神戸映画資料館

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布村建研究室

福岡同和問題啓発ドラマ『春らんまん結婚記』。前列右がプロデューサー布村建。

2022年11月25日(金)〜27日(日)布村建ともうひとつの東映映画

 

はじめに

 東映教育映画にその人ありといわれた、布村建(ぬのむら・たつる)さんが亡くなったのは本年(2022年)1月2日。文化・教育映画における活動が主だったことからいわゆる「映画ファン」にはなじみがないかもしれないが、東映教育映画と日本映画の戦後史を知る特別な人物の死に東京の映画界では静かな悲しみが走った。戦後の「東映」という映画会社の根底を支えた映画人であることは確かである。昭和の東映映画を、ヤクザ映画と時代劇だけの映画会社であるかのように思っている人がいるとしたら、それは大きな間違いだ。戦後日本映画の奥深さ、本当の面白さに出会うことのなかった人のイメージと言わざるをえない。ここでは、日本映画とは何ぞやから語り始めるつもりはないが、東映映画とは何ぞやから考えてみたい。考えて欲しい。それが、日本映画史の秘密と出会うカギの一つと想えるからだ。
11月25日(金)~27日(日)、神戸映画資料館で上映、開催される「布村建ともうひとつの東映映画」をご覧いただくために、本上映会をきっかけに「東映教育映画」と「東映映画」について考え、研究を進めるためにいくつかの文章とデータを当館ホームページにアップさせていただくことになった。
梶間俊一監督『オサムの朝』(1999年)について、布村さんが「優秀映画観賞会」会報の「優秀映画」に書かれた文章を、まず再録いたします。東映で同時代を生きた梶間俊一にエールを送り、自らの体験にも思いを馳せる論考だ。『オサムの朝』が、本特集上映に招待作品として上映される経緯と理由にご理解いただけると思う。今回は、『オサムの朝』の16ミリ版フィルムが、神戸映画資料館に寄託される記念の上映でもある。お読みいただき、少年映画の傑作が、今回を契機に作品的に見直され再検証されることを願ってやまない。『オサムの朝』フィルムは、当館寄託となり、今後は「子供たち向け上映会」など、企画次第でどちらにでも貸し出しが可能となります。どうぞよろしくお願いいたします。
布村健のプロフィールについては、まだ調査中ではあるが、アップした。数多くの受賞作品歴をもつ布村が、企画、演出、脚本などで多くの媒体やそれぞれ違ったスタンスの映像に多様に関わってきたことがわかっていただけるだろう。布村の著作集を作ることが出来た折には、より細密なものとして編集したいと考えている。
布村は、東映退社後多くの文章を執筆した。それは、自己の回想録に始まり、思うがままに映画論を展開したようにも見える。だが、そのひとつひとつに、実は布村の論壇や映画史研究への問題提起が含まれている。自分は、それらを振り返り、検証をすることで見えてくるものがあると信じる。例えば、小津安二郎、西部劇、戦争映画。そして「満映」と「東映」。多くのキーワードとテーマが、布村論考の中に混在する。布村はさまざまな媒体に寄稿をしたが、長く連載した「映画論叢」誌を手がかりに、布村の文章を読み解いていただければと思い「リスト」を掲載する。
ちなみに「映画論叢」には、第18号(2008年2月)『極私的東映および教育映画部回想』で初登場。第23号(2010年3月)より『フヰルム温故知新』を連載開始した。亀井文夫の『制空』を論じた「『制空』は経歴上の瑕なのか?―亀井文夫の戦争」が第1回の原稿である。「映画論叢」丹野編集長によれば、布村の論考は、第1回から一貫して「映画は良くも悪くも、総体としてその時代の証言者なのです」という言葉に貫かれているという。昨今の「映画は映画。時代の窓ではない」という風潮に真っ向から対峙しているのではないか。
アマゾンおよびアマゾン中古などで「映画論叢」バックナンバーは、ほぼ手に入る。欠番号などは直接編集部に問い合わせいただきたい。
以後、田坂具隆を論じ、黒澤明『七人の侍』を論じ、ジョン・フォード『わが谷は緑なりき』を論じ、多種多様ではあるが一貫したブレのない映画鑑賞法で各論を展開する。2022年3月号掲載の第37回「映画と音」が最後になった。映像制作者らしい技術論が最後であった。
研究室の現在レイアウトの終わりに、布村さんの若き映像制作仲間であった鈴木敏明さんが編集・発行した「追悼! 布さん」(2022年5月1日発行)に掲載させていただいた自分(鈴木義昭)の追悼文を置かせていただく。
これは、終わりではない。これを始まりにしなくてはならない。という思いが映画史研究者としてのぼくの強い思いである。とりあえずの「布村建研究室」開設、始まりの一言としたい。お楽しみは、まだまだこれからのはずである。
関係各位のご厚意、ご助力に深く感謝いたします。
(文責・鈴木義昭)

