小林豊規監督作『静かに燃えて』 監督補・夢乃玉堂ロングインタビュー(前編)
一軒のテラスハウス、同居するふたりの女性、隣人の姉妹──シンプルな要素で映画のマジックを最大限に発揮した小林豊規監督のデビュー作『静かに燃えて』。5月31日(金)の神戸映画資料館公開にあたり、監督と長年の協力関係を結び、本作の監督補も務めた夢乃玉堂さんのお話を伺ううちに、新たな作品像が浮かび上がった。いかなる思考と過程のなかからこの映画は生まれたのか?
Ⅰ
──夢乃さんも東京造形大学のご出身だと伺いました。小林監督との出会いを教えてください。
小林監督とは造形大の映像クラスが同じで、そこで出会いました。最初の授業で前の席に座っていたのが小林監督。そばには犬童一心監督もいて、「5、6人でグループをつくってください」と言われて一緒になったんです。
いきなり話が逸れますが、クラスでAB型じゃない生徒がたまたま僕らの席の周りに集まっていました。なぜか、僕が普段緊張してしまう人は軒並みAB型です(笑)。AB型はだいたい10人にひとりの割合と言われますが、そのクラスはほぼ半数の生徒がAB型でした。入学後、だいぶ経ってからそのことがわかり、「こんなこともあるのか、珍しいな」と思いながら、お互いに相手を変わり者と認識していました(笑)。
──自分にはない経験で、そのようなエピソードを耳にするのも初めてです(笑)。
僕はそういう巡り合わせが多くて、卒業後、ある制作会社に出入りしていたときも10人中8人がAB型でした。血液型占いはあてにならないと言われますが……、これはちょっとした伏線で……。
出会いに話を戻すと、クラスのグループ内で自己紹介すると、小林監督は銀座生まれの銀座育ち。僕は和歌山から上京して、銀座には大都会のイメージがあったため、初めて交わした言葉が「銀座って人が住めるの?」。失礼このうえないですよね(笑)。彼は笑いながら「もちろん」と答えてくれました。そこからしばらく映画の実習などで一緒になり、中学時代から8mm映画を撮っていたことを聞きました。犬童監督がインタビューで話していたとおり、映画の話で皆が繋がっていきました。
ただ、僕は小林監督や犬童監督のように多く映画を観ていなくて、映像の面白さ、いわゆる特撮が好きで入学しました。それもミニチュアをつくるよりは、ソラリゼーション──露光過多による白黒を反転させた映像──や、円谷プロが『怪奇大作戦』(68-69)で使っていたようなフィルムのエフェクトをやりたかった。とはいえ、その頃の8mmは当然リバーサルフィルムしかなく、撮ったフィルムは現像所に出すしかない状況でした。ただ、入学した時期に、ある映像系の雑誌に「8mmフィルムの自家現像機」の記事が載っていました。直径40㎝くらいの現像タンクで、なかには渦巻に溝を切ったリールが入っています。そこに50フィート(約15m)の8mmフィルムを写真の現像タンク同様にぐるぐる巻いていきます。そうして8mmフィルムを自分で現像できる現像機でした。これがあれば自分のやりたいことをやれる。製造している新宿の小さなアパートを訪ねて、1ヶ月分くらいの生活費をつぎ込んで手に入れました。
使ってみると、とても面白かった。フィルムをモノクロにしたり、紫色に染めたり、もちろん反転もやりました。ほかにも多重露光や色々な合成方法を試したり、下宿の窓に穴を開けた黒紙を貼って宇宙空間をつくり出したりしていました。その後はアニメーションを取り入れた、いわゆるライブアニメなど少し変わった映像をつくっていました。
──当時はそのような機材があったんですね。
8mmの自家現像機はそのアパートにあった会社が自社開発したもので、雑誌の記事にはなったけど、大手の流通にも乗らなかったからそれほど売れなかったのだと思います。15、6年後に再び訪れると、会社はなくなっていて、今ではもう手に入りません。当時はほかにそういう機材がなく、面白くてずっといじっていました。
そんな自分の創作の傍らで、当時人気だったヌーヴェルヴァーグや作家性の強い映画監督のことなどは、犬童監督や小林監督の話を聞いて吸収させてもらい、同時に名画座などで映画も観て、2年のときには犬童監督の『赤すいか黄すいか』(82)を少し手伝いました。
そこでカメラマンだった小林監督がしばらくして「自分も16mmで1本撮りたい」と言い出して、その作品にもスタッフで参加したものの、完成しないままでした。『静かに燃えて』が出来上がったときに、その映画も一緒に完成させて、同時上映は無理でも何らかの形で発表できれば、と話していたんです。でも、結局完成には至りませんでした。
──それは観てみたかったです。
惜しいですよね。素材は揃っている筈だから、仕上げることは不可能ではありません。彼のパソコンのどこかにデータがあって、編集もある程度終えていると思いますが……。
──「たられば」はないと言いますが、ご存命ならと考えてしまいますね。
小林監督の場合は『静かに燃えて』が公開されて、これからというときだったのが、最大の「たられば」ですね。本当に惜しい。
Ⅱ
──小林監督と犬童監督は、卒業後にCMの世界に進まれました。夢乃さんは?
