『北新宿2055』 宮崎大祐監督インタビュー
ラッパー・漢a.k.a. GAMIが著した異色のSF掌編小説『北新宿2055』(ヴァイナル文學選書/東京キララ社)。新宿の混沌と闇を描くその筆致を厳密にたどりながら、モノクロームやジャズのクールネスを注ぎ込み、宮崎大祐がハイブリッドな映画をつくり上げた。初の原作もの、そしてあらゆる事象が記号・均質化される世界の微かな差異を捉え続ける宮崎のフィルモグラフィーにおいて重要な一作の誕生だ。第17回大阪アジアン映画祭で日本初上映される本作に関してインタビューをおこなった。
──原作の刊行は2018年9月。映画化の話が持ち上がったのはいつでしたか?
『VIDEOPHOBIA』(2019)を仕上げている頃、2019年初頭だったと思います。「こんな掌編小説があって映像化したい。何かいいアイデアはない?」と、漢さんの所属する鎖グループ(以下「鎖」。所在地は新宿)から相談を受けました。当時はロズニツァやアピチャッポン作品の静的な要素に関心を持っていました。また「画と音が動いてなければ動画じゃないのか」など、動画の定義や画と音の乖離について考えていた時期でもあった。漢さんの小説をもとに、その思考を実践できるんじゃないかと思い立ちました。
──原作は会話劇に徹しています。映像化が難しいテクストだと思いましたが、ヒントになったものはあるでしょうか。
横田創さんの小説『埋葬』(2010/早川書房)がすごく好きで、ここ数年、創作で困るたびに手に取ります。新しい映画のヒントになる不思議な本で、『VIDEOPHOBIA』をつくるときにも参考にした、強度の塊のようなインスピレーションノートです。「どうすればこの告白劇を映画に出来るだろう」とずっと考えてきた思考の蓄積が、本作にも活きています。
──セリフは驚くほど原作に忠実ですね。
映画化にあたり、ジャックするように原作をグチャグチャに崩す人もいますが、ぼくは何よりも漢さんをリスペクトしています。だから本作はほとんど原作のままで、脚本すら存在しません。それでいて、原作とまったく異なるイメージを喚起する映画も目指しました。言葉や文脈、物語に眠っている可能性を新たに引き出し、拓こうと。音楽でいえばサンプリング実験ですね。
──「このテクストからなぜこのような映画が出来るのか」とも思わせるつくりです。
そこが奇妙なところで、自分でも完成した映像を見てから原作を読み直すと、文字の上では極めて忠実ではあるけど、イメージは原作から離れ、新たな海に漕ぎ出している気がします。
──DOMMUNEでヴァイナル文學選書の特集が組まれた際、執筆陣が作品の一部を朗読する場面がありました。ところが漢さんだけは「フリースタイルラップみたいに書いたものだから読めない」と断った覚えがあります。セリフの録音はどのように?
セリフは鎖スタジオで、分節ごとに録るくらいの細かさで漢さんと、ジャーナリスト役の永山竜弥さんに朗読してもらいました。普通に読むのではなく、楽器の音を録るのに近い感覚でしたね。そうやってスタジオでレコーディングしていても、普段、映画の撮影現場で役者を演出するのとさほど違いがないのは面白かった。漢さんが「あ、間違えました。すみません」と言ったりしながら(笑)。
録音は、ぼくが求める声のトーンやリズムを探りながら進めました。意識がほとんど音に向かう会話劇は、セリフ回しや声質にリズムやグルーヴ──ラップのフロウやデリバリー的な何か──が無いと10分と集中力が持たない。本作の読みは、単純に朗読として聞けば洗練されたものではないかもしれない。でも聞き続け、映画世界に入っていける繊細なラインを目指して、ひたすら声を録っていましたね。やっぱり漢さんは朗読が得意そうではなかったですが、OKを出すまで何度でも読んでもらいました。半ば強制的に(笑)。とはいえ、信頼してくださっている感じが伝わって、嬉しかったです。
──あくまでインプレッションですが、セリフも含めた音に、標準的なデジタル作品と異なる感触があります。
スタジオでデジタル録音した声を、オープンリールのテープで再録音しました。まず、ぼくの気に入ったテイクを、今回アフレコ・エンジニアを担当してくださった名プロデューサー・I-DeAさんが一元化する。それを矢野弘道(ミュージシャン/サウンド・デザイン)さんに渡して、録り直したりミックスしてもらう流れでした。外の音──エアーやガヤ──もその場にレコーダーを持って行って、オープンリールで録っています。1.1だったものを何度も掛け算していくうちに、オリジナルである1=音声とかけ離れた小数点以下の余剰や差延が生まれてゆく。そういう作業でした。
──過去作と比較すると、そうして音がつくられるのは珍しい印象も受けます。
