『#ミトヤマネ』 宮崎大祐監督ロングインタビュー(後編)
宮崎大祐監督の新作『#ミトヤマネ』が公開された。玉城ティナ演じるSNSのカリスマインフルエンサー「ミトヤマネ」のイメージが複製されて無限に拡張してゆくさまは、ジャン・ボードリヤールが『シミュラークルとシミュレーション』で分析したシミュラークル(虚像)の連鎖で成り立つ世界そのものだ。だが同じくシミュラークルを考察したジル・ドゥルーズが『差異と反復』で述べた「表象─再現前化の破産」が生じるとすれば、そここそが本作のキャッチフレーズ「ポップな狂気」の現れる場所であり、自身のシミュラークルに閉じ込められたミトの唯一の出口だろう。本作では長編デビュー作『夜が終わる場所』(2011)からの監督作に共通する「オリジナルと複製」の問いが究極まで推し進められている。アメリカのノワール映画の複製から出発し、現在までの12年のあいだに宮崎大祐は何を撮ってきたのか。インタビュー後編ではそれも探ってみたい。
Ⅰ
──タイトルの由来は何でしょう。近年の日本映画で主人公の名前をそのまま題にした作品は少ない気がします。
着想源のひとつは、「#Me Too」というワードの響きでした。近代、資本主義の生む疎外が世界中の誰をも飲み込むというのがテーマだったので。あとは、しばらく英語タイトルが続いたため、今回は機械的で記号のような文字配列にしたい思いがありました。構想していた時期に、川崎フロンターレの試合をよく見ていて、山根未来(ヤマネミキ)と三笘薫(ミトマカオル)が好きだったのも影響したかもしれません。遡ると、そもそものタイトル案は『インフルエンサー』、通称「インフル」でした。感染・拡散とコロナ禍の社会を重ねた呼称と言いますか。撮影の直前までそれで進めていたけど、すでにそのタイトルの映画があったし、人名タイトルの『カスパー・ハウザーの謎』(1974/ヴェルナー・ヘルツォーク)や『リチャード・ジュエル』(2019/クリント・イーストウッド)などからもインスピレーションを受けて変更しました。映画の完成後に見た、同じく主人公の名前をタイトルにした『TAR』(2022/トッド・フィールズ)はある種のインフルエンサーが失墜する物語で、内容も近くて同時代性を感じましたね。
──文字列を入れ替えると監督のホームタウン「ヤマト」(神奈川県大和市)になることは考えませんでしたか?
いえ、これは本当にたまたまで、あとから多くの方が指摘してくださって気づいたくらいです。大和という、これまでさんざん映画で使い倒してきたぼくの歴史であり具体もミトの一部になって消え去ってしまうイメージを抱いていたので、その深層心理がネーミングに作用したのかもしれません。
──尺は78分と長編第2作『TOURISM』(2018)より1分長いですが、作品の持つスピード感は明らかにこちらが速い。撮る時点でこの速さを考えておられたのでしょうか。
TikTokにしろYouTubeショーツにしろ、ここ最近は動画コンテンツがどんどん短くなっている印象がありました。音楽の尺もシングルが1分台、アルバムが20分台など、近年かなり短くなっています。おそらく人類の興味が持続する時間が、情報の過剰で劇的に短くなったんでしょう。それに応じて、本作も観客の方に濃密な短い時間を体験してもらいたい。そんなイメージがありました。本作はスマホの中のランダムな動画の連鎖というか、ひとつひとつのシーンで完結している部分があります。それらを束ねて1本の映画として構成するのに、過去に少しだけDJをした経験が活きたかもしれません。当時はマッシュアップが流行っていて、たとえばThe Avalanchesはある楽曲からほんの5秒ほどサンプリングした断片的な素材をひたすらつなぐライブをおこない、アルバムを構築しました。それに似た感覚で、まずは各シーンにフィットする速度を優先して、その上で全体を編集するときのことを考えながら演出をして、実際の編集時はまたいろいろな速度感を試しながら進めました。ワンシーンを1曲として、それらをつないでミックステープをつくるような作業とも言えます。
また本作は画の質感がフィルム風になったりテレビ風になったりと次々と変化するため、見る人の意識が途切れる──「あ、チェンジした」と感じる──ポイントが多い。通常、映画ではそういう点をなるべく減らして作品に没入できるようにしますが、その逆をやっています。それでも「これから見るのは映画だ」という共通理解があって、映画館の座席に座っていただければ最後まで引っ張っていけると踏んでいました。
──構成には元になる画を撮る流れも関係したと想像します。順撮りでしたか?