僕は小さな制作会社に入って、プロモーションビデオなどをつくっていました。当時の造形大は、卒業後に助監督を経て映画の道へ進む人が少なかったんです。下積みを重ねて階段を上がっていこうとする人は逆に珍しかった。個人的な印象ですが、縦社会でのし上がるより、自分のアイデアで一本立ちできる方面に行きたい。そういう志向を持った人が多かったように思います。
──その後も小林監督との交流は続いていたでしょうか。
続いていました。ただ、社会人になると忙しくて、会社の近くに来たから寄ったとか、同窓会で顔を会わせたとか、年に一、二度会う程度でした。会うたびに制作したCMやドラマのタイトルを聞いて、羨ましいなと思っていました。その後、2005年頃に僕がある制作会社の役員になり、JTBのCMなどを請け負ったとき、「コマーシャルなら小林監督がいちばん信頼できる」と引っ張り込んで、それ以来テレビ番組をつくってもらうなどして、密な付き合いが始まりました。
2017年頃から、小林監督のなかで「やっぱり映画をつくりたい」という想いが沸き上がってきたようで、温めていたコンセプトやシナリオの話をよくしていました。その頃の彼は2本の準備稿を進めていましたが、それは『静かに燃えて』とは全く違う企画でした。
記録を見ると、『静かに燃えて』の舞台となるテラスハウスへ下見に行ったのが2018年5月26日。その前、確か1月か3月に一度シナリオの打ち合わせをしています。打ち合わせで色々なアイデアを出していくなか、5月に『静かに燃えて』の主な舞台であるテラスハウスへ行くことになりました。あの家は、僕が住んでいた『静かに燃えて』のロケの中心地となる町にあり、元は母親の住まいでした。母が2015年に亡くなり、長らくたくさんの荷物が入ったままでしたが、空き家にしていても仕方ないので、「もし企画中の映画の撮影に使えそうならどうぞ」と提案しました。
それでテラスハウスを見てもらい、「家の並びが面白い」とか話していると、小林監督が「この部屋に合う話をふたつ持っている」と言ったんです。打ち合わせしていたシナリオのことかなと思ったら、全然違う話だった。ひとつは女性同士の恋愛、もうひとつは同居する姉弟を軸にした物語で、それぞれ独立した映画として彼は考えていました。
──では4本の構想を持っておられたということですね。
そうですね。ほかにも幾つかあったと思いますが、テラスハウスに合う話はふたつ。ただ、小林監督は「それぞれが40分くらいにしかならない。アイデアを加えればいいけど水増しにはしたくない」と考えていて、「じゃあふたつを足してみれば?」と提案しました。
それでも、お隣さんの話ではありふれてしまう。「だったら縦にしてみてはどうだろう」とアイデアを出しました。僕の頭にあったのは、エディ・マーフィが出演した『おかしな関係』(84/ウィラード・ハイク)。『ビバリーヒルズ・コップ』(84/マーティン・ブレスト)で彼がブレイクする前の映画で、『ビバリーヒルズ』人気にあやかって公開されたんです。大きな宣伝もなく、ガラガラの劇場で観ました。小林監督は観ていなくて、「こういう映画があるよ」と。
エディ・マーフィが演じるのは新型戦車の車長。その一方で、戦車に搭載して命中率を高める「DYPジャイロ」システムの開発が描かれる。並行して進む物語にはある仕掛けがあって……、という映画です。それから、「秘めた想い」ということで、『マディソン郡の橋』(95/クリント・イーストウッド)の話もしました。というか、したらしいんです。
──というのは?
