『大好き 奈緒ちゃんとお母さんの50年』 伊勢真一監督ロングインタビュー
1973年7月、伊勢真一監督の姪にあたる西村奈緒さんが誕生した。難治性てんかんと知的障がいを持ち、「長くは生きられない」と宣告された奈緒さんの姿を記録しはじめた監督は95年に『奈緒ちゃん』を発表。それから約30年が過ぎた昨年、奈緒さんは50歳を迎え、半世紀に渡る西村家の歩みを捉えた〈奈緒ちゃんシリーズ〉第5作『大好き』が完成した。究極のプライベートフィルムは、一昨年80歳になり「終活」に取り掛かった母・信子さんが発する言葉を通して人生の陰影、そして時間がもたらす幸福と痛切をも映し出す。シリーズの出発点にいた瀬川順一キャメラマンのエピソードもまじえて監督にお話を伺った。
──まず、『奈緒ちゃん』公開時の状況を振り返ってお聞かせください。今と比べて当時は劇場でドキュメンタリーを上映する機会が少なかった憶えがあります。
ミニシアターの数自体が今ほど多くなかったですね。『奈緒ちゃん』が完成した頃に関西だと大阪・第七藝術劇場はあったけど、たしか神戸にはまだなかったし、映画館でドキュメンタリーを上映することも当時は少なかった。だから、すべて自主上映でした。それから、95年は阪神淡路大震災とオウム真理教のサリン事件が起きた年。そういう時代背景も影響したのか、自主上映会が爆発的に広がりました。もし今なら、話題にならずに消えていったかもしれないね(笑)。
『奈緒ちゃん』がきっかけで、当時のプラネット映画資料図書館の安井喜雄館長(現・神戸映画資料館館長)と知り合い、「映画新聞」の景山理さん(現・大阪シネ・ヌーヴォ代表/宝塚シネ・ピピア支配人)も取材してくれました。特に神戸と京都では頻繁に自主上映会が開かれましたね。
それから当時を振り返ると、ドキュメンタリーといえば、僕より上の世代の土本典昭さんや小川紳介さんの〈運動の映画〉が主流でした。でも、土本さんや小川さんは自分とは少し距離があるなと感じていて、記録映画や文化映画、PR映画で飯を食っていた僕は「映画は生業だ」と思っていた。だから自主制作映画を撮っている周りの人たちに、「メッセージを発する映画を、お金をもらわずにつくるのはおかしい」と言っていたんです。『奈緒ちゃん』を撮り始めるまでは(笑)。
『奈緒ちゃん』をつくり始めてから、「お前、自主制作はナンセンスだと言っていたじゃないか」と指摘されると、「いや、自主制作じゃなくてただのプライベートフィルムだから」と返していましたね。
それで、『奈緒ちゃん』完成の数年前に佐藤真くんの『阿賀に生きる』(92)が公開されました。上映後のトークでお互いを応援して、もうひとり、西山正啓くんもいて、三人とも高校時代は野球部だったんだよね(笑)。
佐藤くんとそういう話をした記憶があるけど、土本さんと小川さんは、その後のドキュメンタリーの大きな流れをつくった人であることは間違いない。けれどもいわゆる〈運動の映画〉で、右であれ左であれ、それを志向することはプロパガンダといえます。土本さんはそれを明言していたし、元々革命運動をやっていた人で、映画で社会を変えようとしていた。上の世代はそういうドキュメンタリーが主流でしたね。それに比べると『奈緒ちゃん』や『阿賀に生きる』は、「甘い映画だ」と原一男さんに言われて(笑)。
──『奈緒ちゃん』は、『ゆきゆきて、神軍』(87)よりマイルドな映画なので、当時の原さんがそうおっしゃったのもわからなくはないです(笑)。
原さんとは今でもお付き合いがあって、お互いに認め合う関係だけど、「こんなもので社会は変わらない」と(笑)。でも、当時の僕が目指していたのは、ただ「奈緒ちゃんの元気な姿を撮ること」だけでした。それを進めているうちに障がい者が置かれている状況や作業所の問題に出会っていき、本作を封切ったタイミングで、旧優生保護法に違憲判決が下されました。
