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『PLASTIC』 宮崎大祐監督ロングインタビュー(前編)

©︎2023 Nagoya University of Arts and Sciences

プエルトリコのアレシボ天文台より2万5千光年先の距離に位置する星団に向けてメッセージが発信された1974年に消息を絶った幻のミュージシャン〈エクスネ・ケディ〉。およそ半世紀を経て、その音楽に魅了された高校生イブキ(小川あん)とジュン(藤江琢磨)の出会いから、2022年のエクスネ再結成ライブまでの4年間の恋愛模様を描く青春音楽映画『PLASTIC』がまもなく公開される。ふたりを結び付けるアイテムであるレコードが2つの面を持つように、カラフルでポップな画面の裏面には監督・宮崎大祐の思考が刻まれ渦を巻いている。天体望遠鏡を覗く気分で監督へのロングインタビューに臨んだ。

 


──監督の映画のテーマのひとつに「出会えるか出会えないか」問題があります。突き詰めると実在論や偶然性の問題に発展する問いで、『TOURISM』(2017)公開時の取材ではくらもちふさこさんの漫画を例にお話しいただきました。ボーイ・ミーツ・ガール映画である本作からもくらもち作品に似た感触を覚えますが、その類似性を意識しはじめたのはいつ頃でしたか?

最初に「くらもちふさこを研究したら?」と提案してくれたのは小説家の横田創さんでした。自覚的になったのはそれからです。

──『TOURISM』を撮る頃でしょうか。

それより前でしたね。「出会える」ことのすごさは昔からずっと感じていました。携帯電話が普及する以前、「家電」の時代には友達と待ち合わせをしても会えないことが多くあって、その体験が積み重なりました。「最寄り駅に着いたけどどの辺にいる?」という気軽な問いかけもいまや普通ですが、家電の時代は事前の約束をするだけでもハードルが高かった。まず高確率で親が電話を取ります(笑)。そういう経験の集積が人生の1ページとしてあって、やっぱり「出会える」のは純粋にすごいことだと思い続けてきました。

──本作のサウンドトラックには「イエデン」(井手健介と母船)も入っています。

幕開けから2曲目が「イエデン」ですね。親を介さないと恋人に電話も出来ない時代の終わりから物語がはじまり、スマホの時代に入ってゆく。うっすらとそういうイメージがありました。

──「イエデン」はある形で視覚化されますが、エクスネ・ケディは幻かつコンセプチュアルなミュージシャン……、とひとまず呼ぶとして、それを映像にするには捻りが必要だったかと思います。どんな構想がありましたか?

劇中に写るのは「エクスネではなくヒッピーバンドだ」と音楽を担当した井手さんに言われました。でも、どこか一ヶ所それっぽい姿を出さないと音楽映画として食い足りないと思ったので、森のシーンにバンドが必要だろうと考えていました。それがエクスネじゃないのか、あるいはエンドクレジットに示される「PLASTIC KEDY BAND」なのか、ただの「森のバンド」なのか。その名付けは見る方に任せるけど、限りなくエクスネに近いものを表出させようとは思いました。

©︎2023 Nagoya University of Arts and Sciences

──世間一般で「幽霊」と言われている対象をどう捉えるかという問いに近いかもしれませんね(笑)。

まさしく(笑)。そのような仕掛けがたくさんあります。

──タイトルは監督が普段から考えておられることを端的に示すワードだと思います。

先日、次作『#ミトヤマネ』のキャンペーンで宣伝担当者から「宮崎さんの作品は変で印象的なタイトルが多い」と指摘されました。「変な」は少し心外でしたが(笑)、自分としてはどれも練ったタイトルだと思っています。『PLASTIC』はフェイクと嘘ばかりの世界で、騙し騙しながらでもどう楽しく生きるかという感覚に最もフィットする単語でした。デヴィッド・ボウイがアルバム『ヤング・アメリカンズ』(1975)を「プラスティック・ソウル」と称したセンスや、レディオヘッドの楽曲「フェイク・プラスティック・トゥリーズ」にも通じるだろうし、消えたくても消えられず、公害をもたらす一方で、ある刺激に対しては柔軟で可塑的でもある。どうにでも変化できる特性が現代らしいと思いました。
今の社会は可塑性を認めないじゃないですか。たとえば「あいつは左翼だ」「右翼だ」と決めつけて「はい終了」となる。そうじゃなくグネグネして定まらず固まらず、ヴァルナラブルだけど分解されないプラスティックがまさに人間だな、とも感じていてタイトルにしました。あとは『大和(カリフォルニア)』(2016)のファーストカットでも描いたように80年代までの喧騒以降の約40年間、ひたすら埃が堆積した日本の風景のイメージにも近いですね。

