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『三度目の、正直』 野原位監督ロングインタビュー

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いつだったか、後進育成にも取り組む敬愛する映画作家に「つくり手として最も資質が近いと感じる教え子」を訊ねてみたことがある。酒席の話で、かなり酔いが回っていた気もするが、返ってきた答えは「野原くん」だった。その野原位が神戸で撮り上げた劇場デビュー作『三度目の、正直』が各地で公開中だ。あらすじなどは作品サイトをご覧いただくとして、混濁した内面を持つ人間たちを描く映画自体が孕む混濁は取材者泣かせで、粘ってみたものの、作品の肝を掴めぬままインタビューに臨むことになった(と正直に告白しておきます)。なお、はじめに名を挙げた作家が本作を見た感想は「素晴らしい。彼は真の変態だとの確信がますます深まった」。取材を終えて記事公開に至った今もまだ、この賛辞が意味するものを考えている。

──本作の最初の試写は昨年3月、神戸映画資料館で行われました。その際のヴァージョンは現在の劇場公開版より長かったですよね。捨て難い魅力や、切るには惜しいショットがかなりありました。

127分で、現在の形より15分ほど長かったですね。たしかに捨て難いものはあったし、充分にやり切った気持ちもありました。

──それを再編集されたのはなぜでしょう。

同年4月に東京でも行った試写時に、濱口竜介さんからいただいた言葉が心のどこかに残っていました。濱口さんはこの作品を褒めてくれた上で、さらによくなる可能性を口にされていたんです。とはいえ自分では、お伝えした通り「やり切った」思いが強く、これ以上手を加えるのは難しいとも思った。そこで濱口さんに訊いて、アドバイスをもらいました。そこが再編集のきっかけではあると思います。

──再編集前のヴァージョンを127分版と呼ぶとして、濱口さんはもしかして公開前の『ドライブ・マイ・カー』(2021)の存在を脅かされると感じて、そう言われたのでは……。悪魔のささやき的に(笑)。

その発想はなかったですね(笑)。でも正直、再編集してよかったと思っています。最初から「2時間を切りたい」と考えていて、長さが気になっていました。濱口さんのアドバイスもかなり具体的なもので、前半はほぼそのままで、後半の流れを大きく変えました。それで「協力」のクレジットの最後に濱口さんの名前があるんです。

──思い切った再編集によって、春(川村りら)の人物像も変化しています。

127分版は、春がメインの印象がより強い仕上がりでした。再編集でその存在感が後ろに下がるかわりに、ほかの人物たちが浮き上がり、群像劇の面が高まった。それもよかったです。

──いきなり話が跳びますが、「群像劇」の部分に関して教えてください。俗にいうエモーションを、観客が時間の持続から得るとすれば、本作にはそれをあえて断ち切っていると感じる編集が幾つか見られます。たとえば春が母に過去を打ち明ける長いシーン。それだけで見せることが出来る気もしますが、ほかの人物たちが並行モンタージュされる。あの繋ぎは、どの段階でどのように考えたのでしょうか。

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編集のときですね。もともと何かを挟むつもりはなく、長いシーンになる見込みでした。その一連だけでもおもしろかったんですが、観客がどこまで付いてこられるかを考えました。あのシーンの裏側を見せることでサスペンドさせる。美香子(出村弘美)と宗一朗(田辺泰信)のことを匂わせたほうがいいという計算もあって、この形に編集しました。
エモーションと持続については、春が過去の話をすることで最終的に何かが変質する。その点で一連の流れを続けてもよかったのかもしれません。ただ、観客がその長さからエモーションを見出せるかどうかは、測り切れないところです。

──観客への挑戦か説明か、どちらかだとすると……。

説明だけではおもしろくないし……、言葉にし難いですが「このシーンはこのままでは何か足りない」と思っていて、あいだに何かを、と編集で色々考えました。そこに美香子と宗一朗のシーンがうまくはまった。結果的に裏で進行していること──並行する物語──が伝わる編集になったけれど、それは後付けで「この映像とこの映像が結びついた」という最初の単純な悦びが大きかった気がします。

──モンタージュの快楽にもとづく編集ですね。

そうですね。撮るときも、あそこに別のシーンを挟むことは想定していなかった。編集で「ここに入れると前半のシーンの意味が変わる」と発見していくのは快楽でしたね。最初の編集の時点ではもっと長いシークエンスで、余分なものが多くありました。それを残せば、観客は話を理解しやすくなるかもしれないし、2時間を切るつもりでどんどん短くしていくと、もとのシナリオにあった構成とはかなり違ったものになってしまう。でも僕にとってはいい映画になる方向を選ぶ作業だったし、モンタージュによって「こんな映像は見たことがない」と少しでも感じられる瞬間がある作品にしたかったんです。

──『talk to remember』(2015) には、およそ8分の長回しがありました。当時とは映画、とりわけ編集に対する思考も変化しましたか?

