神戸映画資料館

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小林豊規監督作『静かに燃えて』  犬童一心ロングインタビュー(前編)

小林豊規監督(1959-2023)の“デビュー作にして遺作”となった『静かに燃えて』が神戸映画資料館で5月31日(金)に関西初上映を迎える。6月2日(日)にトークで来館する犬童一心監督は東京造形大学の同級生。当時、映画づくりを共にした親友の眼に写る小林監督の姿とその作品の魅力を伺った。インタビュー前編は、在りし日のお互いの映画の記憶をまじえて──。

 


──『静かに燃えて』公式インタビュー動画01で、小林監督の人となりや作品世界を犬童監督が語っておられます。最初の出会いは通学時のバス停だったとか。

大学から帰りのバス停でしたね。同じクラスで、帰るときに一緒になりました。

──そこからどのようにして交流が深まったのでしょうか。

大学では映画と写真の授業があって、そこでしょっちゅう会うようになりました。僕は映画の話をすることのほうが多くて、でも入学直後は映画をたくさん観ている人がそれほどいなかった。そして僕は高校生のときから映画をつくっていたけど、そういう人も少なかったんです。小林くんだけはその時点で多くの作品を撮っていたので、8mm映画をつくる者同士で話すことが出来ました。映画も多く観ていて、その部分でも話が通じましたね。
地方から上京した人はみんな大学入学後に本格的に映画を観はじめます。だから、入学してすぐに映画の話を普通に出来るような人がなかなかいなくて。そんな中、一期上に異様に観ている筒井武文さん、そして同期に小林くんがいるという状況でした。
一期上には諏訪敦彦さんもいたのですが、山本政志さんたちの現場にずっと行っていて学校にあまりいませんでした。

──公式動画01の、犬童監督が中学生のときに『暗殺の森』(70/ベルナルド・ベルトルッチ)をご覧になっていたという逸話も興味深いです。

中学生の頃には既に『ぴあ』が発売されていたので、中1のときに見つけてからはそれで調べて、学校が終われば映画館へ行くようになりました。『暗殺の森』は、車の中にジャン=ルイ・トランティニャン、車窓の向こうにドミニク・サンダがいるスチール写真に惹かれて観に行きました。『フェリーニのローマ』(72)と2本立てで、フェリーニは有名でしたがベルトリッチはまったく予備知識がなく、モラヴィアの原作『孤独な青年』も読んでないし、「フェリーニと、あのかっこいい写真の映画を観られる」という感覚でした(笑)。

──こういうお話を聞くと小林監督はもちろん、犬童監督も都会育ちの少年だったと思えます。

同じ東京でも大きな違いがあって、小林くんが生まれ育ったのは銀座で、僕は世田谷の祖師ヶ谷大蔵。つまり、中心と周縁です。僕の家の周りは撮影所だらけで東宝や大映、日活、特撮は、円谷プロダクション、Pプロもありました。なぜかというと、元々戦前隣の成城駅は別荘地、すぐ行くと多摩川、土地が余った田舎だったからです。祖師ヶ谷から銀座へ行くには新宿で乗り換えて1時間ほど。街がまるっきり違っていて、特に小林くんが生まれ育ったのは銀座のコリドー街だから、映画環境もまったく異なります。どんなに映画が不況でも、銀座は中心だから映画館が無くならないんです。家のすぐそばには日比谷の映画館街。歌舞伎座も近いし、帝国劇場や日生劇場も歩いて7、8分のところにあります。
ずっと離れた祖師ヶ谷の僕が物心ついた頃には近所の映画館はほぼ潰れていて、残っていたのは千歳烏山のピンク映画館でした。記憶に残っている一般の映画館は祖師谷駅にあった〈砧コニー〉で、『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971/岡本喜八)のポスターを貼っていたのを覚えているので、70年代初頭までは残っていたのかな。普通の映画を観るには新宿まで行かないといけない。でも小学生には遠いし、行かせてもらえない。たまに親に連れて行ってもらうことがあったけど、中学生になるまではテレビで観て映画マニアになりました。ところが小林くんはその頃から映画館に行っていた。銀座に住んでいれば映画鑑賞はほぼ習慣で、母親に時間が出来れば子供を連れて気軽に観に行く。そんな環境で、しかも日本最上の劇場です。
中学生になって僕はようやく映画館に通い出します。でもお金が無いので、行くのはほとんど名画座でした。一方、小林くんは小さい頃からずっとロードショー館です。ご祖母は三味線を弾くモダンな人で、着物を着て洋画を観ます。たとえれば小津(安二郎)の『淑女は何を忘れたか』(1937)に登場する御夫人たちのような。そのように家族とも一緒に観る環境にいた彼は、同世代の中でも特殊な映画体験を持っていました。もちろんその後、名画座にも行っただろうけど、僕らの世代で映画鑑賞が日常の文化になっている家族に連れられて、最上の劇場で封切作を観ていた人はほとんどいないんじゃないでしょうか。
僕の場合だと近所に映画館が無いうえに、父がまったく映画を観ずに本も読まない人だったので、基本的に自分で見つけて行くしか術がなかった。

