきた。それもあって「音の物語」の前半部分は共同脚本の大江崇允さんにお願いして書いていただいたものを、かなりそのまま使っています。ただ、後半部分はなかなか決まらなかった。いよいよ明日〆切となったぐらいで、音の物語の最終部に出てくる「階段を上がってきた」もうひとりの人物が浮かんで、あの形に落ち着いたんです。でも決して計算して書いたものではないんですよね……。それでも、読み直すと「音がなぜそのようなことを話すのか」ということとの整合性も、物語全体との共鳴も感じられた。こういう言葉が出てくるのは、脚本を書いているなかでも不思議な瞬間です。
──劇中劇の演目であるチェーホフの『ワーニャ伯父さん』のテキストは、多くのシーンに使われています。これはどう振り分けたのでしょうか。テキストが「強い」ぶんだけどこにでも使える、あるいは慎重な作業が求められたのではないかと想像しました。
結局、普遍的な部分を選ぶ、ということだと思います。端的に言えば「これ、俺じゃないか、私じゃないか」と思ってしまうような場面が核になります。照明助手で来ていただいた方が、スタッフ間で話していたときに「いや、もう、(自分たち)皆ワーニャでしょ」と言ったらしくて、それはすごく納得できる気がしました。ワーニャって本当に情けない、悔やんでばかりの人間で、思っていたとしても口に出すのが憚られるようなことばかり言うし、彼自身も後でそのことを恥じたりもする。それはエレーナやソーニャもそうですが、誰もが腹の底で感じているけど口には出せていないような感覚が、あの戯曲ではあられもなく言語化されています。読んでいてそういう箇所にたどり着くたびにメモしたりすると、自然と当時のロシアの風俗に関わる部分は捨象されて、今の日本で誰かが思っていたとしてもおかしくない言葉が残る、という感じだったと思います。
あとはメインの物語で流れている感情との関わりですかね。たとえば嫉妬であったり、苦悩であったり、その言葉が口にされることで、自身のことを語ることの少ない登場人物たちがより立体的に見えるようなものを選びました。
最後まで悩んだのは、車のなかで響く音の声です。ここはいかようにも編集の可能性があったので、霧島さんにもすこし多め・長めに録音してもらったものを、先に言ったような立体性を目指しつつ、『ワーニャ伯父さん』の内容も少しわかるよう、補完的に配置していった、という感じです。
──そのような言葉の表出は監督の映画に近い気もします。ラスト近くの長回しに関してもお聞かせください。実は最初に見たとき、西島さんの演技にそれまでと違う印象を受けて、少し戸惑ったんです。物語の流れからすれば違ってないとおかしいのですが、俳優が俳優を演じる「演技の二重化」とも異なる、何か独特のエモーションが宿っているように感じました。
撮影現場で感じていたことを素直に言うと「西島さん、本当に繊細にやってくれた」ということです。あの雪山の場面は、企画開発初期のプロットの段階からセリフも含めて書いていて、何というか複雑な構造を持つこの物語を「誰にでも届く」ものにしてくれるものだと感じました。プロデューサーたちが、この企画がいわゆる「商業映画」として成立すると判断するうえでの拠り所にもなっていたと思います。だからこそ、すごく危険なセリフでもあって、もっと大きく演じられてしまう可能性もありました。でも実際の演技を観ながら、僕が撮影現場で感じていたのは、西島さんが一言一言を自分にとって嘘にならないよう、それこそテキストと自分の「折り合い」をつけながら進んでいっているような感覚でした。それは家福というキャラクターにとっても必要なことだと思えた。撮影現場でも感動しましたが、先日のカンヌ映画祭で観客と一緒に観た時に改めて自分でも感動しました。何というか、西島さんがこの役を演じることを、自分自身にとってもとても重要なものとして感じてくれていたんだな、と思いました。あそこには過剰な形ではない、正確なエモーションと呼びたくなるものがあると感じています。
──西島さんの身体からしか出てこない演技ですね。もし車内の唯一のツーショットと対を成すシーンがあるとすれば、ここではないでしょうか。続けて、技術面について伺えればと思います。『親密さ』の演劇パートは4台のカメラを使っておられましたね。先ごろの東京藝術大学大学院映像研究科主催の山崎梓さん(本作編集者)とのトークでも、サブのBカメラの話題がのぼりました。その結果、撮影素材が膨大になっていたと(笑)。しかし監督の近作からはカメラが減っている印象を受けます。もちろん編集も関係している筈ですが。
