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『ケイコ 目を澄ませて』 大川景子(編集)ロングインタビュー

©2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

編集・音響技師として知られるウォルター・マーチの著作『映画の瞬き』(フィルムアート社)に、言語学者であるウィリアム・ストーキーの「手話における語りは(…)まるで映画編集者の作業と同じである」という言葉の引用が見られる。手話を使う聴覚障がい者の女性ボクサーを主人公に据えた三宅唱監督作『ケイコ 目を澄ませて』(2022)の編集を手がけた大川景子への取材を進めるうちに、いささか謎めいたこの一節の意味を掴めた気がした。編集とは撮影素材に視覚的句読点を打ち、見る者によりよく伝える言語的な分割と並びを与える作業ではないか、と。観客には不可視の領域ともいえるその術を探りたいと思い、もうひとりのケイコの声に耳を澄ませた。

 


──大川さんは東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻編集領域3期生です。監督ではなく編集者を志した理由を教えてください。

まず、藝大に入る前は映画美学校のドキュメンタリーコースに通っていました。大学の頃は劇映画を作っていたので、ここで初めてドキュメンタリー映画を学びました。作ってみて「あ!」という驚きの感覚がありました。被写体と時間を過ごし、そこで出会ったものにカメラを向けることで、展開が生まれる作り方が新鮮でした。あとは、どんな作品になるのかはひとまずおいといて自由に撮影していく、ということが身軽に思えました。
ですが……編集がすごく難しかった。茨城県の下妻にあるプラスチック製品の工場で働くインドネシアから来た研修生たちを撮っていたのですが*、宝のように思えた素材が繋ぎ方によって魅力を失ってしまったり、そうかと思うと、また煌めき始めたり「ああでもない、こうでもない」とその素材に翻弄され、1年経ってしまいました。そのあいだに出演してくれた研修生も故郷に帰ったり、仕事先が変わったり、早く完成させないと! と気は焦るばかり。手当たり次第に試しては、ヴァージョンが幾つもできていきました。当時の講師だった筒井武文さんに見てもらうと「よくなったね」と言われることもあれば、「今度のは全然おもしろくない」と反応が返ってきたりで……。どこがよくなってどこが悪くなっているのか、当時はその基準がまったくわからなかった。完全に編集の沼にハマった感じでした。その時の「編集……全然わからない」が藝大の編集領域に進むきっかけでした。

*『高浪アパート』(2006)

──大川さんが藝大生だった頃は、確かフィルム実習があった時代ですね。

ありました。大学のときも16㎜を触る機会がありました。

──フィルム編集の経験を持つ名編集者たちの言葉を追うと、多くの人が身体性について語っています。大川さんはいかがでしょう。

うーん。私はまだまだ経験が乏しいので、はっきりはわかりませんが、身体性は多分あると思います。そういうものが欲しくて、ノートを作っています。各シーンの編集が整ってきたら、作品全体が今どんなかたちになっているかを知るため図形にして描いてみたりします。見開きのページに頭からラストまでのシーンの内容を簡潔に書き、それを四角で囲んでいくのですが、その時にシーンの長さを四角の大きさで表し、シーンの持つ雰囲気を色で分けて書いていきます。そうするとノートには路線地図みたいな図ができて、今の作品の状態を一眼で見ることができます。それを眺めていると、配置のバランスとか、全体のうねりだとか、色々と整理できて、更によくなるためのアイデアが出てきたりします。身体性と言えるのかわかりませんが、こんなことも編集中にやっています。

──とても身体的な作業だと感じます。『ケイコ』はショット、それが連なるシーン、さらにそれらを大きくした全体のリズムがとてもよく、どう編集されたのかが気になっていました。『ユリイカ』*の三宅監督と月永雄太さん(撮影)との座談会を読むと、ファーストカットは大川さんのアイデアだったんですね。アヴァンタイトルが2カット、タイトルカットのあとも静的な2カットで構成されていて、ジムのシーンに続きます。

