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『#ミトヤマネ』 宮崎大祐監督ロングインタビュー(前編)

©2023「#ミトヤマネ」製作委員会

SNSのインフルエンサーとして注目を浴びる山根ミト、通称「ミトヤマネ」の華やかな活躍とその後──非有機的な生──を高速ザッピングのようなスピードとテクスチャーの変化で見せる宮崎大祐の初の商業作品『#ミトヤマネ』。巨大なサイバースペースを古城に見立てるならば、この映画は現代のゴシックホラーとも呼べるだろうか。8月25日(金)の公開を控える監督にインタビューをおこなった。

 


──主演のミト役・玉城ティナさんと最初に会って、どんなことをお話しされたでしょう。また脚本を渡されたのはどの時点でしたか?

2020年から2021年にかけて企画が動き出し、脚本をお渡しした上で昨年の夏に制作会社の事務所でお会いしました。その直前に友人から「玉城さんがドゥルーズ関連の本を愛読書に挙げていた」と聞いていたので、開口一番「生成変化する映画を一緒に撮りましょう」と言ったら微笑んでくれて、それから1時間近く、ひとりで作品の裏にある思想やテーマを語りました。普段、キャストの方とはもっと昨品の具体に関して話しますが、玉城さんにはまず哲学を語った方がいいような気がしたんです。そのあいだ玉城さんはじっと聞いているだけで、最後にひとこと「わかりました」とおっしゃったので、「この映画は日本の百万人が見る映画かどうかはわかりませんが、世界の一万人の人生を決定的に変える映画になるでしょうからよろしくお願いします」と伝えてその日は別れました。

──それ以降、玉城さんは撮影前に監督作品をご覧になったでしょうか。また、具体的に作品世界を説明することはありましたか?

近作ということでプロデューサーの方経由で『VIDEOPHOBIA』(2019)と『北新宿2055』(2021)をご覧になったかと思います。それに関して話すことは今日に至るまでなくて、なんだろうという疑念も伝わってこないので、「ああ、こういうことをやっている人なんだな」という程度の認識だったかと思います。

──ミトは作品の複雑な背景を理解していないと演じられないキャラクターだと思いますが、玉城さんから積極的に出されたアイデアがあれば教えてください。

プラネタリウムのシーンはシナリオに発明家の実名を書いていたのを、「ミトには背景や歴史がないから具体を削いで抽象で進めたほうがいいのでは」と提案してくださりました。それは最初の顔合わせで話した哲学の部分を受けてでしたが、俳優としては通常「映画の前に流れている時間」を知りたいでしょうから、その辺りの合理的な曖昧さと落とし所のつくり方は探り探り進めていきました。

──ミトの妹・ミホ役の湯川ひなさんを起用するにあたり、何が決め手になったでしょう。

湯川さんは一見すごく穏やかですが、とても負けず嫌いの頑張り屋さんで感情のアウトプットが豊かな人であることをオーディションの芝居と脚の動きを見て気づきました。だから抑えた芝居のミトとのコンビでいいなと思いました。そしてぼくの好きな不安定さ、定まらなさもお持ちでしたね。その景色から浮いてしまう身体性、もっというと景色を映画に変化させる身体性と呼べるものです。最終的にミホのルックはミトに近づいてくるので、そこからの逆算もありました。

──玉城さんと湯川さんのコンビネーションが本作の軸のひとつになっています。撮影前のリハーサルはかなりおこなわれたのでしょうか。

いえ、いろいろな事情があって直前にミトのマネージャー・田辺役の稲葉友さんを含めた三人でシナリオの内容に関する討議と、読み合わせをしただけでした。シナリオは自分で書いておいてなんですが、読んでもわかり切ることは決してない内容だったので、いい意味であとは現場で生まれるものに身を任せていこうという覚悟がこのとき俳優たちに生まれたと思います。
読み合わせはいつものイタリア式にはじまり、ピッチが揃うまでいろいろなアプローチを繰り返しました。ぼくは読みのピッチさえ合えば本番前にそこまで芝居を固めたくないので、それで十分でした。そして今回は自分の「読み合わせをやってもらう技術」の向上も感じましたね。

──現場でカメラの前に立つ玉城さんと湯川さんをご覧になって、いかがでしたか?

