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『ピストルライターの撃ち方』 眞田康平監督ロングインタビュー

東京藝大第5期修了作品『しんしんしん』(2011)から11年ぶりとなる眞田康平監督の長編『ピストルライターの撃ち方』が10月6日(金)に神戸映画資料館で公開される。舞台は遠くない未来にふたたび原発事故が起きた地方。除染作業員の人出しビジネスで儲けるヤクザを手伝う主人公は刑務所帰りの親友、出稼ぎ風俗嬢と共同生活をはじめるが、各々が内に秘めた過去や脆さや暴力性によって刻々と追い詰められる──ロードムービー『しんしんしん』が描いたユートピア的な疑似家族の瓦解が、新作ではディストピアに反転され、主人公たちや作業員に旅立つ自由はない。それでも社会のふちで生きる人間の丹念な描写を積み上げることで映画は活劇性を帯びてゆく。結末が示すのもその兆しと言えよう。監督と共に新作の細部に迫った。

 


──ピストルライターというアイテムに着目されたきっかけは何だったのでしょう。

以前撮った短編に、どうしようもない父親が煙草を吸うシーンがありました。脚本には勢いよく炎が上がるガスバーナーで火をつけると書いたんですが、美術部の友人に「ほかにもっといい小道具はない?」と相談すると、ピストルライターがあると教えてもらいました。結局その短編ではガスバーナーを使いましたが、どこかで映画に活かせる予感がしてアイデアをストックしていました。

──検索してみると、様々な種類のものが販売されていました。劇中で用いるのはモデルガンではなく、本物のピストルライターですか?

ちゃんとしたピストルライターで、中でもいちばん手に入りやすいものです。グロックという銃がモデルで、拳銃マニアによれば「これはちょっと違う。ヤクザが持っているイメージはない」と(笑)。そこはまあよしとしました。

──ユニークなタイトルから思いを巡らせて、「5W1H」に当てはめて考えてみました。たとえば「When(いつ)」だと「撃つとき」、「Who(誰が)」だと「撃つ人」になります。「撃ち方」は「How(どのように)」。ここに着地した理由を教えてください。

ほかのインタビューでも話しましたが、ピストルは暴力の象徴で、そのおもちゃのライターを持っているチンピラが、いつか暴力を引き受けてそれを行使する可能性が映画全体の引きになるだろうと考えました。『ピストルライター』だけのシンプルなタイトルもありかなと思ったけれど、やっぱり「どう撃つか」を重視してこのタイトルにしました。

──主人公の達也(奥津裕也)の少年性も垣間見えるアイテムだと思います。『しんしんしん』も本作も、主人公の少年性が行動に影響しています。

たしかにそうですね。全体を通して見える達也の性質──煮え切らなさ──はそれに該当するものなのか、あるいは捨て切れないのか。ずっとそのあいだで生きているキャラクターです。

──達也の社会的な位置づけを考えると、ヤクザの組員ではないし、準構成員でもないですよね。

ヤクザが経営する会社の下っ端です。部屋住みもしていません(笑)。

──半グレでもない半端な存在を扱うことで、社会の細かい階層が表れていると感じます。本作にも疑似家族の主題が折り込まれていて、達也と血の繋がった認知症の母(竹下かおり)だけでなく、彼と諒(中村有)とマリ(黒須杏樹)、さらにタコ部屋で暮らす作業員たちに生まれる関係性が描かれます。

脚本の第一稿でおおむね映画の形は出来ていました。ただ、タコ部屋の作業員たちはそこまでキャラクターがはっきりしてなかったんです。それに対して、曖昧にするよりは書いたほうがいいのではないかと意見をもらい、そこから個性を持つ人物を書き分けていきました。

──作業員たちだけでも1本のドラマをつくれそうで、群像劇的な脚本を書くのが大変ではなかったでしょうか。

書きはじめると各々のキャラクターが自然に出て来て、それほど悩むことはなかったですね。

──脚本を書く際に、人物にご自身の体験や内面を投影することはありますか?

