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観客の顔をさがす:佐々木友輔『映画愛の現在』三部作の神戸上映に寄せて     田中晋平

『映画愛の現在』監督:佐々木友輔

 

観客の顔をさがす 佐々木友輔『映画愛の現在』三部作の神戸上映に寄せて
田中晋平(神戸映画資料館研究員)

『映画愛の現在』は、鳥取県全域の映画館や自主上映グループ、小規模の映画祭、ドキュメンタリーの制作者など、映像にたずさわるさまざまな人々を、監督の佐々木友輔が訪ね歩き、それぞれの語りに耳を傾けた記録である。「第Ⅰ部/壁の向こう」は鳥取市のある東部、「第Ⅱ部/旅の道づれ」は倉吉などの中部地域、「第Ⅲ部/星を蒐める」では米子など西部地域の個人やグループが取り上げられ、全篇鑑賞すると5時間を超える。膨大で圧倒的サイズだが、その時間を費やして観るべき価値があるはずだ。過去にはロッテルダム国際映画祭やリスボン国際ドキュメンタリー映画祭、国内でも恵比寿映像祭などで本作は上映されてきたが、関西では神戸映画資料館で初上映となる。この機会に、ぜひスクリーンで目撃していただきたい。

「映画愛」という誤解も生じそうな言葉を作品タイトルに掲げ、本作がまず問いかけるのは、映画を観る体験が、「現在」息衝いていると言える場所は、果たしてどこにあるかという点だろう[1]。その場所は、(残念ながら?)映画館の暗闇の中ではもはやないのかもしれない。YouTubeの動画やNetflix、Amazon Prime Videoなどインターネット配信を介し、あらゆる空間に映像が拡散、遍在している現状のメディア・インフラで、殊更に映画館への偏愛を叫ぶのは、時代錯誤にも映りかねない(もちろんその前段階には家庭用ビデオの普及やレンタルビデオ店の定着などがあった)。さらに佐々木が長年暮らした首都圏のように、現在も一定の映画ファンが通い詰める劇場が存在感をもつ大都市を離れれば、ほとんどの地方で、シネマコンプレックスを除く映画館は姿を消している。『映画愛の現在』が撮影された2019-2020年時点で、鳥取では東部、中部、西部にそれぞれ一館のみ映画館が営業しているという状況だった。

2016年に鳥取大学地域学部の講師として移住した佐々木は、環境の落差で途方に暮れる。しかし、やがて同じ土地の中で、多様な動機から映画上映の活動を続ける集団や個人がいるのを知る。映画館を経営してきたのは「家業」だからと語る人物、鳥取で観れない作品を上映するため定期/不定期に自主上映会を企画するグループ、会員制のシネクラブ活動、映画祭や上映のためのスペースを維持してきた人々、コミュニティの記憶を掘り起こすインディペンデントな映画の作り手たち。『映画愛の現在』は、進む道を模索する佐々木がその人物らに取材しながら、「人生相談」を重ねていくロードムービーなのである。

登場人物たちの魅力的なイメージには、ぜひ神戸のスクリーンで触れてもらいたいので、評者から一つ一つ活動を紹介するのは控えたい。後述するように本作は、インタビューを受ける人物の顔と声をあえてズラして提示することで、巧妙に構成された映画でもあるから。いずれにせよ、ドキュメンタリーとしての『映画愛の現在』の大きな価値は、鳥取全域の映画文化を、傾向別に選別したりはせず、多種多様な活動をそのまま記録した点にある。一般の商業映画館だけでなく、自主上映やオルタナティブスペースのイベント、映像教育のワークショップなど、地域の中で映像メディアがさまざまに活用されている実態を、ここまで広範に取材してまとめた事例は、全国でも他に類例がないはずだ。主に関西地域で行われてきた自主上映の歴史を調査・研究してきた評者は、最初に『映画愛の現在』を観た時、佐々木のような映像作家が全ての都道府県にいて、ドキュメンタリーを制作してくれたなら、各地域の映像文化を形成してきた地層やその生態系が掴めるかもしれない、と感慨を抱かずにいられなかった。