勉強不足だったから新聞を読んだり調べてみると、これはひどい話だなと思った。僕が生まれた前の年、昭和23年に制定された法律で、『奈緒ちゃん』公開の翌年までずっと施行されていました。でも、その問題をメディアは取り上げてこなかった。最近、96年の時点でも取り上げていなかったとメディアの人たちからも聞きました。
このあいだ新聞に掲載されていたけど、あの法は国会での審議を抜きで通したんです。要するに出来上がるときは全会一致無審議で、96年に母体保護法に改正したときもそう。この法律が持つ意味に対して政治家は誰も関わりを持とうとしなかったし、96年にメディアも取り上げなかった。
つまり、相模原殺傷事件の犯人の発言「自分は国や社会が考えていることを実行しただけだ」とは、残念だけどその通りだったんだよね。でも未だにメディアはあまりこの問題を取り上げない。どうしてだろうね。
──監督には2021年9月、『いまはむかし 父・ジャワ・幻のフィルム』大阪公開時にもお話を伺いました。そこでコロナ禍のなか開催された東京オリンピックとメディアのお話もしましたが、状況は変わらないですね。
マスメディアはこういう機会にいろんなことを考え直すきっかけにすればいいのに、と思うけど、もしかしたら今後もこのままで行ってしまうのかなと思うところがあります。
話がちょっと脱線したけど、最初のキャメラマンだった瀬川順一さんから盛んに言われたんです。「お前みたいなノンポリは監督として失格だ」って(笑)。瀬川さんは戦前、『戦ふ兵隊』(39/演出:亀井文夫)に参加しました。観念的な人じゃないけど、戦後は東宝争議の中心的な存在だった。共産党からは離れたけれど、ある意味で映画人のなかで──亀井さんがそうだったように──マルキストでした。そんな瀬川さんが僕を見ると「何だ、お前は」となるわけです(笑)。
瀬川さんが組んでいたのは土本さんや松川八洲雄さん、柳澤壽男さんたち。みんな色は違っても左翼系の映画作家です。そういう監督たちと一緒に映画をつくって、僕には「あいつらは理屈っぽくて嫌いだ」と言うんです。その一方で、僕の理屈の無さには、「そんなに物事を考えないでドキュメンタリー映画をつくろうなんて絶対に間違っているぞ」(笑)。
論争というほど大袈裟なものじゃないけど、話し合うたびに大抵は言い負かされていましたね。そんなことがありながら、瀬川さんが末期がんを患われたので完成させないと、と思ってつくった映画が『奈緒ちゃん』でした。奈緒ちゃんが20歳になった記念につくったと思われる節もあったけど、本当は余命半年と言われていた瀬川さんがお元気なうちに完成させなければ、と考えていたんです。
それに間に合って、現像所でゼロ号試写を観てもらいました。そのときはまだお元気で、次の日から毎日のように「ちょっと来い」と電話がかかってきました。編集など、ひとまず仕上げたものが気に入らなかったんですよね。「やっぱりノンポリがつくる映画はこうなるんだ」とか、もう散々でした(笑)。闘病中だから時間があっただろうし、3ヶ月ほど毎日のように呼び出されているうちに、最初の上映会を奈緒ちゃんの地元で開きました。
地元なので奈緒ちゃんを知っている人たちが大勢来て──300人くらいいたのかな──笑ったり泣いたり大騒ぎしながら観てくれた。瀬川さんも最前列にいて、その日からガラッと態度が変わりました。
「いい映画とはどういう映画かわかるか?」と問われたから「瀬川さんはどう思っていますか」と訊ねると、「いい映画は、お客さんと出会って初めていい映画になるんだ」と答えが返ってきました。これは『ルーペ ─カメラマン 瀬川順一の眼─』(96/伊勢真一)でも瀬川さんが語っているけど、いちばん最初に映画になるのはオールラッシュフィルム。キャメラマンが撮った、音楽やナレーションを付けていない未編集の素材。誰もそれを映画と呼ばないかもしれないけど、俺はラッシュを一番いい映画だと思っているんだ、と。