ある程度自分が入ってしまうのは、書くうえで逃れられないと認識しています。逆にいえば今回は反社会的な人物たちを描くのに、その世界の文化や言動などのリアリティをどう確保するか、そこで悩みましたね。僕自身にそういう人物との接点がないし、そもそも本作はヤクザ映画ではないと考えていました。だから色々な動画やドキュメンタリーを見て、自分にはない、しかしこの映画に必要な思考や論理を抽出していきました。

──すでにウェブで読めるインタビューでは、創作のためにタコ部屋を画像検索されたとお話しされています。

過去に原発事故が起きた福島方面に限らず、タコ部屋を画像検索してみたり、インターネットで拾える記事などを読むと「この環境ならば、こういう出来事が起こり得たんじゃないか」と想像が浮かびました。たとえば本作の中盤で起きる事件ですね。
あとは2013年頃から立入禁止区域に侵入する空き巣が増えていることなども知りました。自分の想像の範囲で検索をかけてみると、それを上回る事実があった。そういうところから映画に使えそうなものを取り込んで、物語のリアリティを膨らませました。

──メインの舞台とも言える達也の実家にもリアルさがあります。どのように見つけられたのでしょう。

ロケハンでは古くて使われてない家も選択肢に上がって、そこでの撮影も考えましたが、ちょっと現実味がなくてどうしようかとなったときに、ロケ地の仙台で協力してくださった方が所有する年季の入った二階建て、なおかつ内装工事中で壁紙が剥がれている家があり、「好きに使っていいよ」と言われていたんです。「あそこで撮れるな」と思い立って相談して決まりました。1階は台所とトイレとひと部屋、2階もひと部屋だけですごく狭い。でも逆にそれがよかったですね。

──細くて勾配が急な階段もうまく使っておられます。

僕の好みの階段で、どこかでこれを撮ろうと早い段階で意識しました。

──画づくりで『しんしんしん』と異なるのは、切り返しを多く使っている点です。何か心境の変化があったのだろうかと思うくらい(笑)。

(笑)。大きな理由として、カメラマンが違います。『しんしんしん』は東京藝大同期の西佐織さんでしたが、今回は後輩にあたる松井宏樹くんに撮ってもらいました。多くの作品を手掛けてきた実力のある人で、カット割りも相談しながら彼の主導で決めていきました。僕からは、狭い場所は狭く撮りたいと提案しました。

──達也の家などは空間が詰まった印象を受けます。

『しんしんしん』で少し反省したのが、部屋のなかでパカーンと広い画を撮ろうとすると大体失敗に終わる(笑)。それを受けて、狭い空間はそのままでいくことにしました。

──本作もサイズはシネマスコープです。監督と松井さん、どちらからのアイデアでしたか?

僕の判断です。何らかの制約がない限りはシネスコがいいと思っています。たとえば切り返すときなどに技術的な問題が発生しても、たぶん画面の構造を一番つくりやすいのはシネスコじゃないかな。感覚的にそう捉えていますね。

──切り返しは人物の肩越しやものナメで、ヴァリエーションが豊かです。

そうした細かい画づくりは松井くんが担ってくれました。

──幕開けのシーンで達也が諒を追いかける。そのアクションはラストで繰り返されて円環構造になっています。

脚本の段階でそうなるようにしていました。

──ふたりが走って海辺に着くときは時空間を超えてアクションで繋いでおられますね。

あれも脚本に書いていましたね。演出で奥津と中村に「カメラの上を飛んでくれ」と伝えました。

──『しんしんしん』に見られた束の間の祝祭感を持つシーンが本作にも散在します。まず序盤で達也と諒とマリの3人が子どものように戯れ、関係が深まる第一歩を手持ちのワンカットに収めています。導線の指示などはされましたか?