おふたりそれぞれに対する驚きの連続でした。玉城さんは初日のファーストカット──鏡の前で「ミトヤマネです」と自己紹介するとき──からミトになっていました。スタジオに居る人の多さに、ぼくがちょっとビビッてしまうほどの状況にもかかわらず(笑)。劇中何度か繰り返されるあの自己紹介は、最初と最後では何かが確実に異なります。キャラクターの刷り込み具合がすごかったですね。ファーストカットで観客に「こういうインフルエンサーが社会に実在するんだ」と信じさせるすごみがあります。予定の芝居を終えたあとの即興もしばしこなしてくれました。
湯川さんは、アメリカン・ハウスのシーンの撮影日に完全に別人になって来られたのに驚いた。ここ数年は演劇のお仕事が中心で、映画の芝居にアジャストできるか心配だとおっしゃっていたのがまったくの杞憂に終わりました。ぼくが求めていた、作品を通して変化するポテンシャルを想像以上に発揮してくださりました。

──稲葉さんが演じる田辺は一般的なサラリーマンとは異なる独特の雰囲気を持っていますね。

田辺はミト・ミホ姉妹のはざまに居て、倫理的にもジェンダー的にもはざまに居るという最も難しいニュアンスを持つキャラクターです。だからそれを掴んでもらうためにも読み合わせを一番長くやったように記憶しています。語りの上ではメフィストのような役割で、それを現代で再現するならどうするかと衣装やメイクを考えていきました。ゴシックだけど夜の仕事の人風ではなく、どこか昨今の韓国文化の影響を感じさせながらも、インフルエンサーのマネージャーという怪しげな虚業の社員風にも写るようにと。

©2023「#ミトヤマネ」製作委員会

──メインキャラクターが女性ふたり、男性ひとりという組み合わせは『大和(カリフォルニア)』(2016)『TOURISM』(2018)でも見られました。そうすることで物語を進めやすくなる、あるいは別の意図があるのでしょうか。

たまたまだと思います。ただ、自分の映画に出てくる男性キャラクターからなるべく男性性を削ぎ落としたいと思ってきたことは事実です。もちろん男性性が強い女性もいますが、男性から男性性を削ぐことに比べると女性の方が削ぎ落としやすい。そこから何を目指すのかというと、たぶん男でも女でもない「ただそこにある」状態になってほしいんですよね。「ただそこにある」状態ではないガチャガチャした状態って、男性性に近い何かだと思う。ガチャガチャが魅力的な俳優や映画ももちろん存在するし、そのうちチャレンジしてみたいとも思うんですが、今のところぼくは自分の創作にそれを取り入れることに生理的抵抗を覚えて、いわば男性キャラを去勢しているんだと思います。『TOURISM』の柳喬之さんやオムニバス『MADE IN YAMATO』(2021)の一篇『エリちゃんとクミちゃんの長くて平凡な一日』の本庄司さんは「ただそこにあった」ように思います。

──稲葉さんの動きは曲線的で、なおかつセリフを言いながらなので、繊細な芝居が求められたと思います。

古典映画的というのか、アメリカ映画的に「位置関係の変化だけで物語る」ことをやりたかったので、稲葉さんには細かく動きを付けて頑張ってもらい、それを補強するための装飾や美術を背景に配置しました。イメージとしてはフリッツ・ラングでした(笑)。

