神戸映画資料館

WEB SPECIAL ウェブスペシャル

『空に聞く』 小森はるか監督インタビュー

©︎ KOMORI HARUKA

東日本大震災発生後、被害を受けた数々の土地で臨時災害放送局が開設された。『息の跡』(2016)と並行して撮られた『空に聞く』(2018)で小森はるか監督がカメラを向けたのはそのひとつ、岩手県の〈陸前高田災害FM〉でおよそ3年半のあいだ、パーソナリティを担当した阿部裕美さん。多くのものを失いながらも、町の人々の声をきめ細やかに集め、想いを乗せてリスナーに届ける姿からは、『息の跡』でも見られた「カメラにうつらないもの」「声の複数性」が浮かび上がる。さらに作品は刻々と変化してゆく町の姿と共に、そこへ注がれる監督のまなざしの推移を静かに──しかし確かに──刻み込む。3月に兵庫・豊岡、新潟・長岡、東京・大塚で上映される本作をめぐり、2020年11月におこなったインタビューを公開する。

 

──阿部さんは、監督と瀬尾夏美さんとの協同作品『波のした、土のうえ』(2014)にも出演されていました。出会いからお話し願えますか?

2012年に陸前高田に引っ越してきて2ヶ月ほど経った頃、色んな人に出会ったり、だんだんと町の生活になじんできた時期に阿部さんにお会いしました。陸前高田災害FM(以下、「災害FM」)の存在は知っていましたが、阿部さんがパーソナリティをつとめておられることまでは知りませんでした。でも町への想いがあって、町の人たちの方向を向いたパーソナリティがいるとは聞いていて、どんな人だろうと気になっていたんです。そしてお会いしたときに「あ、この人なら」とすごく腑に落ちた。ご自身も家族を亡くされたり、大変な経験をなさっていても、被災者として語るのではなく、皆が同じように感じながらもなかなか口にできないことや、聞けなかったことを伝えてくれていました。しかも町で暮らすひとりとして、そうして様々な人の声を聞いている姿に惹かれていきました。すぐに「取材させてください」とは言い出せませんでしたが、日が進むに連れて「この町で何かしら映画を制作しなければ」と決心を固めたときに、あらためて阿部さんを撮りたいと思い「災害FMの活動から記録させてください」とお願いしました。

──実際にカメラを回しはじめたのはいつ頃でしょう。

2013年の1月からでした。お会いしてから半年ほど経って撮影をはじめました。

──そのときにコンセプト、もしくは「これは記録しておきたい」と思うことはあったでしょうか。

コンセプトというほどのものではないですが、パーソナリティの阿部さんがどのような日常を送っているか。それを見たい思いがありました。阿部さんのパーソナル……、というとパーソナリティと重なってややこしいですね(笑)。自分が撮りたいのはプライベートな領域よりも、町の人たちの声を聞いて伝える日々の姿だとはっきりしていたので、ご家族のことを訊こうとか、生活のなかに入っていこうとは思わなくて、取材活動やスタジオでマイクに向かって話しているところから撮りはじめました。

©︎ KOMORI HARUKA

──それからも阿部さんの番組をはじめ、災害FMをよく聞いておられましたか?

陸前高田に来てから聞いていましたが、阿部さんと出会ってからはもっと聞くようになりました。災害FMの番組には多くの市民パーソナリティの方たちが出演していました。局の人ではなくボランティア参加で、中学生や障がいを持った人たちもいれば、中国から嫁がれた女性たちに向けた外国語放送もあったり、町にいてもなかなか声を発する機会がないであろう人たちの声が、楽し気な笑いとともに聞こえてきた。町に必要なラジオなんだなと実感して、その現場にも興味を持ちましたが、当時は私もアルバイトをしていたり、『息の跡』の佐藤貞一さんを撮りはじめていたので、集中して番組に密着した撮影ができないまま、2015年4月に阿部さんの番組が終了してしまいました。災害FMも2018年3月に閉局したので、もっとラジオの活動を撮れていれば、という後悔の念があります。

──阿部さんの声や語りは、監督の耳にどのように響いていたのでしょう。

阿部さんの声はやさしいし、何て言ったらいいだろう……、とにかくいい声ですよね。別にプロのパーソナリティになろうとしていた方ではないですが、自分が発する言葉に責任を持っておられました。上っ面で話さずに、ひとつひとつ確かめながら芯にあるものが言葉になって出てきます。聞き手の立場でも、職業的ではない「素の阿部さん」とでもいうような人柄が現れます。語りのモードが入ったときは別人のようでもある。本人だけでなく、色々な人の想いを背負った語りが出てくる声の持ち主だと思っています。

