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『マリの話』 高野徹監督ロングインタビュー(後編)

(インタビュー前編)

©2023 ドゥヴィネット

ホン・サンス、エリック・ロメール、ジャック・ロジエetc…高野徹の映画にはそれらの映画作家の影響が色濃く反映されている。一方で『マリの話』はロングインタビュー前編で伺ったとおり、偶発性やアクシデントを積極的に制作に取り込み、監督の意思以外の要素──厳格なシネアストならば採用しないかもしれないアイデア──が幾つかの場面に大きく作用している。この後編では、そうした本作の雑多なコラージュ的構成にも光を当ててみたい。

 


──本作の録音・整音担当は過去作『二十代の夏』(2017)も手がけた松野泉さん。今回の音に対して何か提案されたでしょうか。

松野さんにも信頼を抱いているので、ほぼ全部お任せでした。海の撮影場所は千葉県富津市で、松野さんが以前参加された作品ではそこの波の音が強すぎて、全部アフレコになったそうです。ロケーションを決めたあとにそのことを知り、今回は大丈夫だろうかと思っていると、しっかり録っていただけました。

──松野さんは空間に対しても独自の感性を持っておられます。海辺のシーンの波の音とセリフのバランスは見事ですが、あれも同録ですか?

全部同録でした。松野さんは圧倒的に録音しづらい環境でも、しっかりセリフを録音してくださるので、なぜそんなことが可能なのか僕も知りたいです。申し訳ないと思いつつも、松野さんならきっと大丈夫なのでは……、と波や風が強いロケ場所でもそこに決めてしまいます。
また、松野さんは監督でもあるので、脚本の内容に意見を求めたこともありました。第2章を撮ると決めて最初に書いた脚本を見てもらうと、「これを撮れば今までやってきたものがすべて台無しになる」とはっきりと指摘されて、考え直す契機になりました。

──照明担当は、本来はカメラマンである北川喜雄さん。撮影の名手なので、贅沢このうえないスタッフィングですね。

企画のスタートから撮影者はオロール・トゥーロンさんで、と考えていたものの、彼女は日本で撮影をしたことがないし、日本での機材調達も出来ないので、こちら側で準備する必要がありました。彼女のアシスタントと照明を兼任してくれる人を探してみたけれど、仕事に必要なレベルの英語を話せて、なおかつ機材調達や車両の運転まで出来る人はやっぱり簡単に見つからない。そこで喜雄さんに相談すると、返ってきた答えが「それが出来るのは俺しかいない」(笑)。
ほかにも候補を考えてもらったんですが、「結局俺しかいないよね」となって、ちょうど撮影の時期にヨーロッパへ行くご予定があったのに、飛行機のチケットを無駄にして参加してくださりました。すごい才能と技術を併せ持つ方たちが集まってくれたと感謝しています。

──北川さんは第1章から3章までの現場についておられたのでしょうか。照明機材も本格的なものを持ち込んでおられましたか?

すべての日本パートに来てもらえました。照明機材については詳しくありませんが、この映画の制作規模からすると本格的な機材を準備していただけたと思います。

──第3章の日本家屋の縁側に入ってくる光が綺麗ですね。

庭全体の光はコントロールが出来ないということで自然光です。縁側にいるマリとフミコと、外の明るさが全く違うので、ふたりにライトを当ててもらいました。

©2023 ドゥヴィネット

──作品のメインヴィジュアルに使われている、庭で佇むマリのカットもいい光だと感じます。

あのカットも基本的には自然光で撮っています。レフ板を補助的に使っただけでした。

──北川さんもやっぱり巧いですね。さて、その第3章でフミコとマリが出会ってからは、ほぼツーショットで画面を構成しています。4章も同じフレーミングなので、それに準じた画を考えられたのでしょうか。

いえ、あれも計算したものではなくて(笑)。『義父養父』(2023/大美賀均)の撮影時に松田さんが共演者の澁谷麻美さんと一緒にいるカットが──理由はわかりませんが──とても魅力的に見えた。もちろんおひとりでいる姿もよかったけど、本作でも成田さんと一緒に撮ることでいい松田さんを写せるのではないか、というイメージがありました。

──縁側で寝そべるマリとフミコを、外からミディアムショットに収めています。

そのカットのひとつはオロールさんが正面から撮りたいと言った画ですね。僕だと思い付かないアングルです。

──フミコが寝そべってからカメラが一度、庭に出ます。もう少し外側から撮ってみようと思われませんでしたか?

