神戸映画資料館

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資料から辿る自主上映史①

神戸映像アーカイブ実行委員会では、2022年度より「資料から辿る自主上映史」という事業に着手している。「観たい映画を自らの手で上映する」ための自主上映の活動は、一般の商業映画館とは異なるスペースを借り、映画館では観られない多様な作品を上映する場を築いてきた、市民による草の根的な映画文化と言える。しかし、各地で勃興した自主上映の活動を伝える資料は散逸しかけている。本事業は、その発掘と整理・保存を行い、地域の豊かな映画文化の地層を明らかにしようとする試みである。

 

神戸発掘映画祭2022で行われた「追悼・関西ゆかりの映画人 小池照男」でのトークの模様に加筆・修正したテキストを採録する。
実験映画作家の小池照男氏(1951-2022)は1970年代から関西で自主上映活動を続けてきた。語り手の田中晋平は、生前の小池にロングインタビューを敢行しており、また小池氏から神戸映画資料館に寄贈された上映活動の資料の整理作業を進めている。採録したトークは、上記のインタビューと資料整理に基づき、小池氏の半世紀に及ぶ関西での活動の意義を伝えるために行われた。

 

再録
神戸発掘映画祭2022
追悼・関西ゆかりの映画人 小池照男
トーク:田中晋平
(神戸映画資料館研究員)

今回の追悼上映会を企画した、神戸映画資料館研究員の田中と申します。ここから少しトークの時間を設けたいと思います。お付き合いください。おそらく、今日お越しのみなさまのなかには、私などより小池照男さんと非常に長くお付き合いがあった方々がご参加されているはずです。私にお話できることなど、ごく表面的、かつ一面的な事柄にすぎませんが、晩年に短いながら濃密なお付きあいをさせていただいたご縁があり、小池さんからのご恩に少しでもお返しできればという想いで臨んでおります。温かく受け入れていただければ嬉しいです。
さて、私と小池さんの関係なのですが、深いお付き合いがはじまったのは、2018年です。その年の春から毎月、塩屋にある小池さんのご自宅を訪ねてインタビューをさせていただくことになりました。何を小池さんにお尋ねしたくて、頻繁にお邪魔したかというと、小池さんの実験映画、先程ご覧いただいた「生態系」シリーズなどをどのように作られてきたのかといったこととは違っていて、実は1970年代から小池さんが関西の地で続けて来られた映画の自主上映活動について、資料も拝見させていただきながら、詳しく伺いたいということでインタビューをいたしました。
この「自主上映」について、少し説明をすると、映画というのは、もちろん一般の商業映画の場合は、映画館に行って観ることができるし、ビデオやDVD、いまならインターネットのサブスクリプションとかでも容易に鑑賞できるわけです。けれども、小池さんたちが手がけてこられた「個人映画」や「実験映画」と呼ばれる作品は、特別な場を誰かが設定しないと、なかなか見る機会が訪れないものでした。そういう場を何とか設けてでも観たい映画があること、あるいは自分たちが制作して、いろいろな人たちにみせたい映画を上映する、そのためにインディペンデントな上映の活動が重ねられてきた歴史があるわけです。
ですから、小池さんのような実験映画作家の方々は、自分たちの映画を見せる場所をつくるということを、創作活動と並行して行ってきました。資料によると、小池さんは1974年頃から映像制作をはじめたわけですが、いわばその半分は、自分の制作した映画や見せる場所を確保する活動だったとも言い換えられます。そして、後で説明するように、小池さんという人は特に、自分たちが作っているような実験映画を上映する場をどのように維持していくか、その取り組みを持続させることに強い使命感を抱かれていました。さらに映像制作と並行してこういう上映活動を続けてこられたことが、たくさんの仲間との出会いにも繋がっていったことが重要なポイントです。
小池さんの上映活動の歴史を追いかけると、大きく三期に分けることができます。まず、その前史ということで触れておかねばなりませんが、神戸大学の在学中に、小池さんは建築の仕事で、イランに行かれていました。この滞在時にイラン革命に遭遇されたことが、決定的な体験だったと、のちに何度も語られています。ご存知のように現在(2022年10月)、ヒジャブの着用をめぐって、当局に拘束された女性がその後死亡したことを受け、イラン全土で抗議の声が上がっているわけですが、44年前の革命をご存知の小池さんが生きておられたらどのように思われだろう、と想像を巡らせてしまいます。
そして、イランから帰国されて本格的な作家活動に入るわけですが、それと同時に、友人の奥田修たちと、まず《コズミック・キャラヴァン》というグループを1980年に結成して、神戸を中心に自主上映を行っています。インタビューさせていただいた際、この《コズミック・キャラヴァン》の活動のなかで、実験映画のコレクターでもある佐藤重臣からスタン・ブラッケージの『モスライト』(1963年)のプリントを借りて上映した時、大変影響を受けたというエピソードを伺いました。
次に小池さんは1983年、平田正孝や瀬々敬久といった仲間と、《ヴォワイアン・シネマテーク》というグループを結成し、上映活動を行っていきます。京都・大阪・神戸の三都市をめぐって、国内外の個人映画・実験映画を紹介していきながら、自分たちの映画も上映していきました。この《ヴォワイアン》の活動が、1980年代から1990年代の関西から登場してくる映像作家たちにも、大きな影響を及ぼしていきます。
そして、《ヴォワイアン》が活動を停止した1996年から、小池さんが神戸で開始されたのが、《映像のコスモロジー》という上映会のシリーズです。本当は前年の1995年から開始される予定だったそうですが、阪神淡路大震災の影響で延期になってしまったという経緯もあります。ここでも実験映画の上映とその作家を招いたトークを持続して開催されて、21世紀に入ってからも続けてこられました。《映像のコスモロジー》を通じて、作品上映の機会を小池さんから頂いたことに、大変感謝されている映像作家の方々に、私はこれまで、日本全国で何人も出会ってきました。