──PLASTICSと彼らの楽曲「COPY」(1979)のイメージも湧きました。「複製」は監督が描き続けているモチーフで、特に『#ミトヤマネ』はその総決算とも呼べる作品です。

PLASTICSのことももちろん念頭にありました。軽さや薄さ、ポップ、表層性など、様々な想像力が働く単語ですね。

──本作のサウンドトラックのプロデューサーである石原洋さんの2020年の傑作アルバム『formula』のジャケットがクリア・プラスチック仕様だったことも思い出します。今回は「青春」「音楽」「エクスネ」の掛け算と言える作品で、これらはどのように重なっていったのでしょう。

2000年前後に映画美学校に「アメリカンハイスクール映画分析ゼミ」があって、講師は古澤健さん、ゼミ生は実質ぼくだけのほぼ個人講座でした。そこで「アメリカンハイスクール映画は何が面白いんだろう。日本でやると滑るのに」といった研究をしていて、古澤さんは実作しましたが、ぼくはその機会がなかった。でも当時から音楽ものの物語で青春映画をやりたいとずっと思っていました。具体的にはヴィジュアル系のバンドもので、企画を持って色んな方面を当たってみたものの、よい反応を得られなくて。
ヴィジュアル系好きのプロデューサーやプロモーターに会いに行こうともしました。本当に好きでブームの時期に熱心に聴いていたけど「今の自分にどれだけ説得力があるだろうか」と考えた結果、もっとロック全般──グラムやサイケデリック、メタルも含めた──を巻き込む方向へ軸を変えようと思っていると、コロナ禍にAFF(ARTS for the future!/文化庁による映画製作補助)で映画を撮れる流れになり、「こんなことをやりたい」と本作のプロデューサーでもある樋口泰人さん(boid)に相談すると、「boidがレコードをリリースしているエクスネを絡めるのはどうか」と提案してくれました。ただAFFの予算だけだと厳しくて、「1年待てば名古屋で長編が撮れる」という話になって2022年まで待つことになった。だからそもそもの青春ものの構想に音楽、そしてエクスネが入っていった形ですね。

──イブキとジュンが出会い、エクスネの話題で意気投合するシーンのアメリカン・ダイナーにハイスクール映画の構想の痕跡が見られます。でも監督が撮ると、フィルターをかけた「架空のアメリカのような何か」になっている印象を受けます。劇映画なので架空であることを前提にしても。

「アメリカに憧れる架空のアジア」的なイメージですかね。もうアメリカに対する憧景って昔ほど存在しない。それを敢えてやることで違和感とキッチュを際立たせられれば、と考えました。「日本ではない」と見た人はみんな言いますね。天文部の部室など、随所に東南アジアらしさもある(笑)。

──色彩のもたらす効果が大きいと思います。

部室に使ったスペースには元から黄色いビニールカーテンが付いていましたが、昔からピンク系やサイケデリックな色彩が好きでした。たとえばhide(X JAPAN)のサイケ柄ギターやサイケデリックアート。当初の構想ではポール・トーマス・アンダーソンだったのが、最終的にこれほどサイケになったのは自分の色の趣味ですね(笑)。衣装やライティング、背景の色などにそれが出ています。普段から目をつける景色が周りと少し違う自覚はあって、理由を考えると何かが起きそうな雰囲気と色彩に意識が向かっているのかもしれません。自分の映画の色はたしかに妙だと思うし、そこにカラリストのゴンサロ・フェレイラの手が加わるとより強調されます。

©︎2023 Nagoya University of Arts and Sciences

──衣装に絞り染めのTシャツを使っています。以前、監督が派手な絞り染めTシャツを着て舞台挨拶に登壇している画像を見て「このセンスは何だろう……」と考えましたが、今のお話で納得がゆきました(笑)。色彩とは真逆に映画の構成はシンプルな章立てです。同時に『北新宿2055』(2021)を反転させたような奇妙な時間感覚も併せ持っています。

