神戸映画資料館

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資料から辿る自主上映史④ 《RCS》の上映活動

神戸映像アーカイブ実行委員会では、2022年度より「資料から辿る自主上映史」という事業に着手している。「観たい映画を自らの手で上映する」ための自主上映の活動は、一般の商業映画館とは異なるスペースを借り、映画館では観られない多様な作品を上映する場を築いてきた、市民による草の根的な映画文化と言える。しかし、各地で勃興した自主上映の活動を伝える資料は散逸しかけている。本事業は、その発掘と整理・保存を行い、地域の豊かな映画文化の地層を明らかにしようとする試みである。

 

レポート:田中晋平(神戸映画資料館研究員)

前回の《スペース・ベンゲット》の記事に続き、《シネマ・ルネッサンス》から生まれたもう一つの活動、佐藤英明氏が代表をつとめた《RCS》についてのレポートを公開する。《RCS》の軌跡は、代島治彦『ミニシアター巡礼』(大月書店、2011年)で、佐藤氏のインタビュー記事が既に発表されており、今回のわれわれの取材もその内容を参照して行われたことを明記しておきたい。また以下の記事では、インタビュー時間の都合もあり、主に1990年代初頭までの《RCS》の上映活動に焦点を合わせた。さらに後の時代の《RCS》による上映企画や関西での多岐にわたる活動については、改めて取材をさせていただけるよう、佐藤氏に申し出ている。今回もインタビュー時に佐藤氏から伺った当時のエピソードに加え、同席した小林洋一氏、石原秀起氏の証言、当時の《RCS》に関する資料も参照し、田中が記事をまとめた。

(右から)佐藤英明氏、小林洋一氏、石原秀起氏

 

家の近所に映画館があった影響か、中学三年生の受験直前に映画館通いに目覚めてしまった佐藤英明氏は、「淀川長治・ラジオ名画劇場」で紹介された『タクシードライバー』(1976年)が俄然観たくなり、塾をサボって神戸三宮のロードショー館に潜り込み、そこで鳥肌が立つほどの感銘を受ける。高校生になっても昼食代を削って映画代に回すなどして作品の鑑賞本数を増やし、洋画一辺倒から邦画の面白さにも目覚めていった。その後に京都産業大学に入り、小林洋一氏ら映画研究部のメンバーと出会う。当時の隆盛していたインディペンデント映画の潮流にも興味を抱きはじめ、大学卒業前というまたしても大変な時期に、小林氏らと《シネマ・ルネッサンス》の旗揚げに参加した。やがて広告代理店に就職して、平日はその仕事を続けながら、週末には自主上映会とその情報宣伝に駆け回るグループの活動に関わっていく生活がはじまる。
そして1986年、再びその後の人生を変えてしまう一つの映画と出会う。ニューヨークで結成されたニューウェーブ・バンドとして当時の日本でも注目を集めていた、トーキング・ヘッズのライブ・ステージを記録した映画『ストップ・メイキング・センス』(1984年)。《シネマ・ルネッサンス》の活動を通じて、パンクバンドの音楽映画やその演奏付き上映などにも携わってきた佐藤にとって、特別な魅力を放っていた本作を何とか京都でも上映したいと意欲が湧く。当時のとにかく映画上映が出来る場所が少なかった京阪神で、配給会社のKUZUIエンタープライズが望む長期間でのロードショー上映スタイルを模索して、何とか上映の許可を得たのだった。

しかし、本作の魅力を最大限引き出すには、それまでインディペンデント映画の制作や上映に携わってきた、《シネマ・ルネッサンス》の自主上映会場とは異なる、長期間に渡る上映が可能なスペースが必要な上に、35mmの映写機および音響設備を備えた劇場をいかに確保するのかが課題であった。上映空間を探すうちに佐藤が見つけたのが、同年春に京都駅前北側のステーションホテル跡地に新築されたルネサンスビル。その四階にオープンしたばかりだったルネサンスホールである。音楽コンサートなどに使われていた多目的ホールだったが、オープニングで東宝配給の『植村直己物語』(1986年)と『子猫物語』(1986年)を上映するために35mm映写機を設置され、ドルビーの音響システムまでもが導入されていた(客席は186席)。この穴場とも言えるスペースを佐藤氏は、広告会社の営業マンとして訪れた際に、今後も映画上映に活用出来るようにとプレゼンし、使用の許可を得る。劇場の名前が、《シネマ・ルネッサンス》のグループ名と偶然にも同じだった巡り合わせもアピールの材料にしたと言う。
ルネサンスホールでの『ストップ・メイキング・センス』の上映は、午後6時からと午後7時40分、そして、午後9時20分からの一日三回、19日間かけて同作の上映を佐藤氏たちは行った。最初こそ来場者は少なかったが、広報活動に奔走し、最終的には立ち見客も訪れる大入りで、延べ2200人の動員に成功する。この試みが画期的だったのは、京都では初となるレイトロードショー(最終上映が夜9時台から)の時間帯を利用できたことにもよる。当時の関西の映画館では、いまだ午後6時から7時あたりが最終上映として設定されていたため(午後9時頃に閉館する処から逆算して上映時間を組んでいた)、社会人が仕事と夕食を終えた後、ゆっくりと映画を観る時間を確保することは難しかった。若者のライフスタイルが多様化していく時代に、東京のミニシアターからはじまりつつあったレイトショー興行を取り入れることで、映画を新たな観客層にアピールしたのである。