『talk to remember』は、『ハッピーアワー』撮影前のワークショップを準備している頃に東京へ戻り、3日ほどで撮った作品です。時間がないなか、スタッフ・出演者の方々には本当にお世話になりました。たしか編集はワークショップの期間中でした。時間がなかったし、当時はシナリオ通りに何とかしようと考えていたように思います。作業も東京藝術大学大学院・同期(3期)の木村恵子さんにお願いしたので──もちろん編集にはずっと立ち会いましたが──自分では直接していません。今回はシナリオ通りとは違うし、あの頃は律儀に「これだと観客にわからないかな」と悩んでいましたね。本作にもそうした配慮はあるけど、もう少し挑戦した感覚のほうが強い。8年近い時間が経って、変化した部分はあるでしょうね。

──フィルモグラフィをさらに遡って、『Elephant Love』(2009)にはリチャード・ブローティガンの『不運な女』をライトモチーフとして使っておられました。なぜブローティガンだったのでしょう。

とても単純な理由で、あの作品は高木幹也さんと共同でシナリオを書きました。高木さんはブローティガンが好きで、『不運な女』を使ったのは内容よりも、手紙という形式の影響だったと記憶しています。『Elephant Love』の後半には大量の手紙が出てくる。そのヒントをもらったので、図書館で本が出てくるときの設定も『不運な女』で、と決まりました。

──ブローティガンの作品は、おもしろさを語ろうとするほど核心から遠ざかる気がして、そこが本作によく似ていると感じます。作者の意図が掴めない点もそうで、明確な方法論があるかどうかも定かでない。

『不運な女』もそういう作品ですね。文章を理解できても、どこに運ばれていくのかわからない。だから、それはありがたい指摘です。つくり終えたときに思ったのは、何度も見ている自分ですら、そのたびに感じ方が違う。「このシーンはこうなっていたのか」と改めて気づくし、見る人もそうだと思います。
賛否両論が分かれるだろうとは最初から予想していました。でも、もしそこがブローティガンに通じるのなら嬉しいです。カサヴェテスの『ハズバンズ』(1970)の上映中、かなりの観客が席を立ってしまったという「本当にそんなことが起きたのか」と思う逸話がありますよね。幸い、本作ではそうなりませんでしたが(笑)。

──監督が劇場パンフレットで『こわれゆく女』(1974)に言及しておられたり、ほかにも本作とカサヴェテスの映画を並べて語る例を目にします。自分なりにその理由を考えているときに、本作を見た直後の友人からメールが届きました。「好きか嫌いかは留保するけど、この映画に監督が人生を賭けているのがわかる」と。いま最もしっくりくるカサヴェテスとの共通点はそこで、スタイルではなく映画と人生が通じています。

映画をつくるときは、毎回そのような気持ちかもしれません。『Elephant Love』もそうでした。やっぱり映画制作は、その裏側を描く映画さながらに色んな人が関わり、その人たちの感情の変化によって様々な出来事が起こる。本作も、制作途中でシナリオの大きな変更を余儀なくされました。「これで撮れなければ、もうデビュー作をつくるのは無理かもしれない」と思ったし、「完成に至ることが出来るのか」と思う局面も経験したので、その意味で人生を賭けた部分はあります。それが具体的にどう写っているかは僕自身にはわかりません。でも、撮っているときにその不安が最も大きかったので、それもとても嬉しい言葉ですね。
そのようにカサヴェテスと比べていただくのは恐れ多いですが、再編集しているときに濱口さんが、特に前半部分を評価してくれていました。濱口さん流の表現で「映画になることに対して抗おうとしている。そこが素晴らしい」と。「普通に映画として収まらず、どこに向かうのかわからないところがいいけど、127分版の後半は映画になろうとしている。そこを何とか拭えないか」と指摘を受けました。達(とおる/三浦博之)の登場以降、映画を終わらせようとする力学──映画はどうしても終わらせないといけませんが──が働き始める感じがある。そこを薄めることが出来たらもっとよくなるのではないか、というとても踏み込んだ指摘でした。