『親密さ』の場合は、劇中の演劇を途中で止められない状況で撮っていました。実際に観客を入れた本番や、その本番のためのリハーサルを撮っていたからです。カメラを据え直すことはできないので4台置きました。『ハッピーアワー』のクラブシーンは3台で、そのうちの1台は天井に据え付けています。これは真上からでないと撮れないものが確実にあったからで、基本的には多くて2カメの体制です。それでも現場で感じるのは、Bカメがあっても結局は1台、ひとつの視点からしか見られないということです。つまり現場における即座のOKは1カメ分しか出せない。2台あれば混乱を招く場合もあるし、お互いの映り込みがポジションを制限してしまうこともあります。なので、基本的には1台のほうがシンプルでよいと思っています。今回も基本的には必要に迫られない限りは四宮秀俊さんが1カメで撮り、(Bカメを務める)下川龍一さんは撮影助手に専念しています。
ただ、最近はシーンの最初から最後まで通して俳優に演じてもらいます。単純にそのほうが役者にとって演じやすいだろうと想定しているからですが、そのぶん役者の負担が増えることも確かです。高槻とジャニス(ソニア・ユアン)のオーディションシーンの演技は肉体接触を伴います。こういう場面を、演技自体には問題がないのに、より多くのアングルを求めて何度も繰り返すと役者を濫用していることになります。だけど、リアクションはそこで本当に起きていることへの反応を撮ったほうが、確実に緊張感を画に反映させられる。何度も繰り返せない演技で俳優の負荷を軽減するために、ここでは2台使いました。そういう、テイク数やカメラの台数に関しては未だに正解がない、というか、本当にその場その場で決まっていきます。
──公園の円形の広場でおこなわれるリハーサルシーンも2カメでしたか?
あそこも2カメで、やはり基本的に四宮さんのAカメは出来事の中心を、下川さんのBカメは客席側のリアクションを狙っています。Aカメはワンカメ的な、それだけで成立する、Bカメにさほど配慮しなくてもいい画を撮ろうとしていたので、Bカメは斜(はす)からリアクションを撮る体制でした。ただ、状況に応じて、Bカメをパク・ユリムさんらに向けてもらうこともあり、その指示は撮影の最中に出すこともあります。本当にケース・バイ・ケースです。
──撮影と演技と編集によって、見事なシーンになっています。山崎さんとのトークではコンティニュイティの話題もありました。ひとつ挙げると、海辺で家福がみさきにライターを投げる。そこで一度カットを割って、コンティニュイティのお手本のようなつなぎになっています。すごく素朴な質問ですが、あそこでカットを割った理由は?
ごくシンプルな理由で、最初に俯瞰の引きがあって、そのあとにもうちょっと詰めたサイズの引きを使うためのインサートとして、でした。ただ、もちろんそういうつなぎが好きだ、ということもあります。
──あのアクションは、のちに家福が大事なものをみさきに譲るのを示唆しているようにも見えますが、ライターを受け取ったみさきが、今度は監督の映画に欠かせないアイテムを投げますよね。そこはカットを割っていません。
そのアイテムを受け取るのは、実は日本一キャッチがうまい犬なんです。三浦さんにも投げる練習をしてもらったし、もう1、2回トライして「バシッとキャッチする」画も撮りたかったんですが、日が落ちてきたのと、監督補の直樹さんから「僕はこれくらいがいちばん丁度いいと思います」と意見があって「そうですよね」と納得しました(笑)。
──十分だと思います(笑)。終盤に、それまで鳴っていた強い波音やマフラー音やがすっと抜けますよね。あの音処理のアイデアはどこから生まれたのでしょうか。
それまではノイズをかなり、劇場ではもしかしたら耳に痛いぐらいに鳴らしています。その音響と観客の聴覚の関係づくりとして、「このあたりで耳を休めてもらおう」と考えました。そこからラストまでの約20分間は些細な音が重要になります。いったん切ることで、かすかな音も聴き取れる態勢を見る方につくり直してもらう。そのために無音の時間を設けました。
──サーブのマフラー音を録るときに、特別な加工はされましたか?
