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『DOOR』デジタルリマスター版 配給・生駒隆始 《アウトサイド》 インタビュー(前編)

1982年に設立後 10年の活動期間中に多彩な作品を世に送り出した映画製作会社ディレクターズ・カンパニー(以下「ディレカン」)。その後期に高橋伴明が監督を務めた『DOOR』(1988)が、シリーズ第2作『DOOR2』(1991)と共にデジタルリマスター版として蘇り、5月12日(金)より神戸映画資料館で上映される
第1作は主婦(高橋恵子)の対応に怒りを覚え、ストーカー化したセールスマン(堤大二郎)の執着がやがて惨劇へと発展する、和製ホラーに先鞭をつけた作品。第2作は趣を変え、伝言ダイヤルを使い男たちと出会いを重ねるなかで、コールガール・アイ(青山知可子)がみずからを解き放つ様を描く物語。ディレカンに参加し、30年の時を経てこの2作を配給する生駒隆始に、フィルム発掘と復元にまつわるお話を伺った。

 

──生駒さんがディレカンに参加されたのはいつ頃でしょう。

最後の約3年半、89年から92年です。

──高橋伴明監督とは入れ違いでしたか?

そうでしたね。当時は『DOOR』に企画で参加された渡辺敦さんが『MISTY』(1991/池田敏春)を手掛けていた頃です。渡辺さんを紹介してもらい、当時の僕は28歳だから、社内のナンバー2とまったくの新人という関係でした。

──新人にとって当時のディレカンは壮絶な場だったのではないでしょうか。

日々修羅場で、何も起きない日がないくらい(笑)。逆にそれで度胸がつきました。ディレカンの後半時代を経験していなければ、現在まで映画の仕事を続けられてなかったかもしれません。富岡邦彦さん(現「プラネット・スタジオ・プラスワン」)と一緒に新幹線に乗って、黒沢清監督の紹介で憧れのディレカンに入りました。映画青年の遅れた青春です(笑)。

──富岡さんが黒沢監督と共同で脚本を書かれた『地獄の警備員』(1992)で、生駒さんはプロデューサーを務めておられます。

その作品が『DOOR』のリマスター化に繋がっていて、そこからのストーリーをお話しすると……、『地獄の警備員』は公開から30年以上経ちますが、権利元とは今でも懇意にして頂いて、上映に関する管理を現在もやっています。数年前まで上映素材は35ミリフィルムが2本しかありませんでした。30年も時間が経つとフィルムの劣化が問題になり、富士フィルムだと約30年、コダックだと35年から40年で退色すると聞いていまして、『地獄の警備員』の撮影で使ったスーパー16ミリは富士フィルム、仕上げた35ミリはコダックと分けていて、管理と保存の問題に突き当たった。「そろそろリマスター化したほうがいい」と考え、自ら業者に見積りを出してもらうなど色々調べました。その頃はまだリマスターの費用が高額で、事情を説明すれば権利元の理解も得られるだろうけど、自費でやるしかないのかなと悩んでいると、権利元から「リマスター化して再販したいので相談したい」と連絡があり、会ってお話しさせて頂きました。リマスター化するにはネガフィルムが必要になりますが、そのネガは東京現像所にあり、ディレカンの長年の負債として塩漬け状態でした。つまり抵当に取られていた。となると、まず返却要請からはじめる訳です(笑)。2020年9月にネガが戻り、そこから作業を進めて11月に無事完成しました。