そうです。基本的に順撮りだったので、新しいシーンを撮影する度にそれまでの速さと比較して頭の中で編集してから考えることができました。「ここで転調しよう」「ひと呼吸するならここだな」というように。シナリオの最後のシーンを最終日に撮ってクランク・アップしました。
──撮影日数はどれくらいだったのでしょう。
実質18日くらいだったのかな……。午前9時スタート・午後5時終了ベースで、ナイターがある日は翌朝の開始時間を遅らせて、4、5日に1日は休日を挟むサイクルでした。全体のうちの3日ほどは素材撮り──劇中の配信動画やファッション写真など──に充てたように記憶しています。これまでで最も大きな規模の作品だったので、労働環境についてはしっかりしておきたかったです。
──様々なテクスチャーの画が増えるほど、撮影の手間も増えますよね。
思った以上に素材が多くて大変でした。現場レベルで作品の全体像をイメージできるのは自分だけだったと思いますが、キャスト・スタッフの方々が信頼を寄せてくれて、細かいところまでこだわって撮影を進められました。CG技術やインフルエンサーのリアリティなど知らないことは沢山あり、撮りながら勉強することも多かった。現代社会やメディアを反映させつつ、それらをそのまま転用するのに留まらないフィクション世界を描くために様々な人から意見をもらいました。
映画界では当たり前とされている事柄と、一般社会のスタンダートのあいだには当然隔たりがあります。仕事として普段から映画をつくっている人が思い浮かべる「テレビの画」と、実際の今の「テレビの画」は全然違って。ぼくはスポーツ中継以外でテレビを見ることはないのですが、今は想像以上に説明過剰だったりする。そうした現実を踏まえた上で、この映画ならではのフィクションを立ち上げるための議論も重ねました。
──安達祐実さんのキャスティングに関しても教えてください。
女優・山城は長いキャリアを持つ意地悪な性格のキャラクターで、それを演じられる方を探していたところ、安達さんが出演してくださることになりました。お会いすると実に素晴らしい方で、「子役の頃から演技経験を積んできたベテラン俳優とはこうも人間性も高まるのか」と感じましたね。役にもぴったりハマりました。
──弁護士役で出演している片岡礼子さんは、『大和(カリフォルニア)』(2016)でサクラの母親役を好演されていました。
片岡さんは『大和(カリフォルニア)』でご一緒して以降、さらに多くの映画に出演されたので、お忙しい中ふたたびご一緒出来て良かったです。衣装合わせのあるポイントで、キャラが見えたように思えます。いつもいつまでも大好きな俳優なので、もっとじっくり役の話を出来る作品でまたご一緒出来たらと思っています。
──安達さんと片岡さんはワンシーンのみの出演ながら、存在感があります。演技面では玉城さんが即興もこなされたと伺いました。
ぼくはよく現場で、俳優がシナリオに書かれたセリフを言い終えたあともカットをかけずにいます。そのあと起きるハプニングを待っているんです。あまり慣れていない俳優はそこに変な間が生まれてしまうのが、玉城さんはそういう予定外の余韻を巧みに活かしてくださった。たとえば川沿いでミホがファンたちに追われるところをミトが見ているシーンで、スマホを片手に「なんでもないです」と通話相手の田辺(稲葉友)に伝えて歩き出すくだりは即興です。あと、庭でミホと今後のスマホの使用に関してひと悶着あってから、またスマホを手に取って操作し出すのもそうでした。カットをかけずとも、みずからミトのキャラクターを考え進めてくれる。毎日新鮮な驚きを与えてもらい、妹・ミホ役の湯川ひなさんも日を追うごとに違うキャラクターになってゆき、ふたりの変化は撮影期間中、まったく見飽きることがなかったですね。
Ⅱ
──前編でお話しいただいた、随所にある違和感に関してさらに伺えればと思います。冒頭の街頭インタビューシーンで、カメラを見つめて語る女性がいます。演劇でいう「第四の壁」が最初に破られていて、まずそこでフィクションが二重化する。そうした小さな違和感の積み重ねが、映画に独特の効果をもたらしています。