今日はこうした個人やグループでの上映活動を一つ一つ掘り下げる時間の余裕はないのですが、塩屋に通ってインタビューしていた時には、いつも奥様に淹れていただいたコーヒーを飲んだり、お菓子を食べたりしながら、毎回和やかな雰囲気で、じっくりお話を伺いました。ただ、小池さんの活動は半世紀近く続けられてきましたし、皆さんもご存じと思いますが、小池さんの話はなかなか止まらず、時には脱線を繰り返していくわけですね(笑)。だから正直に告白してしまうと、はじめは数回程度通えば、インタビューは終わるかなと思い込んでいたのですが、蓋をあけると全然終わらない。それで当時録音したインタビューを、今回のトークのために確認したところ、全部合わせると20時間ぐらい録音したものがありました。
ただ、話が脱線していくと言っても、その脱線のなかには、小池さんのキャリアにとってとても重要なことが含まれていたりもするわけです。ハンガリーの〈レティナ映画祭〉に参加されて、長く現地の人々や映像作家たち交流を続けてこられたこと、1997年のナホトカ号沈没と重油流出の事故のボランティアに参加されて、そのあと東日本大震災や2018年の西日本豪雨でもボランティアで現地に入られてきたことなども、とても貴重な体験だったというお話を伺いました。