特になかったですね。単体でしっかりと、自由にミックスできる状態で録りました。
──今の車にはない良い音を鳴らしていますね。そして、石橋英子さんが担当された音楽も新鮮でした。これまで監督と音楽の話をして感じたのは、スピッツとaikoへの偏愛です(笑)。J-POPの王道とは距離のあるフィールドで活動されている石橋さんに決まった経緯を教えてください。
大学時代に様々な音楽を聴いた結果、スピッツとaikoに収斂されていった経緯がありますね……。ただ、一応色々聴いてはいるんですよ(笑)。20代は特に幅広く聴いていて、Tortoiseやジム・オルーク(本作にも参加)などのシカゴ音響派の音楽は非常に好きでした。最近は新たに音楽を発掘することから遠ざかっていたんですが、山本晃久プロデューサーが石橋さんの音楽を知っていて、推薦してくれたんです。聴いてみるとまさに音響派的な響きを感じたし、すごい才能をお持ちであることは一聴して明らかでした。だから企画の最初の段階で決まりました。
──アンビエント的な音もあれば、エンディングテーマのようなメロディアスな楽曲もあります。特にエンディングテーマは余韻を損ねず、映画と程よい距離感を保っています。具体的なオーダーは出されましたか?
映画音楽に関しては、いちばん初めに「風景みたいな」「人間的な感情とは遠くにあるイメージで」とオーダーしました。それは撮影前のことで、そういうオーダーが石橋さんにも合っていると思ったんですが。ただいざ撮ってみるとその要素は映像が十分に持っていると気づきました。それで、より一般的な映画音楽に近い形の「映画と観客を一層感情的につないでくれるような音楽を」とオーダー変更しました。バンド編成の楽曲はそれに基づいてつくっていただいています。先ほど、西島さんの演技に関して「嘘じゃないエモーションを探りつつ、進んでいく」とお話ししましたが、エンディングテーマから受けた印象もすごくそれに近くて、開かれたメロディを持っているけれど、過剰にセンチメンタルやエモーショナルではない。石橋さんはもともと極端にメロディアスな音楽には抵抗をお持ちだったかとも思います。でも、上がってきたラッシュを見ていただいた際に「この映画自体、音楽のよう」と言ってもらえました。短い感想でしたが、熱が感じられて「石橋さんが感じた、その感覚を使ってエンディングテーマをつくってください」とお願いしました。結果としてエンディングテーマはみさきの表情とも響き合って、終わりというよりは始まりを感じさせるものになってくれたと思います。
──「風景みたいな」という喩えから思い付いたのですが、音響派がメロディ=物語性よりも音の質感や空間性=サウンドスケープを重視した、鈴木了二さんの著作のタイトルを借りて「マテリアル・サスペンス」的な音楽だとすれば、監督の映画は「非音響的」だと捉えられていないでしょうか。伊藤亜紗さんのご指摘をなぞると、濱口映画は「ヒューマンドラマ」として受容されている気もします。監督はその点をどう捉えておられますか?
「ヒューマンドラマ」として受容をしていただける、ということ自体はむしろありがたいことだと思っています。ただ、伊藤亜紗さんに「人間関係」と言うよりは「存在関係」と言われたときには非常に腑に落ちるものはありました。その存在が、たまたま人間であるだけ、というような感覚で撮っている気はします。音楽の授業で習ったようなことを申しますと、音楽の三要素とはリズム、メロディ、ハーモニーで、さらに音の三要素は大きさ、音程、音色=音響です。そこから逆に考えるなら「音響しかない音楽はない」とも言える。音響派には勿論サウンドスケープへの配慮が感じられますが、でもそこにメロディが存在しないのかと問うとまったくそんなことはないし、むしろTortoiseやジム・オルークの楽曲はすごく歌もの的メロディを持っていて、それが自分が好きになった理由でもあります。音響派の音響派たる所以は、歌もの的メロディが編集を通じて解体され反復されることで、聴く側が歌もの的メロディまで含めた全体の音響へと神経を向けられるようになる、楽曲の在り方にあります。このメロディと音響の両立みたいなものに、すごく魅了されていました。
で、僕の映画にも音響派やマテリアル・サスペンス的な要素というのは、勿論ないわけではないでしょうし、もしそこに感覚を注いでくれる人がいれば、やはり発見されるものはあるのではないか、とは思います。ただ、そこに神経を集中させることを許さないような、強固な物語の「流れ」がある。なので、音響派的には受容されないのは自然なことだと思います。それで「ヒューマンドラマ」的に分類されるというのも自分の特徴だし、ときには強みでもあるんだろうとは受け止めています。ただ、その物語の流れの底流部分にある「存在の響き」みたいなものを聴き取ってくれる人が少しでもいるなら、それはとてもありがたいことだと思っています。
(2021年8月)
取材・文/吉野大地
●映画『ドライブ・マイ・カー』
8月20日(金)より、大阪ステーションシティシネマほか全国公開
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