 


──犬童監督は手探りで映画を発見しておられたんですね。

名画座で観るということは、最初から選別が入っているとも言えます。でも僕が小学生の頃は、監督の存在も知らないところから入って、各局の映画枠でテレビ放映する作品をひたすら観ていました。新聞のテレビ欄には監督と主演俳優の名前が書いてあります。最初に「この人はすごい」と思ったのがビリー・ワイルダーでした。そうして教養じゃないところから観はじめて、新聞をチェックすると「面白い」と感じた映画がまた放映されるのを知る。もう一回観なければと思い、そこでビリー・ワイルダーという名前を覚える。そういう順番でしたね。でも彼がどういう監督なのかはわかりません。そして段々と「この俳優はいいな」と感じるようにもなります。〈日曜洋画劇場〉で『荒野の用心棒』(64)を観て、「クリント・イーストウッドって滅茶苦茶かっこいいな」と思っていると、今度は『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン』(66)がシリーズ放映される。淀川長治さんが解説して、「監督:セルジオ・レオーネ」と書かれているのを何度か目にするうちに、「こういう監督がいるんだ」と知っていきました。
それから昼間の洋画劇場で、すごくいい刑務所ものをたまたま観ました。それは『第十一号監房の暴動』(54)で、小学生時代に最も好きな映画の一本になりましたが、「主演:ネヴィル・ブランド 監督:ドン・シーゲル」と書いていても、そのときはまだ名前もただの片仮名に過ぎません。『大脱走』(63/ジョン・スタージェス)を観て今度はスティーブ・マックイーンも好きになり、『突撃隊』(62)を観るとそれもすごくて、また「監督:ドン・シーゲル」と書いてある。一方は偶然観て、もう一方はマックイーンの主演作だからと思って観ると、どちらもドン・シーゲルが監督していた。やっぱりその2本は感触が似ているんです。それが何かというと「暴力」。映画の中にある暴力をちゃんと感じました。アクションじゃなくて暴力を感じられたことが小学生にはすごく大きくて、「この監督は普通じゃないぞ」と(笑)。でも小学生だからドン・シーゲルがどんな人かを知る手段がなく、当時はまだ彼のことを誰もちゃんと語っていない時代でした。
僕はそういう小学生でしたが、小林くんはそれを映画館で体験していた。親に連れられて銀座の劇場で封切られた作品を観て映画を好きになると、次にテレビでも観る。僕とは順番が逆なんです。きっとパンフレットも買ってもらって舐めるように見ていたのだと思います。

──おふたりは同級生でも、映画に対する感性の高まる過程が異なっていますね。『静かに燃えて』の印象的なセリフを借りれば「あべこべ」とも言えそうな。

一緒にいても、まったく違う感じがずっとありました。それから皆が当時言っていたのが、小林くんはジーンズを履かない。本当に履いたことがなくて、大学にはジャケットを着て登校していました。カジュアルなスニーカーも似合わないんですよ(笑)。僕は世田谷で東京のローカルの生まれ育ちだけど、それとは逆の東京ローカルな雰囲気をいつも感じていました。

──公式インタビュー01で、小林監督を軽くない「重いシティボーイ」と称しておられるのも納得です。

雑誌『POPEYE』の影響で、当時はシティボーイというと軽くて風を受けて東京の街を歩くみたいなイメージがありました。でも小林くんは夜の街とも呼べる銀座のコリドー街で生まれ育っているから、東京の中心のシティボーイ。つくられた都会のイメージじゃない、本物の佇まいがありました。重さを持ったシティボーイ。
たとえば両国──今の両国じゃなく、隅田川の手前の浜町辺り──生まれの小林信彦さんや日本橋生まれの青島幸男さんは戦後のモダンを代表する評論家、作家だったけど、根幹は下町の人だと思います。熊本出身の父親が上京したのちに世田谷で生まれた僕からすれば、おふたりの下町感はすごく遠いもの。小林くんもある意味でそっちに近いですね。シティボーイだけど下町の感覚を持っているというか。それぞれ幅が広いので3人を一緒には出来ませんが、やっぱり東京の中心で生まれた人独特の東京に対する愛を自分の中に持っているように思います。小林くんのつくる映画や考え方はずっと銀座に留まっている気がして、『静かに燃えて』からもそう感じました。
大学生になった僕は、多くの映画狂に出会うことになります。入学して一年間は筒井さんがトップでした(笑)。高校生で8mm映画を撮りはじめて、『気分を変えて?』(79)がぴあフィルムフェスティバルに入選したことから、黒沢清さんや万田邦敏さんたち──立教大学のパロディアス・ユニティ周辺──とも出会いました。そういった人たちと比べても、小林くんはまったく異なるタイプだと感じていました。
高校や大学時代に映画を好きになり、本や講義でヌーヴェルヴァーグの存在を知って関連書籍を読むタイプではない。そういうタイプの人たちが抱える問題が小林くんには無かったですね。幼い頃に出会った映画を、自分なりの方法で育んでいった。あとから色んな教養が入ってきても、早い時期に素養が養われていたため、出来上がるフィールドが違うんです。子供のときに家族と銀座の劇場で観た映画を、最後まで拭い去れなかったと言えるかもしれません。そうした体験を持たない僕が彼の映画を観ると、不思議な映画観を味わえるんです。