──プロのアナウンサーやパーソナリティと阿部さんのしゃべりを比べると、滑舌などの技術面では差があります。でも、積極的に耳を傾けたくなる何かを持っておられますね。監督はプレス資料に「『わたし』ではなく『わたしたち』という複数の一人称を含む声だと感じていた」と綴っています。

実際に阿部さんが語りかけるときに、「わたしたち」という主語を使うことが多かったんです。ひとりの声ではない、複数の人の声を汲んでというか、阿部さんがそれを感じ取って声にしている感覚がありました。それはたぶん、いま暮らしている方たちのことを想って番組を届けていたことも影響しているでしょうし、その人たちに向けた「わたしたち」という明確な認識があったのだと思います。その生き残った「わたしたち」の向こう側には、「亡くなられた人たち」の存在があります。亡くなられた人たちに対しても、「わたしたちは今こうして生きているよ」と伝える声だったのではないか。それは誰でも伝えられるものではなく、やっぱり阿部さんだからできたことだと感じていました。

©︎ KOMORI HARUKA

──災害FMから退いたあとのインタビューで「噛んだり間違えてはいけないと思っていたけど、どうでもいいことだった」と述べたあとに「人の名前だけは間違えてはいけない」と語られます。そこからもマイクの向こうの人たちへの想像力を強く感じます。それから『息の跡』公開時の取材では、監督に「うつらないもの」に関するお話を伺いました。声の複数性は現実的に視覚化不能です。でもやはり阿部さんの声は、監督のおっしゃる「うつらないもの」を宿しているように思えます。

たしかにそうかもしれません。うつらないけど、阿部さんや災害FMから聞こえていた声からは、色々なものが想像できました。見えないからこそ、その声がリスナーたちに見せてくれていた光景があったのではないでしょうか。そして無くなってしまったものの話をしているからだと思いますが、おそらくひとりでは思い出せなかったことや、自分のなかだけじゃなく、皆が持っていた記憶が集まったときに見えるもの、「ああ、そうだったよね」と思う気持ちなど、見えないものを伝えてくれていたというか、そういうものの存在を露わにしてくれるラジオだったなと感じます。

──阿部さんが黙とう放送について語るくだりがあります。黙とう中は無音になるので、映像に喩えれば何もうつっていない状態です。しかし、そのときにもリスナーには何らかの像が見えていたのではないかと想像しました。そして仮設住宅での取材シーンでは卓上に寝かせるバウンダリーマイクが使われています。阿部さん自身が語っておられるとおり、ノイズを拾いやすく、インタビュー向きのマイクではありません。でも訊かれるほうは緊張せずに話せます。監督がカメラを持って被写体に向かうときの姿勢に似てないでしょうか。

そうかもしれないですね。どうすればカメラを持ってその場に居させてもらえるか。それは私が映画をつくるなかで重要な事柄です。カメラを持って居るのだけど、撮影が主体にもならず、かといって隠し撮りをするわけでもなく、忘れ去られない微妙な距離感やカメラを置くちょうどいい位置を探しながら撮っています。それはたしかに、あのバウンダリーマイクを選ぶ阿部さんの姿勢に重なるかもしれません。

©︎ KOMORI HARUKA

──撮ることよりも、相手との関係を優先するということですね。

それがいちばん大事だし、私はそこに至るまでが本当に長い(笑)。どうしても気軽に撮れないんですよね。人にカメラを向けるのが億劫で、なぜ映像で作品づくりしているのか自分でも不思議に思うことがあります(笑)。そのくらい怖いというか、やっぱり撮らせてもらいたいと思う人は自分が信頼を置ける人で、それまで築いてきたものが、あいだにカメラが入った瞬間に壊れたり、急に被災者と取材者の関係になってしまうんじゃないか、傷つけてしまうのではないかと色々考えてしまいます。「果たして撮っていいものだろうか」という葛藤を経て、決心に至るまでが長いんです。ただ「撮るぞ」と決まったら思い切りはよく、それはもう性格ですね(笑)。

──監督は大阪での『セノーテ』(2019)上映後に作者の小田香監督と対談されました。小田さんが人物を正面から撮る理由のひとつは、自分が気持ちよく撮れる「潔さ」だと取材で伺いました。それは監督が被写体に向き合うときに近いのではないかと対談を聞きながら思いました。アングルの問題ではなく。

小田さんが対象に向かって取ろうとしている距離も、私が目指すものに重なる部分があります。まったく同じとは言い切れないけど、「今・ここ」だけではない奥行きのようなものを、どうやって映像で表現するか。それは自分がずっと考えていることで、小田さんの作品を見てからも考え直しています。

──距離については、『息の跡』は陸前高田に住みながらも「よそ者」の視点で撮られたと伺いました。2015年に仙台へ拠点を移されてから、町との距離感に変化はありましたか?