次に、お前が編集して要らない音楽やナレーションを乗せて出来上がって、試写室で評論家たちが観るのが二番目の映画。大体はそこで褒められる作品をいい映画だと言うけど、本当はそうじゃない。一般の観客に観られていくなかで、いい映画は育っていくんだと言ったんです。それを聞いて、やっぱり瀬川さんは伊達に映画で飯を食ってきたキャメラマンじゃないなと納得しましたね。
Ⅱ
──本作は『奈緒ちゃん』シリーズ過去作のフッテージと、一作年から昨年のあいだに撮り下ろされたパートで構成しています。インタビューの聞き手は監督がつとめておられます。
映画のなかでも本人が少し言っているけど、ああやってお母さん──僕の実姉──から発せられる言葉のほとんどは、奈緒ちゃんを育てながら、あるいは関わるなかで出てきた言葉です。本や、誰かの話から得た言葉はひとつもないと言っていいほど、自分の身体を通して言葉が培われています。農家の方が農業を営みながら、天気の動向を直感的に読めるようになるのと同じようにね。
そういう身体に沁み込んだ言葉は、もちろん子どもを育てる母親だけが持ち得るものではないけど、やっぱり人を育てるということは人に触れながら、そこから逆に自分の想いや言葉が芽生えて内面に定着していく。本作はそれを体現する映画だと思っています。
なぜそう思えるかというと、ひとつは若い頃のお母さんの姿を知っているから。昔はまったくあんなことを喋る人じゃなかった。ごく普通の姉だったので、こんなことを言うようになったんだと驚きました。相模原の事件に対して、これは社会の責任だと思うと言うのも、観念的な言葉じゃなく、奈緒ちゃんや〈ぴぐれっと〉*で、障がいのある子どもたちをずっと育てながら積み重ねた自分の実感を語っていると思います。
*母・信子さんが91年に地域の仲間たちと立ち上げた障がい者の協働作業所。監督はここを舞台にしたシリーズ第2作『ぴぐれっと』を2002年に発表。
──お母さんのこの50年の経験やご苦労は自分には計り知れないものですが、その人固有の言葉であることは伝わります。
ある意味で、本作は〈言葉の映画〉と言ってもいいかもしれません。お母さんが言葉になる前の想いと、言葉になったあとの想いをもう一度言葉にして語ってゆく。一方で奈緒ちゃんは彼女独特の、でも確実に自分で言語化した言葉を何度も繰り返します。お母さんも「奈緒に育てられた」と何度も繰り返し語る。そういう映画だけど、オフの声が響くシーンや桜の樹、それから月齢十日の月のカットなどは、何にも言ってないようで逆に何かを雄弁に語っているように見える。〈映像の言葉〉と言えそうなものも、本作では繰り返されていると思うんです。
──お母さんの手のショットもそうですね。オフの声から思ったのが、『ルーペ』で瀬川さんはオールラッシュが自分の映画で、編集を経て作品が完成すると自分の存在がいなくなると語ります。しかし、映画は「いないけどいる」という問題を浮き彫りにしてゆく。本作も随所に「いるけどいない。いないけどいる」と捉え得る描写が見られます。
「いるけどいない。いないけどいる。月齢十日の月を見たことがありますか」。このナレーションで『ルーペ』は終わります。こんなキザなナレーションをいちばん最後に持って来て、と先輩に笑われたし、自分でも観ていてあそこに来るとやっぱりちょっと恥ずかしくなるね(笑)。
ただ、月齢十日の月は朝や昼間に出ます。もちろん夜に出ることもあるけど、あれを見る人って、もしかしたらギャンブルで負けちゃった人や、好きな相手にフラれた人、誰も相手にしてくれないと思っている人たちがたまたま空を見上げたら、「おっ、月がいる」と感じるような気がするんですよね。