もちろん、本作はあくまで撮影時の鳥取の映画文化に限定された記録と言える面もある。おそらく制作が佳境にあったと思われる2020年初頭、新型コロナウイルス感染症の世界的な感染拡大が起き、映画を観る環境そのものが一変した。2023年末の「現在」、本作を観る誰もが気付かざるをえないように、『映画愛の現在』の画面に映るのはその災厄が生じる直前の状況である(本作に登場するグループや個人にも、その後の上映活動を維持できなくなった人々が含まれるのかもしれない)[2]。他方で2021年7月、鳥取中部の湯梨浜町では、“Jig Theater”という新たな映画館が誕生してもいる。

しかし、本作の魅力はむしろ、(われわれ受け手がポストコロナの視点を踏まえて映画を解釈できることも含め)撮影時の「現在」を超え、幾層もの時間を画面に重ね合わせながら、観ることが可能な点にこそあると思われる。たとえば、『映画愛の現在』のそれぞれのパートでは、インタビューの合間のシークェンスで、鳥取、倉吉、米子の街中にかつてあった映画館の跡地の映像が挟まれる。世界館、帝国館、日の丸劇場、有楽座、富士館、旭座、米子セントラル、グラン映劇、などなど。もはや痕跡させ見出せないその風景に対し、確かに同じ場所でかつて映画を観た体験談を、郷愁や笑いを交えて語ってくれる声が響く。鳥取だけではなく、インタビューを受けた人々が東京や大阪で観た作品や映画館の記憶も含めた、豊穣な映画体験の証言を本作は記録しているのだ。

過去の記憶を聞き集める試みは、『映画愛の現在』完成後のプロジェクトにも繋がっていく。2021年から佐々木は「見る場所を見る:アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」を開始、2022年には鳥取市のGalleryそらにおいて、「イラストで見る、鳥取市内の映画館&レンタルビデオショップ史」展を開催した。2023年にも同スペースで米子市・境港市内を対象としたリサーチの成果展を実施するなど、残存する資料の少ない映画館や地域のレンタルビデオショップを調査するプロジェクトが進められている[3]。『映画愛の現在』は、佐々木による一連の地域映画史研究の起点にある作品としても位置付けられるのだ。

加えて本稿冒頭でも指摘したように、本作には、佐々木友輔の「人生相談」の旅と言えるコンテクストが、制作の動機として抜き難く埋め込まれている。言い換えれば、『映画愛の現在』は、空間的移動に留まらず、映像作家がこの土地で進めるべき創造活動を模索したり、過去の佐々木自身が歩んできた記憶を遡る、時間の旅を描いていく。そもそも、本作で繰り返される撮影方法、すなわちインタビューをする人物と会うため、カメラを持った佐々木が、街や風景の中をひたすら歩き続ける移動ショットも、映像作家の過去作品を知る観客には、馴染み深い。こうした揺動するカメラは、『土瀝青 asphalt』(2013年)などで確立してきた方法論の延長上にあるし、佐々木は手持ちカメラによる手ブレ映像をめぐる言説史を再考する仕事にも取り組んできた[4]。ただし、重要なのはこうした揺れる画面の中の街並みに、ボイスオーバーでこれから出演を果たす人々が、自分たちの活動や影響を受けた映画の記憶を生き生きと語る声が聞こえてくることだ。つまり本作では繰り返し、顔のイメージに先行して、語りと風景が提示される。声の主とインタビューが行われている空間を想像しながら、次第に観客はカメラの運動と歩幅を合わせ、人物たちに会いに出かけるような心持ちになっていくだろう。

誤解を避けるために付言すれば、カメラを持つ身体が、電車や車も使って都市の中を移動したり、ファスト風土的と呟きたくなるロードサイドの景観を横切っていくショットを、単に映像作家のシグネチャと見做したいのではない。実際、それらの揺動するカメラの映像体験から、ジョナス・メカスやかわなかのぶひろ、山崎幹夫など、先行する個人映画史の系譜を遡っていくような解釈も可能だろう(主題歌が『初国知所之天皇』のカバーである点も、そのような読解を誘う)。また、揺れるショットやその風景から、映画を受けとめるわれわれの想像が、鳥取の限定されたイメージを脱し、任意の場所や記憶を喚起できる/させられる作用を検討することもできる[5]。こうした点は、佐々木が展開してきた郊外論や風景論のテクストとも接続し、詳細に論じるべき価値がある。