最初の企画で信頼を得、以降も佐藤氏は、ルネサンスホールの経営側から映画興行を許可されることになる。「ルネサンスホール特選名画ロードショウ」と題し、第二弾として上映されたのが『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』(1984年)、第三弾ではスティングのツアーの模様を捉えた『ブルー・タートルの夢』(1985年)とセックス・ピストルズのツアーを追いかけた『D.O.A』(1981年)の二本立てを開催した。その後も二本立てのかたちに佐藤氏はこだわり、スラバ・ツッカーマンによる『リキッド・スカイ』(1982年)と石井聰亙の『爆裂都市』(1982年)の組み合わせのように、製作国の違いなどを踏み超える意外なプログラムを展開してみせる。デレク・ジャーマンの作品などを含め、やはり「音楽」が作品にとって重要な役割を占める劇映画やドキュメンタリーの上映が顕著に認められる点には、《シネマ・ルネッサンス》の試みと地続きの佐藤氏の興味・関心が刻まれている。当時のリリースの文面には、「87年、最高に面白い映画、ノレる映画を集めて、出来るだけ多くこのホールからお届けしようと考えています」という展望も記載されていた。時にその「ノリ」が映画界の慣習を踏み破ってしまう事態も起こしたらしく、山本政志の『闇のカーニバル』(1981年)とジム・ジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年)を二本立てで上映しようと提案して、後者を配給していたフランス映画社に怒られたというエピソードも、取材時に語ってもらった(その後は動員数で同社に認められ、《RCS》によるゴダール特集も実現された)。
ルネサンスホールでの初期の上映は、実質的には佐藤氏が中心となり、次々と企画が実現していったのだが、いまだ《シネマ・ルネッサンス》の活動の一部という位置付けでもあったようだ。事実、この頃の『シネマ・ルネッサンス通信』を確認してみると、佐藤氏の企画と《シネマ・ルネッサンス》本体(?)の活動が区別なく紹介されており、興味深い。ルネサンスホールで、アラン・タネールとユルマズ・ギュネイの特集が告知されている下には、京一会館で行われた「若松プロの全貌 vol.6」の情報が記載されている、という具合である。しかし、1987年に会社を辞めた佐藤氏は、新たに企画会社として《RCS》を立ち上げ、《シネマ・ルネッサンス》と枝別れした独自の上映活動に進む。既に東京のユーロスペースで公開されて大きな話題を呼んでいた、原一男による『ゆきゆきて、神軍』(1987年)の京都初上映を担い、関西では未公開であった『エル・トポ』(1971年、日本初公開は1987年)を京都で先行して公開し、パーシー・アドロン『バグダッド・カフェ』(1988年)、スパイク・リー『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989年)なども、ルネサンスホールで《RCS》が上映、ヒットに導いた。佐藤氏のインタビューに立ち会っていた田中範子(神戸映画資料館支配人)は、当時京都に住んでおり、ミニシアターに映画を観に行く感覚で、ルネサンスホールの上映に通っていたと語っていた。来場者の感覚はそうだったにせよ、実態は貸し館による自主上映だったこと、その営みが数多くの単館系作品の京都公開を担っていたのである。なお、やがて四条大宮に現れる《スペース・ベンゲット》とも、姉妹グループのような関係性を《RCS》は築いていた。《ベンゲット》のスタッフだった石原秀起氏が、ルネサンスホールの映写助手を担当するなど、スタッフ間の交流も深かった。