それで好きになったんだけど、『奈緒ちゃん』『をどらばをどれ』(94)を一緒につくり、瀬川さんはそこでがんになってしまった。でも『奈緒ちゃん』が完成した頃に、三部作でもう一本いこうと、お月様の映画をつくろうとふたりで話して、国立天文台野辺山にロケハンに行ったりしました。そうして次の作品を進めることが、瀬川さんにとって最もいい闘病生活になると僕は考えたし、もちろん瀬川さんも意識していたと思います。だけど、完成した『奈緒ちゃん』を観てくれてから約10ヶ月後に亡くなられたから、クランクインしてワンカット撮るところまで至らなかった。自分で書いた企画書みたいなものもあったんだけどね。
それでも瀬川さんとお月様の映画をつくろうと決めたことだけは、ずっと僕のなかに残っていた。いつか自力でつくらなければ、という想いを抱きながら、ほかの作品を制作しているときも、月齢十日の月を見つけるたびに撮影しました。だから、僕のほとんどの映画に月齢十日の月が出てきます。
皆からよく「伊勢さんは月が好きですね」と言われて、実際そうなんだけど、その背景には瀬川さんがいます。ここのところ、新作をつくるたびに入れるようになりました。ちょっとロマンチックだけどね(笑)。
一般的には完成した1本の作品を映画と呼びます。でも、そのあとの映画のなかにも月齢十日の月が、縦状にいつも出てくるようにしてつくり続けています。本作では6カットくらい使ったから、「またか」と思われるかもしれません。だけど、『奈緒ちゃん』から撮り始めて、あのときに瀬川さんと話したことが、ずっと月齢十日の月を撮影したり編集するたびに思い出される。本作は、ある意味で瀬川さんもスタッフの一員だという想いがあるし、これからも月齢十日の月を撮り続けることで、そういう「縦の映画」があってもいいんじゃないかなと思っています。瀬川さんが、オールラッシュが自分の映画だと言ったようにね。
──それでクレジットに瀬川さんのお名前が入っているんですね。それもひとつの「いるけどいない。いないけどいる」だと感じます。そして本作ではオフの声を巧みに活用されています。眠っている奈緒さんのカットにお母さんの声がオフで入ると夢のように、もしくは未来から語りかけているようにも聴こえます。こういうところも「いるけどいない。いないけどいる」ではないでしょうか。
そのあと終盤にも、お母さんの声とスマホにまつわるシーンがありますよね。お母さんがいなくなるということが、いつかは現実的に起こります。僕がこれまで撮ってきた人のなかでも、『きゅう漆──職人 大西勲のつぶやき』に出てもらった漆芸家の大西さんが、今年5月に亡くなられました。それでも映画のなかで彼は生きている。映画が上映される限り、その人はずっとスクリーンで生き続けます。
奈緒ちゃんにとって、お母さんはきっとずっと生き続ける人。今後、さらに時間が経ったときに、映画のなかであの声がどう響くか。奈緒ちゃんも、映画を観る人もその時間の経過を想うことになるんじゃないかなと想像しました。だから音をかなり抑えて硬くして、耳をそばだてないと何を言っているか聴き取れないくらいに加工しています。
考えてみたら、電話というのも不思議な道具だよね。それこそ「いるけどいない。いないけどいる」っていう。奈緒ちゃんは電話が大好きだし、本作は電話の変遷の映画でもあるね。固定電話からガラケー、そしてスマホ。キャメラもフィルムからデジタルに変わっています。だから時間が映り込んでいる映画とも言えるかもしれない。
Ⅲ
──本作を観て映画、とりわけプライベートフィルムはタイムカプセル=記憶の装置だとつくづく思いました。ほかにご覧になられた方からは、どのような感想が寄せられたでしょう。
今回もらった手紙のなかに、すごく感動するものがありました。ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》で『奈緒ちゃん』を観てくれた女性が、子宮筋腫になられたそうです。すると卵子が減るから、医師に「子どもを産むならあと一年以内に」と言われたと。でも出産すると、障がいを持つ子どもが生まれる可能性があるから決断するなら早く、と告げられたそうです。