 

目次

0 はじめに

1 郷愁を越えて 『オサムの朝』が語るもの………布村建

2 布村建プロフィール

3 「映画論叢」と布村建 掲載論考リスト

4 追悼・布村建  最後のメール………鈴木義昭

 

1 郷愁を越えて 『オサムの朝』が語るもの
布村建

志を果たしたかどうかは別として、ある年齢に達すると思い出づるのは、やはりふる里のようです。東映で硬派の映画を撮り続けてきた梶間俊一が、ノスタルジックな少年ものを作る、という話はほぼ同世代に属する私にとっても人生の加齢を考えさせるニュースでした。
戦中、戦後に少年時代をすごした都会生まれの共通体験は疎開と空腹にあります。集団、あるいは縁故を頼っての疎開によって、異なる風土と生活文化に出会い、子どもなりに生きる辛さや喜びを味わった。そのことが自分の人間形成に何らかの影響を及ぼした、と思い込んでいる世代でもあります。こうした日本人の民族的体験が劇映画に取り上げられることはきわめて稀で、この二十年来、篠田正浩の『少年時代』と今回の『オサムの朝(あした)』ぐらいではないでしょうか。
思えば昭和三十年代初頭までの日本は、都市と農村というまったく異なる経済・文化圏から成立していました。『少年時代』はこうした異文化の下で育った子どもどうし友情と別れを、戦時下の富山を背景に描いた心に残る佳作でした。一つの時代と人間を活写した歴史的意義を持った作品でもありました。
『オサムの朝』は少し年代が下がります。縁故疎開で栃木県の田園地帯にいき、戦後もそのまま定着してくらすことになった家族の話です。主人公のオサムは都会生まれの異分子としていじめにあうが、妥協することなく果敢に立ち向かう。土地の子どもたちはついに気合負けして、やがて両者の間に親密な絆がうまれていく。木造の校舎、イヤな教師に、やさしい女先生、ウグイを手づかみでとり、土蜂の子を探して食べたあの夏の日々。
定職を持たず、下手な抽象画に入れこんで家族から浮き上がっている父親。そこには戦地から生還し、生きる目標を見失った男の苦悩が垣間見えます。親しくなった友だちの一人は家庭の事情で都市へ去ります。走りながら汽車を見送るオサム。汽車の別れは「少年時代」のラストシーンを美しくかざっていますが、昔の子供にとって遠ざかってゆく汽車は、異界への旅立ち、再び会うことのない別れを意味していました。
ドラマはリストラで系列会社へ転籍となる。一流メーカーの技術者、初老を迎えたオサム(中村雅俊)が人生の一つの区切りをつけるべく「ふるさと」を訪ねるところから始まります。その途上、親のきびしい管理教育からの脱出を図る家出少年を保護する。キャンプしながら少年時代の思い出を語りつづけるうちに、二人は、それぞれの立場で自分の生き方を見つめ、回答を出していかなければならないことに気付きます。ノスタルジックな感傷の中から、今日の社会、文化の状況をふまえ、日本人の原像を探り、そこから未来に立ち向かう何かを得たい、という明確な主題が伝わってくる作品となっています。
今、昭和二十年代の日本を描くことは、ロケ地の選定を含めて大きな困難をともないます。住居・生活用具・衣服、全てが時代考証の対象になってしまいました。当時のくらしが細部に至るまで見事に復元されたのは、ほぼ同世代に属する監督、撮影、美術、それぞれ自分史についてのこだわりの成果のように思われます。
この映画は栃木県の自治体が拠出した浄財によって作られたとのこと。作品に賭ける意志と、すぐれたスタッフワークが、制作費の壁を越える丁寧な仕事を生んだのでしょう。
(映像ディレクター)