演出はおおむねその場で決めていて、あのシーンで導線の細かい指示は出していません。脚本には「盛り土に上がる」と書いていました。今回は撮影・照明部が3人だけで、出来ることがだいぶ限られていました。だから「どこを動いてもいいけど、できればこちら側で」というパターンも多かったです。

──序盤にもうひとつ、3人の夜のシーンがあって焚火を囲む。彼らの次の関係性の変化や考えを見せていて、途中でマリが立ち上がるのもその場の演出でしょうか。

脚本で決めていました。会話のなかで彼女なりの違和感を覚えて、それを言葉として発するタイミングで立ちます。感情の動きに沿ったアクションを考えました。

──カメラも連動して大きく引きますね。あそこやほかのシーンに散りばめた社会批判的なセリフの効果はどう考えられたでしょう。

オープニングでも達也の車の脇で政治家が演説しています。少し聴きづらいですが、英語字幕ではちゃんと読めるようにしていて、あれはある政治家の発言を書き起こしてセリフにしたものです。本作には政治家や警察、大企業の悪事の描写はまったくありません。でもヤクザの世界のすぐ隣に、そういう存在がいてもおかしくないことを狙って脚本に書きました。

 


──続けて物語の流れに沿って、細部を伺えればと思います。翔子(岡本恵美)は達也と諒の事情をよく知り、達也の母の世話をする女性ですが、マリが言う「都合のいい女」に留まらない内面が窺えます。

彼女は達也のそばにいて、様々な未来の可能性があったなかで別の選択をする。そして彼とまったく異なるベクトルへ行ってしまう存在として描きました。自分の母親ではないけれど、それをばっさり切り落として出ていける人間ですね。本作は家に色々な人が出入りする映画でもあり、翔子はそれも象徴しています。

──たしかにホームドラマの色合いがあります。でも家の広さからすると明らかに人が多い(笑)。

それなのに誰も開けないものがあるという(笑)。

──あの家のサスペンスですね。そのあと諒が妹の花(伊藤ナツキ)に再会するシーンでは、ふたりはずっと横並びで視線が交わりません。演出プランを教えてください。

妹はとっくに兄の存在を切り離して生活している。そのことを明確にしておきたかったんです。ただ、お互いにチラッと相手を見て、ずっと正面を向いたままではないように演出しました。シーン全体で、諒が妹の背中を追いかけたけど追いつけなかったのを示す構造です。

──別方向にフレームアウトして断絶が強調されます。並びだけ見ると演劇風ですが、演技や風と光、そしてカメラも途中でサイズを詰めて映画的なシーンに仕上げています。

伊藤さんはオーディションのときもすごくよく、さらに現場では光が綺麗に入ってきて、お芝居をとてもうまく撮れた。僕も気に入っているシーンです。あそこで大変だったのは子どもだけでした(笑)。

──というのは何があったのでしょうか。

出る筈の子どもが寝ちゃって、現場に来られなくなったんです。急遽その場にいた子に声をかけて出てもらうことにしたものの、最初は恥ずかしがって全然やってくれず、映画で見られるのは奇跡的に撮れた画です(笑)。

──そんな偶然性も作用しているんですね。続くシーンはなかなか不思議で……、ぜひご覧いただきたいので、マリのクローズアップ・正面カットとだけお伝えしますが、あのアイデアは?

松井くんが出しました。僕はかなり悩んで、たしか最後に書き足したシーンの筈です。あそこには何かひとつ必要だろうとずっと考えていて……、実は「海でかくれんぼをする」も書いていたんです(笑)。それに対して「そこまでやる必要があるのか」「せっかくだからピストルライターを使おう」などの意見が出ました。
ぶっちゃけると、ワンカット足りてないと思っているシーンです(笑)。たとえば「ピストルライターを手に取る」とかのアクションがあれば違うのでしょうが、急にはじまるので白昼夢のようになっていますね。

──達也が2階に上がると映画のトーンが変わる。不思議な面白さがあります。

つくる側の立場としては「ここは大丈夫かな」という気もしていて(笑)。現実から飛躍する場合は全体的に丁寧な構築を心がけましたが、あそこだけはすごく飛んでいますね。

──物語のベースに一貫した社会性がありますが、この非現実的なシーンなどから眞田監督独特のアンビバレンス・相反性を感じます。さらに中盤に向かうと、諒が変化しはじめる。達也と諒とヤクザの滝口(杉本凌士)が車で夜の道を走るシーンで、滝口が不意に語り出すのは?