その問題でずっと悩んでいるときに、東京で封切られた本作を観て、自分のことだと捉えてくれたようです。「産む決心をした」と書かれた手紙をもらったんだけど、それは奈緒ちゃんが50歳まで生きたことに共感してくれたのだろうし、それ以上に80歳になったお母さんが奈緒ちゃんのことをずっと語り続ける。そして、その友達たちが集まって談笑するシーンがあります。それを観て「自分も80歳になったときに、あんなふうに笑えるかもしれない。奈緒ちゃんのお母さんのように、自分が産んで育てた子どものことを話せるようになるかもしれない。それで出産を決意しました」と書いてくれていました。
もうひとりも三十代半ばの女性で、出産前検診のお知らせが届いたそうです。その検診を受けるのは、すなわち羊水検査を受けること。彼女は『奈緒ちゃん』シリーズや、『えんとこ』(99)『えんとこの歌 寝たきり歌人・遠藤 滋』(2019)を観てくれていた人で、その登場人物たちの顔が浮かんで検診に行くのを止めました、と書いてありました。
いのちに関わる一番切実なところにいる人が、たまたま自分の映画を観てくれた。そこで僕が思ったのは、そうか、自分は50年のあいだ──正確にいうと映像は42年──、最初の写真から記録してきたんだ、と。僕の内にあるのはその時間の記憶の蓄積だけど、観客はもしかしたら奈緒ちゃんとお母さんだけじゃなく、自分の未来の姿を見ている。そのような受け取り方をしてくれているのかもしれないと思いました。ということは、もしかしたら本作は50年じゃなく、これからの50年まで含めた100年の映画なのかもしれないね(笑)。
──現在も100年前の映画が上映されているので、本作が50年後の観客に観られる可能性は充分にありますね。
そういうことですよね。ドキュメンタリーに限らず劇映画にもいえることだけど、「この人は今も生きている」という感覚は、ドキュメンタリーのほうが切実に響くかもしれません。「私もあの人みたいになれる」とポジティヴに映画を観ることが出来るのって、すごくいいなと思いました。
観客に自分のこととして観られると、映画自体もいちばん生きると思う。映画は窓というより鏡だと思っています。ずっと自分の姿を見ているような。その手紙をくれた女性も、おそらく観ながらそのことを考え続けて、決心されたんじゃないかな。観てくれたあと、すぐに手紙が届いたから。
──映画が他者の人生に影響を与えるのは、つくり手冥利に尽きるのではないでしょうか。
映画が人の人生を左右するのって、実は怖いことでもあるんです。でも無責任な意味じゃなく、自分で映画をつくっていない感覚がどこかにありますね。もちろん僕自身が撮影現場に行って、仕上げ作業まで立ち会っているけど、何か映画という大きな存在につくらされている気もします。もし本当に自分だけでつくっていれば、責任を感じなければ、と思うかもしれない。でも、映画の神様か何か正体はわからないけど、「ここはこうしたほうがいいぞ」「このカットよりもこっちのカットがいいんじゃないか」という声に耳を澄ませながら、映画をつくっている感覚があります。
Ⅳ
──本作は監督がおっしゃったように「言葉の映画」ですが、「編集の映画」でもあると思います。奈緒さんが50歳になられたのは時間がもたらした幸福で、それに比例してお母さんとの別れが少しずつ近づいているのには痛切さを覚えます。編集次第でそのバランスが変わった筈ですが、痛切よりも幸福、生きる力のほうが上回っていると感じます。
今回は「切なかった」という感想も結構もらいます。奈緒ちゃんがただ普通に元気で生きている姿を傍で見て、自然に「いいな」と思うことが勿論あります。でも、長生きできないと宣告されていたのに50歳を迎えた奈緒ちゃん自身が、その切なさを体現していると感じる部分もありますね。