『静かに燃えて』が2023年10月に下北沢トリウッドで公開された際に小林監督と話していて、「よくこんな話を思い付いたね」と言うと、「君が言ったんじゃないか」と逆に突っ込まれて。自分はすっかり忘れていて、シナリオのメモなどを見直してみると、確かにそう言っていました(笑)。
提案を受けて小林監督は「それは面白い」と思ってくれた。そして、ずっと温めていた短編2本のシナリオが1本の長編になるかもしれない、それにロケ場所を無料で借りられることで気持ちが一気に高まった様子でした。あとの2本は後回しにして、女性同士の物語と姉弟の物語で撮ろう、と。
──『静かに燃えて』が、元はふたつの物語だったとは想像していませんでした。その後の進展を教えてください。
何度かやり取りをして、準備稿をもらったのが6月7日。テラスハウスに行ってから2週間弱ですね。そこでまた話をして……、よせばいいのに、僕が細かいことを色々言ったんです。準備稿でまだ練り込まれてないにもかかわらず、「このあたりのテンポが遅い」「ここでキャラクターを立てないと」というふうに。最も小林監督の逆鱗に触れたのは、あるパートの展開に関してで。「使い古されたギャグネタに見えるから、別の手を考えたほうがいいんじゃないか」「そのあとのカットもなくていいのでは」と、重要なポイントに意見すると、一度ものすごく険悪な雰囲気になりました。「添削されたくてやってるわけじゃない」と(笑)。
──あの展開は素晴らしいですが、シナリオの文字だけ読むと古めかしいギャグに見えるのもわかる気がします(笑)。
小林監督の立派なところは、激昂してもそんなことで映画を潰すのはおかしいと考え直すところ。それにテラスハウスの空き部屋は、次の年には賃貸に出そうと決めていましたから、撮影するとしたら時間は残り半年ほど。それも含めて、やっぱり「これは面白いからやりたい」と話がまとまりました。
こちらの意見を受け入れた部分があっても、やりたいことをしっかり貫いて、決定稿は準備稿からあまり変わっていません。準備稿に追加したシーンは3つか4つ程度です。照らし合わせると、決定稿でわざわざ追加して実際に撮影までしたカットを、編集する段階で抜いて、準備稿のテンポに戻した箇所もあります。
だから、最初に着想したときに時間軸のイメージがきっちり固まっていた。「この構成で、ここにこのカットを入れれば観る人はこう受け取るだろう」と彼は読めていたんでしょうね。
──色々想像しても、この映画はどこから着想したのかわかりませんでした。夢乃さんが執筆された劇場パンフレットのプロダクションノート*でも触れておられますが、家が大きな着想源だったんですね。
*「叶わぬ恋ほど純粋なのだ」──映画『静かに燃えて』が密かにやらかしている事──(下北沢トリウッド公開時のパンフレット)
観てくださった方のなかに「これは家の映画じゃないか」と感想を述べている人がいて、ある意味ですごい見方をしてくれているなと思いました。小林監督が、あのテラスハウスを見て結び付けたアイデアがそこに収まっていたので。
彼は、おそらくその場で映画の構造をある程度決めて、一発書きのような形で準備稿を上げてきたと思います。全体の構成に揺るぎがあまりなく、探りながら書いた印象がない。見せたいもの、必要なことが明確で、「観客をこの方向に導くためにはこの映像が要るだろう」という捉え方で組み立てたのだと思いますね。
──短期間で準備稿を書き上げた力もすごいと感じます。
ふたつの物語やアイデアを見事にあの形に昇華させたのは、やっぱり小林監督の力量です。でも、学生時代の彼のシナリオは、それだけ読むとどこが面白いのかわからないとよく言われていたんですよ。ある教授には「こんなにつまらないシナリオを書く人間が世のなかにいるのか」とまで言われて(笑)。
──ちょっと信じられないエピソードです(笑)。
16mmの撮影機材を借りるのには教授のハンコが要る。そのためにシナリオを見せると、教授がそう反応しました。そのあとに、この話を彼は覚えているかな……、犬童監督がその教授のもとへ小林監督の8mm作品を何本か持って行き、「たとえシナリオはそうでも、仕上がるとこんなに面白い映画になる」と説得してハンコを押してもらった。僕はよく覚えているけど、小林監督に訊くと「そんなことあったかなあ」って(笑)。犬童監督がそうしてサポートしていたのはすごいことだと思いました。当時はそれぞれが自分の映画づくりで忙しいのに、意外に(笑)いい人だなと感じた憶えがあります。
Ⅲ
──小林監督の大学時代の作品『マルボロの香り』(82)はご覧になりましたか?