『生態系 5 微動石』

もちろん上映活動だけでなく、時には小池さんの創作活動についても、話が及びました。たとえば、先ほどご覧いただいた『生態系 5 微動石』(1987年)やこのトークの後でも上映する、小池さんの代表作の「生態系」シリーズが生まれた経緯にも話が及んだのですが、そこには当初、ジョゼフ・コーネルからの大きな影響があったことを伺いました。コーネルという作家は、もちろんご存知の方も多いと思いますが、手製の木の箱に、古書店とか雑貨店で購入したモノなどをおさめた作品を制作してきた人で、映像作品も遺しています。コーネルのように、いろいろコラージュした素材を箱に詰め込むアーティストは他にもいますが、インタビューで語られていた時の小池さんの表現でそのままお伝えすると、「箱を開いてその世界を覗きこむと、別の宇宙がそこに広がっている。逆に閉じて、箱から離れるとこちらの宇宙に戻る」、という表現で作品体験を説明できると思われます。「生態系」のシリーズをつくりはじめたとき、映画のフィルムという別の時空間に、いわばコーネルの箱のようにして、異なる宇宙のようなものを形成しようとしたかったのだ、と小池さんが説明をなさっていたのが記憶に残っています。というのも、よく小池さんが影響を受けた作家として挙げられるのは、先ほども名前を挙げたスタン・ブラッケージです。一コマ単位で、スクリーンにさまざまなイメージが表れては消えていく小池さんの映像がブラッケージの作品を想起させることは必然ですし、美術にも造詣が深かった小池さんは、ジャクソン・ポロックのオール・オーヴァーな画面など、抽象表現主義の作品と自作の関係についても、よくお話されていました。でも、本当はこういう特定の作家たちからの影響関係だけでは説明できない、実にさまざまな要素が、「生態系」シリーズの発想には流れ込んでいるのではないでしょうか。いまあげたコーネル、さらに演劇やダンス、そして、現代音楽や民族音楽、あるいはお住まいのあった塩屋という土地の風土から、多大なインスピレーションを与えられることで、創作活動を展開してきたことを、小池さんは熱く語られていました。これは先程の自主上映の活動ともかかわることですが、小池さんの映像制作が、いかに他者のさまざまな表現活動から触発され、それを柔軟に吸収しながら進められてきたかという面を、改めて考えてみる必要があると思います。

当時の僕のインタビューも準備が足りておらず、いま録音物を改めて聞きなおすと、あの話も聞いておけば良かったということばかりで、後悔もあります。それでも小池さんの生前に、一つインタビューの成果を発表させていただけたことで、少しは恩返しできたかなとは思っています。それが、本日も会場で販売していますけれども、『ECOSYSTEM Teruo Koike Visual Works 1974-2020』(TERUTE企画、2020年)というカタログに収録されたテキストです。このカタログ自体は、元々は2020年10月に新長田にあるCityGallery2320と神戸映画資料館で開催された、「小池照男個展」のために制作されたものです。映画批評家の西嶋憲生さんや、《ヴォワイアン・シネマテーク》の仲間だった櫻井篤史さんや青井克己さん、ミストラル・ジャパンの水由章さんといった方々が寄稿されています。その末席で私も「上映の生態系:小池照男の上映活動」という文章を執筆いたしました。この拙論で、先程お話した《コズミック・キャラヴァン》や、《ヴォワイアン・シネマテーク》、そして、《映像のコスモロジー》といった小池さんの上映活動の詳細を示していますので、ぜひご覧いただきたいです。さて、このテキストを通して、僕が一番強調したかったことは何だったかというと、それは小池照男さんという映像作家が、素晴らしい映像作品を遺したことと同時に、神戸、あるいは関西の他の映像作家たちが活動を続けるための土壌を築いてくれたこと、そのことをきちんと書き残さなくてはいけないということでした。言い換えれば、実験映像・個人映像の表現者たちが、制作と上映を続けていくためのまさに「生態系」、エコシステムを小池さんは築いてくれていたんじゃないのか、ということです。