滝口の内面にも少し触れておきたかったし、そこに諒の行く末も絡められれば、と思ってああいう話を書きました。どうやって思い付いたのかはパッと思い出せませんが、好きなセリフですね。

──3人が車を降りると、シネスコ映えする超ロングの画になります。

松井くんはちゃんとカットを割るタイプで、カットバックで構成してゆく撮影スタイルでした。あの引き画は3カットほど撮っていたのを編集で落として、ワンカットだけで諒の顔にいく形にしました。

──彼の行く末を予感させる顔です。そこから少し進んで、達也が家でマリと寝ていて、音に反応した彼女を問い正す描写があります。どういうイメージで組み立てたのでしょう。

マリは設定上では311の被害に遭ったことになっていて、あの描写はそこから生まれたものです。元々はもう少し膨らませて説明していたのを、やっぱり要らないと思い省略しました。思い付いた色んな設定で肉付けしたキャラクターには、そうした痕跡が残っていますね。マリのあの描写には。それがわかりやすく出ています。

──その設定は演じる黒須さんに伝えておられましたか?

話した筈です。現場では佐野和宏さん(二郎役)に「黒須はわかってやっているのか」とかなりツッこまれて(笑)。それは「知らせてやるのか、知らせずにやるのかはっきりしろ」ということで、たしかにそうだなと思いました。

──このあたりにもリアリズムと少し離れたタッチがあって、続く水を使った達也の顔の俯瞰ショットは何かのイメージを感じさせます。

追い詰められて、沈んでいくイメージを持たせました。狙いとして、達也の逃げ場所がなくなっていくことを抽象的でありながら直感的に表現したかったんです。

──人へのアプローチを追ってゆくと、今回は『しんしんしん』インタビューで名前の挙がった映画作家たちより、どこか森崎東さんに近い印象を受けます。原発というテーマの関連性もあるかもしれません。

森崎さんは大好きです。東京藝大時代に山根貞男さんの特別講義がありました。滅多にスクリーンにかからない作品をフィルムで観るという主旨で、『喜劇 特出しヒモ天国』(1975)を皆で観て、そこでヤラれましたね。それからよく観るようになり、本作にも『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(1985)の影響が確実にある。でも方向性がまったく違いますね(笑)。山根さんは、そのときの講義がきっかけで『しんしんしん』をご覧になってくださいました。

 


──奥津さんと中村さんに関してもお聞かせください。おふたりとの出会いは『しんしんしん』でしたか?

その前にそれぞれ別に1作ずつ撮っていて、そこで出会いました。

──奥津さんは『しんしんしん』では長男の存在感を発していましたが、今回はいかがでしたか。

達也のキャラクターはプロットの時点であるイメージを持っていましたが、脚本を書き進めるうちに彼の抱えているものがだんだん浮き彫りになり、重要な局面で行動に移せない男だとわかってきた。やさしい面があるゆえに暴力に馴染めず、それを受け止めることも出来ない人間だなと。奥津なら、そういうキャラクターをうまく表現できるだろうと思いました。

──おふたりとは撮影前に話し合う時間がだいぶあったそうですが、クランクインの時点で作品世界の共有はしっかりできていたでしょうか。

第一稿の頃から一緒に進めて、仕上げの第三稿まで読んでもらっていたので、目指すものは明確に定まっていたと思います。でも、中村は諒を演じるのが大変だったでしょうね。難しいキャラクターなので。

──背負っている背景が重いし、物語の進行と共に変化が求められます。『しんしんしん』で演じた役とは違って暴力性も秘めている。

ほかの監督作品でもそういう人物を演じていたんです。諒のように、すべてを捨て去って絶望的なところへ向かう役のほうが役者の力を発揮できるという確信がありました。実際、ある人物に暴力を振るうシーン以降はそれまでより活き活きやっていたと思います(笑)。中村自身はまったくそういうタイプの人間ではないけど、演じるならこの役にハマるだろうなと思っていました。

──プロットはいつごろ書いておられたのでしょう。

ずっと考えていて、2015年か翌年あたりに一応ラストまで完成させていました。2021年7月にホンに起こしてからは1ヶ月で書き上げて、11月の撮影にバタバタと流れ込みました(笑)。