元々そのような多元性や無時間性は好きですね。コロナ以降に『北新宿2055』や、本作とほぼ同時に公開される聖書の十戒に触発されたオムニバス『テン・ストーリーズ』を撮り、講師を勤める映画美学校では章立ての実習制作をおこないました。子どもの頃は章立てのドラクエⅣも好きだった(笑)。でも最終的に全員が合流するカタルシスは自分の今の時代認識に沿わない思いがあって、本作には散り散りになったエピソードや視点が観客の解釈によって重なったり触れる瞬間があるという多元的な構成と、時間軸を遡る一方で未来へ飛んで、自分がどこにいるかわからなくなる『北新宿2055』のような作劇への関心が強く反映されました。

──ただ時系列ははっきりしていて、2018年から2022年までの夏のみを描く形式です。

そこはわかりやすくて、1年ごとに8月の状況が変わっていく展開になっている。真夏の青春映画です(笑)。

──監督の作品のなかでは最もわかりやすくつくられていると思いますが、その背景に独特の世界認識があるのを感じます。

自分の創作の理想形はハリウッドのメジャースタジオ映画だけど、背骨に思想やテーマ性の強さがあるとベストです。メジャーだけどマイナーをやっている。音楽でいえばビーチ・ボーイズやビートルズ。昨今だと聴きやすさや時代性の裏に職人芸や思想的な何かが張り巡らされたメジャーのヒップホップ。だから2面、2層あるものが好きですね。これまでの自分の映画の比率は7:3くらいで、同時代性や「今これをやることに意味がある」という思想的要素のほうが大きかった。それが本作では6:4で、ポップさや親しみやすさが6、そのほかが4くらいの割合でしょうか。後半は5:5か4:6に反転しますが、極力半々に近づけて誰もが接しやすい作品を意識しました。
ただ難しいと思うのは「共感性」の部分です。「このキャラクターに共感した」とか、「あるある」的な「昔の恋を思い出した」といったリアクションはあまり本意ではありません。もちろん嬉しいけれど、それは他者との遭遇じゃなく、自分のなかにすでにある歴史に接続しているだけの営みだと思うんです。

──再認ですね。それも映画の楽しみのひとつではあるのでしょうが。

そういうリアクションもありがたく感じるのと同時に、「そうじゃない、『何だ、これ?』『こんな人間がいるのか?』と感じる体験こそが映画だ」と思っています。でも今回、どちらでも楽しめる作品にしようとしたのは確かです。

 

──2面という言葉から連想したのは、A面とB面に分かれたレコードみたいに感じる映画があります。本作と同じく黄永昌さんが音響を手掛けた『TOCHKA』(2009/松村浩行)もそういう作品でした。今回はレコードそのものも重要なアイテムです。

そう。A面がポップなシングルのベスト盤的な流れで、B面はインスト集かと思いきや、ループするノイズミュージック1曲みたいな構成になっていますね。

──前半の登場人物たちが後半は不在になる展開もそれを強調しています。

コロナがピークの頃の認識、街から次々と人がいなくなったあの空気感を出したかったんです。

──構成では2020年が真ん中になり、ちょうどそこに真正面からのカットが入ります。

正面カットがやはり好きで、転換点で使いたくなりますね。あのあたりから映画が反転に向かいます。

──撮影は『空に住む』(2020/青山真治)の中島美緒さんで、監督と組むのは短編『Caveman’s Elegy』(2021)に続き2度目です。タイトにフレームを切る撮影者というイメージがあります。

大阪を舞台にした長編前作『VIDEOPHOBIA』(2019)のように撮るつもりは中島さんもなかったでしょうし、青山さんのフレーム感へのオマージュがぼくのなかにどこかあったかもしれないですね。あと「顔の映画」は『VIDEOPHOBIA』で撮り切ったので、名古屋の風景や場所をどう切り取るかと考えた結果、このようなフレーミングになりました。この物語で顔の寄りの画が続くときついだろうと思って、きめどころ以外は外しています。前半はタイトめで、後半から人間の孤立感を強調するために広がってくるように撮られている。特に序盤に中島さんの感性が表れていますね。

──後半は「インスト集」の喩えさながらにセリフがぐんと減って音楽映画の要素が高まります。セリフやモノローグをもう少し使おうとは考えませんでしたか?