──濱口さんの再編集の提案が「悪魔のささやき」だったという前言を撤回します(笑)。映画や物語から遠ざかろうとすると、逆説的に映画になるところもカサヴェテスに似ているかもしれないですね。シナリオを書くとき、念頭に置いていることがあれば教えてください。

本作は川村さんとの共同執筆で、特に女性のセリフの多くは川村さんに書いてもらいました。でも正直、お互いにどちらがどこを書いたかもうわからない状態です。自分で書くことに関して言えば──『スパイの妻』(2020/黒沢清)もあったけど──やっぱり『ハッピーアワー』(2015)での共同執筆(濱口竜介・高橋知由)経験がすべてのきっかけになったと思います。当時、濱口さんに言われたのは「登場人物がしゃべりたい言葉は基本的に書かない」。それをルール化するとセリフが複雑になり、直接的に感情を言えなくなる。仮に感情的なセリフを言おうとしても、回りくどくなります。でも、それによって会話のリアリティやその人らしさが出てくる。濱口さんから教わったそのことは、今でも心に留めています。
シナリオを書くときには体調も関係していて、疲れていると物語を早く進めたくなって、安易にセリフを書いてしまうこともあります。『ハッピーアワー』でそういうふうに書くと、濱口さんにことごとく修正されましたね(笑)。

──そのような言葉を避けるためには、人物像を明確にしておくことが必要になりますね。

そうですね。それから本編には使わないだろうけど、とにかく書くことも必要で、人物を構築するためにシナリオを書く側面があります。本編に使う部分の前後はどうなっているのか? 川村さんとその執筆作業をやったし、『ハッピーアワー』でもサブテキスト*をつくりました。作業量は膨大になりますが、そうすることで自分のなかに「このキャラクターはこういう人なのかな」という手ごたえが生まれます。すると「自分としてはこう言ってくれると話が進んで助かるけど、言わないだろう」と、安易なセリフを書かなくなる。これは『ハッピーアワー』の修行の賜物ですね。元々は助監督的に、制作をサポートする目的で神戸に来たのが、「こういうところまでたどり着いたか」という感慨があります(笑)。
*「カメラの前で演じること 映画『ハッピーアワー』テキスト集成」(2015/左右社)に所収。

──本作のブローティガン的な「わからなさ」は、様々な要素の「混濁」と言い換えられるとも思うのですが、家族ドラマとサスペンス、また内面が混濁した人物たちを動かすシナリオはかなり書き直されたとか。

だいぶ変わりました。これは色んなところでお話ししている通り、当初の予定のおよそ3分の1ほど撮影を終えたところで、大幅にシナリオを変えざるを得なくなった。そして、はじめはもう少し小さな役だった川村さんが主演になりました。美香子と毅(小林勝行)の夫婦の部分はあまり変えていないけど、春は大きく変わっています。最初はコメディの構想もあったんです。ただ、家族ドラマの部分を緻密に詰めていくとコメディにはなり切らなかった。次に撮るなら何とかしてコメディを、とも考えています。

──「記憶喪失」はハイリスクなモチーフです。監督、もしくは川村さんからのアイデアでしたか?

僕の記憶自体がおぼろげですが(笑)、あれは川村さんからだった気がします。先ほどシナリオの変更についてお話ししましたが、そのタイミングで出てきたモチーフでした。シナリオづくりは助監督の鳥井雄人さんもまじえて進めていて、3人で話しているときに出てきたものです。おっしゃるようにリスクの高いモチーフで、撮る直前まで不安でした。でも、川村知さんが演じることで「記憶喪失とはこういうことか」と、出演者に教えてもらった気がします。

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──失敗例も少なくない大技のモチーフが、うまく着地していると感じました。

濱口さんもうまくいってると言ってくれました。再編集で、川村知さん演じる生人(なると)/明の顔をラストに出来たのもよかったと思っています。

──あのショットは127分版にはなかったのでは?