──撮影は初めて組むステファニー・ウェーバー・ビロン。広角レンズを多めに使っていて、こういうタッチの画は過去作になかった気がします。

今回は奇妙なロケ地を多く使うことができたので、せっかくなら全景を見せられる、映画らしい広い画がいいだろうと思いました。また現代の日本映画は貧しい景色のなかでの長い会話をタイトなフルの長回しかミドルサイズのカットで刻んでいくイメージがありますが、それよりひと回り広い豊かな画のなかで会話以上に時間に重きを置いて撮ろうと考えました。ステファニーが長回しの中でちょっとしたカオスを拾い上げるのが得意だということも影響しています。でも、いくら興味深いロケ地であってもフィックスの長回しだといつかは弛緩するので、そうした時はカメラ側が少し移動することにしました。その際に日本映画ではあまり用いない、設置が簡単な簡易レールが大活躍しましたね。全体の構成は『VIDEOPHOBIA』から引き続き中層がないポストモダニズムというか、そういうイメージでした。カオティックな引きとクリティカルな寄りの組み合わせと言いますか。
また本作はヴィットリオ・ストラーロの提唱したアスペクト比2:1のUnivisium で撮影しました。おそらく日本映画では初めてではないでしょうか。これを採用したのはステファニーに「近年のアメリカン・インディーズでよく使われていて、あなたの好きなバランス感だと思う」と提案されたのと、ロケ地の配置的に左右上下の空間を存分に使えそうだったからです。奥行きを構成する装飾や美術も、今までの現場に比べるとつくり込めそうだと思ったのもあります。

──ミトとミホの関係の変化に応じてカメラワークも変わってゆきます。

今の話題につながりますが、彼女たちの関係の変化によって2:1の画面の使い方が変わってきます。半分ずつに分かれていた画面の占有率が推移してゆく。双子性も作品のテーマだったので、それもフレームサイズを決める一因になりました。

──これまでの監督作の室内シーンでは最も広い空間が使われています。それに伴い全体の演出も変えられたと思います。

この映画はスマホで視聴するような、速くてフラットな画が多い。そこに突然古典映画のようなカットが入ってくる違和感を狙いました。見る人が「うわっ、いきなり映画っぽくなったよ」と感じる距離感と奥行きを見せるカメラポジションに切り替わります。

©2023「#ミトヤマネ」製作委員会

──先ほど伺った通り、カメラの被写体深度が深く美術も練られています。『大和(カリフォルニア)』では円形のものが写ると物語が展開するサインになっていましたね。本作では冒頭のミトの家のシーンでテーブルや鏡などの円いフォルムを多用されています。監督からのアイデアでしたか?

美術の橋本真由子さんは変わったキャリアの持ち主で、ぼくの大好きな『バタ足金魚』(1990/松岡錠治)などに俳優として出演されていて、その後アメリカに渡って美術の勉強をされた方です。思ったことはすぐに言う、徹底的に議論するというアメリカンなコミュニケーションの方で面白かったですね。だから事前に作品の思想みたいなものを伝えて、何度も議論しました。円いお弁当箱やリビングの円形の棚は具体的な指示をしてないんですが、過去作をほとんど見てくださっていたので、そこからインスパイアされたか、無意識に刻まれていたのではないでしょうか。スタッフの無意識すら操作するのが映画演出なのかもしれませんね(笑)。
棚に置かれている白黒写真の被写体も誰だかわからなかったけど、橋本さんが「ドイツが東西に分断されているときにベルリンの壁を越えようとして射殺された方の写真なんです。監督がいつも口にしている『境目を越える』というテーマにピッタリじゃないですか?」と言ってきて、おお! と唸りました。「この映画では境目を越えまくりますが、ぼくはまだ死にません!」と返した覚えがあります(笑)。

──(笑)。リビングには、ニーチェの写真にグリッチデザインを施したオブジェが置かれています。映画のテーマがひと目でわかるとも言えそうなアイテムです。どのようなリクエストを出されたのでしょうか。