撮っていて気付いたのは、ぼくはセリフがあまり好きじゃないようです。映画へのフェティッシュや「ああ、自分はこれがいちばん好きだ」と感じるのは「ただ人がいる」状態です。そこに人間がいたり、歩いているだけの姿を観察している状況が好きだとわかってきた。ただいるだけの人は不必要に喋らないし、歩きながらベラベラ話すのもよく考えると不自然といえば不自然です。世界が言語ゲームで出来ている事実を認めつつ、その外へ行ける可能性があるのも映画の面白味だと思うので、そういう意識が働いているんでしょうね。言葉より映像を信じているとも言えます。

──確かにそう感じる一方で、近年の監督作に窺えるのはどうでもいいセリフの洗練です。聴き流してもよいし、何かを汲み取ることも十分可能だけど、物語の展開に貢献しているかといえばそうでもない。作為的にダラダラした日常の無駄話をセリフにしたものとも異なります。

それもフェティシズムの発露なのかもしれません。セリフを語るうえでとても好きなのが、どこへも向かわない会話です。作者の都合でカタルシスに向かおうとする会話じゃなく「尻を取らない尻取り」みたいな、その場の言葉の応酬。意味のなさを演じている風には見せたくないけど、ただ言葉が流れてゆくのが好きです。
たとえば坂元裕二さんの脚本は「このセリフを聴かせたいがためのリズム」や、あるシチュエーションへ向かうための構成が周到に練られています。オムニバス『MADE IN YAMATO』(2021)の一編『エリちゃんとクミちゃんの長く平凡な一日』の脚本は自分なりに坂元脚本をリミックスしてみようという意図で書きました。成功すれば最後に一種のカタルシスが生まれるけど、失敗すると途中で瓦解する書き方です。本作にもそうした坂元イズムと、そもそも持っている「世界なんて所詮こんなものだろう」というポジティヴな諦めがあって、馬鹿々々しいほど嘘くさくてロマンティックなことを語ってもロマンから外れてしまう部分に味が出ればいいなと思っています。

──伏線を回収する作劇が少なからぬ映画ファンに受け入れられているなかで、監督はそっちへは向かいませんね。

最近は珍しくサスペンス小説なども読んでいます。そこで使われるのは伏線のための情報操作、いわばプログラミングです。それもまた苦手で、現代の人々の映画鑑賞の多くがそうしたプログラミングの消費になっている気がします。映画的な満足が足りなくなるとしても、敢えて目的のない言葉を並べて、コミュニケーションを繋げていくことが自分のささやかな抵抗であるように思います。Googleの検索や地図に頼らず、統制されたシステムに回収されないところに逃げていたい。それもたぶんセリフの狙いとしてあるでしょうね。
『VIDEOPHOBIA』の頃から目指していたことですが、映画制作にはあらゆる段階で作者の認識が世界を統制しようと入ってくる。統制を演出とも呼べますが。それに対する限りなくただの世界の記録映像──カメラをただ置くだけでも作為は入り込んでしまうけれど──に近づく撮影手法や言葉のやり取りに憧れるようになりました。世界のカオスを、ディオニュソス的なものをそのまま記録するというか。極力こちらの介入を減らして、世界をそのまま撮る。本作と『#ミトヤマネ』では、そこにかなり踏み込めたと思っています。アポロン的なものを嫌うというか。

──ニーチェですね。デビューからの10年強、監督とあれこれ話してきて、そのほとんどがどこへも向かわない会話だったようにも思えます(笑)。しかし一貫した話題として、ニーチェやドゥルーズの思想がありました。

自分にとってはディオニュソス性のない映画制作は、デスクトップのなかで完結するアニメのような、ただの絵コンテの具体化になってしまう。そういう意識の高まりも関係していると思います。ドゥルーズやニーチェの言葉の真意はわからずとも、なんとなく「こう考えているだろう」という感触があって、それを映画で表現するならこういうことかなと。さらに彼らの思想に含まれる西洋中心主義も無くして、アジアのなかの日本で育った自分の思想を見直してみたかった。
本作も「何か変だな」とは見る人には伝わると思うんです。すごく不安定なものが揺れ動いている。それは生きている世界そのものに限りなく近い筈だから、「コントロールされた映画」とは少し違う。作為が入るのは世界を括弧に閉じることでもあって、それに対する疑いと思考は繰り返しています。でも横田創さんが『(世界記録)』(2000)という作品をすでに発表していて、先にやられていました(笑)。