──タイトなスケジュールには、おふたりと作品世界を共有していたのが功を奏しましたね。

脚本を第一稿から読んでいたことに加えて、ふたりは普段から仲がいいんです。上京してからずっと一緒に芝居をやっている仲間なので、たとえば序盤のシーンなどで関係性をつくる必要がまったくなかった。実際の彼らの関係がもたらすものは大きかったですね。

──達也の部屋でのふたりのワンテイクも阿吽の呼吸で演じられたと思います。

そうでしたね。長いので撮影時にカットする候補にも挙がりましたが、作品全体を端的に表す「この映画ってつまりこういうことだろう」と思えるシーンで、撮るならワンカットでいこうと。セリフはむかし本作のために書いていたものを膨らませて、特に具体的な情報があるわけではない。それでも本作を凝縮したシーンです。

──そのシーンをはじめ、人物の内面や状況に呼応したライティングが施されていて、影やホラー的な暗さも効果的ですね。

基本的にほぼ全シーンで照明をつくり込みました。一部、斜光して疑似ナイターにしたシーンもありますが、何せ撮影・照明部が3人だけだったので(笑)。スタッフが少ないと粘れないし、ワンカットを何度も繰り返すのもなかなか難しい。現実的に厳しそうなものは色々整理して撮影に臨みました。

 


──後半、作業員の矢島(曽我部洋士)と松川(柳谷一成)が橋にいる仰角のショットで、カメラはどこに置かれたのでしょう。

下に流れている河には、土手の部分があったんです。そこに置いたカメラをなるべく空に向けて青春映画のように、と頼みました(笑)。

──ふたりが交わすセリフも青春映画みたいです(笑)。やっていることと裏腹な清々しさがあり、ここもアンビバレントですね。さて、先ほど佐野さんからの「知らせるのか知らないのか」という問いについて伺いました。もしかして見せなくてもいいのではないかと考えた画が、河辺の作業員たちの主観ショットです。顔だけで視線の先を充分に想像させられるようにも思えますが、どう判断されましたか?

あそこはわかりやすく、こういう出来事が起きることを示すほうがいいと判断しました。どこにも逃げ場がないことも明確に見せたかった。でも全体を通して言葉の説明が少し多い気はしていて、いま観れば顔だけで伝えられるだろうと感じるところもあります。役者陣がいいので、もう少し脚本を整理してもよかったかもしれません。

──顔とアクションだけで観客の想像力を働かせるキャラクターとして、佐野さん演じる二郎が後半に登場します。

二郎は第一稿にはまだいなかったかもしれなくて、脚本を書く途中で、もう少し複雑なキャラクターとして着想しました。達也の父親と顔がそっくりな別人で、ヤクザとも接点を持つ。その細かい設定まで考えたものの、最終的には「何者かわからない男」として登場させました。ラストシーンに二郎を出すと決めたのも、改稿作業の後半でしたね。

──本作に回想シーンはまったくありませんが、二郎が登場したあとの一連の流れで「フラッシュバックしないフラッシュバック」が見られます。

あそこで表現したかったのは、達也が避け続けてきたものをみずからの言動で、逆に突きつけられることでした。母親から、父親の像を重ねて見られてしまう。初期からやりたいと思って準備していたシーンですね。達也たちの行動の背景にあるものを浮かび上がらせたかった。

──そこでの二郎のアクションがまたいいですね。

佐野さんがみずから演出を準備してきたのですが、僕のほうでカットしてしまいました(笑)。

──でもやっぱり佐野さんはアイデアマンです(笑)。ほかに状況を簡潔に示す技法が、風俗嬢の待機室があるマンションを出て来るマリのショットの反復です。同一構図で撮ったふたつのショットだけで、彼女のルーティンを伝えます。

