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『偶然と想像』 濱口竜介監督インタビュー

「きっと面白くなります」。2020年春、小規模なチームで自主的に撮り始めた未完成の短編集を濱口竜介はそう語った。普段、自分を大きく見せることをしない監督だけに意外な印象を受けたが、約一年半後……、『偶然と想像』と題して世に放たれた作品は、その言葉通りだった。会話劇、演じること、言葉と身体、カメラと演技の調和──追及し続けてきた数々のテーマを深化させた監督に、面白さの源を探るべくお話を訊いた。

──難聴のため、今回はバーチャル・シアターでバリアフリー日本語字幕版を鑑賞しました。するとセリフと字幕がぴったり一致していて、ストレスなく映画を楽しめました。完成稿をそのまま字幕にされたのでしょうか。

日本語字幕制作を依頼したパラブラさんには(『寝ても覚めても』と『ドライブ・マイ・カー』でも日本語字幕制作をしていただいています)脚本をお渡ししたうえで、それをもとに実際にセリフを聴き取ってもらい、文字起こしをしていただきました。
*『ドライブ・マイ・カー』バリアフリー版制作に寄せた監督コメントはここで読むことできる。

──過去に英語字幕の付いた監督作を見ていますが、異なる楽しみがありました。それは後ほどお伝えするとして、本作はキャラクターの立ち上がりが速いと感じます。

「キャラクターの立ち上がり」とは何を指すか、はっきりわかっているわけではありませんが、心当たりとしては、そもそも輪郭のはっきりした話ということがまずあるかもしれません。今回は尺が短いこともあって、自分のなかでもはっきりとしたわかりやすい物語にしようという意識がありました。

──「キャラクターの立ち上がり」が、仮に人物像の把握と存在感の現れを指すとすれば、それらは脚本でかなりの部分をコントロールできるのでしょうか。『ドライブ・マイ・カー』(2021)を例に考えると、みさき(三浦透子)は寡黙なため、人物像を掴むのに一定の時間が必要になります。

脚本でコントロールできる部分はもちろんあると思います。キャラクターは、周囲の人物との関係によって規定されて、観客が理解するものです。本作には会話シーンが多くて、話す都度、その人物は何がしかの情報を発しています。情報が蓄積されれば、当然観客にも把握されやすいと思います。
ただ、キャラクターの立ち上がりというのが「得も言われぬ存在感」まで指すとするならば、脚本では調整しきれない部分があります。それはおそらくリハーサルの成果でしょうね。情報は言葉に限らず、人物が取るリアクションにも含まれていて「この出来事に対してこういう反応をするのか」と情報が蓄積されると、観客にとって人物像がより生々しく迫ってくるところはあると思います。それが起こるには役者の解釈が深まっている必要というか、役者の身体が持つキャラクターについての情報が十分に増えている必要があります。そのために本読み等を通じて、テキストとの親和性を上げているのだと思います。セリフを口にするときに、役者の身体性とキャラクターのそれがより混ざり合って表現されることを願ってやっています。それが「キャラクターの立ち上がりの速さ」という印象になっているなら嬉しいですね。

──『ドライブ・マイ・カー』公開時のインタビューでは、翻訳と絡めて演技について伺いました。「演者が透明になって役が生まれるのではなく、身体によって歪められたり、その身体からしか生まれないものが存在するようになる」のだと。それを突き詰めると、人が役を演じるときには身体から何かしら不可避のノイズを発することになりませんか?

もちろんそうです。キャスティングで「いいとこ取り」だけはできません。映画には、役者の身体が持つキャラクターに合った部分と、ノイズの両方が同時に取り込まれるわけですよね。それがフィクションにおいて「こういう人だ」というキャラクター付けを阻害するのか、もしくは豊かさや膨らみに繋がるのかは、究極的に自分で判断できないです。基本的にキャスティングしたら、スケジュールのなかで撮り切って、その結果、よかった部分とノイズが残る両面を出すことになります。

──リハーサルを重ねても、ノイズが消えずにOKを出せないケースもありますか?