大枠の方向性だけは提示するけど、細部までは詰めない性格というか。基本コードだけ自分が決めて、あとはある程度スタッフ個人の裁量に委ねて、最終的には対話とコミュニケーションですり合わせていく。そこは毎回同じですね。
──画面に写るものの音を当てている一方で、SEでもない断片的なノイズを散りばめています。
ノイズは多用しましたね。サウンド・デザインは矢野さんと、ギタリストでもある森健司郎さんがそれぞれ思い描く音像にしてくれました。矢野さんは、全体の音をヒップホップの長いトラックをつくるイメージでデザインしたと言っていましたね。アール・スウェットシャツ的な質感を目指したとも。ぼくは、50年前に録音された音源がいま見つかって流れている、そんな感じになればと思っていました。いつの時代の音かわからない気持ち悪さを持つ、「無時間的」とでもいうような。
──それは2055年から過去、といっても2022年からは未来にあたる時代を回想する原作の抽象度に対応していますね。
そうです。SF的な世界にアナログレコードふうのノイズや質感を加えることで、より時間性が曖昧になればいいなと。
──そこで特徴的なのが、ある60年代SF映画のスタイルを使っていることです。原作シリーズのつくりは変わっていて、ビニール袋に入った紙を綴じていない。その未製本の状態を映画で表現しているようにも見えました。
そう言われればそうなのかも。本作のスタイルの着想源のひとつが、森山大道などの写真でした。原作シリーズに使われている写真も永山さんが撮ったものです。鎖とは、その前から永山さんと何か出来ないかと話していました。
──メインの舞台はどこでしょう。壁には大きな鏡も付いています。
新宿にある、会議やワークショップに使えるレンタルスペースですね。原作はインタビュー形式で進行するので、あの空間がいいと思いました。そして原作には建物の外の描写があります。その位置関係を満たす物件でもあったので、そこに決めました。外との距離さえ確保できれば、あとはカメラアングルなどで原作が描く状況をつくれるだろうと。
──撮影は『TOURISM』(2018)、『VIDEOPHOBIA』を手がけた渡邉寿岳さんです。『VIDEOPHOBIA』に近いニュアンスもありますが、まったく違うアプローチで撮られています。
画に関しては『VIDEOPHOBIA』からの流れもありつつ、渡邉くんが「これを使いたい」と所有する古いアナログカメラを持ってきました。
──渡邉さんの画は、原作のざらついたムードをよく表しているとも感じます。それから人物のショットは深度が浅い。こういうフォーカスは監督の映画で初めて見ました。
確かに、それまでの作品は世界の全体像を見せるためにパンフォーカスが多かったですね。今回は、画面の奥に何かぼやけたものが存在しているのを画と音で表現してみました(笑)。
──監督は、ジャック・デリダの憑在論がお好きでしたね。『大和(カリフォルニア)』(2016)以降の監督作には「街の映画」の側面がある。本作以降もそれは続くことになりますが、撮影当時は街を撮ることに対してどのような考えをお持ちでしたか?
以前、黒沢清さんが「ある場所がなくなってしまう恐怖」とわかりやすい言葉で語っていました。そのときはピンとこず、「そんなこともあるよな」程度に認識していたのが、毎年のように映画を撮り出し、街をロケ地として意識的に見るようになると、やっぱりいろんな風景が次々と失われていることがわかってきた。歴史を集積した、そのときその場所にしかない風景が全国に存在して、運が良ければ何かに記録され、多くは気にもされずに消えてゆく。各地の街の画一化が進むなかでそれは顕著です。近年の作品で、その消えゆくものを捉えることに意識的になった部分がありますね。『VIDEOPHOBIA』の大阪もそうです。新宿の場合だと、東京オリンピックの前だったこともあり、「これを境に色々変わっていくんだろうな」と思いながら撮っていました。最近つくった短編も「これは無くなるんじゃないか」と直感した風景に意識的にカメラを向けました。あるいは、無くなってしまったけど雰囲気や気配は残っている場所や空間。そこにこびりついている声や音を聞く。空気を撮る。あらゆることが流れ、移りゆく諸行無常を意識的に記録するようになったのかもしれないですね。建築へのアプローチもそれで変化しました。
──原作も、漢さん固有の視点で街を描いています。
そうですね。一度きりの時間や瞬間的な発想をどう捉えて具体化し、アウトプットするか? それはラップも映画も同じだと思います。