ここであえて着目したいのは、上記の揺動するカメラの映像と音声のズレがもたらす、本作を特徴づける時間感覚である。先に画面にいない人物の声を響かせ、語り手の顔を後から登場させる『映画愛の現在』の方法は、その声と顔のズレが一致するまで、われわれ受け手にいわば宙吊りの時間を繰り返し体験させる。しかし考えてみれば、このような体験は、本作でインタビューを受けている上映の担い手たちの姿にも通じるところがあるように思う。誰がこの映画を観るために集まってくれるのか、まだ見ぬ人々の顔を想像しながら、自主上映や映画祭を企画すること。さらにチラシなどの広報物を準備しながら、期待と不安を抱え、会場を設営していく。いざ上映がはじまっても、訪れた観客からどのような反応が寄せられるか、ドキドキしながら待たねばならない。規模の大小の違いはあるにせよ、あらゆる上映の営みとは、こうした宙吊りの時間を経て、他者へ映画を受け渡す試みではないだろうか。

「第Ⅱ部/旅の道づれ」で佐々木がインタビューを行う映像作家・波田野州平が、映画内で印象的な言葉を残してくれている。倉吉出身で、東京を拠点に各地で制作活動を続ける波田野は、地方で自作を上映する時、映画ファンではない人々、会場にふと訪れたような「映画が必要じゃない人」、そういう他者のまなざしに晒される緊張があるし、楽しさがあると語る。そして、波田野の上映会が催されたブックストア・汽水空港の帰りの夜道、触発されたように佐々木は、「たぶんこの時はまだ、観客の顔が見えていなかったのだと思う」とオフの声で呟く。慣れない鳥取の土地で試行錯誤する映像作家自身も、宙吊りの時間を過ごし、他者の顔を探し求めていたのだ。

この第Ⅱ部のシークェンスは、『映画愛の現在』の転換点でもあり、ここから本作は、佐々木自身が鳥取大学に赴任して担当した学生たちのエピソードへスライドしていく。鳥取大学地域学部の合同ゼミでもコーディネーターをつとめてきた蛇谷りえのインタビューでは、当時の佐々木ゼミに所属した学生たちが描いたイラストを用いたアニメーションを、大胆にもドキュメンタリー内に導入してみせる。そして、佐々木に生じた大きな変化として、『映画愛の現在』の編集作業を当時の学生だった井田遥に任せることができたという裏話的なエピソードが語られる。これまで個人映画を制作し、撮影・編集を行なってきた作家が、その大切な作業をすんなり手渡せことに、何より本人も驚いた、と。

他にも服部かつゆきたちが行ってきた中学校での映像ワークショップの紹介、さらに第Ⅲ部の米子工業高等専門学校映画部のインタビューなどがあり、いつしか本作を観ているわれわれも、上映活動の記録という枠組みを踏み超え、「教える/教えられる」という人間関係のかたち(決してそれは一方向的な関係性ではない)に考えを巡らさねばならなくなる。このような解説だけ読むと、鳥取の上映活動の担い手を訪ねる本筋からズレた展開と見做されかねないが、そうではない。佐々木が鳥取に来たばかりの頃は掴めなかった「観客の顔」の輪郭が、少しずつ浮かびあがっていくプロセスと重ねられているのであり、個人映像の作家が他者(学生たち/観客たち)の存在へ、次第に開かれていく変容のドキュメントとして解釈できる。指導する学生たち一人一人と同じく、映画上映の場に訪れる人々も、漠然と「地域の人」などと呼ばれるカテゴリーに括られるのではない、個別の顔を持った存在である。教育と映画上映の現場、いずれにおいても、その個別の顔に呼びかけるようにして、言葉や映像を届ける地点に立ち戻らねばならない。