あのラストショットは127分版にもあったんです。でも、別の箇所に入っていたので印象が全く違うかもしれません。追加撮影で飯岡幸子さんが撮ってくれました。

──編集で印象が大きく変わるものですね。あのショットはほぼ唯一のクローズアップ。『ハッピーアワー』の「顔の映画」という特徴が本作にはないように思えます。

たしかに自分でもその印象はないですね。

──続けてセリフの発し方に関して教えてください。最初に見たときは、イタリア式本読みの延長にあると感じました。しかし『ハッピーアワー』と異なる独特のニュアンスがあるように思える。棒読みよりも、「抑制された演技」に近い印象を受けます。

抑制していますね。イタリア式本読みは一度試しましたが、難しかった。やっぱり人それぞれ合ったやり方があると感じました。濱口さんがやっているのを間近で見たときにはいい方法に思えたのが、実際にやると自分にはあまりフィットしない気がしました。それで普通に本読みをしてみると『ハッピーアワー』の出演者が多いため、誇張した芝居にならない傾向がありました。みなさんが感情を入れない本読みを経験しているからで、それはこの映画にとって正しい感情だったし、川村さんも自分でセリフを書いているので、エモーショナルな言葉を直接的に言うことはなかった。その結果、ほかの映画よりは濱口さんの映画に似た部分が生まれたかもしれません。ただ濱口さんの方法は独特だし、つくり手各自に合ったやり方で撮るのがいいんでしょうね。

──そうした馴染みのあるチームに、『ハッピーアワー』の出演経験を持たない小林勝行さんを起用するにあたり、期待と不安の両面があったのではないでしょうか。

不安があったとすれば、オファーしたときに「セリフを覚え切れるかどうかわからない」という返事をいただいたことくらいでしょうか。「それでもいいので」とお願いしました。結果的に言葉がシナリオと多少変わっても、かえってそれがよかったり。そして『ハッピーアワー』とスタッフ・出演者が重なって、似た映画が生まれてもおかしくない状況で、いい意味で空気を壊すムードメーカーでもあった。小林さんの存在が違う映画にしてくれると期待していたのが、その通りになりました。

──小林さんも、表現と人生が結びついた人ですね。ヒップホップはスキルだけでなくリアルを問われる音楽でもある。小林さんのラップはそこにしかないものを宿しています。

ドキュメンタリー映画『寛解の連続』(2019/光永惇)で描かれていたように、小林さんは精神を患った経験をお持ちです。それを乗り越えて現在は寛解状態でラップを続けている。そんな小林さんなら美香子に夫として理解しながら寄り添えるのではないか、そう思って配役させてもらいました。小林さんは曲をつくるときに、夥しい量のアイデアや歌詞を紙に書きます。昨年12月にリリースした3rdアルバム『KATSUYUKISAN』(2021)も4年ぶりの作品で、時間をかけて考え抜いて出来たものです。そこにもリアルがしっかり存在している気がします。

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──リアルゆえに、見る前は小林さんだけドキュメンタリー的に写るのではないかとも思っていました。でもその存在が浮き出ず、劇映画に定着しています。何か秘訣はあったでしょうか。

小林さんをドキュメンタリー的に撮ることは考えていませんでした。と言うのも、ドキュメンタリー的に撮るならば全体をその方向に持っていく必要があるためです。今回は、小林さんに劇映画の側に歩み寄っていただく形になりました。小林さんのミュージックビデオの撮影現場で出会ったとき、ラッパーと思えないほど「やさしい方だな」と感じました。ほかにもやさしいラッパーの方はいる筈ですが(笑)。カメラに写ったときも非常に魅力的で、小林さんだけ目立つ可能性も少しは考えました。「ありがたい誤算だった」と言うのは適切ではないかもしれませんが、本当に周りを気遣う方で、それは杞憂に終わりました。『ハッピーアワー』の出演者たちが小林さんを受け入れて、周りを囲んでいたのも大きかったですね。お互いにやりやすかったのではないかと思います。

──次に、画面に関してお聞かせください。毅の家でのファーストショット、毅が登場するショットはローポジションから撮られています。その視点は美香子との子ども・光太郎のものであるとわかりますが、続けて見てゆくと、真上からの俯瞰で生人(なると)/明を撮ったショットなどは誰の視点でもない。カメラポジションはどのように決めていったのでしょう。撮影監督は北川喜雄さんと飯岡幸子さん。おふたりの特質の違いを含めて教えてください。

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毅が登場するシーンのローポジションは、喜雄さんが選んでくれて、僕からは大まかな提案のみです。ポジションはその都度相談して決めました。いま挙げていただいた俯瞰も、撮影は喜雄さんですね。撮影スケジュールの都合上、相談できる時間は飯岡さんより喜雄さんのほうが長く、「ここから撮ればおもしろいだろう」というポジションに置いてくれるケースが多かったと思います。逆に飯岡さんは「この辺りで」程度のことだけ伝えるとポンと置いて、それがいい画になるのが不思議でしたね。ふたりの特質は違っていて、喜雄さんは一点を凝視して入り込む。飯岡さんは目の前のあるものを受け止める。そんな印象があります。