外からも撮りたいと思っていましたが、まず部屋のなかにカメラを置くと庭が美しく、光も最高で撮りまくっていました。すると陽が落ちて来て、外から撮る時間がなくなりました(笑)。撮影日は2日残っていたので、そこで撮ればいいと思っていると晴れなくて……。

──光が繋がらなくなりますね。

寄りの狭いカットであれば太陽みたいな光をつくれないものかと喜雄さんに訊ねると、日中の強い太陽光は照明ではつくれないらしく、オロールさんに訊いてもグレーディングでの処理も出来ないだろうということでした。一応撮ってみたものの、やっぱり繋がらなかったですね。指摘していただいたように庭のほうを向いていたカメラが、庭に出て室内のほうを向き、また室内に戻って庭のほうを向くという一度の往復なら、見る人も光に違和感を覚えないだろうと判断しました。

©2023 ドゥヴィネット

──スタッフクレジットに「ダンス監修・鈴⽊⻯」とあります。ダンスとは第3章のマリとフミコの縁側での接触ではないかと思います。どのようにあの動きを構想されましたか?

当初、第3章はマリとフミコが浜辺でお酒を呑むシーンを考えていたとインタビュー前編でお伝えしましたが、何かふたりで共同作業するような行動があったほうがいいと思ったんです。そこで猫探しを思い付きました。元々、猫探しは映画によく使われる印象を持っていたので、突然その展開になっても観客に大きな違和感を持たれないのではないかという算段がありました。『流れる』(1956/成瀬巳喜男)でも、山田五十鈴がポンコという猫を探していますね。
ただ、猫探しだけでは少し物足りない気もして。というのも、見知らぬふたりが出会って関係性を深めて、最後は大爆笑するのが第3章でやりたいことでした。何らかの関係を築くのに猫を一緒に探すのはいいとして、もうひとつ何かが必要だと考えて丸山昇平さん(共同脚本)と延々と相談したけど思い付かず……、そこでキーワードを入力するとあらすじをつくってくれるAIに書いてもらうと「猫がダンスする」というキーワードが出てきました。「これは普通では思い付かないすごいアイデア! しかも第4章の内容とも関連性がある」と思い(笑)、脚本に「マリとフミコは、ゆっくりとしたダンスを踊っているかのように見える」と書き込みました。書いてみて、面白そうだけど、さて具体的にはどうしよう……と困り、友人でダンサーの鈴木竜さんにSOSを出しました(笑)。とりあえず撮影済みの第4章の映像を見てもらい、「猫のダンスって何だと思いますか?」と相談してみると、「劇団四季のミュージカル『キャッツ』の方向性ではないと思う」と答えてくれました。
成田さんと松田さんのリハーサル日に鈴木さんによるダンス・ワークショップをおこなってもらい、「ダンスとは何か?」という理論的なことから皆で考えました。身体をゆるやかに動かす、鈴木さん独自の不思議なワークを経て、成田さんと松田さんに動いてもらい、それに鈴木さんが動きを付け足したり、引いたり、コラージュ的に組み合わせて振り付けをつくってもらいました。

──ここまでお話を伺い、監督の意思以外のものが作品にかなり作用しているのを感じますが、AIまで利用したとは(笑)。

全編を通して外部からもらったアイデア群のなかから吟味したものを使ったつもり、ではいます。たまに大失敗もしますが、吟味する精度は上がってきている気がします。それでも「猫のダンス」をAIが教えてくれなければ全然違う映画になっていたと思います(笑)。

──そうでしょうね(笑)。ところで、縁側のふたりは立ち上がりません。ワークショップでも座った状態や寝転んだままで動きを付けたのでしょうか。

そうでしたね。松田さんは坐骨神経痛で激しい運動が出来ませんでした。ワークショップ中に、ダンス理論の段階で松田さんは足が痛くなられて「私は寝ます」と持参していたクッションに横たわられた(笑)。それも面白くて、ありがたく脚本に採り入れました。そうしてたまに横になりながら、座ったふたりがスローなダンスをすることが決まっていきました。

──そのシーンのカメラは、ふたりの眼とほぼ同じ高さに置かれています。

オロールさんがカメラを置いたときに「小津安二郎!」と思いましたね。小津ならもっと低いポジションかもしれませんが、「外国人の撮影者でも、優秀な人は日本家屋だと直感的にカメラをこの高さに置くのか」と驚きました。動きと同時に庭もよく見えるポジションです。