当時見せてもらいました。
──犬童監督が、『静かに燃えて』との共通点を挙げておられます。夢乃さんはどのような印象を抱かれたでしょう。
女性同士の伝えきれない想いという部分は、『静かに燃えて』に通じますね。女性のそうした感情を描いた映画って、その頃はまだほとんどなくて、奇抜な発想に近い印象がありました。『マルボロ』にはもちろん性的描写はなく、女性の日常のなかのちょっとした心情を伝える作品でした。とても丁寧に映画をつくる人だと思いました。それにその頃は彼の映画の好みや、犬童監督が指摘する「ダダ漏れする性癖」を知らず、すごい視点を持った作品だと思いましたね。
──その頃、明確に同性愛を打ち出した作品に、矢崎仁司監督の『風たちの午後』(80)がありました。しかし犬童監督のお話から考えると、『マルボロ』はだいぶ趣の異なる作品だったのでしょうね。
最近の同性愛を題材にした映画とも異なるタッチで、同居するふたりの距離感を描いていました。ひとりが故郷へ帰ることになり、別れが来たときに初めてお互いの心に抱えていたものが滲み出て見える。そこで告白するような物語じゃなく、つぶさに観ていけばふたりの感情を汲み取れる作品でした。日常のちょっとした光景を積み重ねた組み立て方で、油断して観ると消化できないまま終わってしまうつくりでした。
──犬童監督がおっしゃるように、『静かに燃えて』の原型的な作品でしたか?
イメージとしてはそうですね。人物の心理や距離感、つくり方は原型だと言えます。ただ、『静かに燃えて』はキャラクターが昇華されて、『マルボロ』の「どちらからともなく」という曖昧さがなく、もっとはっきりしている。容子(とみやまあゆみ)の圧に近い感情を、由佳里(笛木陽子)が受け止めきれないところがあります。そうした人物の能動性は、『マルボロ』とはかなり異なっています。
女性同士の関係は小林監督の好きな要素で、でもさすがに学生時代は出演者にあのような性的演技を頼めない。そこを出来る範囲で映画に落とし込んでいたのが、今回は堂々と描けるということで、性癖がダダ漏れする世界に入っていったのかなと思います。
映画的な構成の面白さを着想して、そこに自分の好きな世界を取り込んでいった。でも逆に、「女性同士」の要素でカモフラージュしているところさえあるんですよ。
──映画の本質は別の部分にもあるということでしょうか。
最初に準備稿を読ませてもらったときに、「このシナリオは難しいね」と言いました。書き方が難しいという意味じゃなく、非常にわかりやすく書かれていたけど、この映画を広く売っていくのが難しいと感じたんです。シナリオ上でいちばん重要で魅力的な部分を伏せて宣伝するにはどうすればいいのか、それが難しいと伝えました。
──確かに『静かに燃えて』が持つジレンマですね。昨年の公開時は、いわゆる「百合映画」の面をさほど強くない程度に打ち出されていた印象があります。
観てくれた人は「あ!」と感じるだろうけど、それを最初に言ってしまうと楽しみを奪ってしまいます。じゃあどうすればいいかと考えた末に出てくるのは、やっぱり「女性同士の恋愛物語」になる。その部分を前面に出して、小林監督もそれならいけそうだという話になりました。でも、本当に狙っていたのは映画のマジック的な構造です。売り方に関しては彼自身も苦労して、昨年の公開前は宣伝ツールにどこまで盛り込むかを迷っていました。公開後も観た方が面白さを損なわない形──ほかの人の楽しみを奪わない形──で、口コミで広げてくれたのは、すごくありがたかったです。
──準備稿の時点でこのタイトルでしたか?