*2022年12月号「特集:三宅唱」

ファーストシーンのアイデアも確か、ノートを眺めていて思いつきました。観客をテンポのあるケイコ(岸井ゆきの)のルーティンに没入させる前に、彼女の身体が発する音に耳を傾ける何ともない時間がアヴァンとしてあったほうがよいと思いました。偶然ですが、あのシーンではパトカーの音が聞こえて、窓の外の日常の時間まで同時に感じることができます。それも含めてこの作品の導入として、とてもいいと思いました。

──ケイコが発する情報が少ないので、観客は見ながら追いかけるかたちになります。それと同時に、物語にも入っていける時間の流れがつくられていると感じます。

それが理想的だと思いました。知らないあいだに観客がケイコのことをわかり始めるといい。そんなマジックのような編集を三宅さんと一緒に目指しました。

©2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

──過去に大川さんが編集されたドキュメンタリーに、障がいを持つ子どもたちの放課後を支援する団体を捉えた『ゆうやけ子どもクラブ!』(2019)があります。井手洋子監督[1955-2023]にお話を訊いた際に「大川さんは(映画の)どこに何を置けばいいか。その配置がうまい」と伺った覚えがあります。

そ、そんなありがたいお言葉を……とても嬉しいです。井手さんの作品に関わらせてもらったことで学んだものはたくさんあります。『ゆうやけ』で得たものが『ケイコ』も含めて、そのあと参加した映画に影響していると思います。

──『ゆうやけ』の編集を通して得たものを具体的に教えてください。

井手さんは「簡単にはわからない子どもたちの動きをつぶさに見ていけば、きっと何か見えてくる」と考えて、ずっとカメラを回されていました。手持ちカメラで、どう動くか予測できない子どもたちを追っています。編集ではまず井手さんからのリクエストで、素材を丁寧に1日分ずつ繋いでいく。という作業に取り掛かりました。OK/NGを事前に決めず、目的を絞らず順番にその日の時間を丁寧に繋いでいきました。その編集作業を続けたことで、相対的に見て理解していくということを経験しました。

──ゆうやけ子どもクラブの職員の方たちは担当する子どもの詳細な日記を毎日つけて、それをもとに会議を開きます。膨大な記録から共通する細かな行動をピックアップして、それを繋ぎ合わせて子どもの内面を考えます。あのシーンを見たときに大川さんの作業、つまり編集と同じなのではないか、と思ったのですが……

そうですね、職員の方たちの長期間にわたる記録とは比べものになりませんが、アプローチの方法は似ていると思いました。職員さんたちは膨大な記録の中から数年前の些細な行動まで遡り、そこに関連性を見出そうとします。その丁寧さと、何かを知るために惜しまず注がれる労力に感銘を受けました。編集でも1日分のブロックをつぶさに見ていても気づかなかったことが、更に数日分のブロックを丁寧に繋いでいって、一連の流れの中で見ることで「この子はあの時こんなことを思っていたのかもしれない」と掴めることがありました。根気が必要だけど、その作業がわたしにはとても興味深かったです。細かく繋いでゆけば、何かが見えてくることを実体験しました。
内側が解らない人を行動から考えてみるということは、わたし自身が映画と接する中で一番の魅力と感じることでもあります。表情や声色、所作から汲み取るほうが、そのとき発せられた言葉よりも実は多くを語っている気がします。「他人の内面は完全に解ることはできないけれども……」という感覚は大切にしたいです。でもこの人のことが少しは解かってきたかな、という喜びは共有していきたいです。

──『ケイコ』は劇映画なので、編集を始める段階で撮影稿が手元にあったかと思います。シナリオも登場人物を探る材料になったでしょうか。

シナリオから何かを汲み取るのが、わたしはあまり得意じゃないほうで……。

──とすれば、最初に関心を向けるのはどこでしょう。

物語への関心というよりも、画面の中で動いているものに反応して釘付けになってしまいます。そのことを楽しんでいます。撮れたものがあってこそ、わたしはやっと自分の役割を見出せるのかと思います。撮影中にラッシュを見ることもできますが、その時もあまり先行して考えないようにしています。これまで杉田協士監督の作品にも関わらせてもらっていますが、まずはシーン1から順番に「あ、こうなるんだ」と、純粋にその時に見た画面に反応しながら並べていきます。そのフレッシュな体験も編集のひとつの醍醐味だったりするので、そのためにあまり予備知識は入れないようにしているのかもしれません。シナリオは現場で撮影するためにとても重要なものだと思います。わたしの役割は撮影後の素材を扱うことだと思っています。