──ラスト近くに、坂道の長い移動撮影があります。あの撮影は飯岡さんだと思ったのですが、いかがでしょう。

あそこも喜雄さんです。

──飯岡さんは『Rocks Off』(2014/安井豊作)で、法政大学学生会館廊下の長い横移動を見事に撮っていたので、そのイメージがありました。

追加撮影を行わないといけなくなったタイミングで、喜雄さんから飯岡さんに交代したんです。喜雄さんは海外に行くことが決まっていたので、「ここは飯岡さんしかいない」と。飯岡さんも「喜雄さんのためなら」という思いがあったようで、引き受けてもらえました。僕は掴み切れていませんが、もしかするといつもの飯岡さんと違うアプローチがあったのかもしれません。それはいつか訊いてみたいですね。ふたりが撮った映像を繋いでも何の違和感もありませんでした。

──こうして教えていただけなければ、おふたりの画の違いがわかりません。統一されていて混濁がないのが不思議でもあります(笑)。仮に飯岡さんが北川さんのカメラワークを意識していたとしても、その逆はあり得なかったということですよね。

そうですね。全部喜雄さんが撮り切る予定だったので。達が生人/明を追いかけるのをワンカットで撮っているのも喜雄さんの画に見えるかもしれませんが、飯岡さんなんです。

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──そこも想像の逆でした。画づくりに対して、監督はどの程度意見を出されましたか?

基本的に先に動きをつけて、固まればカット割りを考えていきます。現場でカット割りを考えながら動きをつけることもありますが、いつも喜雄さん・飯岡さんと話し合って決めていたように思います。僕から一方的に提案することはなくて、それがよかったですね。自分ひとりじゃなく、チームの意志としてカット割りが決まってゆく感覚がありました。

──北川さん・飯岡さんの技術と感性を前提に、そのうえで「野原位の映画の画」が存在するように思うのですが、ご自身で「これが個性だ」と認識されていることはあるでしょうか。

自分なりの推測ですが、シナリオがあって、現場で動きをつけるなかで「これを撮れば映画になる」と感じるポイントがほかの人と違うのかもしれません。単にうまくカットを割って被写体を捉えるだけなら、僕じゃなくても構わないというか。違いがあるとすれば、カメラマンとお互いに「こう撮ればいいんじゃないか」と話し合って決める、その手前の演出の部分じゃないでしょうか。

──演出が特別なものでなければ、平凡な映画に陥りますよね。でも監督のお話からはあからさまな狙いの気配がしないし、正直に言って謎です(笑)。

特別ではないですね。自分でもその謎を知りたいくらいです(笑)。出来上がると、何だか変な映画になっている。『Elephant Love』のときからそうで、その答えは映画を撮ってゆくなかで知りたいと自分自身も考えています。

──謎をめぐる本作最大の謎は、その変な映画がどうやってつくられているのか? そこが何度見てもわからず、混濁した感覚だけが残ります。そのため取材が遅れてしまった、というのは言い訳ですが。

僕が刺激を受けてきた、理想とする映画は──もちろん色んな映画があっていいけれど──「すごい映画だった。でも何を見たのかよくわからない」と思うものでした。そういう映画は商業面で致命的に売りづらいかもしれませんが(笑)、若い頃に見た古典映画は展開やカット割りの速度が速くて、今でも全然古いと思わない。最後に「これで終わったかな」と思う音楽が流れるから終わったのがわかるけど、「一体何だったんだろう」と謎が残ります。
神戸映画資料館で〈はたのこうぼうのアメリカ映画研究会〉を開いたときに、僕の発表回のテーマはルビッチでした。ルビッチの展開もやっぱり速くて、観客に親切かといえばそんなことばかりでもない。けれども、「これこそ映画だ」と思うんですよね。小津(安二郎)にしても「退屈だ」という人もいるかもしれませんが、色んな仕掛けやわからなさがあります。何度見ても何かを見逃した気がする。それが映画の素晴らしさだし、本作に微かでもそのような部分があるなら嬉しいです。