冒頭は、ぼくがカメラの脇にインタビュアーの体で居て質問する形で始めましたが、俳優がぼくに語りかけるかカメラに語りかけるかで芝居も変わってくるので、その調整をしました。なおかつロケ地は週末の原宿で、通行人が絶えず行き交っていてコントロール出来ないので、タイミングが大変でした。でも、このような大規模の作品にコントロール出来ない要素を取り込むチャレンジから始めたかったのもあります。カメラに向けて話す演出は今や劇映画では見慣れているとはいえ、あのようにカメラとの関係性が奇妙なシーンが導入部にあるのに、いつのまにかそれを「映画だからまあいいや」と意識しなくなる怖さを友人が指摘してくれました。
──映画スタジオで撮影しているミトの正面カットは、劇中映画のカメラの画なのか、それとも本来のカメラの画なのかわからない。しかし熟考する間もなく物語は進んでゆきます(笑)。
(笑)。映画がどんどん進行するので、そのシーンの主語──文学でいえば人称──があるポイントからどうでもよくなるというのか、映画を見ているのか映画の中に入って映画と一体化しているのか、はたまた映画に見られているのか判然としない。そんな奇妙な面白さを狙いました。
──ミトを政治的に批難する男性(戸田昌宏)の街宣シーンでもカメラに語りかけます。劇中もっとも演劇的な芝居で構築していて、ここもポイントですね。
街宣は本筋の裏で、同じフィクション世界の中で起きている出来事を描いています。シナリオを書く際には毎回その部分を意識しています。映画がフォーカスする出来事と同時に起きている出来事が肝だと考えていて、前編で話題にのぼった「複眼性」にもつながりますね。本作のシナリオで一番難しかったのがこのシーンで、長くて政治的な言葉のやり取りをたるませないラップ的な言葉の流れや、戸田さんと対峙する女性役の高澤聡美さんの話し方などを考えて、撮影直前まで何度も書き直しました。そうしてひとまず仕上げたセリフもあくまでぼくが言わせたいことで、乗り越えがたい壁──間やリズムなどの問題──がありましたが、おふたりが当日に早く集合して話し合ってくれていたおかげで滞りなく撮れました。最終的には現場で調整しようと思っていた難しいセリフを、俳優がリハーサルの時点で成立させてくれるとすごい技術だなと感じます。
──セリフで違和感を覚えるのは映画スタジオのシーンで使われる強い方言です。『夜が終わる場所』にも使っておられましたが、今回はどのような意図があったでしょうか。
これまでも言及してきましたが、ぼくが幼い頃の一家は転勤族でいろいろな土地に住んでいたので、社会に出るとその土地ごとの方言がすべて画一化・矯正されて、標準語と呼ばれるものになることに大きな違和感を抱いてきました。父は福岡の佐賀寄り、かなり訛りが強い地域の出身ですが、実家の親戚と電話で話す時はぼくがまったく聞き取れない言語だったのが、切ると即座に固い標準語になる。そんな標準化への抵抗ということ以外にも、歴史的に中央──主に東京発信の情報──でネタとして消費されてきた東北への思いがありました。
──標準語に対する日々の違和を、フィクションに取り込んだということですね。それから、映画スタジオの行き帰りの車の移動シーンにはスクリーン・プロセスを使っています。あそこで「あれ?」と感じる方がいるかもしれませんが、ミトとミホが日常的な風景の中を移動するシーンはそのあと中盤で交番へ行くくだりまでない。そこから逆算的に考えられたのでしょうか。
実際の移動を撮ってもよかったんですが、車窓のカットは『PLASTIC』で十分に撮り切った感覚があったし、天上界と下界を行き来しているイメージであのような演出にしました。そして失墜したふたりが自身の足で下界に降りてくる姿をわかりやすく示すなら、交番のシーン手前の歩きだろうと考えていました。
──もうひとつ引っ掛かっている画が、ツインタワーの合成カットです。その前の踊っていたメイン三人のカットはフリーズして静止画になり、ノイズ加工が加えられます。そこからツインタワーのカットへのつなぎは本作の核心に触れる画面連鎖で、双子性のテーマにも結び付きます。シナリオの段階で固めておられましたか?