 


──公式インタビュー03の、「ブレッソン」より『白夜』のお話にも驚きました。そんな風に『白夜』(71/日本初公開は78年)を捉えていた人がいたんだと。

僕はブレッソンをなかなか見ることが出来なかったんです。アテネ・フランセ文化センターでは英語字幕版などを上映していたのかもしれないけど、初めて観たのは『白夜』で、それが最初のブレッソン体験でした。そこでやっぱり「すごい」となりますよね。もし小学生の頃にそうなっていれば、余計な情報が付いてこない。でもそのときにはもうブレッソンのすごさを話せる人が周りにいて、本もある状態でした。
高校生の頃、山田宏一さんや蓮實重彥さんの本の影響で、ヌーヴェルヴァーグが若い世代の映画好きにも身近なものになっていました。1979年にはトリュフォーの『映画の夢 夢の批評』(たざわ書房)が山田さんと蓮實さんの共訳で出版されました。その中でトリュフォーが世界最大の映画作家として、ルノワールとブレッソンを扱っていた。その絶賛を先に読んでからブレッソンを観るようになったために、小学生でビリー・ワイルダーを観たときの「この人はどういう人なんだろう?」という疑問が芽生えないんです(笑)。
もうひとり、ちゃんと映画を観ていた大学の友人も「ブレッソンはすごい!」となっていました。彼ももちろん本を読んでいます。小林くんもブレッソンを語ってくれた。ただ僕らと違って、小林くんはすごくフラットでした。彼にとってはカット割りやその積み重ねなどがすごく好みの監督で、「とてもいい映画だよね」と自然に捉えていました。『カイエ・デュ・シネマ』の呪いにはかかっていませんでした。

──好きな映画の中の一本、ワン・オブ・ゼムという位置づけでしょうか。

小林くんの映画の手法から考えれば、『白夜』は彼に自分の映画のつくり方が間違ってないと思わせてくれる、ずっと8mmでやってきたことを肯定してくれるような一本だったでしょう。でも小林くんはトリュフォーみたいに、ブレッソンを世界最大の作家だとは言わないんです。そう思っていたかもしれないけど、一切表に出さない。彼にとって好きな映画監督とは、本に書かれた言葉などでその人たちを選んだわけじゃなく、小さい頃から観てきた中で純粋に「この監督のこの部分が好きだ」と感じたものが集まっている感じでした。自分にとって余計な言葉を上手に排除していた気もしますね。それは、早い時期から8mmでしっかりした映画をつくっていたことが影響しているかもしれません。大学入学後も何本も8mmで劇映画を撮って、自分のスタイルや好きなつくり方を持っていたから。

──当時の状況を知るために、犬童監督が高校時代に8mmカメラを手に入れてつくられた『気分を変えて?』についてもお聞かせください。キャンディーズの解散コンサート(78年4月)を取り入れた作品です。