──そういう種類の「わからなさ」を意図して表現するのは至難の業ですよね。

そうですね。だけど、そこを突き詰めたい。オリヴェイラにしてもゴダールにしても、作家それぞれのわからなさがあるからまた見たいと思うんでしょうね。さらにプロデューサーが高田聡さんだから、この映画の不確かさを理解してくれたと思っています。「監督、これじゃあわかりませんよ」というような人だと、きっと難しかった筈です。

──繰り返しになりますが、この映画のおもしろさを語るのは本当に難しく、いまだに好きな画も絞り切れないんです。どのショットにも力があって。

もう少し目が休められるシーンをつくればよかったかもしれません(笑)。

──ではいちばん好きなところを挙げると……、ポートライナーに乗った春が、ビルの貼り紙を見つける切り返しです。タイミングや構図が素晴らしい。あの撮影について教えてください。

知人の会社があるので、「ここなら使えるだろう」と場所は僕が決めました。あのシーンに関して直接的に指摘してくださったのは、これまで蓮實重彥さんだけです。

──ひょっとして、寄せられたコメントにある「近年の世界映画でもっとも過激、かつ繊細な切り返しショット」とは、あそこを指していますか?

そうです。蓮實さんが指摘されたのは、ポートライナーに乗った春を、車外からポンと引いて捉えた切り返しです。コメントを読んで想像しても、おそらくあの切り返しにはなかなか行き着かないと思います。蓮實さんは「それまで集中し切れなかったのが、あそこで痺れて、そのあとは最後まで集中して見ることが出来ました」と言ってくださって。自分でもいいシーンだと思っていましたが、あそこに反応してもらえたのは少し意外でした。

──本作を見ることへの自信が少し湧きました(笑)。人物の切り返しは、ほぼ肩越しで撮られています。そうした理由はなぜでしょう。

おそらく画面サイズに関係しています。本作はビスタなので横が長い。そのサイズで人物を撮るとき、真正面からであれば人が中心に来るので構図が整います。でも、切り返しを人物ナメにしないで被写体に角度をつけてカメラを向ける場合、画面に空白が出来ます。その空白があまり好みではない。感覚的なものですが、肩越しにしたくなります。これがスタンダードサイズならば、ナメずに切り返せる気がします。生理的なものですね。
ヨーロピアンビスタであれば、アメリカンよりも横幅が狭くなるので、切り返しなども若干人物をナメにくい気がしています。なので、本作をもしヨーロピアンビスタで撮影した場合には人物の切り返しのサイズ感は変わったと思います。それから、50㎜レンズの画が好きだということも画面に影響しているかもしれません。

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──50㎜は人間の肉眼に近いと言われる、ブレッソンが好んだレンズですね。

ブレッソンは、それでしか撮ってないイメージが頭にこびりついています(笑)。ある時期からの小津もほとんど50㎜じゃなかったでしょうか。撮影監督の喜雄さん・飯岡さんに「50㎜で」とはお願いしなかったけど、ブレッソンや小津の映画が好きだし、そのように見せたいとどこかで思っていました。ズームレンズを使っていることも多く、ショットは正確には50㎜の画になっていませんが、それくらいのサイズが好みだし、50㎜レンズで撮られた画の美しさがずっと頭に残っているんでしょうね。これもつくり手の生理で、どうしてもそう撮りたくなってしまう。「これが全編手持ちの作品だと一体どうなるんだろう」とも思いますが、なかなか手持ちを選択できないですね。でも最近、ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960)を見直す機会があって、手持ちなのにいいサイズ感でうまく撮っているなと思いました。やはり素晴らしい作品です。

──カメラマンはラウル・クタールです。

こうすれば、手持ちでもスタンダードで人物を綺麗に撮れるんだと勉強になりました。人物とサイズ感への関心の由来を考えると、やっぱり黒沢(清)さんや濱口さん──もちろん先人に小津や溝口健二など多くの巨匠がいますが──に近い環境にいたのが大きいです。ほかには万田邦敏さんの『Unloved』(2001)。あの作品での芦澤明子さんの撮影は素晴らしいですね。それらの人たちの影響は確実にあります。

──回想、あるいは夢の可能性もあるでしょうか、須磨浦山上遊園の西にある展望台で撮った春のシーンも目を引きます。

実は『ハッピーアワー』が完成してから、いくつか企画を立てていました。あれは本作の前くらいの企画用に撮った映像なんです。神戸を見下ろせるいい場所だから、あそこで撮影したものの、使えず寝かせたままになっていました。それが本作を撮り終えたあとで、何かしら春の明るいシーンが──ある人物の回想として──必要だと考えました。そこで撮影素材を見返して、使えるところを探して繋ぎました。