大きくありました。被災された方の気持ちがわかるかといえば、今でも絶対わからないと思います。でも自分自身が10年近く、長い付き合いのある町に対して感じることが、町の人たちと同じだなと思う機会や町への知識も増えた。かさ上げ工事がおこなわれたときには、町の人たちも私も複雑な想いというか、「これが本当に復興と言えるのだろうか」という疑問を抱えて見ていました。それからまた時間が経ち、今はかさ上げした土の上に新しい町ができて、そこに多くの建物も立って動きはじめています。でも私はそこで暮らす選択をしなかったので、今またわからなくなってきているというか、そのまま住み続けていればきっと違う感覚を持っていたとは思います。私から見える町と、新しい町で暮らし続けていくことを決めた陸前高田の人たちが見る風景や認識は今後また変わる部分もあるだろうし、それは長く見続けるしかないでしょうね。町の人たちと「同じだ」という感覚も、折々のタイミングで近づいたり離れたりするのかなと思っています。

──さかのぼると監督は陸前高田に引っ越される前、2011年4月にボランティアで東北を訪れています。それからの風景も大きく様変わりしていますよね。

変わりましたね。今の町を歩いていると、ふと「本当に陸前高田にいるんだっけ」と思う瞬間があります。暮らしていた町なのにまったく違う場所にいるような、それこそ自分の居た時間も消えてしまったように感じて、はっとすることがあります。それくらい町が変わったんだなと感じます。

©︎ KOMORI HARUKA

──本作は人々の喜怒哀楽を捉えています。といっても誰かが怒っているショットはない。ではどこに怒りがあるかと考えると、インサートされるかさ上げ工事のショットです。いわゆる実景ですが、単なるつなぎのための画には見えません。

そう言ってもらえるのは嬉しいです。実景ショットのための風景撮影はまったくしていません。自分の思考のためや、撮りながらじゃないとわからないものに出会うために、ふとしたタイミングで歩きながらおこなう撮影には「実景を撮っている」という感覚がないので、そう受け止めてくださるととても嬉しいです。たしかに怒りの感情は沸々とあったと思います(笑)。ただ、「怒りってうつらないんだな」と思いました。こんなに怒っても風景に圧倒されてしまう。撮っているときは「これは何だ?」とか色々思っているのに、風景はそれ以上のことを語ってくる。それも含み込んだ、もっと大きな自然の存在や人間を超えたものが感じられます。怒りの感情だけで撮らないようにしようと、撮ったものにまた教えられました。そんなことを繰り返しながら、もっと引いて町を撮れるようになってきたので、風景の撮り方もこれまでとは少し変わっています。特に本作は風景の撮り方が自分のなかで最も変遷していた時期の作品で、その移行が収められている気がします。うまくは言えませんが、多くの人からも「撮り方が変わったね」と言われます。

©︎ KOMORI HARUKA

──風景の変化に連れて、撮るものも変わっているんですね。

今まではずっと町を撮ろうとしていました。そこにあった筈の町やつくられてゆく町。それが山や大地や海、ひいては「そこに地面がある」というふうにベースにあるものが見えてきた、というよりは撮影していてそちらへ目が向くようになりました。撮っているものの中心が町ではなくなってきた。町を撮りながらではありますが、それ以前にあるベースの部分を撮りたいと思っています。きっと、震災前も今も変わらないものが見えるような気がして。新しい町に対して「すごく変わってしまった」と思う一方で、全体を見渡すと「変わらないな」とも感じます。光の当たり方や風の吹き方は一緒だと思えるようになりました。今はその「変わらないもの」を探しています。
1年くらい前までは、地面にこだわっている自分がいました。かさ上げされた12メートルの土の下に埋もれてしまった地面をどうすれば感じられるのか、そこにあった暮らしをうつせるのだろうか。そういったことを考えていましたが、それはやっぱりうつらない。でも本作をつくるのと並行して、阿部さんの亡くなった人たちへの想い──それだけではないと思いますが──を馳せる先が地面より空に向かっていった。すると私も「地面だけじゃないんだな」という気持ちになり、空が見えたときに突然、見えないものを探す視野が開けました。だから今は地面に限らず、空中も含めた空間に何かがうつるかもしれないと思っています。地面より空間のほうが大事だったと気づきました。