さらに内省する佐々木の声は、映像制作の原点にあった自らの記憶に潜り込む。井田に編集を委ねたとオフの声で告げた佐々木は、続けて過去の「ふとお世話になった恩師たちの顔が思い浮かんだ」と語る。また、「第Ⅲ部/星を蒐める」冒頭では、佐々木が出身地の神戸で最初に映像制作の手解きを受けた、実験映画作家・小池照男のワークショップに参加した頃の思い出が甦る[6]。目の前にいる鳥取の学生たち、あるいは映画を観に来る人々に何を手渡せるか考える時間を経て、事後的に、自分に決定的な何かを与えてくれた、懐かしい顔が想起されていく。

『映画愛の現在』で取材を受けている人物たちにも、映画を届けたい誰かがいることが、表情や声から伝わってくる。だが、(波田野が語ったように)必ずしもそれは内輪の知人や仲間に限られているわけではなく、既に亡くなった者やまだ会ってはいない誰か、上映する映画と出会うべき他者の予感のようなものでもありうる。投壜通信のように、あるいはささやかな上映が種となり、未来に何かの芽が生まれうることを信じて、映画を掛ける。鳥取各地の映像にかかわる人々を訪ねたこのドキュメンタリーには、どのような作品を上映するかではなく、誰の顔を想像し、映画を共有するかという問いが埋め込まれている。もしかしたら、「映画愛」という言葉は、この他者の顔貌に向けた想像力を名指すためにこそ、用いるべき概念なのかもしれない。だが、翻って次のようにも考えられる。もし、その他者や未来への想像力を枯渇させれば、真の意味で映画が息衝く場所は、消えていくしかない、と。佐々木友輔が鳥取の地を旅し、われわれに届けてくれたのは、こうした問いかけではないか。

 

● 『映画愛の現在』三部作 上映
2023年12月15日(金)〜19日(火)第Ⅰ部・第Ⅱ部
2024年2月(予定)第Ⅲ部

 

1 監督による本作の企図の解説は次のnote記事などを参照。佐々木友輔「あなたに映画を愛しているとは言わせないなんて言わせない」(最終アクセス:2023年11月25日)

2 2022年2月6日にパレットとっとり市民交流ホールで予定されていた『映画愛の現在』三部作の上映自体も、鳥取大学長からの新型コロナウイルス感染拡大防止に関する要請により、中止となった。

3 佐々木が仲間たちと協働で進めてきた調査研究、およびその方法論や展覧会活動の詳細については、次の論考も参照。佐々木友輔・杵島和泉「イラストレーション・ドキュメンタリー:地方映画史を記述するための方法論」『地域学論集(鳥取大学地域学部紀要)』第20巻第1号、73-89頁。

4 佐々木友輔「三脚とは何だったのか:映画・映像入門書の二〇世紀」限界研『ヴィジュアル・コミュニケーション:動画時代の文化批評』南雲堂、2015年、89-123頁などを参照。

5 たとえば、本作の風景を介した想像力の事例として、次のような感想を挙げることができる。「作中、シネフィルたちへのインタビューに必要な移動と比例するように、頻繁にドライブシーンが挿入されている。その風景の連続は、鳥取ではないどこかを思い起こさせるのに十分なほど、私が住んでいた土地に似ていた。でも、鳥取のように、こんな風に映画を愛する人が、あそこにもいたんだろうか。佐々木の『映画愛の現在』は作品であると同時に、任意の形式を考えるうえでの方法論の極みだ。観賞したら、鳥取とどこかを思い比べて、思考をドライブすることになるだろう。このとき、鳥取は世界の中心となるのだ」。きりとりめでる「佐々木友輔『映画愛の現在』スクリーニング:第14回恵比寿映像祭「スペクタクル後」」(最終アクセス:2023年11月25日)。

6 小池照男の活動については次を参照。田中晋平「再録 神戸発掘映画祭2022 追悼・関西ゆかりの映画人 小池照男」(最終アクセス:2023年11月24日)。

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