『ECOSYSTEM Teruo Koike Visual Works 1974-2020』

まず、先ほどからご紹介してきた自主上映活動の意義からそれを説明できるでしょう。小池さんは、自分の個展として上映会を開くということもたくさんやったわけですが、それだけではなく、仲間とともに関西で観る機会がなかった個人映画や実験映画を、映写機やスクリーンを車に積み込み、各都市を移動しながら上映を続けることで、多くの映画作家たちに作品発表の機会を提供してきました。短命な自主上映グループも多いなかで、かたちを変えながら、40年以上その活動を維持してきたことは、次世代の作家を育てるための土壌をも生み出しました。逆に想像していただければわかるように、そういうオルタナティブな映像表現に触れる機会がほとんどない環境から、新たな映像表現の探求者が生まれる可能性は望めないはずです。こういった活動を、《コズミック・キャラヴァン》の時代から、小池さんが断続的に、草の根的に続けてきたことが、関西の映画文化に与えた影響は、計り知れないと思われます。
上映活動とは別に、小池さんは後進の育成にも取り組まれました。1996年にオープンした神戸アートビレッジセンターの映像ワークショップで、映像表現とは何かを一から教えたり、受講生たちに自身で上映会の企画なども立ち上げられるように、工夫して指導された様子もインタビューで詳しく伺って興味深かったです。実際にこのワークショップ参加者から、佐々木友輔さんなど、現在多方面で活躍されている映像作家たちも登場されました。今回はあくまで追悼上映ということで、小池さんの作品を観ることを中心に置いた企画ですが、美術大学のような場所ではなく、映像制作のための設備も十分には整えられていない施設で新たな表現者たちを生み出してきた小池さんの実績も、改めて強調されねばなりません。
さて、長々とお話してきましたが、みなさんと最後に考えたいのは、何故小池さんはこうした映像にかかわる濃密な活動を、半世紀近くも続けることができたのか、ということです。もちろん、ここに一つの答えだけを当てはめるのは適切ではないでしょう。ただ、私としては端的に、映像表現のいまだ未知の可能性というものがあることを小池さんが強く信じ続けて、そういう表現と出会うことを渇望し続けたからではないか、という点に尽きるのかなとも考えています。おそらく、お付き合いのあった方は何度も聞いてきた話だと思いますが、晩年も繰り返し小池さんがおっしゃられていたことを、私はよく思い出します。それは、映画の歴史は130年ぐらいあるけれども、映画の可能性というものは、おそらく10%ぐらいしか、まだ開拓されていないんじゃないか、という問いかけです。小池さんは、闘病生活のなかで、亡くなられる直前まで、「多重奏」のシリーズを続けてSNSで発信されたり、「生態系」シリーズの新作を発表し続けられました。小池さんはいつも穏やかに私たちにお話をしてくれましたけれども、その取り組みには執念のような、鬼気迫るものがあったことは想像できます。おそらく、そうやって、敬愛するスタン・ブラッケージやさまざまな表現者たち示してきたように、未知の表現領域を切り拓きたいという切迫感を、最後まで抱かれていたのだと思います。
大事なことはそういう表現領域を開拓したいという想いを、小池さんは自分一人で、求道者のようにひたすら探すのではなく、常に他者とも共有しようとつとめてこられたことです。だからこそ、実験映像を観る人や作る人を生み出すための環境づくり、その生態系を構築し、維持せねばならないという使命感を持ち続けられていたのではないかと思います。そこに小池さんの信念があったのだろうと思いますし、自主上映活動や映像ワークショップ、さらには他の分野のアーティストの皆さんとのコラボレーションを通じて、他者とともに、未開拓の表現領域に突き進まれた。そのような方だったからこそ、私のような若造にも心を開いてくれて、自分の生き様を繰り返し伝えてくれたのだと思います。この小池さんの実践してきた活動を、いま私たちがどういう風に引き継げるのか。小池さんを追悼するということは、この問いを引き継いで、未知の映像が到来するための場を確保し続けることなのではないでしょうか。
一点だけ付け加えると、今回は「神戸映画映画祭2022」内での追悼企画ということもあり、亡くなられた小池さんにあえてお願いをしておきたかったことをいえば、遺されたフィルムや作品データ、それに膨大な紙資料などをどのようにすればよいのか、何か指針を残しておいて欲しかったという思いもあります。いまご遺族や梅岡唯歩さんが尽力されて、小池さんの作品のアーカイブ化につとめておられますが、やはり多くの方の関心に支えられないと難しい課題が山積しているはずです。今日お越しになられた皆様にも、個人映画作家の遺した映像をどのように保存し、また未来の上映の道を残していくかということにも、考えをめぐらせていただくことができればと願っています。
大変拙い話で恐縮でしたが、以上で私からの話を終わりにさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

 

資料から辿る自主上映史② 《シネマ・ルネッサンス》の上映活動
資料から辿る自主上映史③ 《スペース・ベンゲット》の上映活動
資料から辿る自主上映史④ 《RCS》の上映活動

事業主体:神戸映像アーカイブ実行委員会
助成:神戸市「まちの再生・活性化に寄与する文化芸術創造支援助成対象事業」
共催:科学研究費補助金「日本における1980年代の非商業上映と文化政策の研究」(代表:田中晋平)

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