──ほかに、ここ数年で創作に対する発見はあったでしょうか。

「あの監督は人間を撮れている/撮れていない」という議論があります。自分は何よりも人間が撮りたい。でも撮れる人間ではないのかも、と最近わかってきました。たとえば溝口健二の映画はすごく様式化されているのに、人間が写っていると感じさせる瞬間がありますよね。あそこまで被写体を突き放しながら、まるで自分の一部のように愛してやまないことも感じ取れる。そのポイントはとても興味深くて憧れます。徹底的に冷たくても、どす黒い愛情を感じさせるところが好きですね。ああなれたらいいなと思うレベルですが、一方に森崎東のようなわかりやすい人間の写し方があるとすれば、自分はそれにはなりたくてもなれない。ほかに「人間を撮っている」と言われているのは誰でしょう。

──「重喜劇」の今村昌平?

今村昌平は意外と人間に興味がないかもしれません。ただそこは好みで、色々なタイプがあっていいと思います。ドロドロしたカレーが好きか、スープカレーが好きかくらいの違い程度で。たとえば黒沢(清)さんはヒューマンよりマテリアルに振り切っていて、青山さんはそのアンチテーゼとして色々思索されてヒューマン、俳優第一主義のほうへも行こうとした、というのがぼくの見立てです。
じゃあ自分はどう被写体と向き合うのか? ヒューマニズムやいわゆる「寄り添う」のを目指しても実際問題として卑近な被写体以外とは距離が生じるでしょうし、それでも自分が何を出来るのかは楽しみなところでもありますね。

──監督が映画で描き続けているテーマには「中心と周縁」もあります。本作ではそれを名古屋と東京、さらにそのあいだの移動で表現します。

先日、名古屋学芸大学の授業でもそのことを話したんですが、語りはA点からB点への移動か、不在の中心の周りをぐるぐる回るOもしくはQの字型のふたつの動きで規定されます。だけど日本には海が多いため、A点とB点のあいだに「/」が入ってしまい、海にたどり着いて終わりのパターンが多い。「これまでは海の外のBは外部であるという想像力に任せてきたけど、今の世界は外に何があるかがわかっているから、外部のない世界で何を撮るかが求められている」と話しました。
そこで有効なのは、OもしくはQの字型で不在の中心に向かって進める方法です。それはAR(拡張現実)やVR(仮想現実)やポケモンGOのやり方でもあって、ともすればファシスト的な力として作動してしまうけど、ジョイスやプルーストの時代から作劇としておこなわれている。でも稀に直線型とOもしくはQの字型が結び付くケースもあって、『EUREKA』(2000)は円形の運動と同時にA点からB点へ向かう運動があるからいい映画だ、とも伝えると、生徒たちはそれをどう組み合わせるかを考えてくれました。

──『TOURISM』の主人公・ニーナの移動はリヴェット的な円形でしたが、今回はそれにヴェンダースが加わりましたね。

そうです(笑)。ヴェンダース的にA点・名古屋からB点・東京へ向かうジュンと、リヴェット的に渋谷をぶらぶら回るイブキがクロスするイメージがあって、直線的に移動するジュンも地元・名古屋の朝や渋谷の交差点では回っていますね。

──あの回転の運動はレコードが回るカットに呼応しているとも捉えられるでしょうか。いずれにせよ、ここまでの監督作には「回ること」がありました。

『夜が終わる場所』(2011)や『大和(カリフォルニア)』は同じ無為な場所をぐるぐる回り、『TOURISM』はA点(大和市)を回っていた子たちがそこからB点(シンガポール)へ飛んでまたC点やD点を回り、『VIDEOPHOBIA』も相変わらず大阪の街を回った。本作では両者が回って交錯した末に相互交換が起きるという初めての回路が生まれました。『#ミトヤマネ』では回っているのか、それともA点とB点が存在するのかさえ分からない中心の不在と散在の気味の悪さを狙っています。