僕は自分で映画を撮るときに、「自主映画を観なきゃ」と思って観はじめました。つまり自主映画を観てから自主映画をつくりはじめた。〈ぴあ展〉や様々な上映会で大学生の映画を観るわけですが、それ以前の自主・実験映画の世界には、『HOUSE』(77)を撮る前の大林宣彦さん、高林陽一さんや松本俊夫さんたちがおられました。でも僕が観はじめた頃の大学生の映画は、自分の好きな映画を真似したものが多かった。ニューミュージックブームの影響でそれっぽい画に荒井由実の音楽を乗せた作品や、唐突に銃撃戦をはじめたり、友達を使って撮ったテレビドラマ風の未熟な作品も多かった。そんな中で、僕はまだ誰も知らずにいた黒沢清さんの『SCHOOL DAYS』(78)を発見しました。黒沢さんは圧倒的でした。8mmで撮るなら8mmで出来ることを思考しようと思いました。
黒沢さんは8mmで立教大学の校内を魅力的に撮っていました。その後の『しがらみ学園』(80)もそうですが、大学校舎の使い方がものすごく巧かった。それを観て、自分が普段いる場所で映画的な場所はどこかと考えるようになりました。プロは黒沢さんのように学内で自由に撮れない。自分も8mmカメラでいつでも撮れることを利用して、高校をきちんと使わないと駄目だと思いましたね。
劇映画のつくり方を普通に真似するのではなく、たとえ下手でも違うやり方で撮るほうがいい。それが黒沢さん──黒沢さんは元々とても巧い人ですが──の映画に顕著に表れていました。そして、時代を映す。黒沢さんは内ゲバの終わらない大学の学内抗争を映画に取り入れていた。『SCHOOL DAYS』は、72年に早稲田大学で起きた川口大三郎さん事件から5年ほど後に撮られています。その時代の出来事や自分の居る場所を映画に入れればいいと考えて、『気分を変えて?』が生まれました。10年前の若者はベトナム反戦運動、70年安保で盛り上がっていた。しかし10年後の78年、若者の今を象徴するものがキャンディーズの解散しかなかったんです(笑)。「10年ってすごいな」と感じたことが『気分を変えて?』に繋がりました。

 


──大学時代の小林監督はどのような映画をつくっておられましたか?

『静かに燃えて』の短縮版と言えるかもしれません。89分の『静かに燃えて』のテイストを20分なり30分なりにした短編で、画の積み重ね方や音に対する感性、ユーモアの質、人間関係の描写や登場人物の数などは基本的に同じですね。観直していないため正確に反芻できないですが、『静かに燃えて』は8mm映画『マルボロの香り』(82)がもとになっている気がします。『マルボロ』は女性同士の恋愛を描いた映画ではないけれど、それを長編にしてつくり直した印象があります。

──そこで既に手法を確立されていたんですね。『静かに燃えて』の原型が大学時代にあったとは。

大学1年のとき、小林くんが高校時代か大学入学後すぐに撮った8mm映画を観ると、とても的確にカットを割ってドラマを進めていました。それで2年になり、自分が16mmで映画を撮るときに撮影を頼みました。

──大島弓子さんの漫画が原作の『赤すいか黄すいか』(1982)ですね。

そうです。僕はそれまで『気分を変えて?』以外はほぼ撮っていませんでした。『赤すいか黄すいか』は原作のストーリーを語っていくので、そのために画を積み重ねないといけない。そういう映画制作は初めてだったから、それをこなせる人に手伝ってもらわないとまずいと思って。学内で探すと、その頃は自分で撮影も手掛けていた小林くんがいちばん上手で依頼しました。

──それから約40年後に小林監督のデビュー作『静かに燃えて』が公開されることになります。犬童監督は制作について何か聞いておられましたか?

僕はまったく聞いてなくて。筒井さんは撮影前にシナリオを読んでいたそうですね。そのあと作品が出来上がってから公開までにだいぶ時間がかかっています。小林くんは還暦を前にして初の長編劇映画を撮ることを、大々的に周囲に公言したくなかったと想像しています。皆に「つくるんだ」と言って協力を仰ぐ形にしなかったのは、一種のダンディズムというか。とにかく完成させるまでは周りの人たちに言わず、隠すようなスタイルをとったと思います。

──映像のお仕事をずっとされていたとはいえ、その年齢で初の長編を撮ることになったのも、小林監督固有のダンディズムが影響しているでしょうか。

影響はあったと思います。大学卒業後は、映画をつくる行為が仕事のために難しくなった。僕よりも小林くんのほうが映画監督という職業に強い思い入れがあったと思います。僕は大学を出るときは、映画の世界へ進みたい思いは強くなかったんです。就職してCMを制作していた流れで、当時のデジタル技術でアニメーションをつくるとどうなるだろうと思い、仕事と並行してつくったのが短編『金魚の一生』(93)でした。卒業から制作に取り掛かるまでに7年ほど経っていて、そのアニメーションで賞金とスカラシップをもらったので次に長編『二人が喋ってる。』(95)を撮ることになりました。『二人が喋ってる。』はスカラシップが無ければつくってなかったと思います。仕事をしながら長編をつくるには相当な決心が要りますからね。
小林くんはもっと映画監督に強い思い入れがあって、つくるならきちんとしたものを、という思いがあったのではないでしょうか。いい作品に仕上げて評価されることは彼にとって重要だっただろうし、50代の終わりに差し掛かってデビュー作をつくろうと思い立ったきっかけはわかりませんが、ここで撮っておかないと一生撮れないと考えたのかもしれません。
(インタビュー後編に続く)

(2024年4月29日)
取材・文/吉野大地

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