©2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

 


──続けて映画の時間の流れに関して伺えればと思います。『ケイコ』では人物のフレームイン/アウトをかなり徹底しています。特に繰り返し写る階段のある空間にケイコが入ってくるまでは無人、つまり空舞台で、フレームアウトしたあとも無人になる。そのイン/アウトのリズムは大川さんが体感的に判断されたのでしょうか。

どうだったかな、三宅さんとずっと一緒にやっていたので、どちらが決めたかとか、もはやわからないです(笑)。タイトル後のジムのシーンや、ミット打ちのシーンなどは、撮影の段階で編集点が既に決定されています。というのは、重要なのは三宅さんが現場で演出したあのリズム、あのグルーヴなので、揺るぎない編集点が既にあって、そこは三宅さんが具体的に伝えてくれました。
一方でイン/アウトに関してはリズムで決めるというより、人がいるシーンとして終わらせるか、あるいは人がいなくなった空(から)の場所を見せ、のシーンに行くのがいいのか、そういう判断で決めています。あの階段に関しては、頭と終わりを人物のアクションなどで繋ぐのではなく、その場所とそこに流れている時間をちゃんと見せることが大事、という選択です。

──今のお話を受けてお聞きしたいのが、ジムの会長(三浦友和)の妻(仙道敦子)が病院に入って来てフレームアウトするショットです。あそこで示される情報は「妻が到着して病室に向かう」だけですが、フレームアウト後も長めの時間を取っているのはなぜでしょう。

フレームアウトしたあとの、しゃがみ込んだ外来担当医(中村優子)と、診察に来た女性のやり取りが最高だからですね。この映画の世界はどこまでも広がっていく感じがします。三宅さんも私も毎回見るたびに「最高ー!」と言っていました(笑)。

──見せるべき時間が続いているということですね。

会長の診察シーンだけでは見えなかった担当医の人柄が、ロビーでの患者との何気ない会話で垣間見えて、更にあの病院、病院があるあの町、生活している人々の様子も瞬時に垣間見えた気がしました。映画ならではの効果があるように思えて気持ちが上がります。それを狙って撮ったものではないかもしれませんが、こういう情景が撮られている映画は素晴らしいなと思います。

──それに少し似たショットが杉田監督の『ひかりの歌』(2017)にあります。第1章で美術室へ向かう教師が廊下で女生徒ふたりとすれ違って室内に入ってゆく。そのあと彼女たちが会話しながら廊下の奥へ進む後姿をずっと残しています。あの長さも、映画に必要な時間を考えたうえでの判断でしたか?

杉田さんの作品で、撮影の飯岡幸子さんが撮る画面にはいつも何かが揺らいでいて、わたしはそれが好きです。あれは一体何が揺らいでいるのか、具体的に言葉にできないのですが、頑張って言葉にしてみると「被写体とレンズのあいだに空気がちゃんと流れている感じ」。お芝居のためだけの画ではないと、いつも思うんです。だから、ここまで情報を伝えれば次のショットに進んでいい、という切り方をほとんどしたことがなくて、わたしにとってはそれがとてもやりやすいです。挙げていただいたカット尻も、あの時間に流れている廊下の雰囲気がしっかり写っているから、それをどこまで見れば理想的なのかを考えて切り取りました。

──画面に引き込まれるのは、そういうものが写っている時なのでしょうね。それから『ケイコ』はシーン替わりで、観客があまり視点を動かさなくてもいい編集になっている印象を受けます。『ユリイカ』の座談会で三宅監督と月永さんが安定した「カメラの水平性」について話しておられるので、撮影でそうなっている部分も大きいと思いますが、後半のケイコと会長のバックショットの繋ぎは眼に強く訴えかけるのに無理がありません。