そうです。あれはマリの日常のなかのルーティンで、彼女もあそこまで変化してしまったことを見せようとしました。

──そうしたマリの変化が大きな出来事を引き起こすことになりますが、あの展開はどう構成されたでしょう。観客が驚く瞬間が訪れます。

先に考えたのは、マリと諒が行動を共にしていくことでしたね。そのための出来事をあとから付け足したように思います。重要なのは「諒がマリを連れて行く」でした。

──そこからラストへ向けた展開も練られていて、諒たちと作業員たちが並行で描かれる。しかし天候が異なることで、互いに遠くまで移動したことが想像できます。

あれは実際に雨が降っていました。本作の雨のシーンはほぼほぼ想定外で、「降ってしまったなら仕方ない。雨でやるしかない」と変更したんです(笑)。でも森のなかのシーンは「ここは降っていてもいいよね」とイメージしていると、本当に降ってくれました。

──そしてインタビュー序盤で伺った通り、ラストでオープニングの達也と諒のアクションが繰り返されます。ふたりの配置など、画づくりについてお聞かせください。

横位置でふたりが離れている構図はあらかじめ決めていて、ワンカットで撮り切ってもいいと思っていました。でも途中で達也のポン寄りになる。そのカット割りは松井くんが提案してくれて、僕が想像していないよさが生まれました。

──タイミングやシネスコのサイズ感が、あの寄りのよさを際立たせます。

割ったカットに諒がフレームインしてくる。自分の映画だけど素晴らしいと感じます。寄って正解でした(笑)。

──活劇性を与えるポン寄りの話はまだ続けられそうですが(笑)、少し先送りして、エンドロール前に風景を繋いだシークエンスがあります。

脚本に「それぞれの朝」と書いていたので、松井くんに撮影中にできるだけ朝焼けを撮っておいてほしいとお願いしました。20カットほど撮ってもらったストックから選り抜いた画を繋いでいます。

──そこに付けられたサウンドもよく、音楽担当は藝大つながりの長嶌寛幸さん(東京藝術大学大学院映像研究科サウンドデザイン領域教授/Dowser)です。

まずフリーで長嶌さんに音楽に当ててもらいました。すると一発目であの音が返ってきた(笑)。

──さすがです(笑)。長嶌さんとの接点からお話し願えますか?

長嶌さんは僕の藝大卒業後に着任されたので入れ違いです。でも『しんしんしん』を気に入ってくださって「次に撮るなら俺にやらせろ」と言ってもらっていたんです。そのあとに撮った短編のプロデューサーが藝大に勤めておられたご縁で、撮影をジミーさんこと柳島克己さん、音楽を長嶌さんに担当していただいたんですが、それは僕のなかでうまくいかなった部分があって、もう一度何かの機会にお願いしたいと思っていた。本作は題材を気に入ってくれそうだし、頼んでみると快諾してもらえました。
音の付け方は少しアクロバティックで……、まず粗編集段階のものをお送りして、しばらくしたら打ち合わせがあるだろうと思っていると、3日ほどして「当ててみました」と連絡が来ました。何ら具体的なことを伝えてないのに(笑)。それがほぼ完成した形になっていました。
いただいた音をチェックすると、オープニングのタイトルカットで流れる音楽が未来も希望もないようなダークな雰囲気で、「一貫してそのほうがいいのではないか」と提案もいただきました。でも冒頭だけは明るくしたいとリクエストして、エンドロールにも流れる曲と入れ替えてもらいました。あとは2、3回やり取りをして、最後にチェックでご一緒しましたが、そこでもお喋りしながら少し音を抜いたりする程度でしたね。

──3日という速さにも驚きますが、タイトルカットの楽曲は長嶌さんのユニット〈Dowser〉のアブストラクトな音響とは異なるイメージで新鮮でした。

ポップすぎるかなとも思いましたが、そこでも「やるならこれくらいがいいんじゃない?」と提案していただいて。音も面白く仕上がりました。

──音楽が加わることで、本作を社会派や群像劇といった一言で括れない作品に押し上げたと思います。最後に、この映画の終え方についてお聞かせください。

それまで色々な人たちが出入りしたにもかかわらず、あの家で誰も触れなかったものが開かれる。そこにはいい面もあれば悪い面もあって、指摘していただいたアンビバレンスがあるとしても、世界は外に続いている。「これだな」と確信できる終わりをつくれたと感じています。

(2023年9月30日)
取材・文/吉野大地

 
映画『しんしんしん』公式サイト
映画『ピストルライターの撃ち方』公式HP

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