お話ししたように、この映画のテーマは古い社会システムがつくった「境目を越える」でした。それを最近の言葉でいうと加速主義などになると思うんですが、そうした越境・撹乱の第一人者は、やっぱりフリードリッヒ・ニーチェだと思うんですよね。彼のイメージをデジタル的に脱構築して、これまた優れたシステム内破者であるフランスのストリート・アーティストのインベーダーっぽくしたものをつくってくださいと橋本さんに伝えました。でもなかなかうまく伝わらず、ラッセン風のイルカ南国アートが来たり、ニーチェの顔が毛玉になったようなものを夜鍋でつくってくださったりして「違う、違う」と言いながら、インの数日前にようやくあの形になりました(笑)。

──さらにアニメやMV、配信動画、スマホや監視カメラなど様々なテクスチャーの映像を組み合わせています。『TOURISM』でもそういう技法が見られましたが、今回はどう考えましたか?

今回はスマホの動画アプリの画面を何の気無しにスクロールしていくイメージでつくりました。ランダムにスクロールしたりクリックして色々なイメージへ飛んで、出てきた映像と音を組み合わせていくと観客それぞれの『#ミトヤマネ』が浮かび上がってくるようなイメージです。だから映画館の大きなスクリーンを巨大なスマホの画面だと思っていただけると。サイズ以外にスマホのモニターとスクリーンの違いって最早なんなんでしょう。

──動画と映画の差はずっと考えてれおられる問いですね。本作からは宮崎映画特有の「複眼性」も感じ取れます。つげ義春の漫画『ねじ式』を例にお話しいただいたこともありますが、「世界のあちこちに眼が貼りついている」イメージに意識的になられたのは何かきっかけがあるのでしょうか。

視点の数だけ世界がある。逆に言えば、まなざされて初めて世界は存在するわけで、世界のすべてのはじまりをまなざした存在があるというような話を若い頃に聞いて、今となっては典型的な近代の視覚偏重主義にも思えますが、それが何か引っ掛ったままこの歳になりました。そして明確な理由はわからないけれど、そうしてずっと引っ掛かったものが人間にとってクリティカルであることもしばしばです。『VIDEOPHOBIA』では悪しき相対主義=ポスト・トゥルースをやりましたが、それがマルクス・ガブリエルの実在論やストリートに張り巡らされた監視カメラの眼を経由した結果、映画の三人称視点ってなんだろう、これを観客に折り返して映画を開くために活用できないだろうかというところに本作でたどり着いた感じでしょうか。

──「見ること/見られること」は、美術館のような巨大な空間のシーンでも表現されていると感じます。

あのはめ込みの回廊は、見た人からも美術館と呼ばれていて、映画のサブ・テーマを視覚的に表していると思います。それはニーチェ発ドゥルーズ経由の加速主義であり、回廊のデザインは加速主義者のいう大聖堂=古きカトリシズムをイメージしました。加速主義はある面ですごく魅力的だと思います。何らかの限界や自壊願望と表裏一体になっていることは確かで、今回はその加速の果てを映画でやってみようと思いました。美術館に関してもう一点付け加えると、先日丹生谷貴志さんがXに「美術館は故人の遺したものの集積だからいわば墓地のような場所であって、美術館巡りは心霊ツアーのようなものだ」という趣旨のことを書いておられた。それを読んでから移動する美術館や墓地としての映画について考えはじめています。

──音楽をどうするかは毎回かなり考える問題だと思われますが、今回はvalkneeが担当しています。監督とはこの映画の前から交流がありましたね。

以前から、そのセンスやトランスナショナルなフロウのファンでした。今回はいまアメリカで流行っている速いヒップホップ──ハウスから派生したジャージー・クラブなど──をやってみたいと思っていました。ただ全編それでも疲れるので、あいだに挟まるインストはリバイバル・ドラムン・ベースっぽいネット音楽にどこかアジアらしさがあれば、と考えました。アメリカ発の音楽が日本のカルチャーとしてワンステップ踏み込んだイメージですね。
valkneeさんはいつもこの資本主義後期の世界でどう生きていくか、言い換えればどう実在の重みを誤魔化し乗りこなしていくかについて歌っていると捉えていて、そこも本作にピッタリだと思ったんです。当初は1曲だけでもお願いできればと思っていたら、あいだのサントラまでほぼ全体をディレクションしてくれた。エンディングに当初言っていたジャージー・クラブを持ってきてくれて、なおかつそれがメチャクチャかっこいい曲だったので最高に嬉しかったです。映画館で聴いてもらうとそれまでの73分を忘れるほどブチ上がると思います(笑)。valkneeさんには本当に大きな恩を感じています。