──そのラストに向けた移動の時間を、アヴァンタイトルを反復するようなクロスカッティングで構成しています。

今回、後半のクロスカッティングは珍しくカット表をつくって臨みましたが、紙に書いたものはうまくつながっているのに、音楽を流して実際に編集してみるとリズム感が違うんです。交互にしなくてもよかったり、2カット続けてみたり、「背景のつながりで考えるとこっちのほうがいい」と色々なヴァリエーションが出てきて予定通りにならない。むしろそれが面白かったですね。あいだにエクスネのライブ会場の盛り上がりを挟むのもありだろうけど、イブキとジュンにフォーカスするのがよいと判断しました。

──ジュンの車での移動シーンは、車窓からの風景の変化も目に残ります。運転する車は光岡のビュートで、ネーミングの由来が「風景」。ちょっと面白い符合だし、これまで主に郊外を撮ってきた監督が、あからさまに都市をカメラに収めているのも興味深いです。

日本の風景が東京とそれ以外の二択になりつつある、東京も早晩「それ以外の風景」に飲み込まれるという意識がありました。ヴェンダースは東西ドイツの国境沿いを記録しましたが、この映画では東京らしさがまだあった時代、その境目の記録というつもりで撮りました。「それ以外の風景」とは、郊外や田舎をも飲み込んだ、ファストでプラスティックな風景です。田舎のららぽーとと渋谷のスクランブル・スクエアはもはや変わらないと思います。

 


──サウンドトラックには既存の楽曲に加えて、本作のためにつくられたものもあります。撮影までの時点でデモ音源的な素材はあったのでしょうか。

部室で踊るシーンや森のバンドを除いて、ほぼ出来ていませんでした(笑)。ほとんどが映像を見てつくってもらった曲で、ラッシュの段階では皆あまりインスピレーションが湧かなかったようですが、ゴンサロがグレーディングを施してからは作業が進みました。

──井手さんや石原さんの音楽の引き出しの多さを考えると出て来る音を想像するのは容易ではないでしょうし、デモもないのはハードルになりませんでしたか?

書く際にベースになるシーンで鳴る音楽を想像はしましたが、やっぱり仕上がるとずいぶん変わりましたね。でも何事も予想外の驚きが一番うれしいじゃないですか。それだけ全面的に信頼していました。映像を見た井手さんから「演奏し直したい」と提案もあったし、サウンドによる異化効果を狙ってもらった部分もあります。仕上げではベタに音楽を乗せるより、ずれの生まれを優先しました。それが際立つように、音楽を抑えるべきところは抑えています。
最も議論を重ねたのはイブキの〈幻視〉のシーン。あそこで流れる「Relations」は石原さんのセンスが強烈に発揮されたスコアで、どうしてもあのシーンに入れたかった。でもあまりにも違和感が大きいのではないかという懸念もあって、入れるとしても店内のBGMの体にするのか、完成した作品のように明らかに不自然なところから大きな音で鳴らすのかをかなり話し合いました。音を乗せる前は樋口さんから「(シーンが)長い」と意見があり、乗せたあともスタッフから同様の声がありましたが、冨永(昌敬)さんっぽく、それからうまくいけばゴダール風になるかなというイメージもあったし、全体がポップだからひとつくらいはこういうシーンがあってもいいだろうと考えました。

──ロックを題材にした本作にメロウな「Relations」を持って来る石原さんのセンスに感嘆しました。カメラは同軸で寄ります。

序盤のアメリカン・ダイナーでふたりが親しくなるカットのトラック・インを想起させるカメラワークでありつつ違うタッチにしたくて、普通はやらないだろうけど同軸で切っていきましょうと提案しました。

──異化効果を生むか、ベタに転ぶかのラインで成立しいているシーンで、みどころのひとつです。

あとは最後の音楽をどうするかも課題でしたね。はじめは「人間になりたい」を付けるつもりでいたのが、井手さんが「歌詞のない曲がいいのでは」と提案してくれて、ドラムの入った曲を考えていたそうですが、色々なやり取りを経て石原さんが「ここは引き算にしよう」と意見を出して今のドラムレスな形になりました。