いや、ノイズ的なものは絶対に消せないし、受け入れないといけないっていうのが第一です。ただ、それらの要素がそんなにカッチリ分かれて見極められるわけでもない、というのが正直なところです。そこはNGがあるというより、「よりよいOKが存在する」感じですかね。テイク1から悪いとはまったく思わないことが多いです。「この人にこのセリフを言ってもらえればOK」というところから始めて、日を追うごとに「この人のなかで何が起きているんだろう」と感じるところまで変化してゆく。無理やり言葉にするなら、ノイズ的なものが残っているときは「んー、何かもうちょっとないかなあ」と思っている。いいときは「もう、これだ!」っていうものが出てきます。それがあるとき、ポンッと現れる感じですね。
たとえば、撮影初日に通して芝居をしてもらうと、俳優のマネージャーの方が近づいてきて「この演技で大丈夫ですか?」と心配顔で訊かれることもあります。自分としては「そんなに駄目でしたか? でもまだ何日もありますので」という感覚だし、それまでの準備を踏まえて「1日目はこれくらいだろう」という気持ちで見ていることが多いんです。「たしかにこの演技のまま、全体を力強く構成するとなると難しい」とも思いますが、最近の撮影は、ヤマ場となるシーンには数日取っていて、そんなに焦らない。だいたいの場合、2日目、3日目には驚くようなものが出てきます。そこで出たOKテイクが編集の核にもなります。そうなると1日目に撮れた演技も編集素材として十分使えるものとして再発見できる、という感覚ですね。

──そういう演技を撮れたときに、役者が感じていることを確認して、次にフィードバックすることはありますか?

昔はよく「あのとき、何が起きてたんですか?」と役者に訊いていました。でも、最近は少なくとも撮影中にはもう、そこには立ち入らないことが多いですね。自分の演技自体にあまり反省的に意識を向けてほしくない思いもあって、粛々と何度も撮っています。

──演技に限らず、音楽などもリハーサルを重ね過ぎると「型」に陥る罠が存在します。ところが本作の役者たちは見事にそれを逃れているように見えました。時間をかけた本読みがセリフを覚える作業であると同時に、演技の自由度を高める側面もあるのでしょうか。

それはあるでしょうね。本読みをしていると演技体力が落ちない、というか、テイクを重ねても「まだまだやれることがある」という感覚を役者さんたち自身が持っているように感じます。1日で終わらせたら勿体ないような。そういう点ではやっぱりテイクを重ねることと、演劇を何公演もやることとがすごく近づいている気はします。
本読みを徹底的にやると、リハーサルの具体的な長さ・量に比例して、テキストに対する読みの可能性が広大になるような感覚が生まれます。もちろん、役者たちがその広大さを意識して読んでいるかどうかはわかりません。でも読み進めるうちに、少なくとも一義的なセリフの読み方から離れて、テキストが本来持っている多義性へと開かれてゆく感覚はあります。
その多義性は役者にとっては、テイクごとにチャレンジすることのできる領域になるのではないかと思います。撮影において、実際に身体を動かしてみると、そのたびにひとつの可能性を役者は踏破していく。その都度、役者による役柄や関係性への理解は深まる。なので、1テイクを終えるごとに役者が「こうしたら、こうなるんだ」という感覚を確かに持つ、ような気がしています。そういう感覚を足がかりにして、さっきのテイクとは違う新たな演技を試すこともできる。時間をかけることで、単に体力が消尽するのでなく、むしろだんだんと冒険しやすくなる側面があるだろうし、それはやはり本読みをはじめとした準備作業の成果かなと思います。
通しの芝居を10回、20回と重ねるうちに新鮮さが失われる部分はもちろんあります。ただ、寝て休むと回復するところもあるし、2、3日やったあたりで熟してくる。とはいえ、それを演劇の公演のようにずっとそのあと何日も続けたいかというとそうでもなくて、「このあたりがピークかな。いま現在の役者たちの身体とテキストが出会って出てくる最良の可能性は探り当てたのではないか」というものをカメラで捉えたら、編集に臨みます。

──そのもとになる脚本づくりに関してもお聞かせください。たとえば『THE DEPTHS』(2010)は冒頭、腕利きカメラマンのペファン(キム・ミンジュン)が偶然目に入った風景を思うままにカメラに収めてゆく。ところがラストでは逆転して選択が偶然に遮られ、それが彼の運命のようにも思える。作劇の際の偶然や運命などの配置は今回、どのように考えましたか?