 


──かなりトリッキーなのが、筒井真理子さんが登場するシーンです。どう構想されたのでしょう。

あのシーンまではベタな切り返しがほとんどないので、あそこで切り返しの暴力性と可能性を見せたいという思いでした。特に目立つアクションがあるわけでもなく長いセリフが続くので、カット割りによる演出を仕掛けるならここだろう、と。一見ただの切り返しを何パターンも撮っていたので、現場ではぼくが何を意図しているのかわからないスタッフも多かったと思います。筒井さんにはある仕掛けのために「ミホだけを見て芝居をしてください」と伝えました。あのシーンは短いテイクによる切り返しですが、なんと偶然フレーム内に厚木基地の(今度長距離ミサイルを搭載するらしい)輸送機が入ってきてしまい、狂喜乱舞しました。というのも、何度か過去の作品で芝居のフレームの中に飛行機が入るのを狙っても成功したことがなかったんです。音も含めて、まさにカオティックなディオニュソス的シーンだと思います。厳密にいうと、ミトたちが川沿いでファンに追われる辺りから画の色味も変わり、音声上のノイズもどんどん増えていき、天上界に住んでいた神たちの世界が現実の喧騒によって侵食されていきます。

──二冊の本を小道具に使っています。それらを読むことでも監督が語りたいことに近づけるかと思います。宮崎映画は細部に導線が張られている、ハイパーリンクみたいなイメージがあります。

映画に映るすべてにできるだけ意味を持たせたいし、情報量が多いハイコンテクストなものが好みです。見るたびに発見があり、新しい世界への扉になってくれるような。そんな作品をいつも目指しています。

──今回の一冊は絵本です。監督のセレクトでしたか?

そうです。『かめんやさん』(2016/文:まきうちれいみ 絵:ひだかきょうこ )はほぼ本作と同じ物語で、そこにあるのは資本主義の空虚と自動性です。

──ブラックなエンディングの雰囲気も通じ合います。もう一冊は澁澤龍彥の訳書のなかでもよく知られる小説ですね。

あの状況でミトが読みそうな小説を選びました。

──退廃がミトに響き合っていると感じるし、訳注すなわちレファレンスが多い点も監督の映画に似ている気がします。澁澤龍彥は鏡にまつわる文章を幾つか書いています。鏡や鏡像のモチーフは『大和(カリフォルニア)』にはじまり、今回より一層複雑になった印象を受けます。

今回は鏡像というより、双子のイメージを徹底的にやろうと思っていました。結果的にシナリオの構成とは異なるシーンがオープニングになりましたが、ミトが鏡に向き合って自己紹介の練習をしているところへミホが入って来るのがそもそもの冒頭のアイデアでした。ぼくは古典的な、ファーストカットで物語のすべてを語らねばならない主義者です。鏡といえばもう一点、気づかれないかもしれませんが、終盤のある展開以降は、街にいるミトがガラスに反射しないようにCG処理しています。足音の処理に加えて反射しないことで、都会をファントムが彷徨っているイメージを出したかった。これはぼくからの提案でしたが、鏡の演出はステファニーが提案してくれることが多かったですね。前半の映画スタジオの楽屋の鏡も、手間はかかりましたがトリッキーなことをしています。