お母さんが序盤で、「自殺なんてしちゃいけない」と言う。それが鬱っぽくなったときには、まったく矛盾する言葉を発するけれど、誰しもがそんなふうにして生きている感じが本作にはありますよね。それは人生の「辛さ」というより、「切なさ」に近いかもしれない。
──お母さんのあの発言を聞くと、生と死は表裏一体だと感じさせられます。
奈緒ちゃんと、『えんとこ』『えんとこの歌』で遠藤滋を撮り続けたなかで、こういうナレーションはよくないかなと思いながらも思わず言ってしまったのが、「いのちが生きる方向を向いている」。
そのことを実感させてくれたのが奈緒ちゃんと遠藤でしたが、実はもうひとつ、そう感じる契機がありました。それは「311」、東日本大震災のときで、当時は撮るべき対象がない状況がずっと続いていました。
それが2011年3月の終わり頃に、瓦礫の下に黄色い花が咲き始めた。その様子を見て「すごいな」と思って。その前に目にしていた光景では映画を撮れないと思っていたけど、花が咲くのを見て「これなら撮れる」と思ったんです。逆にそこから一年間撮ろうという気持ちが湧いてつくったのが『傍ら(かたわら) 3月11日からの旅』(12)でした。そのときに、どんなことがあっても春は来るし、自然の巡りは途絶えないことを強く感じました。
奈緒ちゃんや遠藤を撮っているときは、あまりにも近しくずっといる存在で、特に遠藤に関して言えば、こいつは死なない、ずっと生き続ける人間がいるんじゃないかとさえ思っていました。奈緒ちゃんも今ちょっとそういう感じだけど(笑)、いのちあるものは必ず限りがあります。『傍』のときにそう感じたのは、奈緒ちゃんと遠藤に比べて、被写体に対する距離感が少し異なっていたからかもしれません。
奈緒ちゃんがずっと生きてきたことを強調して、何か宗教的に思われるといけないけど(笑)、奈緒ちゃんの生きる力や意志があることは確かだし、奈緒ちゃんを生かそうという力も働いている。どっちにしても生きる方向を向いているんだと思います。その結果、こういう編集になりました。
Ⅴ
──山根貞男さんが『キネマ旬報』に連載されていた「日本映画時評」で、シリーズ第4作『やさしくなあに 奈緒ちゃんと家族の35年』(2017)を、奈緒さんがてんかんの発作を起こすシーンに言及して高く評価されていました。そのシーンを本作に引用していますが、あのときキャメラを回し続けることが出来たのはなぜでしょう。
最初に『奈緒ちゃん』を撮る前に、撮影中に発作が起きたらどうしようかと、とことん話し合いました。大方の結論は「撮るのを止めよう」。でも瀬川さんも含めて、本当に目の前で起きたら僕は回すだろうなと思っていました。それはプロ意識とかいうのとはちょっと違うものだけど。
でも起きなかった。発作が初めて起きたのは、撮影を始めてから35年後。お母さんが言うには、機嫌がいいときに発作は起こさないんだ、と。「映画のおじさんたちがいるときは、機嫌がいいから発作が起きないんだよね」とか聞いていたから、本当にびっくりした。でも回そうと言ってそうしたんです。
もうひとつの理由を挙げれば、あとの編集の時点で考えようと判断しました。撮影したいと思ったらどんな場合でも撮って、最終的に使うのをやめるケースはよくありますね。だから、あとでゆっくり考えればいいと。
言い訳じゃなく使おうと思ったのは、35年間もキャメラの前でずっと発作を起こさずにいて、ありとあらゆる姿を撮ってきた奈緒ちゃんが、「こういう自分もちゃんと見てほしい」と思うようになった気がしたんです。これも自分なんだと。
てんかん発作を見たことがない人は結構いるみたいだから、ショックはショックですよね。ただ、ショックを狙うために撮って使った意図はまったくないんです。こういう自分も見てくれと主張する奈緒ちゃんから目を逸らすことは出来ないなという気持ちでした。
──そして、ラストにシンプルだけど美しいトラックバックがあります。本作のモチーフである別れを示すシーンですが、撮影時はどのようなイメージをお持ちでしたか?