偶然は毎回考えます。どこでどのように入れ込むか、または何度までなら、というふうに。でも今回はそれほど運命について考えなかったですね。書いているうちに、「あ、これは偶然だけでなく、想像力の話も常に扱ってるな」という形で「想像」の主題が出てきました。

──『ドライブ・マイ・カー』は主体の選択や運命が物語の大きなエンジンになっていたと思います。

そうですね。ただ、『ドライブ・マイ・カー』の主人公は基本的にあまり選択をしない。むしろ、選ばないことを選ぶ、という傾向があったと思います。どちらかと言えば起きた出来事が、主人公の道筋をほとんど自動的に決めていきます。でも意図してそうつくったわけでもないんです。原作者の村上春樹さんの物語世界では、思いも寄らない出来事が突然起こる傾向がありますよね。でも、それが起こるべくして起こるような感覚もまたあります。それは、主人公が主体的な選択を先送りにする傾向があるからだと思います。選択の先送りが限界に達したとき、その人物の盲点から想定を超えた出来事が現れる。しかもそれは連続して起こり続ける。それらの出来事は人の盲点から現れる、という点では偶然に近くもあるんですが、「選ばなかったこと」が必然的に起こす破局的な事態でもあると思います。その意味で『ドライブ・マイ・カー』の物語はどこか「運命」の色合いが濃いようにつくりながら感じていました。それに比べて、『偶然と想像』は本当に些細な、無視することもしないことも選べるような「偶然」の話です。偶然に対しては人間の選択の余地が大きくて、「ああするか、それともこうするべきか」という迷い、つまりは幾つものの可能な未来の想像を経て、決断が行われます。

──そのような偶然のモデルがフィクションでどのように働くのか、続けてお話し願えますか?

様々な形があるでしょうが、エリック・ロメールを例に取ると、ロメールは「偶然の習慣性」ということをよく語っています。偶然とは何度も起き続ける習慣的なものであり得ると捉えている節がある。それは自分も大きな影響を受けているポイントです。さらに、一回きりで終わる偶然と習慣的に起きる偶然の違いがどのような条件の違いで生まれるのかと考えると、ロメールの作品には偶然の起きやすい場所がまず存在します。たとえばカフェテラス。カフェテラスは道に面した店と道のあわいのような空間です。テーブルに着いて留まっている人の前を、道を行き交う人が通り過ぎていきます。すると当然、店のなかにいるよりも歩いてきた人と出会いやすくなる。自分は動かなくても世界が動いているからですね。こういう場所では他の場所よりも偶然が起きやすい。
それから、毎朝決まった時刻に電車に乗ると同じ人に会うようなことが起こる。ある人の日常的ルーティンと別の人の日常的ルーティンが、ある場所で重なるからですね。これも「習慣的偶然」と呼ぶべきものです。ただ、総じて言うならば、偶然が習慣的に起こりやすい場所は、開かれた、何処か不安定でもあるような空間である、ということです。なかに閉じこもっていれば安全ですが、そこではよくも悪くも偶然が起こりにくくなる。

──『モンソーのパン屋の女の子』(1962)の出会いも、習慣的偶然が生むものでしたね。

そのような習慣的偶然が繰り返されたとき、それが運命に似てくることもあるでしょうが、運命には、どこか人間的なものに世界を縮減してしまう面があるかもしれない。むしろ「ただの偶然」に留まり続けるのがロメールの態度ですね。『冬物語』(1992)でフェリシーが想い人にバスで出会ったときに、その運命的偶然を前にして、彼女はそれを放り出すように逃げ出してしまう。運命的なものを単純に運命として受け入れるのではない。あくまで「それは無意味な、ただ単に起こった出来事に過ぎない」という冷徹さが、ロメールの凄みだという気がしますし、かえって彼の映画が単なる物語を超えた世界そのもののように見えてくるのは、そういう態度に由来していると思います。

──習慣的偶然で不意に思い出したのですが、ポール・オースターの短編『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』(スイッチパブリッシング /『スモーク』として1995年に映画化)にも、同じ時間と場所で毎日写真を撮り続ける男の逸話がありました。

「ポール・オースターの『偶然の音楽』を読みましたか?」とよく聞かれます。読みました。ただ、ほとんど何も覚えていません(笑)。写真の話で言うと、アンリ・カルティエ=ブレッソンの「コンタクトシート」を展示で見たことがありますが、本当に何もない空間に向けてシャッターを切り続けていますよね。その空白的フレームを埋める何かが入り込んだときに、「決定的瞬間」と呼ばれる完成した構図が訪れます。

──先ほどのお話を踏まえるとコンタクトシート、つまりベタ焼きのなかから現れる「決定的瞬間」を運命的と捉えるのと、あくまで偶然の産物と捉えるのとでは見え方が随分変わりますね。少し脱線して、僕が日常的に利用している地元の駅でこの30年ほど、同級生や知人に遭遇する機会がまったくないんです。唯一の驚くべき例外が「(神戸滞在期の)濱口竜介」だったという(笑)。

その「会わなさ」はすごいですね(笑)。逆に、僕は電車内や駅のホームでよく人に会うんです。JR新快速のボックス席に座ったら、目の前に『ハッピーアワー』(2015)の演者の方がいてお互いに驚いたり(笑)。