──ミトの反射は不覚にも見落としていました。漠然とした違和感が随所にあることは感じるのですが。

見た人は皆そうで、「この変な感じは何だろう」という話題になったときに「実は鏡が……」と話すようにしています。『リング』(1998/中田秀夫)のアメリカ版『ザ・リング』(2002/ゴア・ヴァービンスキー)は不気味な雰囲気を醸すためにCGであらゆる登場人物の影を消したそうです。結果、誰も気づかなかったそうですが、確実に何らかの効果を見る人の深層心理に与えていて、すべてが白昼夢のように見える。本作の終盤にもそういうちょっとした趣向を採り入れました。ぼくはやはり人間の深層心理の操作に興味があるんでしょうね。
鏡像を消すことは歴史性や存在理由を剥ぎ落とすという本作のテーマにも関わっています。「鏡に写っている自分を消されてしまった者」は「居るんだけど居ない」状態になる。いつのどこかもわからないがそれでも確かに「居る」何かは、インターネットの中ならば居場所があるのかもしれない。そもそも鏡像は虚像ですし、己の姿は確認できずとも確実に存在してしまう認識の怖さをこの映画で描きたいと思いました。

──監督はそうした自己同一性のゆらぎをずっと描いてきました。

ぼくはよく周りの人から写真写りが「良い」と言われたり、「悪い」と言われたりします。前者は普段のぼくの姿を形状的に整っていない、後者は整っていると捉えているんでしょうね。そこにはその人の主観がダイレクトに投影されます。そして、たまにイベントなどで一度に数台のカメラで撮られることがあります。そんな時に「一枚も宮崎さんに見えない」と言われることも多々あります。機械がさまざまな角度から無作為に撮影したものなので、その人の主観よりカメラの客観性の方が勝るに決まっているけど、そういうことがぼくにはたびたび起きるので、やはりその同一性の不一致は面白くも、怖ろしいと感じます。

 


──そうした〈ずれ〉も監督が描き続けてきたもので、今回は特に『大和(カリフォルニア)』のオリジナルとコピーの問題を問い直しています。現時点での「コピー」に対する考えをお聞かせください。

無思考なオリジナル崇拝は論外として、やっぱり「オリジナルなコピーになりたい」という欲望は拒否できないと思っています。コピーであることを受け入れつつも、そこにオリジナリティらしきものを若干でも差し込みたいという。以前も言いましたが、『大和(カリフォルニア)』は当初のプランでは「自分たちはコピーだ」で終わるつもりだった。しかし現場でサクラ役の韓英恵さんから「単なるコピーというのには納得がいかない。せめてオリジナルなコピーであるというニュアンスを持たせたい」と提案を受けて変更しました。「ただのコピーであることを自分たちは果たして全面的に受け入れられるのか」という頭でっかちでシナリオを考えたが故に、現場で生まれた現実の葛藤がありました。その結果、われわれは「コピーとして開き直って、オリジナルなコピーになる地点」を目指したわけですが、映画の中の言葉の出方としては、コピー性を一度受け入れていない「私たちはオリジナルになれる」という、単なるオリジナル崇拝に捉えられなくもないニュアンスになりました。そんな懊悩を抱えながら改めて地元の友人たちと話すと、「オリジナルなコピーがどうのなんてわかりづらい、あのサクラがそんな風に考えるかな」とやはり言われてしまい、それはあくまで哲学やアート云々と言っている人間の机上の空論で、戯れにも思えたんです。誰とも違う人生を歩みこうなってしまった、今の状態にある自分を受け入れながらどう生きていくかという問いの方がリアルに思えました。自分がコピー以上でも以下でもないことを論理的には受け入れながらも、それをいまや感覚的に全肯定できない自分はなんなのか、じっくり考えてみたいと思っています。思想の証明のために虚無に陥り幸福から離れては元も子もないような気がするので。
そんな感じで複製・コピーの問題については今もよく考えますね。本作を紙のコピーに喩えれば、コピー機で複写を繰り返して元の素材が何だったのかわからなくなるほど薄れた、もしくは濃くなった何かと言えるかもしれません。最後のミトヤマネは徹底的にかすれてしまい、面影らしきものは残っていても、はじめに何が書かれていたのかもわからなくなった限界コピーのような存在です。複製・コピーの可能性をこの10年考えてきて、その第1章・最終形態として本作があるような気がしています。「過去も歴史もなくなり、もはや帰る故郷もどこだか忘れてしまったけど、それでもここに存在している私はどうすればいいのだろう」という感覚というのか。