ここはなぜか見落とされがちですが、ふたりの同一化が顕著になるシーンですね。もちろんシナリオに書き込んでいました。シナリオの上では「青空を背景にしてそそり立つ二本の塔は天に届きそうなほど高い。そこでは風の音だけが聞こえる」となっています。
──こうして言葉で聴くと詩的な画が浮かびますが、本編はひと目で合成とわかるので、そのギャップに驚きました(笑)。
CG加工してくださった方にも「本当にこれでいいんですか?」と訊かれて(笑)。ツインタワーのCGは美術館と呼ばれる回廊のシーンと同様に、チープな部分をそのままにしています。他のシーンは見る人に気づかれないレベルのクオリティの高いCG技術を駆使しているんですが。ぼくは「バックルーム」や「リミナル・スペース」と呼ばれるホラージャンルの動画をよく見ています。目を覚ますとホテルの廃墟や巨大工場、原爆実験場など、広大で匿名の空間に迷い込んでいるというアナログ・ビデオ風の映像で、さまざまなヴァージョンがYouTube上に存在します。これにはなんだか漠然とした存在論的な怖さがあって、あるとき突然別次元に飛ばされる「バックルームホラー」のチープテイストを、冒頭でシミュレーション仮説について語る本作のツインタワーのカットに活かしたかったんです。
──厚みを欠いたのっぺりした空間ならではの怖さを感じます。
本当にデータ上のイメージというか、影絵ですよね。ツインタワーのイメージはぼくがよく夢で見る光景でもあります。おそらく、渡米していてギリギリで回避した9.11がトラウマとして強く刷り込まれているからなのでしょうが、夢では強風が吹く中でツインタワーを見上げている像がいつも浮かびます。同世代の作家である上田岳弘さんの小説にもこのイメージはよく出て来るので、何か時代的な意識なのかもしれません。まずはどこまでもロジカルに映画をつくることを志向している自分にとって、夢を映画化するのは初の試みでした。ただ、自分のキャリアの最初の節目である本作で、どうしてもチャレンジしたかったんですよね。
──ツインタワーへのつなぎはミトの変容の始まり、さらに結末にもかけ渡される重要なポイントではないでしょうか。おっしゃる通り、気に留めず見過ごしてしまう方が多いかもしれません。
シナリオの構成でいうと、あそこがちょうど真ん中のミッド・ポイントです。物語に欠かせない明確な結節点にもかかわらず、あのおかしさをあまり指摘されません。チープさとほかのパートの演出が奇妙すぎて霞んでいるのかもしれませんね(笑)。
Ⅲ
──前編で鏡像のモチーフに関して伺いました。後半にある星条旗のカットは、『大和(カリフォルニア)』の日本国旗のカットと鏡像関係にあると思えます。
あの大和のシーンの星条旗のカットはとても好きですね。『大和(カリフォルニア)』を撮ってから長い年月が経ち、当時は否定的なものとして日の丸を掲げましたが、今回は日本人が逃げ切れないアメリカなるものの表象としてあのカットがあるように思います。「息をひそめていても、結局この国のすべてはアメリカなのか!」という。
──その大和の捉え方が大幅に変わっています。心境の変化とも感じますが、明確な理由はあるでしょうか。
ぼくは今も実際に大和に住んでいて、過去作から見てくださっている方には「宮崎大祐といえば大和の人」というイメージが定着しているかもしれません。何かあったときに帰れて寄辺となる場所=フッドを題材にするのはヒップホップでは基本だし、映画や文学の巨匠もひとつの街に焦点を合わせ続けてサーガを描きますよね。でも、それはもしかすると自作の複製再生産をすることじゃないかと近年思い始めました。絶えず変化して、自分が自分であり続けないことに誇りを持ち、定まらぬことを看板にするのであればその直感は大事にしたいというのが一点と、『PLASTIC』公開時にお話しした通り、風景の均一化の問題が浮かび上がってきた。