──監督の映画のワンシーンのようです(笑)。

でも「会わない」のも偶然の裏返しですよね。偶然にはそういう様態も存在するんだと思います。偶然の特性はそれが「稀(まれ)」なものであることで、その「会わなさ」も、「稀」さにおいては偶然と呼べるのかもしれませんね。

──監督にそう言われると説得力があります。次に技術面に関して伺えればと思います。撮影は監督の過去作にも参加された飯岡幸子さんが担当されています。筒井武文監督の『オーバードライヴ』(2004)にかなり複雑な造りの屋敷が出て来て、その模型を飯岡さんがつくられたそうです。撮影でも空間に対する感性が鋭い方だと思っていますが、いかがでしょう?

飯岡さんがカメラを置くと、まずその空間をとても把握しやすくなります。フレーミングをすると見えない部分ができる。でもかえって、そのことでその空間がよりよく感じられる。視点による空間把握能力が極めて高く、ほかの監督の現場では、単一視点で単一の時空を捉えていることが多い気がします。それによって飯岡さんの能力が際立って感じられる。ある空間をどう見ればいいか? その最適解を出してくれる能力が、特に杉田協士監督の作品などによく表れている印象がありますね。ちなみに杉田作品では、本作にも参加してくれている黄永昌さんによる録音とサウンドデザインが、このフレーム外をとても豊かに表現してくれていますよね。このフレーム選択と環境音の相互作用が最大限、強められている気がします。

──杉田監督の『ひかりの歌』(2019)は特にそうですね。スタンダードサイズのフレーム外を強く意識させます。

何度もBカメ的に来ていただいたことはあるんですけど、監督と撮影者として一対一の関係を本格的に結ぶのは初めてでした。改めて、居方が何より素晴らしいと思いました。最もすごいのは肝の据わり方ですかね。先ほどの話とも繋がりますが、撮り逃がす力、というものがあると言うか。今回、役者はみんな自分のタイミングで、カメラに気兼ねなく自由に動きます。僕の場合は、それをある程度追いかけてもらいます。そこで飯岡さんは役者の動きを制限することもなく、「ここから撮ればこうなります」という感じで撮影する。当然役者を追いきれないところも出てくる。それでも、別に役者にこうしてほしいと撮影側からオーダーすることも、無言のプレッシャーみたいなものを発することも一切ない。
飯岡さんのカメラを「過激」と評した友人がいますが、これはまったくその通りだな、と思います。その場で起きたことを、そのまま撮る。「受け止める」と言ったほうがよいのかもしれません。そこに余計なものが何も足されず、起きたことの「よさ」も「悪さ」もそのまま受け止める撮影は、結局のところ今回の俳優たちの演技ともすごく親和性が高かったんではないかという気がします。俳優がカメラの存在を気にする瞬間はほぼなくて、たとえ正面にカメラを置いたとしても、それはそうだったと思います。
僕にとっては最終的にはクラッシックな編集が可能になることが望ましいので、そうできるような複数のアングルから、演技を通しで何度も撮ってもらいました。それも楽しんでやってもらったような気がします。飯岡さんに役者を追いかけてもらいながら、その都度生じた「よい」瞬間を、編集で再度見つけ直す作業をしました。結果として、飯岡さんのカメラのある種の過激さを、滑らかな物語へと組み上げられたような気がしていて、すごく綱渡りの作業でしたが、自分が今までやったなかでもとりわけ面白い、エキサイティングな編集作業になりました。

──第一話『魔法(よりもっと不確か)』のオフィスのシーンは、入口のほとんど引きしろのないポジションから始まります。ここでの演技・撮影・編集もみどころで、芽衣子(古川琴音)と和明(中島歩)の動線は監督がつくられたのですか? 距離に注目すると、ふたりの思惑や関係性が際立ちます。

大まかなラインはそう言ってよいと思います。ただ、すべて指示すると俳優から出てくるものが損なわれてしまうので、「どうすれば居心地がよいか」と訊ねて探っていきました。カッチリ決めるというよりは、やりながら「このあたりで近寄ってほしい/離れてほしい」と提案する形でしたね。風船を置く場所が最初から決まっていたり、「このときにはこれくらい」と事前の目算も立てましたが、動きを固めるよりは、できるだけ空間の全体を使うことを意識しました。

──シーンの最後は入口のそばに戻ってくるので、一周する形で空間を生かしていますね。音楽は、第一話から第三話を通してシューマンの『子供の情景』『森の情景』を使っておられます。第一話で『子供の情景』第7曲「トロイメライ」が鳴り出して、再び鳴るまでのあいだは曲名が示す「夢想」、つまり芽衣子の想像ではないかという妄想も頭をかすめたのですが……。