──リマスター版は2021年2月に劇場公開されました。

権利元に「上映もしたい」という意向を伝えました。まさか30年前につくった作品を自分で配給・公開するとは思ってなかったんですが(笑)。

©︎ 株式会社ディ・モールト・ベネ

さらに少し込み入った話になりますが、最初に権利元へ『地獄の警備員』をリマスター化したいと打診されたのは、ダブル・フィールドの平田樹彦さんです。平田さんと僕は権利元のところで会うまで面識はありませんでした。そして、ディレカンの社長を務め続けた宮坂進さんが亡くなられる前まで定期的な交流があったのは、平田さんと僕のふたりだけだったんです。宮坂さんと時折会う方はいても、ディレカンの人間で定期的に、となると自分ひとりでした。亡くなる数年前、宮坂さんが十数年ぶりに「久しぶりに会うか」と連絡をくれたんです。そのときは高島平の病院に入院中で、肺がんで余命宣告を受けておられました。また、脳梗塞で左側が不自由な身体になられていました。そんな身体でも器用に自転車に乗って駅前まで来られていた。そうしてお会いするあいだは入退院を繰り返す状態でしたが、駅前の居酒屋で一緒に呑むこともあった。でも最後の酒席で吐血されて、酒は控えるようになったものの、僕や平田さんとの交流は続いていました。
ディレカンは倒産でなく休眠会社になっていて、92年に倒れたときに宮坂さんがとある方に借金をしていた。その担保として『台風クラブ』(1985/相米慎二)など6本の上映フィルムを渡していたんです。その状態が30年ほど続いていました。宮坂さんから、「そろそろフィルムを返してもらおう。時間も相当経っているし、いいタイミングだろう」とお話しされて、何とかディレカンのフィルム6本が戻ってきた。それらを宮坂さんと平田さんで管理する形でタッグが組まれました。ところがその矢先、2020年に宮坂さんが亡くなられてしまった。

──『キネマ旬報』(2020年8月下旬号)の追悼特集によれば、5月19日に72歳で他界されました。

ただ、亡くなられたことを平田さんも僕もしばらくわからなかったんです。いまだにお墓参りも出来ていないのですが、平田さんは預かっているディレカン作品のDVDなどの売り上げの配当を定期的に宮坂さんに渡していました。平田さんが連絡するとすぐにコールバックされていたのに、ある日まったく返事が来なかった。「おかしいな」と思いながら時間が経ち、心配で心当たりのあるところをたどってゆくと、断片的な情報から宮坂さんが亡くなったことがわかったそうです。
そうした関係から現在は平田さんが『台風クラブ』、『逆噴射家族』(1984/石井聰亙)、『人魚伝説』(1984/池田敏春)、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985/黒沢清)、オムニバス『ポップコーンLove』(1990/森安建雄・矢野広成)、『東京上空いらっしゃいませ』(1990/相米慎二)の権利を預かる形になりました。
上記のキネ旬での宮坂進さん追悼特集は、平田さんがお話されて掲載が決まった経緯です。そうした流れで、『地獄の警備員』のリマスター化と配給上映は僕、DVDや配信などは平田さんが進める役割の棲み分けになりました。国立映画アーカイブから『ドレミファ娘』の35ミリニュープリントを購入したいと申し出があり、平田さんもOKを出されて、ネガから起こすつもりでいると、肝心のネガがないことが判明したんです(笑)。平田さんから、「IMAGICAからシネマ企画という会社に出したところまではわかっている。その先のシネマ企画とネガの行方を調べてほしい」と依頼を受けました。そこからひと月ほど色々調べてみても、ほとんど何も掴めない。平田さんも「(ニュープリントを)つくりたいけど納品に期限がある」と困っておられたので、僕が最後の最後に「一件だけ心当たりがある」と。
それが、ディレカンの中後期くらいから渡辺敦さんと入れ替わるようにナンバー2のポジションに就いた『真夏の地球』(1991/村上修)や『東方見聞録』(1992/井筒和幸)のプロデューサー・岡本史雄さんでした。約30年ぶりに電話して事情をお伝えすると、「家にあるよ。ほかにも何本もある」と答えが返ってきました。岡本さんは『ドレミファ娘』のプロデューサーではないし、驚きましたね。それがきっかけで再会するんですが、実はディレカン時代の岡本さんと僕はあまり仲がよくなかった。再会は3年前になりましたが、久しぶりにお会いすると2017年に心臓の手術を受けていたうえに、肺がんも患っておられました。その岡本さんがおっしゃるには、「ディレカン出身のプロデューサーで今も頑張っているのは俺とお前くらいだ」と。さらに「家にある9本のネガは最終的に国立映画アーカイブに寄贈したい。それにあたって『地獄の警備員』のように作品を蘇らせて、ディレカンがつくっていたものを世に示したい」という意向をお持ちでした。僕はネガ寄贈のプランも含めて、岡本さんの協力要請を受け入れ、そのときのお姿を見て長年のわだかまりも解けました。それから平田さんを紹介して、ネガを返却してもらい『ドレミファ娘』のニュープリントをつくることが出来たんです。東京現像所からは「うちでの35ミリのニュープリントはこれが最後かもしれません」と言ってもらえました。本当はネガの出処であるIMAGICAの筈でしたが、岡本さんに渡っている情報も含めて伏せられていたので、東京現像所に回してもらったんです(笑)。