 


──第4章はパリで撮られた短編をマリがつくった映画として活用しています。元の物語自体はどうつくられたのでしょうか。

フランスで撮った短編のうちの1本は、インタビュー前編でお話ししたとおり、丸山さんがテクストを書いて成田さんが出演した本作の映画内映画「マリの話」で、あと2本をどうしようかとなり、それぞれ1本ずつ脚本を書くことにしました。丸山さんにお願いするにあたり、出演が決まっていたデルフィーヌ・ラニエルさんの美しいフランス語を観客が堪能できるようなテクストを書いてほしいと依頼しました。
しかしそれだけだと漠然としすぎているので、僕が素敵だなと思う映画のワンシーンを見てもらい、「ここから何か発想できないでしょうか」と相談しました。見てもらったのは『ビフォア・サンセット』(2004/リチャード・リンクレイター)や『正しい日 間違えた日』(2015/ホン・サンス)などの、実際に触れ合っていない男女の心が通じ合っている、もっと言えばこのふたりは精神的にセックスをしているのではないかと思えるシーンです。すると、丸山さんからああいう話が出てきたんです。

──途中で詩が引用されます。このアイデアは?

執筆当時、YouTubeに載っていたASMRと呼ばれる動画に、僕と丸山さんは大ハマリしていました。そのシリーズのなかでも、森で若い女性がささやき声で本を朗読する動画があり、「これやりたいですよね」と合意が形成されていました。ASMR動画の女性の朗読は、大真面目でエロティックだけど、一方でとても馬鹿馬鹿しく、そのバランスが素晴らしいと思いました。
そうした経緯で短編にも朗読を採り入れることにして、読むなら詩がいいだろうと。エロティックな詩をお互い探して、丸山さんがボードレール、僕が萩原朔太郎を選びました。デルフィーヌさんに翻訳した脚本を渡したら、「ささやき声で詩を読むって書いてあるけど、もしかしてASMR動画?」と一発で元ネタを言い当てられてしまいました。

──詩を朗読するふたりの動きはどう演出されたのでしょう。

これまた適当だと思われそうですが……、脚本を出演者ふたりにお渡ししてリハーサルでやってもらうと、最初からあの動きが出てきたんです。森の神秘的なロケーションともマッチしていたし、「これで撮りましょう」と決めました。脚本には「額を合わせて」や「耳を触って」というセリフもあったので、パスカル・ヴォリマーチさんとデルフィーヌさんが、そこにどんどん肉付けして動きを構築してくれました。

──第4章のラストカットは明快なカメラ目線で、これは監督が演出されたかと思います。

第2章のアフレコシーンで、あるセリフを言うタイミングで成田さんに「ここはカメラ目線で」とお願いしていました。でも成田さんはそうしなかったんです。撮り終えてみると「これでよかった」と思えました。というのも、第3話の縁側のカットの成田さんはカメラ目線になっている。僕は演出していませんが、カメラが成田さんの顔の真正面に置かれていたからですね。その画があったので、試写室のアフレコシーンでもカメラ目線だと少し過剰になっていたと思います。
第4章のラストは意識的に演出しました。朗読に続くカットでデルフィーヌさんと観客が何か特別な関係を築いてほしい。そんな思いがあって、カメラを見てセリフも段々とささやくように、とお願いしました。

──監督の考える観客に、マリが「私のつくった映画を見てください」と伝える杉田も含まれるとすれば、第4章の森の短編はマリの彼へのラブレターではないかと思ったのですが。

まさにそうなればいいと考えていました。

©2023 ドゥヴィネット

──そのように見ると一見バラバラなようで、最初に伺ったとおり、第4章からしっかり逆算された構造になっています。ファーストカットの持つイメージも変わりました。

パリで第4章を撮っているときは全く考えていませんでしたが、日本でつくり直すときに、そのように観客に受け取ってもらえれば、と構想しました。そのための流れを考えに考えましたが、いろいろな幸運が重なって成立した気がします(笑)。作者の自分が言うのも恥ずかしいですが、日本での撮影前に第4章を見直していると、「こんなラブレター切なすぎるよ!」と異常だけれど、マリの一途な想いに泣きそうになりました。

──その段階では、第4章冒頭の成田さんのカットはまだ撮られてないですよね。

脚本上、当初はマリのナレーションだけにするつもりでした。でもテクストを読んでいる成田さんの姿を見ていると素敵だったので、「このシーンを撮影させてください」とお願いしました。

 


──ところで、初めて映画館でご覧になった映画を覚えておられますか?