曲名の意味は理解していましたが、そのまま当てはめるとベタすぎる気もして、さすがにそこは(映画内の)現実です。シューマンの楽曲はApple Musicなどでずっと耳にしていて、劇中に使った3曲は何度でも聴ける単純さと複雑さを同時に持っています。愛らしさと不穏さが同時に感じられる点が、3話の脚本を書いた時点で物語にすごく合う気がしました。プロデューサーの高田聡さんに撮影前に「3話の統一性をどうやって持たせる気?」と訊かれたときも、「この音楽を流せば大丈夫です」と答えた記憶があります。

──『子供の情景』第1曲「知らない国々」は、ゴダールの60秒余りの短編『あるカタストロフ』(2008)にも使われていると、ある方に教わりました。

それは全然知りませんでした。本作では「知らない国々」がメインテーマというイメージです。「トロイメライ」は有名な曲だけど、どちらかといえばアクセントとして使っています。

──「トロイメライ」は『転校生』(1982/大林宣彦)にも使われていました。

なんと(笑)。シューマンはよく使われますね。

──第一話と第三話には窓の外から室内を映すシーンがありますが、第一話のほうはガラスの存在を明確に意識させる音響になっています。その後の展開に繋げる効果でしょうか。

確かにそうです。音響のコンセプトやルールが先にある、というよりは、あくまで物語展開に即したものです。あのシーンは時間経過を示すテロップに続くカフェの外からの引き画、窓越しの芽衣子とつぐみ(玄理)の切り返しという最初の空間配置がのちの展開に影響してきます。そのときに最も自然な聴こえ方を選ぶと、ああなりました。第三話の場合は、会話の進行に沿って最も顔が見えやすい外のポジションにカメラが出てゆくので、そこではガラスの存在が無視される音響にしました。

──カフェ内に工事音が響いています。さすがに後処理ですよね……?

それがちょっと怖ろしい話で……、あれは現場で鳴っていた音です(笑)。カフェ自体は実は(物語の設定である)渋谷でなく横浜なんですが、隣のビルが工事中で、カンカンと金属音が鳴り響いていた。「すごい音だな」と思いながら、まあ渋谷の工事現場に繋がるしよかろうと思いつつ、そうは言ってもあまりノイズが重なると使えないので、できるだけ工事が昼休みのあいだに撮り終えるつもりでいたんです。そうしたら古川さんのヨリの告白場面で、また工事音が鳴り出した。本来NGになりそうなものですが、工事音の不穏な緊張感が完全にその状況にマッチして、画面を引き締めていた。あのタイミング、怖ろしいですよね(笑)。見る方には後付けと思われるかもしれませんが、あのときの古川さんを見ながら「この人は何か持っている」と思いました(笑)。実際、撮影をしているとそういうことはあるんですよね。この人を撮っていたら何でか毎度いいショットになっちゃう、みたいな人が。

──被写体が何か持っているとしても、現場は冷や汗ものですよね(笑)。第一話はズームイン/アウトが話題になっていますが、『親密さ(short version)』(2011)のラストにもズームを使っています。本作と異なる、ゆっくりした微かなブレもあるズームインです。あのカメラも飯岡さんでしたか?

あれは誰だったのか、いま正確に思い出せませんが、撮影者が4人います。撮影監督の北川喜雄くん、飯岡さん、加藤直輝さん、長谷部大輔さん。ズームするカメラはおそらく喜雄くんだったと思います。「ズーム」をする、ということは一応取り決めていたのかどうか。あのシーンは劇中劇のお客さんを入れたテイクを使っていて、それは1回きりだったので、どう撮るかは切実な問題でした。

──舞台の最後方からバックショットを撮っていて、観客がいるため、カメラが前に進めないシチュエーションでしたね。

だからあのズームは事前にではなく、瞬発的に指示した可能性もあります。そのズームのことは批評家の荻野洋一さんも指摘してくれていたと思います。何だか、あのときの「一回きり」感が出ていて、自分のなかで思い出深い画面です。

──ズームはカメラの機能でしかないけれど、同じ監督の作品でも使い方次第で大きな違いが生まれます。これから各地で過去作の特集《言葉と乗り物》があるので、見比べてほしいですね。続く第二話『扉は開けたままで』で、奈緒(森郁月)が朗読する瀬川の小説も監督が書いておられます。『伯爵夫人』(蓮實重彦/新潮社)など、参照した作品はありますか?