──監督は制作前に、漢さんとD.Oさん(本作にも出演)のミュージックビデオを撮っています。ラッパーには、職業俳優や非職業俳優にない被写体の魅力があるでしょうか。
映画は「一に素人、二にミュージシャン、三四が無くて五に俳優」とよく言いますよね。侯孝賢も「プロフェッショナルな俳優は苦手」と著書『侯孝賢の映画講義』(2021/みすず書房)で述べている。ぼくは元々、映画制作においてはプロの俳優でも素人でも構わないと思っていますが、やはり経験のあるミュージシャンにはその人物にしかない存在の重みがあります。芝居やセリフ回し云々とは別のレベルで、独特の磁場を確実に持っている。そこには、ずっと人前に立って「ここでしくじったら終わりだ」というギリギリの瀬戸際を幾度となく経験していることも影響しているでしょう。特に高名なミュージシャンは存在感も圧倒的だし、画になるのを実感しますね。そのような人たちの実存を映画で別の角度から捉えたい思いました。
──尺に対して登場人物が多いのも、それが理由でしょうか。ラッパーから作家までキャストの幅が広い。
たとえ静的でも、歴史や文化の広がりを感じる多視点な映画にしたかった。そのために多くの人に出てもらいました。
──その途中に一ヶ所、「脱臼」とでもいうような展開を設けています。
『VIDEOPHOBIA』からの連続性もあって、当たり前だと油断している時間が不意に脱臼する展開。本作でもそれをやろうとしました。
──画面のテクスチャーが大きく変わるショットがひとつあります。あれも脱臼的なイメージからの発案ですか?
その演出にも横田さんの影響があるかもしれません。横田さんの小説に「あの写真の子猫がかわいい」といった場合の「かわいい」は、何を指して「かわいい」と言っているのか問答するくだりがあります。当然写真が捉えた猫自体がかわいいと言っているのだろうけど、「かわいい」はひょっとしてこのペラペラの写真自体を指しているのではないか。そこから派生して、写真は実体を捉えるとはいうものの、実体が平面のわけがなかろう。やはり内容と形式にはずれがあり、いまや絵も写真も映像もすべてがデジタル信号だと考えると、それぞれ一体何が違うのか、デジタル映画の映像イメージを分解した二進法のデータは、アナログの陰影二進法の光の定着と何が違うのだろうとずっと考えているし、今後もその問いに挑みたいと思っています。
脱臼演出のパートに関しては、普段演じることのない人の演技に、経験を持つ人の演技をぶつけるとギクシャクするという一般論がありますが、そうでもない場合もあるということです。逆もしかり。しっかりと演出してセッティングすれば、観客が脳内でバランスを取ってくれるので、シームレスな作品には見えます。なぜなら、みな同じ社会で生きているわけで。異物として背景の違う要素を映画に取り込むのは、言うなればDJプレイの「転調」ですね。観客が映画の世界に慣れすぎると、唐突に挑戦的な球が飛んでくる(笑)。ただし、それまで構築した世界の根幹は崩さない。そうした違和感に気づかせない跳躍を狙いました。
──DJミックスをやる感覚で、音楽的発想にもとづいて映画をつくる。『VIDEOPHOBIA』公開時の取材でそう伺いました。現場での映画監督の役割を音楽に喩えると、一般的には指揮者であったりバンドマスターだと思います。宮崎監督の場合は?
うーん……、ミキサーですかね。誰これがつくってくれた音素材に独特なダブ加工をくわえるエイドリアン・シャーウッド……、なのかどうかはわかりません(笑)。ただ、制作前に「こういうコード進行がいい」とか、ぼくの望む全体のトーンは提示します。現時点での最新作『ヤマト探偵日記/マドカとマホロ』(2022)もそうですが、自分の特異性が最も発揮されるのは編集やセリフ、音の仕上げ、つまりリズムに関わるプロセスかもしれません。だから現場ではミックスすると面白くなりそうな素材を出来るだけ多く撮ります。つながっているとかつながってないとかはどうでもよくて、ミックスして輝くならばそれでいい。毎回、「完成するとこんなふうになるんですね」とキャストやスタッフに驚かれるのも、そうしたリズム主導の制作あってのことかもしれません。
──それは編集でどうにかする発想ではなく、現場でいい画と音を撮ることが大前提ですよね。
もちろん。まずは世界に一匹しか存在しない魚だけを捕まえてきて、生け簀に入れて「さて、どうするかな」と考えるような作業が、ぼくにとっての編集かもしれないですね。ときには大きな水槽を用意して、そのまま泳がせて見世物小屋のような水族館にしてみせたり。
──本作はかなり派手な水族館になったと思います。さらに映画から離れて宮崎大祐という監督像を考えて思い付いたのが「シネマトグラフ」。といってもリュミエールやブレッソンのそれとは違う「グラフィティ」からの連想です。様々な街で映画を撮るのは、ライターがあちこちにグラフィティを残すのに似ているのではないか、と。それが「シネマトグラフ」になるという仮説ですが。