──発掘だけでなく、その後のハンドリングが難しいですね。

IMAGICAのことも理解できたけど、こちらの意思を通したかったので(笑)、国立映画アーカイブに相談したうえで東京現像所に焼いてもらいました。それから岡本さんのお宅にネガがある理由を訊ねると、宮坂さんの了承のもとでIMAGICAから岡本さんが運営するシネマ企画に原版ネガフィルムを寄託した経緯だと分かりました。IMAGICAからの在庫一覧のネガリストもありました。それを僕もいただいて、どのように動くのが最善かと考えて国立映画アーカイブにそのことをお話ししたんです。岡本さんも最後は国立映画アーカイブに、と考えておられたものの、ご自身はなかなか動けなかったので、僕があいだに入って詳しい事情を伝えました。すると長年探していた『台風クラブ』のネガが見つかったのは大発見だ、と大変驚かれました。『DOOR』をはじめ、『光る女』(1987/相米慎二)、『死霊の罠』(1988/池田敏春)、『死んでもいい』(1992/石井隆)というディレカンの主要作のネガもあったので、最終的にはすべて寄贈する方向で、今そのプロジェクトを進めています。

──昨年、国立映画アーカイブで東京国際映画祭との共催特集《長谷川和彦とディレクターズ・カンパニー》が組まれました。その展開だったのでしょうか。

あれは僕の発案でした。国立映画アーカイブに事情をお伝えしたあと、東京国際映画祭のディレクター・市山尚三さんにディレカン特集をやってもらえないか相談しようかと考えていたんです。住まいは五反田で、市山さんとは時々駅でばったり会っていました。一昨年のある日にも偶然、駅のホームで歩いている姿を見つけた(笑)。一緒に電車に乗り、ネガ発見の情報をすでに知っていた市山さんに経緯を説明して「来年、ディレカン特集をやりませんか」と打診しました。「リマスター化できる作品は蘇らせて、それで特集を」と。するとまもなくOKが出ました。ディレカンの特集が組まれることは今後しばらくないだろうから、市山さんにプログラムも含めて「自由にやってください」とお任せしました。そうして出品した『地獄の警備員』『DOOR』のデジタルリマスター版上映とあわせて、ディレカン特集が開催されました。ここまで長い話になりましたが、これを踏まえないと『DOOR』にたどり着かないので(笑)。