『伯爵夫人』を読んだのは撮影のあとで、きっと誰かに言われるだろうなと思いました。第二話の脚本を書く際には『伯爵夫人』はまだ読んでいません。だから、まったく意識していないことは、ここで言明しておきたい(笑)。ごく単純に機能的に考えたというか、あの場に必要な想像をもたらすテキストであり、なおかつ「明らかに問題がある状況」を構築して、現実的なサスペンスを引き起こすものでなければならない。そのようなテキストを目指して書いたら、ああいうものになりました。

──朗読部分の前後も書かれたのでしょうか。

ページをつくるために数行書いた程度で、基本的には奈緒が読んでいる部分だけです。

──バリアフリー日本語字幕版には、小説をテキストで読めるという特典がありました(笑)。

……あれをテキストで読まれるのは、恥ずかしいですね。あくまで間接的に、耳で聞いて想像されるつもりで強い言葉を選んでいる。なので、直接字幕を目にされる方には、何だか申し訳ない気持ちになります(笑)。

──奈緒と同じく「何を思ってあれを書いたのか」と訊きたい気持ちがありましたが、お話を聞いてよくわかりました(笑)。研究室のなかで倫理と欲望がせめぎ合っていることも、テキストによって理解が深まります。遡って『ハッピーアワー』公開時の取材ではワークショップのダイジェスト化について伺いました。

そうでしたね。あのワークショップの場面は、本当は丸一日、8時間くらいやっています。それを映画では30分強に編集しているので、随分短くしたな、と(笑)。

──しかし、アンチ・ダイジェスト的な思考もあったと。第3部の「こずえの朗読会」は出来事の最初から最後まで収めていました。

いや、それも正確ではないです。こずえの小説はほんの少し編集でつまんでいるので完全なものではないんです。あれを演じた椎橋怜奈さんが書いた小説だったので、どこかで発表の機会もあるかもしれないから、全編を収録しないほうがよいと思って。それでも小説の内容がだいたいわかるようにはしていますが。

──本作でも奈緒が研究室の扉をノックしてから、ある時間を瀬川に示すまでの間を測ってみると、実際の時間との誤差は1分ほどしかありませんでした。

よく測りましたね、そこ(笑)。どのテイクもだいたい、芝居を頭から通して撮りました。そこから少し編集したところがあるので、その長さになったのでしょう。

──測れたのは配信サービスの恩恵です(笑)。出来事をほぼ丸ごと撮る点は『ハッピーアワー』の朗読シーンと共通していますが、異なるのは読み手の後ろの空間が開いていることです。ここを人が横切るタイミングには何か規則性があるように思えたのですが。

エキストラのフレームインのタイミングは計っています。自身も監督作をつくっておられる深田隆之さん(制作・エキストラ演出)に来てもらって、現場で約20人のエキストラのフレームインのタイミングをお願いしました。

──そのタイミングは何に基づいていますか?

「いやいや、人通ってるけど大丈夫?」と観客がひときわ思うタイミングです(笑)。朗読の際どい部分と合うように、それを深田さんとコミュニケーションを取りながら決めていく感じでした。

──気まずくなるポイントですね。研究室の本棚には『キリスト教神秘思想史〈2〉中世の霊性』『キリスト教神秘思想史〈3〉近代の霊性』(平凡社)が並んでいると、先述の知人に教わりました。

残念ながら、撮影のために大学の研究室は借りられなくて、研究室は東映撮影所のスタッフルームを借りて、そこに美術部の布部雅人さんにロケセットをつくってもらいました。本は古書店で大量に準備してもらったものです。ご指摘の本は大丈夫だと思いますが、あそこには「本当にフランス文学教授の研究室にあるのか」と疑われるような本も並んでいるかもしれませんね(笑)。

──ロメールの作品では「信仰」も大きなモチーフになっています。それらの本が本作でその役割を果たしている気もしました(笑)。そして第三話『もう一度』では『PASSION』(2008)以来、占部房子さんと河井青葉さんが共演を果たします。物語の「再会」のテーマはそれに準じたものですか?