──それは先ほどお話しされた「今・ここ」ではないものに通じていると思えます。本作では阿部さんの番組の最終回の様子も見られます。『息の跡』もある終わり、はじまりに通じる終わりをうつした作品でしたね。

そうですね。復興期と呼ばれる時間は、記憶に残りづらい気がします。仮の時期というか、復興するまでをつなぎ止めていた「はざまの時間」だと思うので10年、20年と時が経てば人々の記憶からすっぽり抜け落ちてしまうのかもしれません。そういう時間を残したい気持ちがあって、2作ともその時期が終わりを迎えるときや節目が撮る上で大事なものになりました。狙っていたわけではないし、終わりがくることは撮っていてもあまり実感が湧かなった。でも、もし私が震災の数十年後に陸前高田で生まれる人間だとすれば、その仮の時期に阿部さんや佐藤さんのような人がいて、今の町につながっているのを知りたくなるだろうと想像します。未来の人たちがいつか、おふたりの存在を知る機会があったらいい。それは自分の夢としてあります。

──「仮の時期」とは本当にそうで、阿部さんが震災からの6年9ヶ月を振り返って「夢のなかにいるようだった」と語られます。自分が仕事をしているラジオ局も阪神淡路大震災で全壊して、1年半ほどプレハブの仮設スタジオから放送していました。しかし当時のことを細かく思い出せなくて、阿部さんの感覚はわかる気がします。

やっぱりそれくらい目まぐるしい時期なんでしょうね。皆さんが必死で、一日一日生活するだけでも大変で、先の見えない不安も抱えておられたと思います。そんな時期のことをわざわざ覚えていようとはそのときに意識しないかもしれないし、振り返って思い出そうとしないかもしれない。役割分担ではないけれど、それは外から来た人間が記録するほうがいいのかなと思いました。

©︎ KOMORI HARUKA

──そしてオープニングとラストの画は対照的ですね。冒頭は手持ちの寄りで阿部さんの手もとを追う。ラストは新しく構えた和食店の厨房で働く姿を、少し遠い距離からフィックスで捉えます。

厨房のシーンは2回ほど撮らせてもらいましたが、なかなか思うように撮れませんでした。阿部さんにカメラを向けるまでの葛藤をお話ししましたが、またあのときの状態に戻っていました。しかもラジオパーソナリティではなく、女将さんとして働く阿部さんの姿をどう撮っていいのか迷ったんです。お忙しくしていて、お客さんもいるなかで、カメラを向けることにためらいがありました。その結果、厨房の外の廊下から見える阿部さんをフィックスで撮ることにしました。だから、少し距離を置いて今の阿部さんを見ようという気持ちで撮らせてもらっています。反対にラジオ局のシーンは、プレハブのスタジオに一緒に居させてもらって、映画は阿部さんの手もとのショットからはじまります。でもラストは、もうあの近さでは撮れないことを実感する撮影でもありました。地面に対する撮り方の変化と同様に、働いている姿の撮影も変わっていました。

──オープニングとラストで、そうした時間と距離の変化が示されます。でも、手作業を撮っているのは一緒ですね。

やっぱり好きですね。手が動いている瞬間や身体が動きはじめる瞬間に、その人がどうやって生きてきたのかがあらわれる気がしていて、そういうところを撮るのが好きなんです。

──阿部さんがかつて住んでおられた家の跡地へ車で向かうシーンでも手もとを撮っていて、ハンドルの手さばきから過去の暮らしの記憶が感じ取れました。最後に、タイトルにある「聞く」という営みに対して抱いているイメージをお聞かせください。

撮影しているときの感覚でいうと、話だけを聞くのではなく、その先には今お話しした動きであったり、そこに流れている時間も含めた全体があるように思います。もちろんインタビューではしっかり話を聞きますが(笑)。そうでないときに聞きたいのは言葉だけでなく、発話の仕方や表情です。そのすべてが言葉に限定されないものを語っていて、それを感じたいんです。そのときの光や外で鳴っている音もひっくるめて、相手の話を聞いている感覚があります。カメラにはうつらないかもしれないけれど、私の場合は撮ることそのものが、聞くこととイコールで結べるかもしれません。

(2020年11月 大阪シネ・ヌーヴォにて)
取材・文/吉野大地

『空に聞く』
2018年/日本/73分/DCP
監督・撮影・編集:小森はるか
撮影・編集・録音・整音:福原悠介
特別協力:瀬尾夏美
企画:愛知芸術文化センター
制作:愛知県美術館
エグゼクティブ・プロデューサー:越後谷卓司
配給:東風

映画『空に聞く』公式サイト
Twitter
Facebook

ARCHIVE旧サイトアーカイブ

PageTop