そうですね。編集でどうこうというより、月永さんが撮られた素材がちゃんとそうなっていたから、無理がなく繋がるのだと思います。背中から背中への繋ぎはエモーショナルな編集で、前半とはショットの性質が違います。後半がそういうふうに撮られているということは、このあたりから観客がケイコの感情に乗って見ていく映画なんだなと素材から汲み取りました。前半にあのようなショットはなく、町の中にいるケイコの姿などを一定の距離を持って観客が見ていくことで、その空間に入っていくイメージですね。前半は編集で何か作るということを一度やめてみました。

──ファーストシーンに近い構図のショットが中盤にあります。ケイコが机に向かっている画で、次にそれを反転させたような、ジムにいる彼女のショットに繋いでいます。いわば「ケイコ繋ぎ」で、編集によっては違和感が生じるかもしれませんが、ここもとても好きな繋ぎです。かなり試行錯誤されましたか?

あそこは私も好きです。あのあたりは何度も順番を入れ替えました。試行錯誤を繰り返して、やっとあの並びになったときに、三宅さんもわたしも「この並びがベスト」と思えました。この作品はケイコを見つめる映画ですよね。完成したとき面白いなと思ったのは、シーン繋ぎがよくケイコからケイコになっています。ケイコを見て、また違う時間のケイコに繋ぐ。確かに違和感を覚えそうだけど自然に見える……。まるで他人の編集をほめているみたいですが(笑)。だけどとてもいいと感じます。

──観客の視点からもほめたくなる編集です(笑)。あの繋ぎで映画がギアチェンジするイメージが湧きます。

あそこから何かが始まると、編集のときに意識しました。そこから、その前に何を見れば映画が動き出すのかと考えて、ケイコがひとりでいる姿がよいだろうと思って、彼女がなんとも言えない表情を見せるバスのシーンを選びました。バスはどこに置いても効果が生まれそうなシーンでしたが、だからこそ、どこに置くことが正解なのかをとことん実験する必要がありました。「何もしてないケイコ」のシーンはたぶんそのあとしばらくないと思うんです。普段は仕事もあるし、ジムにも通わないといけない。何もせず、ただ頭の中で何かを考えているケイコを写すのはあの移動シーンと、具合悪そうにリビングでボーッっと佇んでいるシーン。ああいう顔をどこに持って来るかが大事だった気がします。

──ケイコのアクションが見どころですが、実は何もしてない姿も映画の鍵になっているということですね。少し話が逸れますが、編集作業はどのようなサイクルでおこなっておられるでしょう。撮影された時間はある程度、朝、昼、夜くらいは観客にわかります。しかし、それがいつ編集されているのかは不可視の領域で、この機会に伺えればと思います。

できれば編集を始めるのは遅めの12時からが理想的で、それを理解してくれる人と一緒に編集したい(笑)。作業は自宅の編集室に来てもらうので、午前中は部屋を掃除したり、その日やる箇所をちょっとだけ触ってみたり、諸々コンディションを整えます。夜が遅くなるのは全然構わないんですが、始まりがバタバタするのが本当に苦手で、ちゃんと環境整えて、コーヒーを用意して、一息ついてから始めたい。

──それも「大川景子の編集術」のひとつですね。

どこかで「しんどい」と思いながら作業を進めると、作品の印象も変わっちゃうんじゃないかと思って。「仕事」という堅い意識を持たず、柔らかく楽しんで取り組める状況を作るようにしています。監督も撮影中はものすごい緊張やプレッシャーを抱えているでしょうから、編集室ではリラックスして欲しい。疲れがたまるといいことは何も生まれないと思って実践しています。

 


──大川さんは映像作家でもあり、監督作『Oasis』(2022)が10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭2023で上映されます。制作経緯や最初に立てられたプランを教えてください。