──あのシーンは画の質感が明らかに前後と異なりますね。

カメラが違うし、回想に見えるようにノイズも乗せています。

──最初に並行モンタージュの例を伺いました。このモンタージュも同じくらい力が入っていたんですね。

使える限りのフッテージを使いました(笑)。

──春の職場を美香子が訪ねてくるシーンでは、柱がふたりを遮ります。逆のポジションからのほうが撮りやすかっただろうと思いますが、なぜでしょう。

あそこは喜雄さんの判断でした。はじめは病院から出てきた春が進む方向にレールを敷いていて(本編のレール位置と逆側)、芝居をつけているうちに陽が落ちてきて、僕は演出のほうに集中していました。そこで、芝居を見ていた喜雄さんがポジションを変えた。逆の方向にすることで、じわっとふたりのサイズが大きくなる、あのシーンに合った撮り方が出来たと思います。

──北川さんの細やかなトラックアップには、監督がおっしゃった「凝視して入り込む」タッチがあります。そして終盤の、車に乗った毅と美香子の切り返しも好きなシーンです。運転席側から撮っている毅の表情は、ガラスの反射や映り込みでクリアに見えない。何か意図をお持ちでしたか?

意図的ではないです。どちらからもガラス越しに撮っていて、シンプルな照明も組みましたが、たまたまなんです。廣瀬純さんが、おそらくあの辺りについてもパンフレットに書いてくださいました。

──作品サイトにコメントとして抜粋されているのは、あのシーンに関する記述でしょうか。それがどこだろうと考えていました。

僕もたぶん、あそこを指摘してもらったと思っているんですが……、どうでしょう。映画からオリジナルのテクストをつくる廣瀬さん独特の文章で、それがまた嬉しかったですね。

──あそこは毅がクリアに写らないことで、ふたりの関係に影響するような効果が生まれています。

そうですね。やはり意図していなかったのにうまく撮れてしまった部分があります。即興的な要素が強く、出村さんにもセリフを考えてもらってテストを何度も繰り返しました。そうして出来上がったシーンです。

──美香子が鏡に向かって、内面をラップで吐露するシーンはカメラワークも含めて見ごたえがあります。あのセリフ、というよりリリックは監督が書かれたものですか?

大体はそうです。正確には──もとになるものは準備していたけど──現場で時間をもらって、僕がその場で箇条書きのような形で書きました。出村さんには「順番が変わってもいいので」と伝えて渡しました。だからあそこも即興的な要素が強いですね。撮るまでは大丈夫かなと思っていたのが、うまくいきました。

──あのシーンが好きだという方は多いのでは?

スタッフにも「好きだ」と言ってくれる人がいました。ありがたいことです。

──さらに本作の特色がフィクショナルな「暗さ」です。生人/明が閉じ込められるシーンなどは積極的に闇をつくり込んでいて、同時に光も強調されます。

かなり強めにスタッフがつくってくれました。喜雄さんもがんばってくれて。

──ほかにもフィクショナルな暗さを活かしたショットが見られます。家族ドラマの細部などはリアリティを詰めている一方で、ライティングには大胆な虚構性がある。

『ハッピーアワー』では一部を除き、あまり照明を使っていませんでしたが、今回は喜雄さんに、もう少し照明のしっかりしたシネマライクな画にしたい意向があって、シナリオを渡して相談していくなかでそのような提案を受けました。僕もいいと思い、それに沿って画づくりが発展していきました。たとえばハサミを使ったシーンがあります。照明もだいぶ攻めている。観客が受け入れられるかどうかギリギリのラインで、ちょっと劇的になってはいるけど、成功したシーンです。

──演技もかなり強めなのに、くどさがありません。

ハサミにもレフで光を当ててもらいました。あの画でなければ、全然違う印象になったと思うし、全体のトーンが整ったのはスタッフみなさんの力ですね。

──音もフィクショナルで、カット変わりで環境ノイズを抜くシーンがあったりと、松野泉さん(録音)のセンスがよく表れた音響ですね。

そこは松野さんのクリエイティブで、編集を終えて仮の音楽などをつけたあと、お任せした部分が大きいです。松野さんはそこからもう一度、音をつくり上げてくれました。ご自身も監督だから任せたかった。すると、自分では思いつかない様々な音──環境音や車の音──が随所に散りばめられていた。それを一回聴かせてもらったうえで、意見を求められました。松野さんが作品をよくしようと思っているのはわかっている。それでも仕上げた音がよくなければそう伝えないといけないけど、「こうなるのか」という発見や、音によって活きてくるシーンが多かったので、ほとんど採用させてもらいました。音によって、さらに映画が混濁しているのかもしれませんが(笑)。音に対しても、意図やコンセプトより、言葉に出来ないおもしろさに惹かれるんでしょうね。嬉しくなる音をつくってもらいました。