©2023「#ミトヤマネ」製作委員会

──カセットやビデオなどのアナログメディアもダビングを繰り返すたびに劣化してゆきますね。

デジタルメディアでもコピーを繰り返すと少しずつノイズが乗って変化が起こりますよね。そういう差違と反復に興味があるし、最近は自分の映画づくりとは〈なんとなく心地よいずれ〉を設計と偶然でつくってゆく作業のように感じます。設計と言うと「他者性がない」とか「自分の庭で相撲を取っている」という批判も出てくるでしょうが、偶然を呼び込むベースとしての設計=演出は必要だと思っています。同時に、そこからも完全に解放された、よくも悪くも単なる〈ずれ〉の記録としての映画はあり得るのかとも考えます。それが心地よいか心地よくないかを峻別する、演出するものが他ならぬ自己なのでしょうが。繰り返しになりますが、ぼくの映画制作=人生は制御されたノイズ=カオスを生成する作業と言えるかもしれません。

──もう少しコピーの話題を続けると、パソコンやスマホを日常的に操作する際に液晶の向こうのプログラムやアルゴリズムはこちらをオリジナルとは認識していない。コピー群のワンオブゼムでしかありません。そうした人間のデータ化の問題も本作を含めて監督が問い続けるものです。

まったくそうで、向こうはこちらをただのデータの束、数列と捉えているでしょうね。その意味でも他者と直接出会い、存在を感じることはとても重要だと思っています。

──出会いには偶然性も入ってきますね。

直接出会い、お互いを感じる、承認することが大切だと言いましたが、出会うためにも数多の偶然を乗り越えなければなりませんよね。ただしその偶然を物語化してもまた運命の魔の手が待っているので、本当に前触れもなく誰かとたまたま出会った、そしてお互い存在していたと曖昧に確認する。そういうポイントに唯一性は存在するのかもしれません。

──『PLASTIC』(2023)はその可能性を描いた映画でした。さて、コピーを重ねた末にラストでミトがどうなるか。手ぶらなのがひとつのヒントかと思います。

あそこではいろいろなものからの解放感が欲しかったですね。資本や所有、承認からの解放というか。フワフワ身軽で、白装束ではなく黒い服を着ているけど、幽霊や妖怪っぽくもある。誰もがスマホと財布を手放せない現代社会で手ぶらというのもある種幽霊っぽい。貨幣や情報や記号が消え去ったあとに残るのは、ランダムな出来事だけです。

──ラストのスリルからは『PLASTIC』と同様にタイムカウント映画だと感じたのですが、いずれにせよ最初の顔合わせで玉城さんに告げた生成変化がミトに起きていて……

『PLASTIC』のラストが一種の殉教者──偶然を信じないようにしながらどこかで信じて生きる──のイメージだとすれば、ミトは偶然の出来事を発生させる何かしらの存在になった、あるいは存在が消え失せた今の日本の時代意識そのもののイメージと言えるでしょうか。引きこもるか、ニヒリストになるか、それとも……と、ドストエフスキー的なイメージから組み立てていきました。主人公のこういう極端な在りようは、これまでの自分の作品で描いたことがありません。脚本作は別として、監督作はいつも仄かな希望を見せて終えていました。しかし今回は同じく2023年公開となった『PLASTIC』の否定神学的なラストと対で考えたところがあるかもしれないですね。ミトは結局『火の鳥』(1954-1988/手塚治虫)の永遠に存在する意識のように隙間やはざまにいつまでも存在するもので、外部に向けて何らかの働きかけを出来るのならばそれは人々から暴力と見なされるだろうし、そうでなければただ見守る温かなまなざしになる。そんなイメージです。

(インタビュー後編に続く)

(2023年8月14日)
取材・文/吉野大地

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