──すでに壮大なお話を伺ってしまった気がします(笑)。続けて『DOOR』をリマスター化しようと思われた理由を教えてください。

平田さんが『ドレミファ娘』のネガを岡本宅から車で運ぶのに立ち会って、ほかの8本のネガも見せてもらいました。岡本さんからは「生駒、『地獄の警備員』みたいにデジタルリマスターしてみろ」と、ある作品を指定されたんです。それは石井聰亙(現・岳龍)監督の『ノイバウテン 半分人間』(1985)でしたが、配給する自信がなくお断りしたんです。そこからずっと時間が過ぎて先日、石井監督と会う不思議な縁がありました。石井監督は『半分人間』のネガをずっと探しておられて、見つかったことをアダム・トレルという、『DOOR』の海外版権のセールスをお願いしている盛岡に住む面白いイギリス人が伝えてくれた。ディレカン時代にはお会いする機会がなかった石井監督に初めて会えて、最終的に国立映画アーカイブに寄贈することを前提に「ネガはお渡しします」とお話しさせて頂きました。次にリマスター化を考えたのが『DOOR』と『死霊の罠』。88年に2本立で封切りだったので、その形でやってみてもいいかな、と。あえて公開当時と同じように。
『死霊の罠』はジャパンホームビデオという映像会社が出資してディレカンが製作した作品なので、そちらとお話を進めつつ『DOOR』に関して調べてゆくと、国立映画アーカイブが所蔵するディレカン作品は8割がたが揃ってまして、リストを見せてもらうとお蔵になった『東方見聞録』の35ミリまであったんです。それを東京国際映画祭で上映する案も出たけど、やめておこうと。『風、スローダウン』(1991/島田紳助)も見送りになりました。
それらの所蔵作品のなかで、唯一ネガもポジも揃ってないのが『DOOR』だったんです。だから国立映画アーカイブの所蔵リストを見て選んだ、というのがリマスター化に至る最も大きな理由でした。『死霊の罠』は2019年にクラウドファンディングで資金を募ってBlu-ray化されていて、そのときに35ミリニュープリントも製作して国立映画アーカイブが購入しています。権利元としては「リマスター化するにはもう少し時間が必要だ」と。そういう背景があって、まず『DOOR』に着手しました。そこから初めて高橋伴明監督にお会いして、撮影監督の佐々木原保志さんにも来ていただき、2Kレストアの作業に入りました。

──岡本さんのご意向もあったし、その段階で劇場公開を考えておられたということですね。

ええ。『地獄の警備員』と同様に配給・宣伝は僕のところで、そのあとの二次利用は岡本さんが運営されると考えていました。『DOOR2』のネガとポジの発掘*は僕が進めて、DOORシリーズ2作品が揃った。ただ、それぞれ権利者が異なるため、二次利用に関してはまだこれからです。
*『DOOR2』発掘・復元の経緯は、『映画秘宝』公式note掲載の後藤健児氏によるインタビューに詳細が述べられている。

©︎ 株式会社エルディ

──デジタルリマスター版の上映後、出口が決まっているのも映画にとって幸せといえるのではないでしょうか。

最終的な出口となる寄贈先にとってもハッピーだろうと思い、『DOOR』を選びました。

──デジタルリマスター版はパンフレットも充実していますね。高橋監督のフィルモグラフィが4ページに渡り掲載されています。

最初に高橋監督にお会いしたときに、原版ネガ発見の経緯と同時に、まずお伝えしたのは「パンフレットをつくるにあたり、監督のフィルモグラフィを調べても詳しいものがほとんどない」ということでした。Wikipediaは不十分だし、『夜明けまでバス停で』(2022)のパンフレットを買ってみたけど、そこにも載ってなくて。

──Wikipediaには『TATOO〈刺青〉あり』(1982)以前、ピンク時代の作品名についてまったく記述がありません。

『TATOO〈刺青〉あり』のパンフレットは持っていたので久しぶりに見ると、フィルモグラフィという形では載ってないんです。だから、ピンク時代の作品タイトルとバブル期以降に撮られた映画やビデオシネマ、テレビ作品などを含めてフィルモグラフィをコンプリートしたい、とお話ししました。すると、ちょうど100作目のタイミングでご友人が、自費出版で非売品パンフレット「高橋伴明 1972-2009全仕事」をつくられていたんです。それをお借りして、パンフレットに掲載したフィルモグラフィが完成しました。バブル期から現在までの作品群をもう一度調べ直したものなので、自分にとってはグッドジョブかなと(笑)。

