神戸映画資料館

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収蔵図書紹介「朝鮮映画の時代 帝国日本が創造した植民地表象」


著者 梁仁實

出版社 法政大学出版局
発行年月 2022年10月

朝鮮における映画の普及は、日本の帝国主義拡大の時期と重なり、映画と帝国日本は朝鮮にとって大きな影響を与えた。さらに、朝鮮映画の中の朝鮮人は、内地における映像で植民地的他者の像を初めて映し出したものとなった。これまで、「朝鮮映画」は総動員体制下における抑圧された植民地朝鮮という固定されたイメージの中で一枚岩として捉えられがちであったが、本書をもとにこの歴史を紐解いてみると、時代状況の変化に伴い複数の段階があり、その過程では内地と朝鮮の映画に携わる人々の「文化交渉」の足跡がはっきりと刻まれていることがわかる。以下では、いくつかの点に着目して本書の意義について論じる。

本書では、朝鮮映画は「帝国と植民地の二項対立」を軸とし、時代や社会、情勢で揺れ動く両者の関係を表していたと論じられている。つまり、「朝鮮」は帝国日本にとってもっとも身近な「他者」であり、植民地統治の初めには「異文化」に対する好奇心から関心が高まっていたという。実際に、本書のはじめで取り上げられている1920年代の内地における「朝鮮劇」というジャンルが広まる背景には、朝鮮が「見知らぬ好奇心」を呼び起こす「隣国」としての位置付けがなされていた。さらに、「朝鮮劇」では「朝鮮らしい」風景や人物を描くために、内地ロケや日本人俳優による演技が行われていたというから驚きである。

ところで、1920年代の内地での朝鮮映画の広まりが、帝国と植民地にとってどのような役割を果たしていたのであろうか。本書では、日本という新しい帝国のなかで、「日本語リテラシー」と「視覚的快楽」が同時に高まり、帝国の広範な地域において、作品への関心を共有し議論するダイナミズムが生み出されていたことが論じられている。筆者はこのダイナミズムについて〈帝国〉のイデオロギー空間として批判的に読み解いている。当時の映画雑誌の投書欄には、帝国日本と朝鮮の読者が混淆して掲載されていた。このような「平滑空間」(アントニオ・ネグリ)では、植民者と被植民者の差異が不可視化され、均質なものとして見えるという。このように、植民地統治の初期段階において、すでに〈帝国〉日本は映画や新聞、雑誌などの大衆文化を通じて拡大し、帝国の内部の差異を意識の中で均質化され、「内鮮一体」へと向かっていたのであった。

さらに本書は、朝鮮の伝統的物語「春香伝」が、戦前から戦後にかけて日韓の文化交流でも重要な役割を果たしたことに着目し、その初期段階にこの物語が「映画」に与えた影響について考察している。古くから広く朝鮮民族に親しまれ、さまざまな作品化がなされてきた「春香伝」は、映画という新しいテクノロジーを試験的に導入する際にも活用された。そしてこの物語は、帝国内における文化「交流」、内地と朝鮮をむすぶ重要な役割を果たしていったのだ。『春香伝』は、1923年に朝鮮において初めての非宣伝の商業用劇映画となり、内地に紹介され、その後は初めてのトーキー映画化の試みがなされた。

さらにこの物語は、プロレタリア演劇運動の中心にあった村山知義率いる新協劇団で、内地の朝鮮人をも含む「朝鮮との交流」のために舞台化された。しかし、これは劇作家・張赫宙によって「近代的感覚」をもつ人々に向けて「翻案」され、もとの物語にあった朝鮮古来の身分制度の問題については捨象されてしまった。その後、『春香伝』の映画化を描いた映画『半島の春』は、「国策会社」・朝鮮映画配給社の手によって満洲にまで伝わり、満映と連携して世界進出をはかる映画人らの夢を実現させるための作品となった。日本の帝国主義が拡大し「内鮮一体」などのスローガンの実現のために、この物語の「政治や社会への批判的な視線」が薄れ、「絢爛としての煽情的なロマンス」に書き換えられていったことは、戦前から戦後にかけての日本と朝鮮の「文化交流」の足取りを連続的な視点で再検討していくためにも重要である。

ところで1930年代には、「国際性」をめぐる議論が映画界でも巻き起こったという。内地に輸入された朝鮮映画は、「朝鮮的なるもの」が強調され、その背景には、視覚的にはほとんど差異のない朝鮮人を他者化する必要があった。ここで朝鮮のローカリティや言語が用いられたのであるが、これは在日朝鮮人のノスタルジアを刺激し、植民地政策がめざす「近代」と矛盾する内地のジレンマとなったという。さらに、朝鮮映画の中では、「朝鮮らしさ」を象徴するために、「女性と子ども」が流用され、「ジェンダー化された朝鮮」が描かれていたという。この時代における植民地・女性・子どもが客体として主体である宗主国・男性と対比的に描かれジェンダー化されているという視点は非常に興味深い。

また本書は映画館にも着目し、当時の京城(現在のソウル)の映画館において在朝日本人や朝鮮人らがどのように映画を観ていたのかを、当時公開された作品や観客層などから論じている。当時京城に居住していた日本人は南村に多く、日本人向けの映画館もそこに集中していた。しかし、観客は日本映画や朝鮮映画、洋画などから自分の好みに合う映画を選択し、ときにエスニックの境界線を越えていた。さらに、映画館どうしの観客獲得の競争や、配給権をめぐる争いなどが激しさを増し、明治座などの大手映画館が台頭していった。京城の映画興業界が巨大な資本に吸い込まれていき、植民地的資本主義と観客の欲望が「縫合」され、欲望と資本主義が規制と衝突し、「拮抗」と「混淆」の場をうみだしたという。

さらに、朝鮮の児童映画『授業料』と『家なき天使』(ともに崔寅奎監督)を取り上げ、内地で「少国民」の物語として消費されていく過程について考察している。また植民地期における在日朝鮮人の朝鮮映画受容についても論じられており、協和会による映画利用など、戦前の在日朝鮮人と映画との関わりや同化政策との関係を考察する上でも非常に示唆深い。

終章にもあるように、筆者は帝国日本の朝鮮映画の全貌を明らかにするには、日本や朝鮮半島のみならず、満洲や中国などにも視野を広げる必要があるという。幅広い時代と地域に及ぶ帝国の映画研究をすすめることは個人の研究では容易ではなかろうが、今後、方々でこのような研究が活発に進められこの時代を見つめる視野が広がっていくことを心より願う。

丁智恵(東京工芸大学芸術学部映像学科教員)

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