この作品は、慶應義塾大学アート・センターの「都市のカルチュラル・ナラティヴ」という企画の一環として、映像制作を依頼されて作りました。「都市に息づく文化を多様な視点から物語りつないでゆく」というプロジェクトで、慶應のある港区を舞台に1年目は「泉岳寺」、2年目は味の素の「食の文化ライブラリー」と、指定された場所の中から選んで撮りました。3年目ということで、もう少し好きにやろうかなと思って、わたしの身近にいる友人、下山林太郎さんと大原舞さんに出てもらいました。2人はいつも自転車で街を探索していて、林太郎さんは地形や歴史に詳しく、普段のおしゃべりにも雑学が詰まっていて楽しい人です。舞さんは植物や建物をモチーフに作品を作るアーティストで、わたしは彼女の作品のファンです。まず、この2人にいつものように港区を自由に走ってもらったんです。週末に2人が自転車に乗りながら探索しているiPhoneの動画や写真が送られてきました。それがとても面白くて。
それと、いつか自分の編集室の壁に舞さんの描いてくれた絵を飾りたいと思っていたので、「この機会に港区で見つけたモチーフで構成された絵を1枚完成させて欲しい」とリクエストしました。それで、その絵が完成するまでの2人の日常を撮ることにしました。彼らの視点や行動も都市に息づく物語だと思うんです。

──ご自身で監督する場合は現場におられるので、作品との距離感が変化するのではないかと思います。撮影の段階でどれくらい全体像が見えておられたでしょうか。フィックスの画など、劇映画的に撮られたショットも見られます。撮影期間や方法などをお聞かせください。

撮影期間は春から夏にかけての17日間です。最初の4日間は太田達成さんに撮影してもらいました。その他は私が撮影しました。林太郎さん、舞さんのiPhoneの映像も使っています。途中で登場人物を増やしたくなって、音の仕上げを依頼していた黄永昌さんに「出演もしてもらえますでしょうか?」とお願いして、作品の音ロケや整音の作業風景を撮影させてもらいました。
距離感は……どうでしょう、もともと彼らの日常生活の風景を知っているので、普段とあまり変わらなかった気がします。わたしが撮りたい場面や情景を具体的にリクエストしやすかったですね。自分も含めてみんな普段から自転車で移動している人たちだったので、自転車で集合して、移動しながら撮影していました。機材もリュックやカゴにくくりつけて運びました。省エネ撮影クルーです。日常の延長で、日記を書くように撮影していきました。最後に絵を完成させるという以外、全体像は見えてなかったけど、彼らの日常=作品になると思っていたので、あまり心配はなかったです。

──エンドロール前のショットだけは映画のどこに置くかを考えて撮られたと想像します。

そうですね。完成した絵を舞さんが納品して終わる、ということは決めていました。

──黄さんの音ロケや整音の様子は大原さんの制作行為と交差して、映画にプロセス・アート的な要素を与えています。音や音楽のアプローチはどのように考えられましたか?

プロセス・アート的なエッセンスが加わったのは、黄さんに出てもらうことを頼んだからですね。林太郎さんと舞さんが街に出ていろんなものをカメラに収めていくのと、黄さんが音を録りにいく行為にもともと似ているものを感じていました。観た人に、映像と音が同価値に共存している印象になっていれば嬉しいです。
大きな出来事は起こりませんが、日常の中にあるほんの小さな出来事の波紋のようなもの……野中太久磨さんの音楽は日常からちょっと逸脱させてくれる効果があったと思います。

──編集に加えて音楽も、映画を心地よく非日常かつ実験的なものにしていますね。作品を制作する大原さんの姿はどれくらい撮影されたのでしょう。その後の編集についても教えてください。

舞さんの制作シーンを撮った日に、舞さんの表情を初めて近づいて撮りたいと思いました。それまではどこでヨリ、ヒキを作ればよいか選択に迷いがありましたが、自然にカメラが被写体に近づくようになったきっかけの日です。「ああ、こうやってその時が来れば、自然にカメラは被写体に近づくんだ」と、ヨリのショットについての考えが自分の中で広がりました。それは編集でも応用できる気づきでした。彫刻刀で掘っているところ、絵を描いているところ、撮影時間はそれぞれ2時間くらいだったでしょうか。制作シーンに関しては、撮った日に帰ってきてすぐ編集しました。間近で見た興奮をそのまま編集で活かしたかったし、早く編集して見てみたいと思ったからです。

──作品が生まれてゆく息づかいを感じるシーンは、そのように構成されていたんですね。大原さんの手の動き、その先にあるものに見入るシーンですが、そこを離れて窓辺の魅力的な固定ショットをひとつインサートしています。このような繋ぎは直感的に生まれるものですか?