──『夜明けまでバス停で』で高橋監督に関心を抱いた人にも貴重な資料となるでしょうし、たしかにグッドジョブです(笑)。『TATOO〈刺青〉あり』の前に53本も撮られていたのを、これで知りました。

そのキャリアの延長線上に『DOOR』と『DOOR2』があることがわかりますよね。それから『DOOR』リマスター版完成の際、高橋監督も同席されているときに、あえて撮影の佐々木原さんに訊いたんです。「高橋恵子さんがとても美しく撮られているけど、カット尻が妙に長い。どうしてですか」と。佐々木原さん曰く「いやあ、監督がOKを出さないから」。つまり、監督はずっと見ていたかったんでしょうね(笑)。

©︎ エイジェント21、ディレクターズ・カンパニー

──ところどころに、明らかに長いショットがありますね(笑)。冒頭はオフの声を使ったり、話をうまく省略しているのと対照的です。

堤大二郎さん演じるセールスマンの登場シーンは、音が画に先行して入ってくる。あそこはいま見ると、少し奇妙な編集と音処理がされています。それも監督に訊ねたんです。結構突っ込みどころの多い作品なので。すると「それ以上は言わないでくれ」と(笑)。

──よく見ると色々実験的なことをされています。

セールスマンが電話をかける、長い階段の途中の公衆電話は元からあったものでなく、電話ボックスを持ってきたそうです。あの場所に自然に溶け込んでいたので、聞いて驚きました。それから高橋恵子さん演じる主婦・靖子が相談にいく交番。あそこもセットなんです。駅のホームが見える位置に、一方向きのセットをつくったそうで、あれま!でしたね(笑)。

©︎ エイジェント21、ディレクターズ・カンパニー

──あの電話ボックスまでセットとは。交番のシーンは電車の通過音と踏切の音が鳴り響き、その後の展開に向けて観客の不安な心理をさりげなく煽ります。ここなども見せ方がうまいですね。

画面に不安と日常性が同居していますね。とはいえ流石に交番は借りられません(笑)。また、あの警官と、靖子が住むマンションの管理人と電話男の声の主は同じなんです。

──そうした効率化のテクニックも、ピンク時代に培われたものでしょうか。大きな見どころは後半ですが、前半にも見るべき点が多い作品です。

編集の菊池純一さんは新しいことをやろうとするタイプだったそうです。それで音先行の画にしたりと、いま見るとちょっと妙な繋ぎにしている。そこが面白くもあり、突っ込みどころでもあります(笑)。

──異様なセールスマンの姿を同一アングル・ディゾルヴで繋いでいたり(笑)。

それでも全体を見ると電話ボックスや交番のセット、後半の俯瞰移動撮影なども相当凝っていて、やはりプロの仕事ですね。リマスター版で初めて見た方からの評判もよく、大阪で上映したときは外国人も来てくれていました。あまり海外で紹介もされていないから、外国の方には新鮮に映るんでしょうね。数十年ぶりに見直した恵子さんが「泣いた」とおっしゃったのも印象深いです。昔の自分の姿を見て感慨深い、と。

──ラストがまたいいですしね。それにとにかく美しい(笑)。

カット尻が長いのも納得がゆきます。寝室の夫(下元史朗)とのくだりでは紗がかかる。あんなことをやるのは山本薩夫か高橋伴明監督くらいでしょう(笑)。

──「ジャッロ映画」と謳われていながら、母と子の物語でもあり、95分の作品に様々なドラマが練り込まれています。

「被害者/加害者」のテーマからも見られるでしょうし、最初に見たときは違和感のあった童謡にも響くものがあります。

──見どころは尽きませんが、リマスターの作業などに関してはインタビュー後編で伺えればと思います。

(インタビュー後編に続く)

(2023年4月12日)
取材・文/吉野大地

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