たとえば渋谷は近年もう単なる〈人の多い田舎街〉になっていて、街の固有性は海老名や西宮──あるいは別の街──と大して変わらなくなっている。購入できる商品も体験もほとんど同じです。となると、特別だった場所も早晩すべて退屈な故郷と同一化してしまうのではないか、と。つまり、渋谷もパリもNYも世界中がすべて退屈な故郷=大和になってしまう。そして問題は、退屈な故郷がネットの発達とコロナのせいでより退屈に、効率重視で均一化していることです。そうした今の感覚で故郷を撮ると、これまでの映画とまったく異なる捉え方になりました。対抗すべき中心もいまやなく、周縁と一緒に均一化し沈下している。何もないチープなCGのような無味無臭で、歴史を消失した土地と消費空間が世界を覆い尽くすわけです。
本作は『VIDEOPHOBIA』(2019)に続き、アイデンティティをテーマにしています。それに深く関わる歴史や、寄りどころとなる故郷まで剥ぎ落とされると人はどうなるのか。自分と故郷のつながりや、その歴史すら忘却の彼方に葬り去ってまでその先を突き詰めてみたかったんです。
──渋谷のスクランブル交差点は『PLASTIC』にも写っていて、それも本作と一種の鏡像関係、または双子関係を結んでいるように感じます。
先ほどお伝えした、同じフィクション世界の中にも人の数だけ世界が存在しているということですね。『PLASTIC』で渋谷を撮ったときにはすでに本作のシナリオができていた。昨年9月に『PLASTIC』の制作を終えて11月に本作を撮ったので、二作がクロスするイメージを持っていました。『PLASTIC』では自分たちの将来の不安はさておき、幻のバンドを追いかけて渋谷をぐるぐると回る男女が描かれる。一方、同い年くらいで世間が望む富と名声のすべてを手に入れ、それを失った存在が亡霊のようになってあの交差点を歩く。どちらも自分が認識する日本のリアルな存在だし、通底する世界だと思っています。『PLASTIC』に写る廃線になった鉄道の駅前と、オリンピックを機に過剰に開発された渋谷、そしてコンビニ以外は何もない大和の景色はもはや等しく、日本の21世紀の風景、あるいは世界の21世紀の風景と言えるのではないでしょうか。
──ラスト前、劇中もっとも広い渋谷のカットでカメラはズーム・バックのあとティルト・アップします。高架に書かれた「渋谷駅」の文字を除けば、写し出される風景は日本各地の大きな街の駅前とほぼ見分けがつきません。
あのロングの画は、ステファニー・ウェーバー・ビロン(撮影監督)に「絵本の『ウォーリーをさがせ!』のように」と伝えて、均一化した都市をスナイプするつもりで撮りました。
──そして本作の真の怖さは、故郷や歴史に加えて名前を失うところにもある気がします。ラストのミトの姿は、乱暴にIDを振り当てる管理社会化が進む中で名前を持たない人間とはどういう存在なのかという問いかけにも思える。幕開けに「永遠の15分」と呼ばれるエピグラフがあって、クレジットの「作者不詳」を英訳すると「アノニマス」になります。テーマであるネット社会に根強い匿名性と、名前を持たない怖さが重なり合います。
冒頭の「作者不詳」はミシェル・ウエルベックがよくユーモアで使う手法ですね。自分の言いたいことを誰かが言っている形にすることで奇妙な普遍性が生まれる。さらに脚本執筆時に読んでいて大いに参考になったフランコ・ベラルディの『大量殺人の“ダークヒーロー”』(2017/作品社)でもこういう伝聞技法が使われていて、面白いなと。