書いているときから占部さんと河井さんのことが頭にちらついたのは確かです。「キャストとして合ってるな……」と思いつつ書いてはいました。一方で、この短編集のプロジェクト全体として新しい人との出会いを求めている部分もありました。馴染みのある人と新しい人、どちらで撮るか最後まで悩んだ結果、おふたりに落ち着きましたが、それほど「想定」をして書いた話ではないんです。

──仙台で撮影をおこなった理由はなぜでしょう。

単純に「あそこならエスカレーターの演出ができる」という一点に尽きます。ただ、東京に行った人が同窓会で戻ってくる地方都市が舞台でないと成立しない話でもある。他の地方都市で撮ることもできたかもしれませんが、ロケハンが無駄足になると経済的な負担が大きくなるな、とも考えました。仙台は数年間滞在して「あそこならこの演出が成立する」とロケハンせずともわかっていたので、制作費の問題がクリアできそうだったこともあり、決まりました。

──第一話から第三話まで通して見られる構造物がトンネルです。駅のエスカレーターがトンネル状なのも、仙台ロケに影響しましたか?

トンネル構造は思い描いていたわけではなく、行ってから思い出しました。これも偶然です(笑)。

──物語によくマッチしたエスカレーターですよね。もうひとつ共通点として第二話、第三話ともにサインする手のクロースアップがあります。ロベール・ブレッソン的にも見えますが、意識して撮られたのでしょうか。

ブレッソンほど大層なショットじゃなく、その瞬間にいちばん動きの大きいところを選んだ、という感じです。あまり寄ると意味ありげな画になるので程ほどに、単純にその空間で動きが最大化されている場所を撮りました。

──ズーム的な感覚のヨリですね。占部さんからは『PASSION』のあとに出された宿題がありました。

『東北記録映画三部作』(2011-2013)を撮っている時期は仙台に住んでいたんですが、あるとき帰京して、占部さんと飲んだことがあって。そこで「いま東北でドキュメンタリーを撮っています。目の前で思いも寄らない何かが生々しく起きているのを撮るのはすごく面白いですね」と伝えると「いやいや」と。「私たちのこともそんな気持ちで撮りなさいよ。色々起きているんだから」と言われました。まったくその通りだと思って、占部さんの言葉は、演技を撮影する際の指針にもなりましたね。

──占部さんとのエピソードは監督が神戸に活動拠点を移された2013年に伺い、本作でその宿題が提出されたと感じます。同窓会後にホテルに戻ってきた占部さん演じる夏子のクロースアップも美しい。それに続くショットは何だろうと見ていると、かつ丼屋の真正面からの画です。あとから検索してみると、映画とほぼ同一の店舗画像が出てきました(笑)。審美的なショットと、直球ショットのギャップについてお聞かせください。

それにはふたつ理由があって、ひとつは、あのかつ丼屋は僕が仙台に住んでいるときに通っていた、とても好きなお店なんです。もうひとつは、やっぱりあのクロースアップが美しい分、抒情性が必要以上に高まるのを食い止めたい気持ちからですね。いちばん落差のあるものをぶつける、と言ったらお店に失礼かもしれませんが(笑)。

──古典的な対比モンタージュですね。ひとつめの理由からは、コマーシャリズム的なショットとも言えるでしょうか(笑)。

言うなればそうです(笑)。あれだけ「かつどん」という単語を推しているのも、なかなか稀有じゃないかと(笑)。でも、あのお店はせんだい・宮城フィルムコミッションに紹介してもらったんです。「あれ? ここは僕が何度も行ってたお店です。ここで撮らせてもらえるのならぜひ」という流れで決まりました。偶然です。

──訪れたくなるお店です。夏子と河井さん演じるあや、そして彼女たちをめぐる人物には類似を見てとれます。『ドライブ・マイ・カー』の家福(西島秀俊)とみさきの類似性は、脚本を書いているときに意識的に発見されるものではなかったと伺いました。この第三話はどのように書き進めましたか?

第三話は特に書くのに苦労しました。構造としては、タイトル通りに反復を主題として「行って帰ってくること」だけが決まっていて、そのあいだが問題でしたね。あやが夏子を家に連れてくるまではいいけれど、さてどうしようと書きながら考えるうちに、最もしっくりくるアイデアが出てきました。「ああ、そういうことか」と書きつつ納得したんですが、それはそれで「さて、困ったぞ」と思いながら書いていく。そのうちに、結末に至る展開が生まれました。『天国はまだ遠い』(2016)でやったことにも近かったので、少し迷いましたが、それともまた違う効果を生んでいるし、何より自分で書きながらちょっと感動したんです(笑)。なので、そのままになりました。

──感動されたのも頷けます。ところで、あやが夏子と羊羹を食べている最中に一瞬むせますよね。あのテイクは、おふたりの演技の呼吸などのトータリティで選ばれたのですか?