あの日は、隣の家が内装工事をやっていて、いつもより色々な音があの窓から聞こえてきました。たまに風も入ってきて、だから窓にとても意識が向く日でした。その空間にあった時間の流れを意識したら、こういう繋ぎになりました。

──空気の流れも感じさせます。素材を持ち帰った直後に編集された逸話から思い出すのは、大川さんが講師をつとめた「こども映画教室」の様子を収めた『こどもが映画をつくるとき』(2021/井口奈己)です。最終日、撮影して編集に取り掛かる理由は作品をご覧いただくとして、その後も参加されている「こども映画教室」での映画づくりが、創作や編集作業に与える影響はあるでしょうか。

こどもたちの映画づくりはわたしにとっても理想的な映画づくりです。各々が頭の中で考えたことを出して、それがバラバラでも、そこから新しいかたちのものができていく。今回も林太郎さんと舞さんと次はどんなの撮ろうかと、アイデアを出し合いながら作りました。帰ったらすぐ編集していたのは、2人にも早く見せたいからでした。一緒に見るのがすごく楽しくて。

──エンドロールのあとのショットも、シンプルなアイデアながら映画の風通しをよくしていて爽快感があります。あの画を足そうと思われたのはなぜでしょう。

最後にラストカットを足したのは、ラフな姿で終わらせたかったからです。ひとつ作品を仕上げたら、納品して、また次の絵を描く。舞さんにとって作品を作ることは、当たり前のことで今後も続く日常だからです。この作品の終わりも同様の雰囲気で終わりたかったです。

──爽快に感じるのは、映画が終わっても登場人物の生活が続くことを示しておられるからですね。『ケイコ』の結末にもそれに似た感覚を覚えます。ラストシーンのクローズアップは長さによって印象が大きく変わるかと思います。どうやって固められましたか?

まず次のショットでケイコの背中を見て、走り出すまでの間を「もう少し伸ばしていい?」と三宅さんに提案したのを採り入れてもらって「最高! これくらいがいいね」と、かたちがひとつ決まりました。振り返ってケイコが走り出す瞬間に、観客がハッとする。まずはそのタイミングが決まって、そこから遡ってケイコのクローズアップの編集点、次のポンと広がる世界とケイコの背中をどれぐらい見つめるか、観客の心が段階を経て刺激される繋ぎ方を探しました。クローズアップは、観る人の心に余波が広がっていくようなイメージで、どれくらい見て、どの表情で切ればいいかを考えました。

──作業に没頭していると、観客モードに切り替えるのが難しくないでしょうか。

結構ずっと客観的に見ていますね。ケイコや彼女の気持ちに寄り添った編集はしていなくて、ケイコを見る観客との距離感に重点を置いているつもりです。「このシーンではケイコが悲しんでいるから」という発想じゃなく、見ている観客がそれをどういう距離で受け取れたら一番いいか。そうやって考えます。

──インタビューの前半で「マジックみたいな編集を目指した」と伺いました。こうしてお話を聞くと、確かにマジックが存在することを感じます。それも観客にははっきりと見えないものかもしれませんが。

魔法みたいな編集ができるようになりたいです。目には見えないけど、気づかないうちにかけられていた、みたいな。撮影時の道導となったシナリオに描かれていることは大きく変えないことが理想だと思います。では編集で変えられることは何でしょう? と聞かれれば、観客が感じることの純度なのかもしれません。

取材・文/吉野大地

『ケイコ 目を澄ませて』
Blu-ray&DVD 10月4日(水)発売!!
配給:ハピネットファントム・スタジオ
©2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

映画『ケイコ 目を澄ませて』公式サイト
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