©︎2023 Nagoya University of Arts and Sciences

──予告編にも使われている部室のシーンでジュンがギターをかき鳴らします。あの歪み(ひずみ)の音色はどのようにつくったんでしょうか。

現場ではアンプから音を出さない演奏だったので、スタッフ皆が「このシュールな状況は何……?」という雰囲気でしたが、仕上げで色々試せるだろうと思っていました。最初にぼくと黄さんがつくった音は、我々がイメージする石原さんのファズの音をベースにした映画プロパー的にはこれという音でしたが、あとから井手さんと石原さんが加工してくれた音は本人の機材を使っていて、音楽プロパー的にはこれという本物の音で、不思議なことにそれぞれの用意した音を自宅で聴くのと、映画のポスプロ・スタジオで映像付きで聴くのとでは全く印象が異なるんです。その違いをスタジオで確認してどれが最適かなとなったときに井手さんが、黄さんの作ったヴァージョンの低音域をカットして灰野敬二さんや裸のラリーズのような歪みにしようと提案してこの音に着地しました。ぼくが想像する石原色は薄れたけど灰野・水谷(孝)色が増して、「何故ここで突然灰野さんやラリーズになるんだ?」と言いながら(笑)。
先日、Alexandrosの元ドラマーの庄村聡泰さんが取材に来て「あの音はプロのミュージシャンが聴いても驚くほどクオリティが高い」と言ってくれて嬉しかったですね。

 


──「歪み」も監督の映画に欠かせない要素です。『VIDEOPHOBIA』の作品世界は歪んでいたし、画面の質感もファズ特有のザラつきに似ていました。それから自分の周りにギターを弾く人がそれなりにいるなかで、Sunn O)))モデルのエフェクトを持っているのは監督だけです(笑)。漠然としたことでよいので、「歪み」に関してお話しいただけますか?

「歪み」という言葉を知ったのは漫画『疾風伝節 特攻の拓』(原作:佐木飛朗斗/作画:所十三)でした。それまで日常生活でそんな言葉を使う機会がなかったから、中学生のときに「ひずみ? それともゆがみ? これって何だろう」という疑問からはじまり、音楽に興味を抱いてBOSSのディストーションペダルなどを見たのが歪みとの出会いです。音楽に限らず、クリーンで小奇麗なものにはどうも反応しなくて、現実が変な形に歪んでいるのが好きですね。
この取材で大阪へ来る新幹線の車中でEARTHを聴きながらプレモルのロング缶を飲み、『惑星ソラリス』(スタニスワフ・レム)を読んでいると、言葉に出来ないくらいの快感を覚えました。名古屋から大阪のあいだには斜度があるので傾きつつ、アルコールと新幹線の速さに加えてEARTHのドローンサウンドと『ソラリス』の海の描写に酔うのは「こんなに気持ちいいことがあっていいのか」と思うほどの体験で、かなり遠いところまで連れて行ってもらいました(笑)。

──『特攻の拓』の有名なフレーズ「スピードの向こう側」ですね(笑)。

あとは劇中にジュンが「俺がプレイしている音楽って何?」とイブキに問うくだりがあります。彼女は「何て答えていいのかわからない」というような表情で無言のリアクションをしますが、それは当然で「歪んだノイズ/アヴァンギャルドでしょう?」とは言い返さないだろうから、ちょっと面白いシーンではありますね。

──シリアスで重要な場面なので、現実的にそう答えてしまうと一気にムードが崩れます(笑)。

(笑)。彼は歌も歌いますが、この映画では感情と弾く音が直結しているときの姿がいいですね。先ほど話題にのぼったスタジオでギターを弾いているカットのトレモロの揺れは井手さんたちが付け足してくれました。まず黄さんと電車のノイズをつくって、それにトレモロが重なると、シアター・イメージフォーラムで上映前に流れているような音になって(笑)。あそこもギターの音色をかなり変えました。

──あのワンカットは空間を広めに取っていて、LINEのメッセージがそれを埋める形になっています。

LINEは現場出しで、タイミングが滅茶苦茶むつかしかった。ぼくがメッセージのカンペを出して、隣にいる助監督が送信すると、受信した藤江くんがリアクションする。実際に打つタイミングより早く返さないと芝居のリズムが狂うんです。おそらく劇中で最も複雑な演出になったのは、スマホを見て反応しながらギターを弾いているあのカットでした。引きの俯瞰の画は何もなければ早く切るべきだけど、前半のテンポに比べてベタッとした広い画に音とテキストを乗せるだけで孤独感を出すことを狙いました。長さから考えればリズムや寄りを求められるでしょうから、挑戦的なカットです。