そして、1980年代後半の《RCS》は、活動範囲をさらに広げ、新京極にあった美松劇場でもオールナイトの映画上映を企画するようになる。美松劇場は大手映画会社の契約館で、直営ではない地元企業の映画館であり(座席数は648席)、同じく河原町にあった京都スカラ座や東宝公楽劇場などとは異なる劇場だった。《RCS》は、その美松劇場の金曜晩の時間帯を借りて企画を実施できることになり、ロードショー大ヒット中の『ラストエンペラー』(1987年)の流行を受けて、「ベルナルド・ベルトルッチ&ジョン・ローン特集」を開催し、オールナイトで満席にする。美松劇場側が《RCS》の企画を受け入れた理由には、京産大の映研時代から佐藤氏と付き合いがあったことも大きかった(映研で鑑賞する作品のチケットを渉外役の佐藤氏が劇場に交渉して団体割引にして安く購入していた)。しかし、それだけでなく、これまでの映画興行が難しくなっていた時代の転換のなかで、映画に熱意を抱く若者たちのチャレンジを奨励したかったという面も少なくなかったのではないか。
他の劇場でも《RCS》は、当時公開された話題作に合わせて、さまざまなオールナイト企画を実現していく。祇園会館では、佐藤氏たちの企画で「クローネンバーグ・ナイト」が開催された。1992年から1993年頃には、日本イタリア京都会館でもやはり《RCS》が上映企画を持ち込んでいる。日伊会館では、長らく南光氏による《シネマ・リベルテ》が自主上映を行ってきた歴史があるのだが、この時代には《リベルテ》の企画が減少していたこともあり、同施設で《RCS》が大映配給のロベルト・ロッセリーニ作品の特集上映などを実現させたのだった(当時ようやく京阪電車が三条から出町柳まで路線が延伸、遠方からも日伊会館にアクセスしやすくなった)。

京都の各劇場との繋がりが形成されるなかで、さらに大規模な企画として、美松劇場とルネサンスホールの2つを会場にして繋ぎ、「デニス・ホッパー映画祭」を1989年11月に開催している。これは同年秋に東京で行われた《1989年第一回東京デニス・ホッパー・フェスティヴァル》に、デニス・ホッパー本人の来日が決まったことで、いっそ京都にも新婚旅行を兼ねて訪れて欲しいと、佐藤氏が主宰の川勝正幸氏と谷川建司氏らに懇願して実現した企画であり、映画祭で美松劇場の舞台で挨拶をする様子は、映像記録も残されているようだ。この火曜夜9時からの『イージー・ライダー』上映には定員を越える900人が詰め掛け、その熱気に感動したデニス・ホッパー氏は、翌朝ルネサンスホールでの『勝利への旅立ち』上映に何と飛び入りの舞台挨拶を行ってくれたと言う。翌1991年には、清水寺でデニス・ホッパー写真展も開催され、京都での盛り上がりの大きさがうかがえる。
侯孝賢の『悲情城市』(1989年)の公開に合わせては、1990年夏に京都市内の四館の劇場を跨ぎ、アジアの監督たちを特集した映画祭「パワー・オブ・アジア」も画期的な企画だった。その内の一館を担ったのが、以前はピンク映画の専門館だった京都みなみ会館である。特集では『男たちの挽歌』シリーズ3本一挙上映を行い、その繋がりをきっかけに、9月には松岡錠司監督『バタアシ金魚』(1990年)の京都ロードショー、11月には、渋谷パルコとの共同企画で「松田優作『探偵物語』特集」全27話フィルム上映を行う。無料で見られるテレビのシリーズ番組を有料にしてお客が来るのかと訝られたものの、初めて180席が満席になったと劇場から感謝され、翌1991年から、同館と《RCS》は上映プロデュースの提携を結び、およそ20年間に渡って、数々の人気企画を生み出していった。一方で《RCS》の船出となったルネサンスホールは、1992年12月に閉館する。
1990年代以降の《RCS》と佐藤氏の活動の詳細をさらに知りたい方は、ひとまず『ミニシアター巡礼』を一読していただき、われわれの今後の取材もお待ちいただきたい。京都みなみ会館との提携が2010年に解消された後、《RCS》の活動も停止し、現在の佐藤氏は映画関係の仕事から離れている。現在こうした《RCS》の歴史に関するインタビューに協力すること自体にも、佐藤氏には戸惑いがあったかもしれない、と筆者は想像する。とはいえ、佐藤氏らが京都および関西各地に遺した足跡はあまりに大きく、やはり今のうちに聞き書きを残しておくべき事柄が無数にある。ルネサンスホールでの活動から、実態はあくまで自主上映だった点も重要だが、広報物のデザインなど含め、むしろ《RCS》は積極的に過去の自主上映のイメージを刷新することにも挑戦した。その成功を通し、いまだ京都でミニシアター文化が定着する手前から、単館系作品の関西での上映ネットワークが形成され、レイトショーによる新たな映画受容の枠組みも切り拓かれたのである。かつて夜行バスに乗り込み、シネヴィヴァン六本木や日比谷シャンテなど、東京のミニシアターに通っていた映画ファンたちは、佐藤氏たちの活動を通して、関西で数多の作品を享受できた。そして、《RCS》が関西で築いてきた映画文化の土壌の上で、今もわれわれは新しい映画と出会い、触発され続けている。

 

資料から辿る自主上映史①
資料から辿る自主上映史② 《シネマ・ルネッサンス》の上映活動
資料から辿る自主上映史③ 《スペース・ベンゲット》の上映活動

事業主体:神戸映像アーカイブ実行委員会
助成:神戸市「まちの再生・活性化に寄与する文化芸術創造支援助成対象事業」
共催:科学研究費補助金「日本における1980年代の非商業上映と文化政策の研究」(代表:田中晋平)

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