その指摘は的を得ていると思います。目の前に人なりモノなり動物が存在していて、自分がペンの代わりになるカメラ──仮にiPhoneでも──を持っていれば、その場でささっとタグを打てるし、多少余裕があればスローアップを、もっと余裕があるならマスターピースを描ける。要はどこでもどうにでも映画にしてしまえる。その絶対的な自信が最近はあります。『大和(カリフォルニア)』以降もずっと撮り続けている、この平凡な街・大和で描けるのなら、ほかの街でも描けないわけがない。そんな感覚ですね。今年はまた別の街に「シネマトグラフ」を描く予定です。
──本作の日本でのお披露目は、大阪アジアン映画祭になりました。原作調に言うと、新宿と大阪ではシマが違うだろうという感覚もありますが、ハマりそうな予感もします。
街の記憶や土地に潜むものは東京・大阪を問わずあるだろうし、昨年撮った作品のタイトルは『1-1=1』。この「0」であるはずの「1」は残滓や余剰、差異を意味します。いまの東京は1から1を引くと計算通りにすべてが消えて0になる。しかし、かろうじて新宿の一角=北新宿など、そして大阪では1-1がまだ0にはならない隙間や余白がある。だから北新宿の映画を大阪で上映するのも面白いんじゃないでしょうか。
──0か1かは、先ほどのデジタルの問題にもつながるかと思います。
これまた横田さんとの議論で出てきた話題ですが、物理的にはプラマイゼロであるはずなのに余白、差延として存在するこの世界に関して、最近よく考えます。本作はまさに、フィルムのコマとコマの間に存在する黒み、世界の間隙に存在する映画だと思っています。
──白と黒の間にあるものも考えられるでしょうし、原作には漢さんの著作『ヒップホップ・ドリーム』(2015/河出書房新社)に近い雰囲気もあるけれど、独特の歪みも感じる。本作はその部分まで抽出しています。
幾つかのショットにはCGを施したりもしました。よく見ないとわからないレベルですが、気づかれない豊かさというか、現代の建物を実は近未来的にしていたり。初めてクリエイティビティな方向でCGを使いました。こういう、気づかれたいけど気づかなくてもいいみたいな相反するエモーションは、確かにグラフィティ的なあり方なのかもしれません(笑)。
──文字を読もうとしても読めないグラフィティにも通じるでしょうか(笑)。あえてノイズを入れたのかなと思うほど、フィルムの質感が出ているショットもあります。
もう白黒現像をやってくれるところがあまり無くて、東北のラボに出しました。相当な時間をかけて、『VIDEOPHOBIA』とも少し違うアナログで、ノイズがこびりついたモノクロに仕上がりました。
──そして音楽担当は菊地成孔さん。菊地さんもヴァイナル文學選書の執筆者のおひとりですが、依頼した経緯は?
菊地さんの映画音楽やダブ・セクステットの楽曲も好きだけど、フリーでサックスを吹きまくっているときの音をまた聞きたいと思っていました。それに今回もいつも通り、新たなジャンルの音が欲しかった。「ジャズの菊地さん」にお願いしたくて、「原作シリーズにも参加されているしどうでしょう」と鎖に提案しました。菊地さんのサックスに、漢さんの朗読がぶつかると、自ずと物語が立ち上がり、ヒップホップになるだろうと。ジャズの延長にあるヒップホップではなく、あくまで両者が等しく入り混じり、また新しい何かが生まれてくるイメージが湧いて、早めに打診すると引き受けてくれました。
──掛け値なしにかっこいいジャズです。こういう音楽が鳴る日本映画はいま無い気がしますね。
サウンド・クオリティはハイファイだし、久しく無いですよね、ど真ん中でジャズが鳴ってるって。本作のサウンドを劇場の5.1chサラウンドで耳にする機会は大阪以降まったく未定でして、まだ試写や映写室でのチェックも出来ていない。実際にどういう世界が構築されているのか、大阪で聞くのを楽しみにしています。そしてぼくのサウンド・スケープは、ここから今年公開予定の『エリちゃんとクミちゃんの長く平凡な一日』(オムニバス『MADE IN YAMATO』』の一編)や短編『Caveman’s Elegy』(2021)を経て、『ヤマト探偵日記』の5.1chにも進化した。どれも違うエンジニアによる独自の音世界になっているので、この機会に是非とも見て聞いてほしいですね。
(2022年2月)
取材・文/吉野大地
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