「優秀映画」会報(1999年9月1日号)より

画像:『オサムの朝』劇場パンフレットより

 

2 布村建プロフィール

布村建(ぬのむら・けん)

●略歴
1936年11月5日東京生まれ。昭和19年富山県に縁故疎開。戦後は神戸に転居。中央大学法学部卒業後、昭和34年(1959)東映映画入社。希望通り教育映画部に配属され、以来教育・文化関連の映画、映像の企画、脚本、演出に従事し教育映画畑を一筋に歩む。教育映画プロデューサー、教育映画事業部長を経て、東映退社後はフリーディレクターとしても活躍。『ニホンザル その群れと生活』(1969)『昆虫記の世界』(1977)ほか文部大臣賞、内外各種映画祭・コンクール入選作品多数。各テレビ局で教育番組、博覧会等で展示映像など映像作品の企画・脚本・演出はギネス級作品歴。1996年視聴覚教育功労者として文部大臣表彰。先鋭的論陣から「東映教育映画の深作欣二」の異名もある。その映像作品と足跡は、戦後文化映画史の検証とともに発掘・再評価が待たれる。2022年1月2日に85歳で死去。

●主な作品と受賞歴(調査中)
■ 教育.文化映像
●「ニホンザル=群れと生活」(1969年/芸術祭、ドレスデン映画祭入賞、文部大臣賞)
●「川原の様子と水の流れ」(1972年/教育映画祭最優秀作品賞、文部大臣賞)
●「昆虫記の世界 カリバチの習性と本能」(1976年/科学技術映画祭入選、文部大臣賞、短編映画100選)
●「自然界のつりあい 動物の数は何で決まるか」(1972年/文部大臣賞)
●文部大臣賞は、ほかにも「縄文時代」(1984年)「金色のクジラ」(1994年/アニメーション)などでも受賞。
●各種映画祭・コンク~ル入賞作多数には、科学映画「空から見た日本の火山」(1978年)文化映画「雑木林の四季」(1981年)児童劇映画「春風の子どもたち」(1982年)「アフリカ友情物語」(1990年)科学映画「火山の探求」(1981年)同「氷河時代の日本」(1983年)などがある。いずれも企画は布村建。
●東映退職後は、フリーランスとして、 朝日日本史シリーズ「一揆の時代」、琵琶湖博物館「淡海に生きる」、北九州「絵画修復」などの企画・制作にも携わる。

■テレビ番組
「自然は生きている」(テレビ東京/20本)、TVK(テレビ神奈川)幼児教育番組50本、「昆虫大百科」「カリバチの神秘」「科学技術立国・日本が危ない」(以上、日本テレビ)などなど、多数の企画・制作に関わる。

■博覧会・展示映像
●筑波科学博・テ-マ館、大阪花博・グリ-ンミュジアム、
●北九州グリ-ンフェア・-マ館「森のシアタ-」(ロボットとマジック・ビジョン)
●九電・エネルギ-館「地球、生命エネルギ-」(立体映像)
●大阪・下水道科学館「大地を変える水」(立体映像)
●福井・若狭三方・マリ-ンパ-ク「若狭の海」(ハイビジョン・立体映像)
●茨城県庁ホ-ル「茨城の四季」{三面マルチ}
以上いずれも脚本、演出などを担当。
●この他、横浜・マリタイムミュウジアム、新潟科学館、墨田リバア-サイドホ-ル、秋田農業科学館、神戸水の科学館、同市立科学館、治水記念館、栃木こども科学館、日比谷グッリ-ンサロン、福井県立博物館、茨城県立歴史館、苅谷原発資料館マジックビジョン、などでマルチ映像、マジックビジョンほか映像関連事業に関与する。