このエピローグの発言者とされているのは自覚的複製芸術の大家であるアンディ・ウォーホールですが、実際はそう言ってない可能性があるらしい。ソースの不明な言葉が拡散されて、それらしきイメージだけで仮説が事実になっていく現象はまさにこの映画──「それらしさ」だけでミトヤマネという存在が規定される──だなと思いました。ミトヤマネはあらゆる名付け=タグ付け=記号化、情報化や不文律、社会通念から逸脱してゆく存在です。もし名前も過去もなくなってしまったら人はどうなってしまうのだろう、あらゆる記号やイメージから逃れ、はざまに存在してしまったらどうなってしまうのだろう。「名づけえぬもの」、言い換えれば亡霊になることに、ぼくはずっと興味を持ち続けてきました。
──そのように、本作には過去作のエッセンスがすべて詰まっています。そう感じると同時に気づいたのは、監督はずっと自分の眼を通した「アメリカ」を描いてきたのではないかということです。シリコンバレー発のインターネットシステム、ブロンクスで生まれたヒップホップ、西海岸のサイケデリック・ロック、米軍基地、そしてツインタワー。この問題について最後にお話しいただけますか?
いま思うと映画づくりをはじめた頃、これというテーマを持っていませんでした。ただ映画が好きだから撮っていた感じですね。それが、切実なものがない限り映画づくりは続けられないなどと色々な方に言われ考えるうちに、切実なものはなくとも、ずっと暮らしてきた地元があり、その大和の街には米軍基地があると気づきました。そして、自分も幼い頃はアメリカで暮らしていて、それからずっとこの日本に馴染めない感じが持続していることにも思い当たった。何よりも、映画を初めて見たのはアメリカで、その体験と記憶は現在まで刻み込まれています。
帰国後、日本に馴染めず身体も弱く目立たないように生きる自分の傍らには、息を殺し大和の中に存在する米軍基地があった。そして80年代生まれなので、アメリカ文化やアメリカなるもの──映画も音楽もファションも食事も──に憧れろと馴致されてきた、たぶん最後の世代でしょう。だからデビュー以降はアメリカとの距離、アメリカへの愛憎をずっと考えてきた12年だったなと今にして思います。
敬愛するヴィム・ヴェンダースには東西ドイツの壁を超えられないもどかしさと、その状況を生み出したアメリカへの愛憎を重ね合わせてさすらった映画作家という印象があります。いつまでも届かない神としてアメリカという概念がある。比べられるものではないですが、ぼくにもそれに近い感覚があり、厚木基地とのあいだにある国境沿いをさすらいながら映画制作を続けてきたつもりです。本作では大和から発信出来るアメリカへ向けた愛憎の最終段階に入った気がしています。
ぼくの映画の重要な要素のほとんどがアメリカ産のもので、なおかつ国家システムへの抵抗心が生み出した創造物です。インターネットやヒップホップ、ロックも然り。それらから成る映画づくりのベースにはつねにアメリカ映画に対する憧れがありました。著作『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(1999/青土社)で樋口泰人さんが書いたように、「合衆国」と「アメリカ」は異なります。前者は政治であり経済であり、後者は文化であり思想です。「アメリカ」が極東に位置する、アメリカ人の想像もつかないようなさびれた街にたどり着いて、宮崎大祐という名の人間の人生と身体を通して映画という表現になった。それは「合衆国」すなわち資本主義への抵抗にもなっている。そして、ここまでの12年の総決算である『#ミトヤマネ』の主演は「合衆国」によって今も支配されている島の出身で、「アメリカ」の血を継いだ最高の俳優です。この運命的ともいえる彼方からの手紙がアメリカに届いた日に、ぼくとアメリカの物語の第二章がはじまるのかもしれません。映画をつくり上げて発表できた今、改めてそう感じています。
(2023年8月18日)
取材・文/吉野大地
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