──音声面では、「生人」という言葉のイントネーションが出演者によって違うのは気になりませんでしたか? あるいは演出の一部なのか。一律に揃えようとは考えませんでしたか?

演出や意図はせず、偶然そうなったんだと思います。賢治役の謝花喜天さんも独特のイントネーションで、直すことはしませんでした。気にならなかったし、そこもおもしろいポイントだと思って。

──イントネーションが異なることで、生人/明のキャラクターに複数性がもたらされているように見えます。

謝花さんは底知れないので、もしかするとそう考えてきた可能性もありますね(笑)。こうしてお話ししていると、やっぱり映画には意図せずとも偶然起こることが多いと感じます。

──偶然が起きる現場をつくるのがうまいということではないでしょうか。

「絶対にこうしてください」と言わないのが関係しているかもしれませんね。もちろん、それを言わないと最初に思い描いていたイメージからはズレていきますが、その先に映画がおもしろくなる可能性がある。ただ、どこにたどり着くのかわからない不安と背中合わせでもあります。

──古典映画は、それぞれどうやって着地点にたどり着いているでしょう? 以前から監督に訊ねてみたかった問いです。

ルビッチの研究会で発表したのは、ある位置から映画がスタートして、ぐるりと一周して元の場所に戻ってくるけど、人物の関係性が全く変わっていることでした。頭とお尻が同じで円のようになっているのがすごい、と。僕は、古典ハリウッドの名作は──すべてがそうではないですが──最初と終わりが同じ場所やシチュエーションでも、決定的に何かが変わっていると思います。

──発表では反復にも触れておられましたが、本作でもあるセリフを繰り返しておられます。そして全体の時間配分も三幕構成的になっている。それでも混濁して見えるのは、やはり無意識によるものでしょうか。

どうでしょう。でも、特に編集中は画面からずっとエネルギー──曖昧な表現ですが──を感じ取れるようにしたいと意識していました。演技や画面だけでなく、実景もそういう魅力を持っているのが望ましい。そこに説明になる画を挟むと、見やすくなってもダラッとしてしまう。その点には気をつけて、エネルギーを持続させたいと考えていました。

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──127分版もそうでした。

最初からそれを意識して、出来る限り切り詰めたつもりだったのが、さらにもう少し先にいけました。

──編集からも人生を賭けられたことが伝わります(笑)。

そうした結果、この1本で疲れ果てないようにしないといけないですね(笑)。まだまだ映画を撮りたいので。

──監督はフィルモグラフィから寡作な作家とみなされている部分もあるかと思います。数年スパンでないと撮れないなどの理由はありますか?

今後は運と機会にさえ恵まれればたくさんつくりたいですね。やっぱり本作を撮ったことで掴んだ感覚はあって、それが衰えないうちに次に向かいたいと思っています。むかし濱口さんともよく話しましたが、制作時に重要なのは締め切りが設定されていることかもしれません(笑)。シナリオも期限がないと、ずっと悩み続けて書き上げられないところがありますね。

──では、この長いインタビューもルビッチ的な円環構造で閉じたいと思います。改めて本作の魅力は、最初に伺ったブローティガンのようなわからなさ、意識と無意識の混濁だと感じます。それについて最後にお聞かせください。

今後も意識と無意識のあいだを横断しながらつくれれば、と思っています。ただし、過度に「わからなさ」を意識せずに。意識するほど失敗してしまう。なんとなくそういう予感がするので、こちらが純粋に「こうすればおもしろい」と思ってつくったものが結果としてそうなるのが理想ですね。観客が一度だけでは何かを見逃したかもしれないと思うような、それで何度見ても掴み切れないけど、心には何かの芯が残る。そういう映画を目指していきたいです。

(2022年3月)
取材・文/吉野大地

映画『三度目の、正直』公式サイト
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『さよならも出来ない』松野泉監督インタビュー
脚本家・高橋知由インタビュー

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