■販売ビデオ・ヒ-リングV「森と流れの精霊たち」・朝日歴史百科ビデオほか、多数。

 

3 「映画論叢」と布村建 掲載論考リスト

 

4 追悼・布村建  最後のメール
鈴木義昭

布村さんとの出会いは、「映画論叢」(3月15日発売/第59号)の追悼特集に書いた。長く続いた布村さんの連載「フヰルム温故知新」の最終回(第37回)となった遺稿とともに拙文を掲載していただいた。ゲラ目前で亡くなられてしまった「最後の原稿」とともに、お読みいただければ幸いです。布村さんとの交流は、東映撮影所の人ではなく日活撮影所の人からだったという不思議について書いた。
そこに書かなかったことを、少し書きたい。鎌倉に若者に人気の立ち呑み屋「ヒグラシ文庫」がある。マスターだった中原さんは鎌倉に移り住む前は三軒茶屋の住人だった。夜のサンチャの主のような顔をして夜毎飲んでいた中原さんは、かつては暗黒舞踏、そしてアングラ演劇では曲馬館から水族館劇場まで裏方として強面だった。どこか人を寄せつけない、女だけを寄せつける特技もあった。そんな中原さんが、頭が上がらない人が布村さんだった。聞けばその昔、布村さんが仕事の世話をして無頼だった彼の道筋をつけてあげたらしい。九州へ飛び某博物館の学芸員のようなことをやったという。サンチャ時代の無頼な中原さんを知る僕には、にわかに信じられなかったが。おかげで更生した中原さんは、関東に舞い戻り、好きな酒と料理を仕事にして酒場の主となる。敷居の高い店が多い鎌倉で、一見さんでも気楽に飲める立ち飲みで肴も美味い。人の噂になるほど繁盛した。毎夜行き場のない若者やオジサンが集まって大いに賑わった。鎌倉へ飲みに出かけ、中原さんに布村さんの近況など話すと、彼は、いつもかしこまった。似合わない口調で「お元気ですか」など言った。そんな台詞言いそうにない人がだ。本当に恩人と感じていたのだろう。
だが、布村さんに鎌倉に出て中原さんの店を訪ねましょうよと言うと、体調が悪くなり始めた頃だったから「もう鎌倉には行けないなあ」と、有楽町の「さがみ」で言ったのを記憶している。逗子からやって来る僕としては「いざ鎌倉」と誘うのだが、やはり少しさびしそうだった。でも、「彼も優秀だから」などと続け、会いたそうだった。そんな中原さんも、もう少し前に亡くなっている。今も、店は若い人たちが引き継いで繁盛している。
三軒茶屋で飲んでいた布村さんが、いつも想い出される。布村さんは、ホントに無頼の輩に優しかった。ぼくも、気弱だがわがまま放題に生きてきたから、いつもいつも布村さんの優しさが身に染みた。ぼくが下手なトークをやると見に来てくれ、とても心強かった。
一時は毎日のように来た布村メールだが、もう来ることはないと思うとつらい。取材先で見つけた疑問や難問を投げかけると、すぐに返って来た返信は永遠にない。さびしくなるなあと思い、PCの画面を見つめていると泣きそうになった。
昨年11月14日15時33分着信の布村さんからの最後のメール。

小平さん残念です
でもご本人の予想より10年生きました
本文は娘が代筆
相変わらず酸素吸入つき

遅れて伝わった小平裕監督の訃報を、知っておられると思うがと送信したメールへの返信である。布村さんは、東映入社第八期、小平さんは東映入社第十一期だった。

(すずきよしあき 映画史家/ルポライター)

 

2022年11月25日(金)〜27日(日)布村建ともうひとつの東映映画

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