──LINEはあとから合成したものだと思っていました。

現場で読んでいるふりだと、あれだけの間の芝居は持たないですね。カットを割ったりアングルを変えることで誤魔化せますが、あとで合成するとしても、撮影時にテキストが出来ていなければ藤江くんのリアクションも変わるのでリアルタイムで構築しました。自然なようで、ものすごく面倒な作業をやっています。

──俯瞰のカメラポジションもいいですね。

あの空間は2階がある少し不思議な造りだけど、上からのアングルはなかったんです。宇宙の話をするし、ジュンが宇宙でひとり孤独に浮かぶイメージを出したくて俯瞰にしました。LINEのテキストが入る余白もつくりたかった。

──ボウイの楽曲で言えば「スペース・オディティ」でしょうか。「2万5千年後」のセリフが象徴するように、監督の映画からはしばしば宇宙への関心を見て取れます。何か具体的な起点はありますか?

シミュレーション仮説なども含めて、宇宙や形而上学はずっと自分の興味対象ですね。昔から宇宙のはじまりや光の速度を超えられない理由などについて考えていて、特にコロナ禍での制作時は普段よりそうしたマクロ的視点に移る機会が多かった。宇宙の何億年どころか、人類のたった数千年の歴史のなかでも、自分たちが生きられる短い時間の相対的な軽さと虚しさとそれゆえに存在している奇跡は日常生活のなかでも忘れられるものではなく、その思いが本作にも投影されたかもしれません。試写で見てくれた筒井武文監督には「この映画は2万5千年後まで残るの?」と問われましたが(笑)。そうした宇宙的なイメージで辛くなったという反応と、「それでもポジティヴに創作します」という共感性の反応が両方ありますね。
今日もまた相変わらず同じ朝が来て、でも何かが微妙に変わっていて、その繰り返しを生きるしかない感覚──反復とかすかな差異──を脚本に書いてはいたものの、映画に出来るだろうかと思っていたら意外と出来たのかなという気がします。映画のB面には人間的なものに対する一種の虚無や絶望が確実にある。やはり変な構造ではあるんです。でも、その絶望からはじめることでしかたどり着けない希望がある。それを見出せるかもしれないという意味では、いつものぼくの映画です。

──音楽の切り方やコロナ禍による非連続的な世界の描写など、様々な次元での「切断」もいつもの宮崎映画ですね。

分岐ゲームのように枝分かれしながら、少しずつ遅れてずれてゆく。なおかつ分散して切断されながら、時にゆるく交わりそれぞれに生きている感じですね。

──結末のカッティングもまさに切断です。

自然界の話に喩えれば、「イエグモ」とも呼ばれるアシダカグモの卵のうには数百個の卵が入っていて、産卵すると色んな場所に子が散らばります。違う親から生まれた二匹がどこかで合流したとしてもまた移動するので、再会できるかというとたぶん出会えないと思う。だけど100%不可能とは言い切れない。あの切り方にはそういうイメージもありました。

──ラストの画面にイブキがインするタイミングはロケーションに応じて計算されましたか?

計りました。そこへ過去の彼女に雰囲気の似た女子高生が歩いてきますが、あれは全くの偶然なんです。でも、その直後に起こり得るかもしれない出来事を暗示するようにも見えるので採り入れました。

──カットの間はどう考えたでしょう。倍の長さだったらどうだろうと想像してみたのですが。

まず見る人が、画に入ってくる声の世界にあまり行ってほしくなかったんです。カメラが収める生々しい〈世界記録〉のなかでふたりがどうなるかを第一に考えると、声が入るのはあのタイミングになります。それが倍の長さだと観客の意識は声に向かうだろうから、空舞台からの流れで自分が一番しっくりするリズムにしました。

──『TOURISM』もラストにある声が響きますが、本作の話者はきっとそれとは異なる存在で……

『TOURISM』のときは漠然と「未来でニーナとつながる人間」を想定しましたが、本作では未来にいる人物がある物語を振り返っているイメージです。その人は形而上的存在かもしれない。そういう感覚です。そしてあの声は序盤のプラネタリウムのシーンで聴こえる声にも少し重なる。ひょっとするとイブキたちがプラネタリウムの投影を見ていたように、この物語自体が未来の誰かがプラネタリウムに投影した映像なのかもしれませんね。

(インタビュー後編に続く)

(2023年6月・大阪にて)
取材・文/吉野大地

映画『PLASTIC』公式サイト
Twitter

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