家の近くにあった劇場で見た『ゴジラvsモスラ』(1992/大河原孝夫)です。自分から言い出したわけではなく、家族に連れて行ってもらうと、「こんな世界があるんだ」と見たことのない面白さを感じました。
 
──当時の監督は小学生ですね。アクションやスペクタクルなど、どの部分に惹かれたのでしょう。

まず、モスラの歌がお気に入りだった記憶があります(笑)。
また、「物語がわかる」ことも大きかったと思います。小学生のときに『もののけ姫』(1997/宮崎駿)も見ましたが、当時はまだ理解できず楽しめなかった記憶があって。『ゴジラvsモスラ』は記憶が曖昧ですが、子どもにもわかるシンプルな話だったのではないでしょうか。映画を見ていくうちに物語を理解できなくても面白い作品があることを知りましたが、わかったほうが楽しめる。その感覚は今もあります。
昨日も『エドワード・ヤンの恋愛時代』(1994)を見に行きました。2度目の鑑賞でしたが、1度目は多くの登場人物たちの関係などがさっぱりわからず、いい映画である感触を覚えても、話は追い切れなかったですね。

──そのお話を受けて「物語の理解」に関して伺えればと思います。第1章に杉田のモノローグがあります。しかし4章のマリのナレーションとは言葉の特性が異なります。第1章からの流れで、本作の語り手は杉田だと捉える方がおられるかもしれません。そのズレ、観客の理解に関してどう考えられたでしょう。

うまくいくかなという疑問もありましたが、勇気をもらったのが『ゴーン・ガール』(2014/デヴィッド・フィンチャー)でした。あの映画も前半と後半で語り手が変わりますよね。僕はそこに少し違和感を覚えましたが、そう捉えない方の意見も多くあって、フィンチャーがやっているのなら本作も大丈夫かもしれない、やれる筈だと思えました。第2章から4章までは登場しないピエール瀧さんの存在感が強烈な「不在」として、映画のラストまで機能し続けてくれるのではないか、という思惑もありました。
しかし、ひとまず編集を終えたあとに心変わりをしました。第4章が終わったあとに、杉田が登場する編集にしたいと思う出来事がありました。その出来事とは、先ほどお話しした『エドワード・ヤンの恋愛時代』を見たことです。『恋愛時代』の結末には女性同士が和解したり、男女がもう一度やり直すんじゃないかという予感が描かれています。当初、マリの映画を見た杉田はどう思ったのか、マリの想いは杉田に届いたのか、そしてふたりはどうなるか、ということは描いていませんでした。その後を観客に想像してもらう、という態度はつくり手として間違いではないと思っていますが、観客に託すという選択肢はある意味でつくり手に都合がよすぎるとも思える。そうではなく、僕もいつかはエドワード・ヤンのように、自らも許容し納得する形で、登場人物たちのその後を示す責任があると痛感しました。それがつくり手としての責任なのではないか、と。杉田とマリのその後を示唆するものは何も撮っておらず、もう追加撮影も出来ないので、いま自分に出来る限りのことをやってみようと思い、杉田が登場する編集に変えることにしました。

 


──このインタビューを通して多くの映画監督の名前が挙がりました。特に高野監督の映画にはホン・サンスからの大きな影響が見られます。そうした参照項として彼の作品を熱心に見はじめてから、だいぶ時間が経つのではないでしょうか。

『アバンチュールはパリで』(2008)を公開時に初めて見たときはよくわからなかったけれど、そのあと『次の朝は他人』(2011)を見てから、ホン・サンスのことを考え続けてきました(笑)。もうかれこれ10年以上になりますね。

──どこかのタイミングでそこから離れようと考えたことはありますか?