そうでした。それも少し弱いんじゃないかと思って。もっと引きのあるタイトルがいいと言いましたが、結局これでいくことになりました。全体に、静かに燃えている情念が描かれているから、その通りのタイトルだなと。
──女性映画としても見事な出来栄えですが、それだけでは語り尽くせない魅力があります。
先ほどもお話ししたように、「百合映画」のフィルターを乗せることで、観る側もそういう映画とわかっていれば身構えないでしょうし、実際にそう観てもらっても構わない形になっています。でも一歩引いて、「もし男女の話ならどうなのだろう」と考えてみました。一方が静かで強い圧をかける、もう一方は自由に生きることを望んでいる。もしかしてこの構図って、古女房が旦那を追い詰める、もしくは、長い春のカップルがなんとなくギクシャクしはじめる構図に置き換えられるのではないかと気がつきました。
百合映画に見せているけど、実は違う。小林監督の心のなかにあったのは、このプレッシャーをかけてくるということだった。容子に行動をチェックされて由佳里が発するセリフ「息が詰まりそう」で、それに気づきました。そこでふたりの関係に軋轢が生まれるけど、ちょっと待てよ、と。
美大の同級生だった友人・佐野(榛原亮)が、自分の工房を訪ねてきた容子と言葉を交わすシーンがあります。あのやり取りから逆算すると、佐野は容子のことをある意味で人一倍わかる立場で、過去も知っている。だからこそ、由佳里にプレッシャーをかけると理解してもらえないことを容子に伝えようとした。LGBTの観点からだと、「相手に理解されない」「わかってもらうには時間がかかる」くらいのアドバイスの筈なのに、彼があそこでああ言うのは、容子が過去にも同じような失敗をしていたと読めます。
小林監督の主眼は最初から──性差を問わず──そうした人間関係の軋轢にあったと思います。そこに自分の好きな同性愛のフィルターを乗せて、宣伝も含めたミスリードで最終的には映画の構造でハッとさせる。それを目指していました。極端な話、構造に驚いた人は百合の要素はどうでもよくなるかもしれないし、構造を知ることで美しい百合の物語に見えるようにもなる。そこもスマートな知能犯みたいで巧いですよね。僕はずっと横にいたのに、彼はそんなことを微塵も話さずにいました。
──夢乃さんが監督の狙いに気づかれたのはいつでしょう。
確信に変わったのは、池袋シネマ・ロサの上映後トークのときでした。犬童監督が「監督はどのように演出していましたか?」と問うと、とみやまさんは「具体的な演出はほとんどなかったです」と答えていました。
ある動きに対して秒単位で指示するなど、画面上の細かい演出はしても、人物の心情について深い説明はしなかったようです。「女性を好きになるキャラクターならこう演じるべきだ」といったことは言わず、役者のキャラクターそのものを活かして、それを撮っていきました。
──先ほどの容子の過去の推察を伺って思ったのは、彼女がある行動を踏みとどまる描写があります。あれは理性が止めたというより、苦い記憶が作用した可能性もありますね。
トラウマとも解釈できて、それがこの映画の面白いところですね。百合映画として観ていると、日常描写が多くて何か怪しさを感じる。すると終盤で種明かしがあって、一気にまくし立てる展開に移ります。そこへ持っていくために、日常の人間関係でも普通にあるような精神的な抑圧や軋轢の描写を積み重ねています。女性同士、あるいはLGBTだったら、という特別な描き方をしていません。
百合のフィルターを被せても、描いているのは誰にでも起こり得る人間の関係性。だから最後に、あの構造がもたらす映画的な魅力を感じられる。もしこれを最初から百合映画としてつくっていたら、「ちょっと変わった編集の百合映画」になっていたでしょう。そうじゃなく、それぞれの人物の感情が誰にでも腑に落ちるようになっています。だから最後の盛り上がりが観る人に大きく伝わる。これはあくまで僕個人の感想ですが、全体の構造を見ると小林監督はそれを狙っていたと思えます。
観た方の感想でも、「自分は男と女の恋愛だったけど、相手に伝えられない想いに心がリンクした」という感想ももらいました。興味深いですね。容子と由佳里の──百合映画っぽい──話だけで89分の映画にしていたら、このように観客が自分に寄り添った感覚を覚えなかったかもしれません。
──犬童監督が「小林くんは自分事として撮っている」と指摘されていました。観客にとっても他人事で終わらない映画を目指されたのかなと思います。
他人事にならないように、由佳里の「息が詰まりそう」や容子と佐野との会話など、随所に鍵となるセリフを散りばめています。観客が自分自身に引き付けられるように映画に落とし込んでいる。これは準備稿の段階でかなり意図されていました。
Ⅳ
──続けて演出に関してお聞かせください。小林監督はとみやまさんと笛木さんに、そうした意図まで伝えておられたのでしょうか。