むせたので、あの後2テイクぐらい撮ったんですが、単純に演技の面であのテイクがいちばんよかったんです。でもむせる感じをどう処理するかも考えました。実際はもう少し激しくむせておられたので。本編ではその感じを残しつつ、はっきりと聴こえるセリフに差し替えています。ちなみに本読みをし始めてから、驚くほど別テイクから持ってきた声と口が合うようになりました。画のOKテイクと音のOKテイクを組み合わせることはよくあります。すると、途端に痩せていた画面が膨らみを持つような気がすることがあります。

──物語が進むに連れて、占部さんと河井さんの掛け合いに音楽でいうグルーヴが生まれてくるので、いいシーンになりましたね。続くふたりが駅に戻る道のシーンもワンカットで、カメラはラフにパンするだけですが、演技の呼吸で十分に見ていられます。

よかった。三話を通じて「ずっと見ていられるかどうか」が、編集でOKテイクを選ぶ際の基準でした。基本的には演技を見ていますが、ここは空間が気持ちいいところですね。

──ありふれた住宅街の路地なのに、画面に張りがあります。そのあとの歩きながらの切り返しがまたいいですね。

あそこは演じるのも撮るのも難しかったと思います。移動車を使って撮影しているんですが、なかなかうまくいかなかった。突起物のない路上を選びましたが、演技と移動車のタイミングが合わなくて、テイクを重ねてしまった記憶があります。それでも演技の質があまり落ちなかったのは、あそこが撮影の最終段階で、ふたりのあいだに実際に終わりゆく時間を惜しむような雰囲気があったからかもしれませんね。

──そうした空気が含み込まれていたんですね。そして物語は結末へ向かいますが、去ってゆく夏子に手を振るあやのワンショットは、実際に視線の向こう、フレームの外を占部さんが歩いていますか? ワンカメだと撮れない画ですが。

あそこはやっぱり占部さんがフレームの外にいます。あのアングルでも演技を通してもらって撮っていて、それも飯岡さんが撮りながら感動するぐらいよいテイクでしたが、結局はふたり共の顔を見せようということで、メインは横打ちにして、そのアングルからは河井さんが占部さんに手を振るショットを抜き出しました。

──駅でのふたりのやり取りを何度か見ると、お互いが誰に向かって話しかけているのかわからなくなってきます。画面には登場しない人物のイメージも重なり合った、心地よい混濁が生じると言うのか。

映画の構造からも、そういうことが起きるだろうとは思います。ただ、それがまさに「演じること」ではないでしょうか。演じるとは役者にとっても、役者に話しているのかキャラクターに向けて話しているのかがほとんどわからない状態なんだと思います。そのことがそのまま映っているんでしょうね。

──それによって「再会」までの20年という時間も浮かび上がる結末です。さて、2020年4月にミニシアターエイド基金を立ち上げられた際のインタビューの最後に伺ったのが、まだ制作中の本作のことでした。そのときに「生産性を下げても時間をかけること」の必要性を説いておられましたね。今後の社会の在り様も含めたお話でしたが、実際に作品を完成させて公開中の現在、思っていることを教えてください。

映画の規模に対して、十分過ぎるほど多くの方に見ていただいている感触があって、とてもありがたく思っています。そういう成果が出るとやっぱり時間をかけることは大事だと感じますが、ただ単に時間をかければいいというわけでもない。映画の制作を超えて、一般的にクリエイションと呼ばれる作業には間違いが付きものです。色々参照する先行例はあるにせよ、今までにないもの──ほんの少しでも新しかったり見たことがないもの──をつくろうとすると未踏の領域が現れる。すると、やっぱり何か間違いを起こしますよね。だって、やったことがないのだから。その間違いを修正するのに時間をかけたいと思っています。それを怠ると、当然のように間違ったまま創作物を世に出すことになる。もちろん完璧な作品というのはあり得えず、必ずどこか間違いなりノイズは残ります。それでも「これは今まで見てきたものとは何か違う」と驚きを生むものをつくるには、そのような修正作業や、それを可能にする時間の余裕が必要です。
そこで、間違ったかどうかの判断基準も重要になります。これがあると、時間を節約できて、節約した時間をよりチャレンジのために回すことができる。自分の場合、その判断基準は20年ほどかけてだんだんと、間違いを繰り返しながらつくってきた感覚があります。なので、時間をかけることも大事だけれど、間違いを許容する環境が望ましい、とは思います。クリエイションの際に間違いは必ず起きる。間違うことまで予め見越してプロジェクトを立ち上げるのでないと、新しい価値尺度を生み出せずに、結局縮小再生産のサイクルに陥るのではないか。そう感じているし、それは意外と社会全体に対しても言えることなんではないかと思います。

(2021年12月28日/神戸にて)
取材・文/吉野大地

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