今回『マリの話』を制作してみて、そう思いました。『二十代の夏』は大きく影響を受けているし、29分の短編『無名の俳優』(2020)も『次の朝は他人』のリメイクのような作品でした。見てくれた方の多くに「ホン・サンス!」と言われました。同時に濱口竜介監督には「ホン・サンスに似ていることが映画のグレードを落としている」とも言われました。ただ、まだやり尽くせていない、もうちょっとやってみたいことがあるような気がしていました。
僕は言語化が苦手なほうなので、ホン・サンスという作家を理解するために彼のような映画を撮ってみたらどうなるだろう、第1章もそう撮ることでわかることはないか、という姿勢で『マリの話』の制作に臨みました。ホン・サンスの映画には大きな謎が幾つもあります。もし自分が韓国語を理解できて、ネットで検索して彼の母国でのあらゆるインタビューを読んで謎の意図を納得できたとすれば、『二十代の夏』や本作をつくっていなかったかもしれません。
そして、次はもうホン・サンスはいいかな、という感覚も覚えました。第1章はホン・サンス的でも、制作が進むに連れてそこから離れていけないだろうかと思いながらつくっていたように思います。それに、どこかでホン・サンスの真似みたいなことをやると、ほかの部分も誰かの真似に見られかねない。今回いろいろな方に試写で見てもらってそう感じました。

©2023 ドゥヴィネット

──少し話が逸れますが、「誰かに似ること」から考えたのが、『二十代の夏』には過去の恋人に似た女性が登場します。あの女性のイメージは本作の「夢のなかのマリ」に通じるし、その夢は現実とほぼ見分けがつかない。監督は似ること、つまり「類似」を意図的に創作に活用していて、それらが重層化していると感じます。いかがでしょう。

ホン・サンスの『次の朝は他人』をはじめて見た時に驚いた点のひとつが、類似による重層化の問題でした。主人公の男は昔の恋人を訪ね、その後、飲みに行ったバーで元恋人そっくりの女性と出会います。「バーの女性に恋に落ちる」だけでも作劇上は成立する筈です。でも、その背後に「そっくりな元恋人」という要素があることで、フィクションの度合いが一気に増します。こういったフィクション度の高さに心掴まれ、ホン・サンス映画に夢中になってしまったのですが、「でも一体なぜ、フィクション度が高いことに心掴まれてしまったのか?」という疑問も同時に持っていました。その検証のために『二十代の夏』と『無名の俳優』、そして『マリの話』を監督したと言えるかもしれません。
この3作を監督してみて手応えとしてあるのは、フィクションによって引き起こされる説明のつかなさ、つまり謎には、観客の想像力を駆動させる力がある、ということです。僕自身もそうですが、ある種の観客は、映画を見ながら想像力を働かせることが大好きで、それを天才的に映画で実践してきたのがホン・サンスだと思います。類似による重層化はフィクション度を高める、映画というメディアにとても都合のよいひとつの方法だと思っています。画面で類似を見せて、登場人物が一言「似ている」と言えば、それで回りくどい説明をしなくて済みます。

──それから第3章のダンスをコラージュ的につくり上げたという逸話から思ったのは、本作はホン・サンスなど参照項の引用よりも、雑多なコラージュ的要素のほうが強いのではないか、ということです。自作をはじめとする手近な素材、アクシデントやAIなどのランダム性、それらに監督の無意識も切り貼りして生まれた映画だと思えます。

そう言われて思い出したことがあるのですが、小林康夫さんが著作『君自身の哲学へ』(2015/大和書房)で『砂の女』(1962/安部公房)を取り上げています。砂穴の底に閉じ込められて、脱出にも失敗した主人公の男は、捕まえたカラスに手紙をくくりつけて助けを呼ぶ、という荒唐無稽な作戦を思いつきます。主人公はそこらにある、あり合わせのものでカラス捕りの装置をつくるけれど、一向にカラスは捕まらない。しかし思いがけず、装置の底に水が溜まってゆくのを発見します。小林さんはそうしたブリコラージュ──身近にあるものの組み合わせ──を創造や自由に結び付けて論じておられます。それを読んだときに「まさに自分もそうだ」と感じました。ゼロからつくり上げることは苦手だけど、A、B、C……という要素があればそれらを組み合わせることは得意なほうかもしれないし、そして思いも寄らなかった発見を楽しめる。
本作もブリコラージュで様々なものを──時には行き当たりばったりに──寄せ集めた結果、構成や設定が少し歪んでいる。でも、その感じが変で面白いなと作者としては思っています。今回の劇場での上映を通して、『マリの話』は何を達成したのか、観客の皆さんと一緒に発見できたらうれしいです。

(インタビュー前編)

(2023年10月)
取材・文/吉野大地

映画『マリの話』公式サイト
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