奈緒ちゃんは別れることが嫌いです。死にまつわることを言いたがらない。だから飼っている犬の名前もずっと〈プーちゃん〉で通しています。
──今の〈プーちゃん〉はもう四代目なんですね。
そう。お墓参りのシーンでも、奈緒ちゃんは嫌がっています。あれは、お母さんが時々「自分はもう死んでしまうかもしれない」と口にするのが嫌なのと関連しているんでしょうね。お母さんと別れたくない。撮影が終わって僕らと別れるときも、いつも大騒ぎです(笑)。普段はキャメラを片付けて別れるから、本作のようなシーンは撮れないけど、今回は息子の朋矢がキャメラマンで入っていたから、キャメラがもう一台ありました。
42年間に渡って多くの人と出会い、別れてきたなかで、別れのことをちゃんと撮っていないかもしれないという想いもあって、今回は撮影しました。それで奈緒ちゃんは一生懸命、最後の最後まで付いてくるんだよね。「今度呑みに行こう」「朋矢くん、またね」とこちらに声をかける。そういう関係性だからこそ撮れたシーンですね。ポジティヴな別れといえばいいのかな。ここに反応してくれる人は多くて、あとはその前の奈緒ちゃんがビーズ遊びをするシーン。
細かく選り分けたビーズをバラしますよね。あそこに対する感想を寄せてくれた人が何人かいて、「自分ならあんなことは出来ない」と。
奈緒ちゃんはいつ頃からかああするようになって、たぶん作業所でビーズを使った小物をつくらされたりするのに飽きたんだと思うけど、何時間もかけて自分の好きな色ごとに分けて、終わるとバラしてしまう。そしてまた最初から分け始める。お母さんは戸惑うんだけど、観る人もやっぱり同じように反応するんだね(笑)。
ビーズで遊んでいるシーンは、「この感じが伝わるかな。まあ伝わらなくてもいいか」と思いながら何回も撮りました。あれが本当の自由だという気もするし、「奈緒ちゃんはプロセスしか求めていない。でも私は結果をすぐ求めてしまう」という感想もありました。僕らもそうで、つい結果を考えてしまう。でも映画に映る美しいカットやシーンは、結果じゃなくプロセスを見せていると感じます。あのシーンには、そういうことを積み重ねていくイメージがあります。といっても、それほど狙って撮ったものではないんだけどね(笑)。
──結果至上主義は、優生思想や排除の思想に直結しかねない気がします。
本当にそうだと思う。無駄なものは要らないっていうね。山根さんが発作のシーンに触れてくれたのも、もしかするとプロセスを撮っていたからかもしれませんね。
──シナリオに基づいて撮影を進める劇映画は、一定のゴールを目指しているといえます。ドキュメンタリーはそうではないでしょうし、奈緒ちゃんシリーズ自体が節目はあっても、ずっとプロセスを撮り続けてきたのではないかと思います。
劇映画は見せようと思えば、しっかりと結果を映すことが出来ます。ドキュメンタリーが劇映画とちょっと違うドラマを見せられるとしたら、それはプロセスの美しさを撮れているかどうかじゃないかな。本作を撮り終えて完成させた今、そんなふうに感じますね。
(2024年9月7日/大阪シアターセブンにて)
取材・文/吉野大地