「この映画はこういう人間の物語だから」といった細かな説明はしなかったようです。役者が自分で考えて演じてくれればいいと考えて演出していました。余程イメージと離れた動きをしない限りは修正しない。演出は動きが中心で、役者が何をやるかについてはほとんど意見を出さずにいたと思います。
──何気ないシーンでも繋ぎを的確に重ねる、動きの演出を丹念に付けていますね。
動きに関してはそうでした。たとえば振り向くときに、「あと3秒かけてゆっくりと」「角度はこれくらいで」というふうに、とても緻密に演出していました。でも、よくある「親しい人のことを想像して泣いてみてください」「目の前にいる人を嫌いな人だと思って横を向いてください」という類の演出は、僕の見た限りではしていないと思います。どういう気持ちで演じるかについては役者に委ねて、動きのほうに気を配っていました。
「委ねても大丈夫。シナリオを読んでキャラクター構築してくれるだろう」と役者陣を信頼していたと思います。役者が本来持っている資質と極端に違うものは求めませんでした。主演のふたりもそうだし、妹弟役の原田里佳子さんと蒔苗勇亮さん、催眠術講師・剣持要役の金剛地武志さんに対しても同様です。ただ、期待するものは一応伝えていたようですね。舞台挨拶で金剛地さんが、催眠術ワークショップで眼鏡をキザっぽく触る仕草は監督からのリクエストだと話していました。それだけで観る人にキャラクター像が伝わるし、そのように演出すれば、役者陣もキャラクターづくりのコツを掴めます。そうした役者との信頼関係のうえで、画面の繋がりを考えて細かい動きを付けてゆく。
──筒井武文監督もインタビューでお話しされていましたが、観ていて窮屈さを感じないのは、そうした演出の成果ですね。
役者にも様々なタイプの人がいます。何も言ってくれないから不安になる人、あるいは自由にキャラクターを構築できるという人もいるでしょうが、たとえば笛木さんは映画の経験が少なく、現場は不安だったと思います。そこに具体的な演出がないと不安に輪をかける形になる。ただ、彼女が抱くその不安が──由佳里の不安として──うまく映像に写り込むように、と考えていた気がします。
──ドキュメンタリーに近いアプローチです。
由佳里の根底にある、家族を失ってからの不安を、過度に演出しないことで巧く見せようとしたと思います。演技経験の少ない人に、「彼女は家族を失くして不安になった人物だ」と詳しく説明すると、意識がそっちへ向かい、迷走して硬く暗いキャラクターになるかもしれない。それを避けたかったのだと思いますね。
小林監督は、そのように役者本人が持っているものを絡めた演出をおそらく全編を通しておこなっています。そのイメージに収まる人はなかなかいないので、オーディションには結構時間がかかりました。
──映画制作にアクシデントはつきものとはいえ、撮影が始まってからもあれこれ大変だったそうで……
出演予定者がひとり直前にキャンセルして、スケジュールがテレコ(入れ違い)になったり……。当初は、姉弟のシーンを先に撮る予定でした。翌年の引っ越しのため、部屋に荷物がたくさんある物置状態で撮れるので。最初の香盤表では、そのあとに容子と由佳里のシーンを撮るつもりでした。ところが直前でキャンセルが出てしまった結果、姉弟のシーンの撮影が後になりました。
──シネマ・ロサのトークで知りましたが、初日の最初の撮影は、後半のクライマックスシーンだったんですね。
難しいシーンから撮り始めました。いま考えても、あれはちょっとわかりかねるところがあります(笑)。でも、現場の香盤表はすでにそうなっていました。お伝えしたアクシデントが直前に起きてバタバタしたのに、「それでもここから撮るのか」と思った記憶があります。構造上、順撮りといえば順撮りになりますが、映画の流れでは後半にあるシーンですよね。疑問を抱いたけど、撮影が始まれば気にしていられないので撮り進めていきました。
小林監督に確かめていませんが、由佳里の不安を絡めた演出と同様に、とみやまさんと笛木さんがまだ打ち解けていない距離感を、容子と由佳里の関係性にリアルに活かそうという狙いがあったのかもしれない。いま考えるとそういう気がします。
──それでもハードルの高い撮影でしたね。
大変でした(笑)。メインのふたりもシナリオを読み込んで、どう演じるかを相当考えて現場に臨んだ筈です。でも、小林監督は初日の距離感を重視して、あの撮影順にしたかもしれません。
普通はそう考えないですよね。撮影を重ねて、いいパフォーマンスを引き出せる状態になって撮るようなシーンなのに。彼は役者の力だけに頼らず、香盤も含めた距離感の演出をしたのかもしれません。オーディションや打ち合わせ、衣装合わせを進めながら、このふたりの関係性ならどうなるかを読んだ。今となれば、そう捉えるほうが腑に落ちますね。
(2024年5月7日)
取材・文/吉野大地
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